三十二話
「あ、貴方、は……」
開いた口が塞がらないとはこの事か。
口を半開きにさせたまま、狼狽の色に染まった面持ちでこちらを思わず二度見する。
そして息をつく事すらも忘れて、奴隷商の男は呆然と立ち尽くし、身体を慄わせていた。
「二年振り、かな。久しぶり」
「え、ええ、ご無沙汰しております」
あまりに自然過ぎた挨拶だったからか。
奴隷商の男は動揺を見せながらも、在り来たりな返答を返していた。
「……あの時は本当に死んだなと思ってた。色んなものを失って、色んなものを手に入れた。そんな二年だったよ」
「それは……心中お察しいたします」
どの口が言うんだか、と呆れながらも俺はその感想を表に出すまいと湧き出てくる感情をおし殺した。
そんな、折だった。
「ひ、ヒヒッ、ひひひ、ひゃはははッッ!!!」
高らかに嗤う声が聞こえた。
愉悦ここに極まれりといった様子で、声は盛り上がり、張り詰めていた空気の中。場違いな嗤い声が緊迫していた場をぶち壊す。
「なるほど、なるほどなぁ!? 全てが繋がりやがった!! 本当にあるもんだなぁ!! 偶然ってやつはよ!?」
「お前は何を」
突然、哄笑を始め、大声で叫びあげる『切り裂きジャック』に対して、奴隷商の男はどう言う意味だと怪訝に眉を顰める。が、男が丁寧にその疑問の回答を述べるはずもなく
「こりゃ、面白くなって来たじゃねえか。くひ、くひひひ、ひゃははは!!! 俺サマの予想が確かならば、てめえの名前はもう分かっちまったぜ!? 通りで俺サマがあの話をした途端に雰囲気がガラリと変わるわけだ。なぁ!? そうなんだろ!?
ナハト・ツェネグィア———ッ!!」
『ウォルフ』の背に乗せられたまま、揚々と声帯を震わせる男はその言葉を最早、信じて疑っていないのだろう。
俺が「そうだ」と言って頷く時を今か今かと待ち望んでいる。そんな様子であった。
「ツェネグィアの名前はもう捨ててる。それに、どうせ死んだ扱いになってる俺が名乗るのも変な話だし、何よりツェネグィアの名前は俺の方から願い下げだよ」
自嘲気味にそう答える。
もう隠しても仕方のない事だ。そう割り切って、『切り裂きジャック』を尻目に俺は言葉を唾棄していた。
「……ツェネグィア?」
そして、更に疑念混じりの新たな声が加わる。
「もしや貴様、
「だったら?」
発声主は奴隷商の男が応対していた貴族めいた服装の男。訳知り顔で問いかけてくる彼は真偽を確かめるように訝しむ。
『あの』とは、恐らくかつて呼ばれていた蔑称に対しての事だろう。俺はそう判断し、返答をするや否や、
「ふ、ふははっ、はははははははッッ!!! それがもし本当ならば……貴様正気か!?」
破顔して、高らかに嗤う。
明らかに含まれた侮蔑の意。
嘲るように男は腹を抱えた。
「
小憎たらしい顔を喜悦に歪める男。
その相貌をよくよく観察してみると、どこか心当たりがあるような、そんな気がした。
「ふむ?」
捲し立てられる言葉が急に、沈静化する。
眉根を寄せ、考え込むように一言。
男の粘着質な視線は俺から移動し、見つめるその先には———アウレールがいた。
「ふむふむ?」
物珍しそうにじりじりと近寄って行く。
俺とは違い、アウレールはまだフードを目深に被ったまま。けれど、男は何かを感じ取っていたのか。
値踏みするようにその距離を詰める。
そして、お互いの間合いが失われ、無遠慮に男がアウレールのフードへと手を掛けようとした時。
「……なんだ? この手は」
気付けば俺の左腕は、男の手首を掴んでいた。
「あんた、今何をしようとした」
「何をしようと? ふははっ、可笑しな事を言うものだな。確認に決まっているだろう? これから僕の物になるそこの『エルフ』の顔に、不細工な傷が付いていては僕が恥をかく事になるだろうが。だが、いやぁ、実に僕は運が良かった。一日になんと
ビキリ、と俺のこめかみに青筋が浮かぶ。
黒々と蠢く殺意が頭の中を侵食し、嚇怒が高まっていくのが手に取るようにわかる。
それを抑えようと試みるも、男の一挙一動が嫌悪を、怒りを否応無く増幅させて行く。
嗚呼、そうだ。
思い出した。
コイツは、
「まさか、貴様如きが僕に楯突くとは言わんだろう? この、シューストン侯爵家が嫡男たるこの僕に。リガル・シューストンに」
シューストン侯爵家。
それは、ツェネグィアの縁戚であり、『落ちこぼれ』は親族にいるだけで恥であるからと執拗に俺を排除しようとしていた親族連中、その主犯。
声を聞くだけで反吐がでる。
顔を見ただけで、苛立ちがこみ上げる。
典型的な貴族の例。
『エルフ』を人と見ていないその発言に、どす昏い感情がふつふつと湧き上がる。
「分かったらさっさとこの汚い手を離せ!!」
乱暴に腕が振れ、掴んでいた俺の手が解かれた。
「おい、奴隷商。アレを寄越せ」
「は、はい。今ただいま……」
および腰の状態であった奴隷商は、リガル・シューストンに貸せと、手を差しのばされるや否や、ごそごそと懐を漁り、輪っかのようなものを取り出す。
