老いた狼は嗤う 1
城塞都市顎門
次元の狭間『聖櫃』
クナイツァー家当主シロウドレイの招集に、領内の幹部逹が城塞都市顎門に集まっていた。
要塞最奥にある最高幹部のみに知らされている次元の狭間『聖櫃』。
ここには光が差し込まない、ここは黒き精霊の集う常闇の世界。
暗闇の中どれだけ歩いただろうか。
時間流れがあやふやな世界、
石畳の廊下を歩いてる筈なのに歩いている実感が湧かない、魔力で灯された明かりに何故か影が写らない、存在そのものがあやふやな世界。
黒き精霊が彷徨い冷気が肌を舐める。
愛しいよ…
恋しいよ…人の温もりが
その魂を頂戴な、ハハハ
魂に刻まれた忠節の証を持たない部外者なら魂を喰われかねない危険な場所…顎門の絶対防衛圏の中になる異世界。
魔力による隔離された存在しない空間。
古き時代に禁呪と言われた時空魔法によって存在している不鮮明な領域…『聖櫃』。
招集された者はクナイツァー家の重臣達である。
武官筆頭騎士アイズベルを始め、領内の城主や軍団統括者、文官筆頭家宰騎士ダーチバルを始めとする領内の警察、法務を司る高官や領内の主要代官や工房の頭、ギルトの総帥が序列に従い席についていた。
帝国府の役人や他の帝国貴族家の者が、自分達が見当違いの者達を領内の実力者と考え間違ったアプローチをしていた事に気づくだろう。
領内での権限を持った者達が、実力順に席についているのだ。
シロウドの席の両脇には、顎門騎士団筆頭騎士アイズベル、文官筆頭家宰騎士ダーチバルの両名がつくが、この二人を間違える者ない無いだろう。
しかし、帝国でも屈指の大ギルドの総帥が、後ろから数えた方が早いとは誰もが思うまい…シロウドにとって替えのきく存在なのかもしれない。
皆、それを勘違いすれば…一族郎党魔獣の餌になるだけだ。
それが、シロウドレイだ。
皆表情が硬い。
アイズベルとダーチバル両名は、本日の議題が…当主シロウドレイから通達があり知っていた。
他の者たちも薄々ではあるが通達内容の予想がついていた。
どうやったら出し抜けるか、ここにいるもの全てがライバルなのだ。
今日通達される内容は、未来のクナイツァー領主である若君レインに関してだ。
まだ、前日生まれたばかりで、この段階では若君の名前の発表はされていないのだが、重臣逹には知れ渡っていた。
この上ないほど期待が高まっている、領内挙げての誕生祭をするべきと言う家臣達もいるのだ。
クナイツァー領に、実に30年ぶりの待望の男子だ。
魔力持ちなのは疑いはない、『氷結の雷神』と言われる帝国屈指のシュバリエであるアブローラの産んだ若君であり、未来のクナイツァー家の当主様だ。
皆自分の親族を若様の傍に入れようと躍起になるのは目に見えてる。
対応を間違えれば家臣団が未来の立場を争い分断されることは必至だった。
皆息を潜め周りの出方を伺うのだ、先にカードを切るのは馬鹿を見る。
未来の若君の奥方は、寄親である大公家やアブローラの実家である侯爵家の意向を無視して選ぶことなど出来るはずなく、残り少ない席を獲得するために自分の娘や孫の為、家の為、知恵を尽くさなければならないのだ。
「お屋形様が入らっしゃいます。」
従者が扉の前で家臣団に声をかける。
「全員起立!」
ギィ…と重い扉が開かれる。
シロウドレイが手を上げ家臣達の顔を見ながら入室した。
”どいつもこいつも難しい顔をしおって”
シロウドレイが右手を心臓の上に証を掲げる。
「クナイツァー領の為に。」
右手に聖印が浮かぶ。
「「「「お屋形様のために」」」」
返す家臣たちの翳された印が、それに答えるように青く光った。
シロウドレイが皆座れと右手を下ろす。
「全員着席!!」
アイズベルが頷き、声を張る。
「全員おるな、ははは。」
と、笑いながら目の前に置かれていたワインをグラスに注いだ。
80歳を越えているとは思えないシュバリエ、腹から声を出し、ぐるりと見回し笑う。
髪の毛は既にないが、鋭い眼光に溢れ出る魔力…帝国最凶と言われるシュバリエが姿を笑わした。
最凶の最強たる所以。
御前試合で見せしめに剣聖を嬲り殺したのを皮切りに、遠征失敗の原因を作った貴族子弟逹を斬り捨て、帝都に報復の嵐を巻き起こし、帝国を恐怖のどん底に叩き落としたことに由来する。
それ以来『剣聖』は空位となり、誰も名乗らなくなった。
「今日来ない馬鹿垂れは流石におらんかの、ははは」
家臣達は周りを見ながらシロウドレイにつられて笑う。
二ヤッと屈強の老騎士が笑みを浮かべた。
家臣たちは、それが悪い笑みだと知っていた。
…今日は我等の首が飛ぶようなことはないはずだ、機嫌がいいはずだ。
