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「ごちそうさまでした」
「別に気にすんなよ」
聡次郎さんはぶっきらぼうに言いながらパーキングの精算機から戻ってきた。
「そろそろ帰るか」
「はい」
やっと帰れることに安堵した。今から帰ったらもう日が落ちてしまう。洗濯物を取り込んで掃除機をかけてお風呂を掃除しなければ。
「梨香はこれからどうするの?」
「帰って掃除する。あ、買い物忘れてた」
家の冷蔵庫にはもう食材がほとんどない。買い物をするつもりだったのを聡次郎さんの出現ですっかり忘れていた。
「ふーん。今日の晩飯は何作るの?」
「買い物に行ってから決めようかなと」
「じゃあ俺も行く」
「はい?」
「今度は俺が梨香の買い物に付き合うから。車で行った方が便利でしょ?」
それはそうなのだけど聡次郎さんからやっと解放されると思っていたのに、ギリギリまで一緒に行動するなんて遠慮させてもらいたいところだ。
「いや、でも……」
「古明橋のスーパーでいい?」
「はい……」
今更抵抗なんてできない。聡次郎さんが決めたことに私は従うしかできないのだ。
「ちょっとコンビニ寄っていい?」
古明橋に向かう途中で聡次郎さんが口を開いた。
「いいけど、何か買うの?」
「マンガ」
車がコンビニの駐車場に止まり、聡次郎さんだけが降りてコンビニに入っていった。戻ってきた聡次郎さんの手にはマンガ雑誌の入った袋がある。
「今月号買い忘れてて。あってよかった」
「マンガ読むんだ」
「読むよ。って言っても月刊誌だけどね。週刊誌だと今は読んでる時間もあんまりないから」
聡次郎さんが後部座席に放り投げた雑誌は私でも知っている月刊誌だ。
「意外。マンガ読むなんて」
「普通だろマンガくらい」
「老舗企業の御曹司で、ビルに住んで高級なお蕎麦屋さんに行く人が庶民的だなと思って」
経済新聞やビジネス書を読むのならわかるのだけど。
「車も自分で運転するよりも専属運転手がいそうなのに」
「あのさ、俺別にお坊ちゃまでもエリートでもない普通のサラリーマンなわけ。実家が有名でも俺は前の会社では平社員だから」
聡次郎さんは私の言葉に呆れて言い返す。
「普通の男だよ」
「そうだよね……」
笑いながらも私は普通じゃないと心の中で突っ込んだ。ごく普通の大人はお見合いを破談にするのに替え玉を立てたりはしない。現実離れした契約を持ちかけたりはしないのだから。
スーパーに着いて店内を見ていると聡次郎さんは「肉が食いたい」だの「煮魚が食べたい」だのと私に訴えるように呟いてくる。
「聡次郎さんが自分で作ればいいじゃない」
「俺が作れるわけないだろ。じゃあ梨香作って」
「は?」
「作って。ハンバーグ食いたい」
「いつ? 今度?」
「今日これから」
驚きすぎて言葉が出ない。聡次郎さんに料理を作るなんてとんでもない。
「やだ。大変だから」
「大変ってなんだよ。いつも作ってるだろ? 俺の分も作るくらいいいじゃん」
「どこで? 私の家で?」
「うーん……俺んち?」
口が開いたままになってしまう。聡次郎さんのあの広い部屋の綺麗なキッチンでハンバーグを作る自分を想像できない。
「梨香、契約」
いたずらっぽく笑って囁く聡次郎さんに腹が立つ。けれど私は抵抗することなんてできないのだ。
買い物を終えて車は龍峯のビルの駐車場に入った。
スーパーの袋を2人で手分けして持ち、裏口からビルの中に入った。
私たちは休みでも会社としては営業している平日。社員に見つからないかとビクビクしている私に対して聡次郎さんはなぜか上機嫌だ。
エレベーターに乗り込んで止まることなく6階に着いた時にはほっとして思わず溜め息をついた。
「梨香は気にしすぎ。バレたっていいじゃん」
私の溜め息を聞いて横に立つ聡次郎さんは呆れている。
あなたは構わないのかもしれないけれど、私は色々と働きにくいんです!
心の中で文句を言った。それにいつか別れる契約なのに社員にバレてしまったら恥ずかしい思いをするのは聡次郎さんなのに。
部屋に入り私の分の買い物もとりあえず冷蔵庫に入れておいてもらう。
私の家のものよりも大きい冷蔵庫には食材がほとんど入っていない。缶ビールと水のペットボトルとジュースらしきビンが入っている。
スーパーで買い物中に冷蔵庫には何もないと聞いてはいたけれど、ここまですっきりしているとは思わなかった。
「こんな大きい冷蔵庫なのにもったいない……」
小さく呟いた言葉はソファーに座ってマンガを読み始めた聡次郎さんに聞こえていたようだ。
「家で飯食わないからな」
「いつもどこで食べてるの?」
「明人と食いに行くか、母さんか兄さんの家で食わせてもらってる」
呆れたお坊ちゃまだ。同じビルに住んでいるとはいえ、成人した大人が母親か兄夫婦の家でご飯を食べさせてもらっているなんて。1人では広すぎるこの部屋はお風呂に入るためと寝るためだけにあるなんてもったいない。
「聡次郎さん、お米はどこ?」
キッチンには炊飯器はあるのに肝心なお米が見当たらない。
「下の引き出しの中」
食器棚の下の引き出しを開けるとレトルトカレーの箱と一緒に5キロのお米の袋が入っていた。袋の口はねじって輪ゴムで止められていたけれど、衛生的な印象はない。
「味噌もコンソメもないし……」
味噌汁を作ろうと思っても冷蔵庫に味噌がない。スープを作ろうと思ってもコンソメも中華スープの素もない。
「味噌汁はどっかにある」
ソファーから聞こえた言葉に引き出しを探すと、レトルトのカレーの下にインスタント味噌汁の袋があった。けれど賞味期限まで1週間と迫っていた。これでもないよりはマシだろう。
お米を磨いで炊飯器にセットしてスイッチを押した。流しの下の引き出しからまな板と包丁を出した。これも使用されたことがないのではと思えるほど綺麗だ。
買ってきたタマネギをみじん切りにする。1人暮らしが長くて自炊に慣れている私は包丁の扱いにも慣れている。
トントントンと食材を切るリズミカルな音にソファーにいる聡次郎さんがキッチンに視線を向け始めた。
「聡次郎さん、フライパンはどこ?」
引き出しや食器棚を探してもフライパンが見つからない。
「あ、そういえばフライパンない」
「ない?」
「料理しないからフライパンないよ」
私はもう何度呆れただろう。そういう大事なことは作る前に言ってほしかったのに。
「鍋ならあるよ」
「鍋じゃ作れません」
「煮込みハンバーグにすればいいじゃん」
「それを作るには材料がありません」
聡次郎さんは面倒くさいと言いたそうな顔をしたけれど、面倒に思えてきたのは私の方だ。
「じゃあ兄さんちで借りてくれば?」
お兄さんにということは奥さんの麻衣さんに借りろということだろう。
「聡次郎さんが借りてきて」
「仕方ないな……」
聡次郎さんはマンガ雑誌を閉じると立ち上がった。
「フライパンだけでいいの?」
「できればフライパンの蓋とフライ返しと菜箸と…」
「そんなにめんどくさい。やっぱり梨香行ってきて」
再びソファーに座りマンガを広げ始めた聡次郎さんに怒りを覚える。いい年した大人がまるで子供のような態度だ。
「わかりましたよ……」