九話
高熱を出したり、体調不良に倒れたり。
凍死寸前に陥ったりと紆余曲折と色々なトラブルに見舞われながらも、『長老』——マクダレーネにお世話になり始めて早半年が経過していた。
「そろそろ実戦といきたいところじゃのう」
『氷』魔法についてはそれなりに扱えるようになったとマクダレーネからお墨付きを貰っている。結局、あの意味の分からない修行は長く続き、そのお陰で両の手で数え切れぬ程に高熱で魘されたものの、得るものは確かに己が手に収まっていた。
「実戦?」
「左様。今のお主ならば……そうじゃの。『ジャヴァリー』くらいいけるじゃろ」
ジャヴァリー。
それは『エルフの里』を頻繁に襲い来る魔物の一種で、見た目はイノシシのような姿形をしているのが特徴である魔物の事だ。
一度か二度程、遠目からその姿を確認出来た事もあり、俺もジャヴァリーと呼ばれる魔物についてはそれなりの知識を有していた。だからこそ、
「『ジャヴァリー』かあ……」
少しだけ嫌そうな面持ちで、俺は尻込みをする。
全長は5m程度のイノシシで凶暴性が特に強く、遠目からも何度か突き飛ばされる『エルフ』を見ていたからこその反応であった。
「なに、心配は無用よ。ジャヴァリーの討伐は初めてという事でちゃんと助っ人も用意しておる」
入って
そう言うや否、扉が押し開けられ、人影が二つほど視界に映る。一人は良く知ったひと。
「アウレール!」
思わず俺はそう声を上げるも、次いで入ってきた男。
その者から発せられた心底嫌そうな声音が、俺の口を真一文字に引き結んだ。
「……ご老体から用があるからと呼ばれてみりゃ……。案の定
入って来た人間はこの『エルフの里』の中でマクダレーネとアウレールの除けば唯一と言っていい顔見知り。もっとも、出会った経緯やら抱かれている感情やらが負に思い切り傾き切ってしまっているので、出来ることならば会いたくない類いの者であった。
「そう悪態を吐くでないわ」
目に見えて嘆息を吐き、嫌そうに顔を歪めるエルフ———クラウスを横目に、マクダレーネもまたため息をもらした。
「それもこれも、『ジャヴァリー』を偶々、今朝見つけての。ナハトにもそろそろ討伐をやらせたいと前々から思っておったんじゃが……」
意味深に言葉を一度切り、
「改めて見るとやはり、ナハト一人では少しばかし荷が重いと思ってしまっての。それで、お主らの出番と言うわけよ」
「はっ、要するにおれにコイツのお守りをやれって事だろ? そうする事で何かおれにメリットでもあるのかよ」
「そうじゃ、のう……」
どうしてか、思慮するように頭を悩ませる素振りを見せるマクダレーネであったが、時折、ニヒルな笑みが僅かに見え隠れをしていた。何か企んでいる。
そう思わせるような面持ちだ。
「お主の命一つ。で、如何かの?」
「…………」
喜色ばんだ笑みを浮かべるマクダレーネとは対照的に、クラウスの表情は見る見るうちに険しいものへと変わって行き、気づけば般若を思わせるような憤怒に塗れた怒り顔へと変わっていた。
心なし、ぷるぷると怒りに肩が震えている。
「てめえは、おれがジャヴァリー如きに殺されると、本気でそう言ってんのか?」
『エルフ』と『人間』の違い。
それを一つだけ述べよと問われれば、俺ならば間違いなくこう答える。
たとえどれだけ嫌っていようと。
人間とは異なり、同族殺しだけは何があっても行わない種族である、と。
ゆえに、クラウスはそう返答をした。
一見、断わらないようにマクダレーネがクラウスに圧を掛けているように見えるが、実際は違う。
これは、マクダレーネによる示唆なのだ。
お前が普段通りにジャヴァリーを討伐に向かうのは構わないが、きっと、この三人で向かわなければ死ぬぞ、と。
マクダレーネはそう言外に指摘しているのだ。
「嘘と断じるならば、断じるで良い。じゃが、意味もない嘘をつく程、儂も暇しておらぬわ」
「チッ」
忌々しげに舌打ちを一度。