ただし…そのこと自体が、悪い報告だったらどうなるのだろうか…
先ほどの緊張とは別の悪い汗が背中に流れた。
自分に雷が落ちないことを、ただひたすら祈っていた。
「今日は少し難しい話をせねばならん…タンタ、皆に説明を」
シロウドレイが本家の主治医であるタンタに説明を促した。
家臣達の眼がタンタを射殺さんが如く降り注ぐ。
騎士たちの魔力波動の籠った威圧にさらされながら、額の汗をぬぐう。
クナイツァー家の幹部は全員魔力持ちだった。
先の大敗により魔力持ちの多くが命を落としたがクナイツァー家は元の質の高さから数は揃えることが出来た…そう、昔ほどの質は揃えられない。
これはクナイツァー家の軍事力に直結する喫緊の問題になっていた。
タンタは魔力波動を浴び緊張する一方だったが、意を決して声を出す。
「先週となりますが、アブローラ様が無事男児を出産なさいました。お名前は…」
タンタが言い切るより前に全員起立合掌する。
「「「「おめでとうございます、お屋形様」」」」
思わずタンタが”ひっ!”と、声を漏らしてしまった。
これは、いかんと大きな声で言い放った。
「若様のお名前は、レイン様でございます。」
「レイン様、レイン様…ふふふ、いい名ですな。」
皆、若君の名前をそれぞれの伝手から知ってはいたが、自分の情報に間違いがなかったことに一安心した。
おそらく、少しばかり引きつり冷静を装っている者は、自分の仕入れた情報が間違っていたのだろう…情報源が正しく無いのだ…下手をしたらと冷や汗をかくのだ。
クナイツァー家の命名規則により、名前の後に”レイ”がつくのは本家内子のみに許され、名前の前に付くのは外子である。
クナイツァー家の男子には必ず”レイ”がつく。
逆に言うと、レイは”読まない名”でもある。
他の家でも、血筋を表す決まりがあるのが普通だ。
”レイ”ンという名は、外子の出だと分かる事になる。
”読まない名”だからと言って外してしまうと、”ン”だけになってしまうので、レインで正式な名前となった。
寄子達の子で寄親の血筋の子には、別の法則が適用される。
「ありがとの、皆には長い間心配をかけたの…30年、30年じゃ…やっと願いが…止まっていた時が動き出したのじゃ。」
目を閉じ言葉を一つ一つ嚙み締めるかのようにシロウドレイが言った。
シロウドレイの言葉に涙ぐむ老騎士もいる…シロウドレイの気持ちを知っていたからだ。
流れる涙は、今は亡きここにいるはずだった者達に…多くの者達を失った、あの日に。
シロウドレイでさえ、息子を失った。
苦い記憶である。
聖都奪還…今上帝の威信を見せるためだけの正義の戦いである。
門閥貴族家の意向が帝国府に敏感に影響を及ぼし、元老であるダルツヘルム大公と大都督クナイツァー北部辺境伯の両名の出兵反対の意見を退け強行されることになった。
元老院の重鎮である六芒星元老による出兵の票決に、拒否権を行使した大都督であるクナイツァー卿は、若い皇帝の怒りを買い蟄居を言い渡された。
ダルツヘルム大公の取り成しで一時的なものとなったが、クナイツァー卿は不満を示すためか帝都にある屋敷から自領の城塞都市顎門に無断で帰領してしまった。
帝国府は混乱するが、門閥貴族はこれ幸いと行動に出る。
遠征軍総司令官を任命するはずの大都督不在の中、軍務大臣が帝国騎士団からの編成案の認可を出来る限り伸ばそうと手を打ったが、様々な圧力を受け、遂に門閥貴族の意向通りに遠征軍を編成することになった。
帝国騎士団の参謀職は、門閥貴族の子弟が占めているので勅命であると宣言され動き出してしまうと、もう誰にも止めることは出来なくなった。
帝国府は、帝国大本営北部方面軍管区からの強い要請でクナイツァー家の従軍が譲れない条件と熱望していた。
帝国貴族クナイツァーは、狂犬…狂狼である。
クナイツァー家が誇る顎門騎士団は、帝国最強の武力集団である。
帝国騎士団を圧倒する軍事力とそれを維持できる経済力と持つ帝国貴族、『白き狼』と恐れられるクナイツァー。
『白き狼』は、皇帝の命令など聞きはしない。
辛うじて聞くのは本家であるダルツヘルム大公の”お願い”だけなのは、公然の秘密だった。
帝国府は、労力と費用をかけ、出陣するダルツヘルム大公にお願いをすることになった。
クナイツァー家への本作戦への出陣要請の打診を依頼し、皇帝と大都督の不仲が露呈するのを避けた。
帝国府は、鼻息ばかり荒い門閥貴族とクナイツァー家との調整に神経をすり減らした。
北部にある人が追われた楽園『聖都』又の名を『古き領域』、聖地開放という失われた文明の眠る死の大地への出兵。
そして、多くの者が『古き領域』から帰って来れなかった。