十一話
———やはり、荷が重かったかの?
どうしてか、聞こえるはずのない声が風に乗って俺の鼓膜へと届いた。特徴的な身に覚えのある古風な口調。
きっと、ここで助けを求めればマクダレーネは助けてくれる。でも、でも——。
「冗、……、談ッ」
手を腹部にあてながら、俺はふらふらと覚束ない足取りで立ち上がる。腹に穴は空いていない。手も動かせる。身体は、まだ動く。なにより、
抗う力がある。
「ギブアップするには……、まだ早すぎでしょ」
口端から垂れ溢れる鮮血を手の甲で拭い、ふぅと息を吐く。白い息が、目の前に漂った。
「諦めるのは、身体が動かなくなってからでも遅くない」
俺は『氷』だ。
それを認め、受け入れ、思い込めと、マクダレーネからも何度として言われてきた。
近くに『氷』が多くあればある程、氷原はイメージが容易くなる。寒ければ寒い程、高い効果が見込まれる。
そう、マクダレーネは言っていた。
だから、俺はイメージをする。
かつて、クラウスの前で見せた氷原を。
あの暴れまわる『ジャヴァリー』を斃せる『氷』を。
凍れ。凍てつけ。氷像と化せ。
「だから、もう少しだけ抗うよ」
パキリ、と。
俺が歩いた後に、細氷が出来上がる。
冷気漂い、一段と周囲の温度は下がり続けた。
歩いた後には、氷霧が舞う。
感情はこれ以上ない程に高まっていた。
「イかれてやがる」
不意に、そんな声が聞こえる。
クラウスの声。
あらぬ方向へ折れ曲がった右の腕を左の手で抱えながら、俺を見てそう口にした。
「あのボロ切れみたいな状態でよくもまあ笑えたもんだ」
そう言われて漸く気づき、血に塗れた手を頬に伸ばす。
俺の口角は——吊り上がっていた。
でも、その理由は何となくだけど理解出来てしまっていた。
「楽しいよ。うん、物凄く楽しいし、嬉しい」
何故ならば、以前までの俺であればただただ守られるだけしか出来なかった筈だから。けれど、今は違う。
抗う気さえあれば、どこまでも可能性は開ける。
「どうあがいても無力でしかなかった俺が、こうして大立ち回りを演じられてる。その事実さえあれば俺はきっといつまでも笑えるよ」
そう言うと、クラウスはおれには心底理解が出来ねえなと言わんばかりに視線をあらぬ方角へとそらしていた。
弓を扱うクラウスは、弓を引く右腕を潰され。
アウレールは先ほどの芸当を見る限り、技巧派だ。
ピンポイントで凍らせるだとか、そう言った事に長けていると踏んで間違いはないだろう。ならば、俺が前へ出るしか選択肢はない。
未だ怒り哮る『ジャヴァリー』を眼前に、俺は居丈高と宣った。
「この身は『氷』で出来ている。だからこそ、俺が出来る事はたった一つ。凍らせる事だけ」
パキリ、パキリと足下をはじめとして周囲一帯を氷が侵食し始める。白い風が吹き、まさしくそこは——氷原。
目に見えて気温が下がった事で、怒り狂っていた筈の『ジャヴァリー』の目がギョロリと動き、俺を捉える。
これは、お前の仕業か、と責め立てられたような気がして、思わず背筋に痺れのようなものが奔った。
「だから、俺はここにある全ての
言うや否。
絡みつくように『ジャヴァリー』の足、計4本に向けて氷がまるで意志を持ったかのようにパキリと音を立てて纏わりつく。けれど、それを許す『ジャヴァリー』ではなかった。
すぐさま、拘束せんと絡み付いていた氷は弾け、俺へ肉薄せんと爆発的に加速を始める。
その行動がまさか、誘導されていたものとは露知らずに。
「やっちゃえ———」
