三十三話
どれだけ温厚な人間であろうとも、許し得ない一線は存在する。そしてそのトリガーとなる理由は様々。
俺の場合はそれが、『失う』事に対してであった。
幼少の頃から何も与えられず、心の底から大切だと思える存在の欠落。愛情の殆どを注がれずに育ったがゆえに、歪み、偏った思考。
『失う』事を、過度に恐れてしまっているのだ。
それこそが線引き。
心の憩いを奪おうとする者に対しては、容赦という言葉が俺の中で無意識に抜け落ちる。そこに貴族への憎悪が加わり、暴虐の嵐が胸中で巻き起こるのだ。
歯止めをかける理性は欠片ほどしか存在せず、身を焦がす程の積年の感情と、過度の恐れのみが己が身を突き動かす。
「い、いいのか!! 僕を殺せば貴様は間違いなく———」
「それで?」
くだらない言葉。
どんな発言が続くのかと予測出来ていたからこそ、俺は感情の一切合切を殺し、冷えた声音でリガル・シューストンの言葉を遮った。
「確かに今の状態じゃ拙い。けど、目撃者をゼロにしたらどうだろう? あんた達全員ここで始末すれば、真相を知る人間は誰一人として存在しなくなる」
「殺す? ひゃはは、てめえにそれが出来るのかよ?」
逡巡なく言い切る俺の言葉に対して、口を出してきたのは『切り裂きジャック』。
自分自身が殺されなかったからこその発言なのだろうが、それは些か甘過ぎるとしか言いようがない。
「あの時は、あんたを殺さなかったけど今は違う」
肩越しに振り返り、言い捨てる。
もう、既に生かす理由は失われていた。
「シューストン。その従者。奴隷商。そして……あんた」
各々の名を呼び、俺は視線をゆっくりと動かして行く。
「分かってる? 俺には全員に対して殺すだけの理由があるって事を」
リガル・シューストンへ背を向け、『切り裂きジャック』に向けてそう言い放った。
幼少の頃より『理不尽』に曝されて続けた俺だからこそ、何よりも『理不尽』を嫌い、拒む。
だから一方的な理由で他者を傷つける行為を俺は容認しない。しかし、それはあくまで『理不尽』である事が条件。
目の前に映る者達の自分勝手な都合で俺が。
アウレールが振り回されたという事実がある今、手を出さないという選択肢はあり得ない。
これは間違っても『理不尽』ではない。因果応報であり、自己防衛に他ならないのだ。だから、己自身の唯一とも言える
「このまま放っておけば身体の大部分は壊死するだろうけど、口は動く。それは懸念材料だよね」
リガル・シューストンに向けたままとなっていた凶刃が首筋へと僅かに埋まり、漏れ出る鮮血が氷色の刃を鮮紅色に彩り染み込んで行く。
「だから殺すよ。まずは、優先度の高いあんたから」
「ま、待て!!!」
「待て? 俺相手にそんな言葉をよくもまあ抜け抜けと」
交渉の余地などハナから存在しない。
加えて、
「貴、様ッッ!!!」
リガル・シューストンへ向ける殺気が本物であると確信するや否や、後ろに控えていた護衛らしき者の一人が憤怒に塗れた声音で叫び散らす。
直後。唯一動く上半身——此方に向ける右の掌に魔力が溜まって行き、
「部外者は引っ込んでなよ」
「っ、ぐ!?」
しかし、限界まで圧搾した視線をやるが早いか、その者の右の腕はパキリ、とまるで氷像のように伸ばした状態のまま音を立てて凍り付く。
「ああ、いや……強ち間違いでもないのか。あんた達はその行動を容認した側の人間。なら、あんたからでもいっか」
そう言って、俺はリガル・シューストンのから氷の刃を離し、その切っ先を声を上げた護衛へと向け直す。
「……僕は、貴様の従兄であり、次期シューストン侯爵家当主だぞッッ!!? それを分かっての狼藉か!?」
俺が何をしようとしているのか。
先程までのやり取りから嫌でも分かってしまったのだろう。物理的に無理ならばとリガル・シューストンは血を吐くように鬼のような形相で口上を述べる。
貴族間では、余程の理由がなければ殺傷が禁じられている上、両親や、兄姉には敬意を持って接する。などという思わず吐き気を催してしまいそうな教えがある。
恐らくリガル・シューストンはその事を言っているのだろう。加えて、自分は次期当主である、と。
「分かっているも何も、これはあんた達から教えてもらった事なんだけどね」
「……は?」
言っている事が分からない。
そう言わんばかりに呆けるリガル・シューストンであったが、俺は構わず言葉を続ける。