「……そこまで言うんなら、連れてくが……てめえのお気に入りが死んでもおれは知らねえからな。先に言っておくが飛び火は御免だぜ」
「くふふ。心配せずとも、そやつはそう易々と死ぬタマではないわ」
「ふん」
そう言って、にべもなくクラウスは出てきた扉を乱暴に引き開けた。
「ああ見えてあいつ、頭脳派なんだ」
無言を貫いていたアウレールが、隣からこそっとそう教えてくれる。見た感じ脳筋のように思える彼であったがどうにも違ったらしい。
「頭で考えて、道理であるとほんの少しでも思ったならば、たとえどれだけ自身にとって嫌な選択であろうと是として受け入れる。そこがあいつの長所なんだが……だからだろうな」
既に場を後にしたクラウスから、視線はマクダレーネへと移る。言葉はそれで終わったが、何となく彼女が言いたい事は理解出来てしまった。
「……ああ、なるほど」
この半年。
マクダレーネの近くにずっと居た俺だからこそ直ぐに分かったが、彼女は簡潔に言って脳筋だ。
特に、机上論などを宣う連中は心底毛嫌いしており、見たところクラウスもクラウスで脳筋連中を毛嫌いしている様子。マクダレーネとクラウスの相性は、控えめに言って最悪であったのだ。
「なんじゃ?」
俺とアウレール。
二人から視線を向けられ、且つ、物言いたげにしていたからだろう。小首を傾げ、言葉を待つマクダレーネであったが、いくら待てど言葉は一向にやってこない。
「用がないならさっさと二人も行かんか。儂の見立てではおそらく、
程なくしてほら、出て行った出て行ったと言わんばかりに背中を押され、半ば強制的に俺とアウレールは追い出されてしまう。
「そう言えば、場所すら聞いてないんだけど……」
不服げに言葉を発する俺であったが、アウレールは苦笑いしながらその心配はないと答えた。
「きっと、『ジャヴァリー』がいるならばあの場所だ。その問題はない」
早いところ、クラウスを追いかけよう。
そんなほのぼのとした会話をしていたのが———
かれこれ一時間ほど前の話。
「あ、んの、クソババアッッ!!!」
アウレールの言っていたあの場所にて。
怒りに青筋を浮かべ、怒り狂う『エルフ』が一人。
「何処にも居ねえじゃねえか!! 何がおれの命一つだ。居もしねえガセ情報流しやがって……」
と、言うのも。
普段、アウレールやクラウスが『ジャヴァリー』を討伐する際に訪れて居るポイントはこの一時間で粗方見回り終えたらしい。
が、肝心の『ジャヴァリー』は存在を仄めかす痕跡すら見つからない始末。しびれを切らしたクラウスがそのせいで怒っている、という現状だ。
「だが、長老が意味もなくああ言うとは私には思えない。警戒だけは怠るなクラウス」
「……言われずとも分かってる。だが、こうも足取り一つ辿れねえとなると真偽のほども疑わしくなるってもんだろうがよ」
「それは、そうなんだが……」
アウレールも口に出していないだけで、クラウスと似たり寄ったりの心情なのだろう。
否定も肯定もせず。といった態度である。
普段から討伐の際は頻繁に共に行動でもしているのか。
慣れた様子であり、三人、というより二人と一人といった感じだ。
そんな折。
パキリ、と凍てつく音が小さく響く。
『ジャヴァリー』の捜索を始めてからというもの、一定時間毎にこうしてパキリと『氷』魔法特有の音が鼓膜を揺らしていたのだが、一向に『ジャヴァリー』が姿を現さないからだろう。
「てめえはてめえで、さっきから何をしてやがる」
クラウスの怒りが、こうして俺に飛び火した。
「あー……いや、えっと、警戒の一種、かな?」
次いでひゅぅ、と肌を刺すような冷たい小風が吹き抜けた。この風と凍てつく音がワンセットとしてやってくる。それが一時間ひたすら続いていた。
「警戒、だあ?」
このよく分からない現象について、説明をしろ。
クラウスの目が口程にそう物を言っており、なんとなしにアウレールを横目で確認すると、彼女も彼女でどうにも気になっていたらしく、「警戒」という言葉の意図を探るべく眉根を寄せていた。