俺が『氷』であるならば、その逆もまた然り。
『氷』は、俺自身である。
蔓延する氷全てが俺の手足であり、俺自身。
そこら中で生成された氷の刃が俺の合図を経て、
「今だ——ッ!!!」
轟音と共に、驟雨の如き勢いで殺到する。
猪突猛進に真っ直ぐ突き進むと確信していたからこその全弾直撃。白に染まった氷原に、鮮紅色が滴り、白煙が立ち込めた。
「————」
それは、予感だった。
この『ジャヴァリー』は心の臓が止まるその瞬間まで足を止めない。そんな、予感。
だから俺は、余す事なく『ジャヴァリー』の全身を凍て付かせようと試みつつ、身体を横に捻った。
「なっ……」
案の定、『ジャヴァリー』は俺のいた場所へと無理矢理に氷を引き剥がした事で皮膚が擦り切れながらも肉薄していた。しかし、『ジャヴァリー』の攻撃はこれだけでは終わらない。予見し、躱した先。
眼前にはクラウスの右の腕を難なく圧し折った尾が迫っていた。
「……!!」
頭部に迫る尾。
それを食らってしまえばひとたまりもないだろうと理解していたからこその、行動。
最早、本能と言ってもいい。
筋肉が切れる音すら度外視し、俺はそのまま上体を倒して迫り来る尾を、避け切った。
「はぁッッ、はぁッ、はぁッ」
一瞬と言える刹那の時間。
その間に繰り広げられた攻防をしのいだことに対し、俺は安堵すると共に大きく肩で息をした。
しかし、そんな休養も瞬きする間程の時間だけ。
追撃がくると踏んで、俺は神経を研ぎ澄ませる。
呼応するようにパキリ、と辺りに蔓延する氷が鳴いた。
目で追えない事は、先程までの数瞬間で痛いくらいに理解をした。きっと、俺の目であの『ジャヴァリー』を追う事は不可能だ。さっき躱せたのだって、運の要素が限りなく強い。二度目はないと思った方が賢明だろう。
だから——。
「もう、目は使わない……」
最早、遅れて姿を捉える視力など不要なだけだ。
むしろ、邪魔と言っていい。今は己を思考を惑わす障害にしかなり得ない。
ゆえに俺は、目を瞑る。
「……何をしているんだ、ナハト……」
理解が出来ないとばかりに、困惑めいたアウレールの声が飛んできた。だが、対照的にクラウスは何も発さず、じっと仁王立ちを続けている。まるでそれは何となく俺がしようとしている事を理解しているようでもあり。
ざっ、と音を立て、無造作に俺は後方へと飛び退いた。
「今度は、見えてる」
「ガアアアアアァァァァアアッッッ!!!」
ビリビリと、圧搾された殺気と共に猛り吼える声が此度は俺の真横を通り抜ける。
そして『ジャヴァリー』が向かった先。
その速さ故に急ブレーキが効かない巨体に向けて、地面が槍状に隆起を始める。起こり得る未来をコンマ数秒早く理解しているからこその芸当。そこらの刃物に勝るとも劣らないそこは、まごう事無き槍地獄。
あまりの硬さにクラウスの矢を弾いた皮膚であって尚、流石に多勢に無勢。僅かではあるが、氷の槍が『ジャヴァリー』に突き刺さり、激痛に身を悶える啼き声が程なくして響き渡った。
だが、血塗れと形容して尚まだ足り無いと思わせる凄絶な状態にもかかわらず、燃え上がった狂気は止まらない。
前に歩みだした足は止まらない。
狂熱に身を焦がすその身体は、最早、どちらかが死する事でしか止まる事はあり得ないのだ。
そう、どちらかが、死ぬ事でしか止まりはしないのだ。
ゆえに、俺は殺そう。
「は、ぁっ———」
覚悟を決めんと息を吐き出し、広範囲に張り巡らせていた神経、思考回路を捨てる。そしてその分を自分自身周辺に集中させて行く。