「『落ちこぼれ』に居場所などない。御家の格を下げる存在など親族とも思いたくない。さっさと殺してしまえ、だったっけ? 妙な事もあるもんだね。俺にはあんたが、どうしようもなく『落ちこぼれ』に見えるんだけど?」
「そ、れは」
俺が親族連中から教え込まれたのはその言葉だけ。
ご丁寧に俺は
「それに、アウレールに手を出そうとした時点で俺はあんたらを絶対に許さない。特に、そういう目を向けてくる奴らが俺は大嫌いなんだよ……ッッ!!!」
長年、悪意にさらされてきたからだろう。
俺も、アウレールも、悪意ある視線には特に敏感となってしまっている。黒々としたどす昏い感情。
人間の卑しい感情を一纏めにして、ぐちゃぐちゃにかき混ぜたかのようなクソみたいな視線。
『落ちこぼれ』が。奴隷風情が。侯爵家に歯向かう愚か者が。そんな心情が手に取るように分かる。
根付いた感情というものは容易には払拭出来るものではない。エルフを見かけるや否や奴隷が。と思う者もいるし、ツェネグィアの街ならば、俺を見れば奴隷狂いやら、『落ちこぼれ風情が』と蔑む者は多いだろう。
たとえそれが、目の前で氷原の世界を創っていたとしても。
「だから、あんたはここで死んでおけ」
「待———っ」
制止させる声が聞こえる。
でも、その声は俺の行動を引き止めるだけの効力を有してはいない。
ひゅぅ、と冷気を孕んだ寒風の音と共に、何かが凍る音がいやに響いた。蝋燭に灯っていた火を一息で消すかの如き容易さ。
「…………」
俺をひと一人殺せない甘ちゃんとでも思っていたのか。
アウレールと『ウォルフ』を除き全員が驚愕に目を見開く。しかし、その中でも一人だけ例外がいた。
まずいと悟や否や行動を起こそうと試みる例外が。
カシャリ、と金属が擦れる音が鼓膜を揺らすより早く俺は大気に声を響かせた。
「誰が動いて良いって言ったよ? 奴隷商」
懐から何かを取り出そうとしていた奴隷商の身体が、その言葉の直後、頭部を除いて氷漬けと化す。
有無すら言わせぬ早業。
辺りに氷が満ちている限り、視覚を使って視認せずとも、大体の事は頭に入ってくる。その反応速度は、常人の知覚の速度すらも超える。
「は、ははは。私を凍らせて良かったんです? 貴方の目的は『
言外に訴えている事は理解できる。
奴隷を縛る奴隷紋は自分が持っている。
そう言いたいんだろうが、
「生憎と、俺は抜け道を知っててね」
身を以て、二年前に知ることが出来たよ。そう言葉を締めくくり、俺は奴隷商の右腕へ目を向ける。
「まさ、か」
「あんた、昔からいっつも高価な奴隷の奴隷紋は右腕に付けてたよね」
奴隷を縛る奴隷契約。
その証拠として刻まれる奴隷紋さえ無くなれば、奴隷を縛るものは失われる。それは二年前に身を以て知った事だ。
だから、俺は義腕となった氷腕を奴隷商の右腕へと伸ばす。
「……取引をしませんか」
「それは今更過ぎるでしょ。俺とあんたの取引は、二年前のあの日が最後だ。俺たちの間に、これからは存在しない」
手で掴み、そしてグッ、と力を込めた途端にパキリと奴隷商の右腕に亀裂が走る。
凍り付いた腕ごと、ヒビ割れる。
「お待ち、下さい」
額に脂汗を浮かべ、焦燥に駆られながらも震えた声で奴隷商は俺の行動を制止させようとする。
けれど、それに対しての返答は無情と決めていた。
「その返事はノーだ。だけど、あんただけは殺さないでおくよ。人間としてはクソだけど、奴隷商としてはマトモだった。後任の人間が畜生だったら困るからさ。でも、この右腕は、ケジメだ。逃れる事は許されない」
言葉に呼応するように、更に力がこもる。
「俺だって本当は嫌だよ。傷付ける事は元より、人を殺すなんて柄じゃない」
「なら———!!」
一縷の希望を見出したとばかりに声が上がるが、俺の声は変わらず平坦なものであった。
「けど、そんなぬるい考えじゃ誰も守れない」
それを教えてくれたのは、あんたらみたいな屑なんだよ。と、胸中で零すと同時、どうしてか笑みがもれた。
過去の自分を嘲る笑み。
「後悔はしたくない。だから俺は容赦をしない。たとえ、この世の全ての人間から後ろ指をさされようとも、アウレールが無事なら俺はそれで良いんだ」
家族を守れるのなら、それで。
「元より、俺相手に交渉の余地なんて有るはずがないよ」
直後。
なにかが毀れる感触が、腕を伝った。