黒く、鈍色に染まったソレは———趣味の悪い首輪。
「今から貴様は、僕のものだ」
耳障りな雑音が聞こえる。
忌むべき記憶が蘇り、吐き気がこみ上げる。
俺も、そうだ。
アウレールが『切り裂きジャック』に向かって言い放った言葉と同様に、俺だって人間が嫌いだ。貴族はもっと嫌い。獣人だって嫌いだ。子供であろうと、俺は嫌いだ。
そして目の前の貴族も、例に漏れず大嫌いだった。
「早くそこを退け、『落ちこぼれ』風情が」
俺がナハト・ツェネグィアであった事を知るや否や、傲慢な態度をあらわにし、目の前に立たれては首輪を嵌められないだろうがとリガル・シューストンは目を怒らせる。
だけど俺はその言葉に従う筈もなく、ただその場に立ち尽くし、感傷に浸り続けていた。
どれだけ平穏を望もうとも、この優しくない世界はそれを許さない。事実、こうして理不尽なまでに己の都合で奴隷に堕とそうとするような屑が蔓延っている。
これは、目を背けようとも、そんな抵抗は関係ないとばかりに襲い来る現実。
その現実を、俺は誰よりも痛いくらいに身に染みて理解していた。だから力を欲し、求めたのだ。
必死に抑え込んでいた何かが流れ込んで来る。
それは記憶。俺にとって、唯一大事といえる記憶。
交わした会話の数々が、断片的に思い起こされる。
『私たちって、似てるよな』
境遇がどこか似ていると、彼女は言った。
『相変わらず、野菜が嫌いなんだな』
血の繋がった家族とは距離を取っていた事もあり、俺の好みを正しく知る人物は彼女だけだった。
『お揃いだな』
二人とも、『氷』しか扱えない。
だから、お揃いだと言って彼女は笑っていた。
『今日はどうだった? 長老には勝てそうか?』
マクダレーネとの鍛錬の後。
決まって彼女は、俺の近くに居てくれた。
どうしていつも居てくれるのかと理由を聞くと、「だってナハトは寂しがり屋だろうが」と返答が返ってきた。
『折角、お揃いなんだ。連携技でも覚えるか?』
『氷』の扱いに苦戦し、素早い『ジャヴァリー』を仕留められずに苦心していた時。彼女は俺が上達するまでひたすら付き合ってくれた。
『いつか、二人で旅をしたいよな』
人間である俺が、ずっと『エルフの里』には留まる事が出来ないと知ってか。彼女は、口癖のようにそう言っていた。
『やっぱり、ナハトはナハトだ』
この言葉は、よく分からなかった。
『分からないなら、それで良い』
その理由を、どうしてか教えてはくれなかった。
『なあ』
『そういえば、私たちの関係って』
『一体、どこに落ち着くんだろうな』
その質問が唐突であった事は覚えている。
そして、返した返答も、一字一句忘れていない。
『そんなの、決まってんじゃん』
屈託のない笑みを浮かべながら俺は———
『———家族だよ』
そう、答えた。
『血の繋がりはないけど、それでも家族って思ってる。大事と想ってる人同士なら、それはきっと家族なんだと思う』
俺の言葉に対して、「そうか」と気恥ずかしげに答えていたアウレールの姿は脳裏に焼き付いて離れない。
だからこそ、許容できるはずがない。
目の前の貴族の行為を、俺が容認するはずが無い。
俺とアウレールを切り離そうとするやつらは。
アウレールに害を成そうとするやつらは。
総じて、敵だ。
「物分かりの悪いやつはこれだから……おい! この『落ちこぼれ』を拘束しろ!! 元々殺す予定だった人間だ。抵抗するようなら殺して構わん!!」
動く気配のない俺を見てしびれを切らしたのか。
ぞろぞろと、扉の奥から護衛らしき騎士が顔を覗かせる。数は10。けれど、そんなものは関係ない。
奥歯を噛み締めながら、俺は前を見据える。
撃鉄は既に起こされた。
「……殺せるものなら、殺してみろよ」
俺を中心として、暴風の如く荒れ狂う殺意。
次いで、足下にパキリ、と音を立てて薄氷が走り抜ける。
それは、一瞬の出来事であった。
「ひゃはは、こりゃ、歯が立たねえワケだ」
俺サマの時、全く本気出してなかったのかよ。と思わず言葉をもらす『切り裂きジャック』の眼前に広がるは、氷原の世界。
吹き荒れる殺意が加減を取り除き、足を凍りつかせようと放った一撃ですら、下半身全てを凍りつかせるまでに威力が昇華されていた。
意気込んでいたリガル・シューストンは勿論。
控えていた騎士ですら、言葉が出てこない様子である。
この『氷』は、『
唖然とする彼らを眺め、俺はふと良い事を思いついたとばかりに弾んだ声を上げた。
「確か、我々のような高潔な貴族に貴様のような弱者は要らない、だったっけ?」
親族連中から度々いわれ、耳に残っていた言葉を言ってのける。
「俺みたいな『落ちこぼれ』に負けるあんたは、一体何なんだろうな?」
そう言ったところで、漸く事態を把握したのか。
焦燥に身を駆られ始めるリガル・シューストンは目を泳がせていた。
右の手には一瞬で生成した『氷』の剣が一振り。
それを無造作に、リガル・シューストンの首筋へとあてる。
「弱者は、要らないんだったよな?」