避けるだけではジリ貧なのは火を見るより明らか。
だから俺も、『ジャヴァリー』を殺しに掛からねばならない。ゆえの行為。ゆえの、選択。
進む先が見えているならば、避ける事は容易。
加えて、出現ポイントさえ分かっているならば、攻撃を当てる事すらも
「ふっ、とべ」
氷を纏わせた、拳撃。
ビキリ、と腕が悲鳴をあげるも、それに構わず俺は限界まで引き絞った拳を『ジャヴァリー』の頭部目掛けて振り抜いた。
頭部への容赦ない攻撃。
伝わる脳への衝撃。
一片の躊躇いすら存在しない拳撃は、脳をピンポイントで揺らし、身体を支えていたはずの根幹が大きく振動した。
「ガ、ァッ……」
脳筋であると決して認めはしないマクダレーネ直伝の肉体戦術。全体重を乗せ、身を虚空に躍らせるように繰り出すそれは、本来の質量を倍加させる一撃。
彼女はそれを———『狂撃』と、呼んでいた。
「お、らァッッ!!」
続けざま、左の拳を体勢の崩れた『ジャヴァリー』にもう一撃をと振り抜く。
が、丸太のように太い脚で何とか踏ん張り、迎え撃つように頭部を突き出した。
「ッ、ぐ!?」
引き絞った拳と突き出した頭部の衝突。
先程よりも一層痛々しい骨が折れる音が響き、遅れてブシュゥ、と皮膚が裂けながら鮮血が噴出。
肉が潰れるような感触が身体を駆け巡り、ぶつかり合った衝撃に押され、振り抜いたはずの拳が弾かれた。
そして生まれる僅かな死に体の時間。
間抜け。
そう言わんばかりに血走った『ジャヴァリー』の視線と俺の視線が交錯し、もう一度突進せんと足を踏ん張り、地面が僅かに陥没する。
「ま、ずっ、いッ」
思わず目を見開き、身体を捻って躱そうと試みるも先の回避行動によって、身体が言う事を聞いてくれない。
直撃。
そう思われた時だった。
俺と『ジャヴァリー』の間を一矢が駆け抜ける。
瞳を射抜かれた事がトラウマになっていたのか、矢が走ったというだけで『ジャヴァリー』は目に見えて身を引いていた。
横目に見えたのは左の手で弓を持ち、圧し折られた右手の代わりに歯を使って矢をつがえ、放っていたクラウスの姿。そして後退した『ジャヴァリー』の脚を貫く無数の剣山。相手を逃がさんとばかりに造られた氷の剣山を創造した人物にも心当たりがあった。
「やっちまえ———!!」
これ以上ない、好機。
「倒れ、ろおおおおおおおおお!!!!」
「ガ、ァッッ!!?」
氷を纏わせ、振り抜いた右の拳が『ジャヴァリー』の顎を捉え、ゴリュッ、と気色の悪い感覚が伝わる。
氷によって生成されていた氷腕は、『ジャヴァリー』の巨体を殴り飛ばした事により、バキリとヒビ割れ、程なくして弾けた。
次の瞬間。
ずしんと地面に膝をつくも、最後の力を振り絞るように大声を上げた。
「アウレール!!!!!」
返事はない。
けれど、分かっていると言わんばかりに彼女は笑んでみせる。
そして、身体の芯まで凍えさせるような絶対零度が、繰り出され、
「凍、れええええええええええ!!!!」
余す事なく注ぎ込まれた魔力。
それが二人分。
パキリ、パキリ、と、そんな音が際限なく響き渡り、
「つか、れた……ぁ」
バタンと仰向けに倒れ込んだ俺の目の前には、赤く滲んだ氷像が一つ、出来上がっていた。
———見事。
そんな声が、何処からともなく聞こえてきた。
風に乗ってきた声音。
それが、この半年間の間ですっかり聞き慣れてしまった声である事に疑いの余地はなかった。