80話 世界を動かす力
別れは唐突に訪れた。
その日、いつものようにロードワークを終えて戻ってくると、バンディーニと一緒に俺の帰りを待っていたのは、ロゼッタの父トーレス・マスタングであった。
バンディーニの部屋に連れて行かれるとトーレスから告げられる。
「おまえを、ナザレックに売ることになった」
なぜ急にそんな話になるのかと俺が食ってかかろうとすると、バンディーニがそれを制止する。
「よせロイム。もうこれは決まったことだ」
「なんでだよっ! ふざけんな、ロゼッタはなんて言ってんだ! そんなの許すわけがないだろ!」
「ロゼッタは関係ない」
「はあ? 今なんて言ったバンディーニ、てめえ、頭いかれたのか?」
トーレスは俺達二人の口論を、腕組みをしたまま黙って見ている。
「ロイム、君はなにか勘違いをしているようだが、我々はロゼッタの所有物ではないんだ。あくまでも、私達の主人はトーレスさんであることを忘れてはならない」
冷静に俺のことを宥めるバンディーニの顔にも苦渋の思いが浮かぶ。
すると、トーレスが徐に口を開いた。
「ロゼッタの、拳闘に対する思いは知っている」
「だったらなんで、彼女から拳闘を奪うような真似を」
「おまえには理解できないかもしれない。あの子は、私の娘なのだよ」
「言っている意味がわからねえ」
バンディーニの方を見ると、納得したような目で頷いている。
なんなんだこいつら、わかったような面して、結局なにが言いたいんだよ。
トーレスは大きく溜息を吐くと、背中を向けて窓の外を見つめながら話しを続ける。
「あれは一人娘でな。我儘に育ててしまったことは、私の至らない部分があったからだろう。仕事一筋の私を、疎ましく思っていることもわかっている。それでも可愛い娘であることには変わりないのだ。親である私が、娘の幸せを願うのは当然のことだろう」
聞きながら俺は、いつも険しい顔をして冷たい印象のあったトーレスが、ロゼッタのことを話している声には、なんだか暖かい感情が籠っているように感じた。
「その娘が今、この間のエドガーとおまえの拳闘試合のことで苦境に立たされている。今は自室で謹慎させているが、正直、事を納めるのにはかなり骨が折れそうだ」
そこまで大きな話になっているだなんて知らなかった。
奴隷である俺達にそんなことを話すなんて、あのトーレスがそうとうに参っているように思った。
ロゼッタのしでかした事ではあるが、マスタングの名を使ってやったのだ。
当然その責任は父トーレスが負うことになる。
俺達は試合の熱に浮かされて後の事を考えていなかったが、大人の世界はそんなに甘い物ではなかった。
その点はバンディーニもかなり詰問されたのだろう。
トーレスの言葉に反論することもなく口を噤んだままであった。
結局、大きなことを成し遂げたと思っていたのは俺達子供だけであった。
世界と言う大海原に小石を投げたところで、さざ波一つ立てることはできていなかったのだ。
俺が項垂れて黙り込んでいると、トーレスは再びこちらに向き直る。
「今回の件、事を収めるにはこれしかなかった。ナザレックはこの国で、海運業では右に出る者のいない名手だ。政財界にも大きな発言力があり、貴族達にも大きな影響力を持っている。つまりは金だ、世界を動かすのは拳ではなく、金が人を動かし変えるのだよ」
今回の話は、そのナザレックが持ちかけてきた話らしかった。
あの日の試合を見ていたナザレックが、俺のことを欲しいとトーレスに話しを持ちかけて来たというのだ。
しかも、かなりの金額を提示されたらしい、それプラス今回の騒動を収束させることも約束してくれたのだというのだから、トーレスにとってはこれ以上のことはないということだったのだろう。
トーレスが去った後の部屋で、俺とバンディーニは黙り込んだままであった。
ずっと思っていた、俺はどうしてこの世界にやってきたのだろうか。
いや俺だけじゃない。バンディーニやホランド、他にも現代から、或いは俺達の居た世界とは別の世界からやってきた人もいるのだろうか。
人は死んだらどこへ行くのだろうか。仏教的考えでいけば、魂は輪廻転生を繰り返しているのかもしれないが、その転生がまた同じ世界で繰り返されるとは限らないのかもしれない。
そんなことを言うとバンディーニは、ロイムのくせに随分と難しいことを考えるんだね、と笑った。
なんだか小馬鹿にされた気がして俺が膨れているとバンディーニは続ける。
「そういえば話したことはなかったね」
「なにがだよ?」
「私がどうやってこの世界にきたのかだよ」
そう言えば、俺がこの世界に来た切っ掛けは、日本タイトル戦の途中、キャンバスに倒れ込み恐らくそのまま帰らぬ人となったのが原因だと思うことは、バンディーニに話したことはある。
もし、この世界に転生する人が、同じように向こうの世界で命を落した者だとするならば、バンディーニはどうやって。
バンディーニは深く息を吸うと、ゆっくり吐く。
そして、俺の目を見つめて話し始めた。
「私が育ったのは、1970年代アメリカのスラム街だった。貧しい家に生まれてね。そんな中、街頭のテレビ中継で見るボクシング試合が唯一私達の楽しみだったよ」
バンディーニの目にはどこか懐かしさが浮かんでいるようにも見える。
「ロベルト・デュラン、レナード、ハーンズ、ハグラー、憧れだった。そんな私がボクシング惹かれて、門を叩くのは自然の成り行きだったのかもしれない。でもね、私は選手としての才能がなかったんだ」
「それは今でも変わらないな」
「ははっ、手厳しいねまったく。まあその通りだよ。だから私は自分でチャンピオンになることは諦めた。でもボクシングは諦められなかった。だから私はトレーナーの道を選んだんだよ」
そこまで話すと急にバンディーニの表情が曇り、そこから先の話は唐突に終わった。
それは単純な話で、通り魔強盗であった。
いつものように練習を終えてジムから帰る道すがら、路地裏でバンディーニは強盗に銃で撃たれ死んだのだ。その時の所持金はたったの3ドルだったらしい。
その話を聞いた時、俺はトーレスのさきほどの言葉を思い出していた。
続く。