「そ。俺は『氷』だからさ、寒さ……って言うのかな。気温で大体の事は分かるっていうか。だから、俺が感知しやすいようにあえて周囲一帯は気温を下げてるんだ」
言葉に呼応するようにパキリ、と。
薄氷が割れるような音がまた響いた。
「……周囲の温度の変化を感じ取る、だあ?」
バカでも見るかのように、嘲りを含んだ視線で彼は俺を射抜き、ほんの数秒の黙考を経て、
「……ふん、馬鹿馬鹿しい」
クラウスは俺から視線を外した。
周囲に張り巡らせ続ける魔力量。
「寒さ」を己の一部と考える壊れた考え。
そして、何より聡い感覚。
挙げればキリがないほどに俺が口にした方法は壁が多く、クラウスはとてもじゃないがまともに扱えるものがいるとは思えないとして唾棄したのだが、多くを語らない彼の性格のせいで俺はそれに気づけない。
「ちなみに、その方法は長老が手解きを?」
「そうだよ。一番はじめにマクダレーネが教えてくれた便利な魔法でさ。結構便利なのになあ……」
俺は、そんな邪険にせずとも……。
とばかりに背を向けていたクラウスを見つめるも、当の本人はそんな事、柳に風とばかりに気にした様子はない。
「長老が教えたという事は有用である証拠だろう。クラウスはああ言ったが、気に留める必要はない」
ぽんと、優しくアウレールは俺の方に手を乗せた。
「頼りにしてる。ナハト」
誰よりも無力である事に俺が苦悩していた事をアウレールは誰よりも知っている。だからだろう。
そんな言葉を掛けてくれたのは。
気を遣ってくれている事は直ぐにわかったけれど、だとしても俺は、どうしようもなくその言葉が嬉しかった。
「任せてよ」
不敵に笑い、口角を喜色に歪めて返答する。
そんな時だった。
ひゅぅ、と風が音を立てた。
しかし、今までとは違い、髪を優しく撫でるだけの小風ではなく、それなりに強い風。
「温度が、上がった」
目を細め、厳かにそう口にする。
俺があえて周囲一帯の温度を下げている最たる理由が、他の生命体の存在を感じ取るため。
生物は誰しもが体温というものを持っている。
人間は言わずもがな、魔物ですらそれは例外ではない。
「あん?」
強めの風を吹かせ、その上、意味有りげな事を口にする俺の言葉に対してまずはじめに反応をしたのがクラウス。
どういう事なんだと、詰め寄り始め——。
けれど、俺の耳に彼の言葉は届かない。
存在の主張をはじめるナニカ。
切迫するべく近づいてくる人肌の生命体。
警笛を鳴らすようにパキリ、パキリと凍てつく音がやむ事を知らないとばかりに頻りに耳朶を叩く。
「何かが、くる」
それは、目にも留まらぬ速さで。
でも、遠目から確認した事のある『ジャヴァリー』とは僅かに身体的特徴が異なっている。
色が、大きさが、そしてなにより
「伏せろッッ!!!」
殺意の質が、違っていた。
「はあ?」
「?」
まだ視認は叶わない。
だからだろう。俺の咄嗟の言葉に二人は即座に反応を出来ていなかった。ゆえに、心の中で申し訳ないと思いながらも、クラウスとアウレールの腕を強引に掴み——
「ごめん!!」
二人を力任せに、仰向けになるよう押し倒した。
「てめえ、何しや———」
奇行とも言えるその行為。
しかし直後。
寸前まで身体があった場所を目にも留まらぬ速さで走り抜けた存在に気付き、クラウスは堪らず口ごもった。
ぶるん、と忌々しそうに鼻を鳴らす音が遅れて少し離れた場所より聞こえる。
「なる、ほど」
———お主の命一つ。で、如何かの?
不意にマクダレーネの言葉が脳内で再生された。
どうして彼女がそう言っていたのか。走り抜けた存在を視認し、苦々しい表情を浮かべて得心していたアウレールが言葉を続ける。
「『ジャヴァリー』変異種……!!」
数年に一度のサイクルで姿をあらわす『ジャヴァリー』の変異体。その脅威度は、多くの死を齎す災厄の化身。
実力は、推して知るべし。
先程で余裕めいた表情を浮かべていたクラウスの相貌も、逼迫めいたものへと移り変わりしていた。