81話 世界を制する為に
そこは小さな部屋であった。
港内にあるナザレックの事務所を訪れると、角にある一室に通された。
そこは大人三人が入るといっぱいになるような狭い部屋で、俺とバンディーニは立ったままで、目の前には椅子に腰かけたナザレックが居た。
諸々の手続きが済むまで暫くの間は、マスタングの元で生活を続けることになったのだが、今日はこうして新たな主人に呼び出されて顔合わせとなったのだ。
「56年かかった……」
お互いに黙り込み神妙な空気の流れる室内で、静かにそう言ったのはナザレックであった。
「客を招くには狭い部屋だと思ったか?」
「い、いえ、我々は客人ではなく。奴隷なので」
バンディーニが畏まってそう答えると、ナザレックは顎鬚を撫でながら口元に笑みを浮かべるのだが、俺達を見据える眼は笑ってはいなかった。
「私の人生はこの狭い部屋から始まった。この建物は元々、私の雇い主の物だったのだ。世界中の海を見てみたいと、そう思い始めたこの仕事も。いつしか果ての見えない航海になったような気がする」
ナザレックは人生の半分以上、半世紀以上もかけて、このナザレック海運を一代で築き上げてきたのだ。この世界の平均寿命は正確な統計は取っていないのでわらかないが、50手前くらいには長老と呼ばれるようになるから、ナザレックの年齢だとはっきり言って仙人のようなレベルになるだろう。
それ程の長きに渡り、ナザレックは海一筋に生きて来たのだ。
「多少強引な手を使ったとは思っている」
「どういうことですか?」
俺が眉を顰めて尋ねると、ナザレックは少し申し訳なさそうに笑った。
「若い男女の仲を引き裂くような野暮な真似であった」
「いや、なに言ってんだかぜんぜんわからないっす」
そんな俺の返事は無視してナザレックは苦笑すると椅子から立ち上がった。
デカい……俺の頭を優に超える身長、実年齢よりも若く見えるその見た目は、こちらの錯覚ではなく。とても70歳を超えているじいさんには思えない程の威圧感があった。
ナザレックは俺のことを見下ろしながら言う。
「私が初めて海を渡ったのも、おまえと同じくらいの頃だ。青年よ……世界を見たくはないか?」
世界。
その言葉に俺は気が付いたら音を鳴らし唾を飲み込んでいた。
意味合いは違えど、ボクサーに世界が見たいかという質問は、嫌でもそれを意識してしまう。
俺は、一瞬ナザレックから目を逸らして答えてしまった。
「そうしろという命令なら」
「ふむ、従順な奴隷を気取るか……」
そう言うとナザレックは俺の顔と同じ位の大きな両掌を開くと、頭を左右から掴み上を向かせた。
「そうじゃない、世界という言葉を聞いた瞬間、明らかにおまえの目は変わった。もう一度聞くぞ、おまえは世界が見たいか?」
水平線の向こうには沈みかける夕陽が見えた。
港を歩いていると、特訓の為に通っていたアルバイト先の船が見える。
完全に日が沈んでしまったら荷物の積み込み作業もできなくなるので、皆急いで今日の予定分を終わらせようとあくせく働いていた。
忙しそうなのでそのまま帰ろうとすると、船の上から呼ぶ声が聞こえる。
「おーいロイム! 暇なら手伝ってくれえ、給料ははずむからよおっ!」
俺の姿を見つけたお頭が、少しでも働き手を増やそうと声を掛けて来たのだ。
どうしようか迷ったのだが、バンディーニが俺の方をみて微笑する。
「行って来たらどうだい? 私も少し港を回ってから帰ることにするよ」
俺はしょうがねえなといった感じでお頭に手を振ると大声で言う。
「しょうがねえなっ! いつもの倍貰うぜっ!」
「だったらいつもの3倍働けよっ!」
笑いながら駆け出すと、港の仲間達が笑いながら声を掛けて来るのであった。
海を渡り世界中の強者達と試合をする。世界各国には、ここと同じような拳闘試合をしている、いや或いはここよりももっと高度な試合をしている場所もあるのだと言うのだ。
ナザレックは、俺とエドガーの試合を観戦して確信したらしい。
俺とバンディーニのタッグなら、他大陸の猛者たち相手でも必ずや勝ち上がることができると。
そしてそれは、俺とバンディーニにとってはとても魅力的な話であった。
正直俺は、ナザレックから話を聞かされている間、ずっと胸の奥から湧き上がるなんだか得体のしれない感情を抑えるのに必死だった。
たぶんこれは、ドキドキ感と言うか、ワクワク感というか。
日本でのタイトル戦しか知らない俺が、いや、それですら中途半端に終わってしまった俺が、世界の舞台を踏むことができるということに、おそらく俺は喜んでいたんだと思う。
そしてそれと同時に湧き上がる罪悪感。
ロゼッタ。
俺とバンディーニの目指すボクシングの為に、一緒になって戦ってくれたロゼッタのことを、結果的に裏切ることになってしまったこと。
ロゼッタの元を去らなければならないことに……。
続く。