79話 思いを分かつもの
エドガーとの試合から一週間が経った。
あれから体調に特に変わりはなかったので、そろそろ練習を再開してもいいとバンディーニから許可が出たその日。拳闘士の練習場に顔を出すと妙に騒がしいことに俺は気が付いた。
また誰かが喧嘩でもしているのかと思い、ダラダラと練習場の中央に行って俺は驚く。
拳闘士候補生がスパーリングを行っているのだが、なんとその相手がエドガーだったからだ。
当然あの日の試合はこいつらも見に来ていた。
エドガーの実力は知っている筈なのだが、俺が試合に勝ったのを見て自分もいけるだろうと喧嘩を吹っ掛けたのだろう。
案の定返り討ちにあった候補生は、エドガーのフリッカージャブを攻略することができず。何も出来ないまま伸びてしまうのであった。
なにをやっているんだと思いながら、拳闘士や候補生達の輪を掻き分けて行くと、エドガーが俺に気が付き手を振り上げる。
「お、やっとお出ましか! リベンジに来たぜ!」
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。いいから来い」
爽やかな笑顔でそう言うエドガーの首根っこを掴んで、俺は練習場を出て行くのであった。
今、エドガーは、俺とバンディーニの二人に呆れ顔で見られて気まずそうにしている。
「いやあ、誰に聞けばいいかわからなくて練習場まで行っちまったら、試合を持ちかけられたもんだからついな」
「つい、じゃねえよ。おまえ貴族だろ。貴族が、つい、で拳奴の練習場に顔出して殴り倒して行くなよ」
貴族の子息が奴隷に説教を喰らうこの場面自体がおかしなことなんだがな。
そんな感じで一頻り説教が終わると、何をしに来たのかと尋ねた。
「なにをって、おまえの容体が気になってて、貴族であるこの俺がわざわざ来てやったんだろうが」
「そいつはわざわざご苦労さん」
俺の返しにエドガーは苦い顔をするのだが、冗談はさておきと真面目な顔で話し始める。
「俺とおまえの試合、結構な問題になっていてな」
「問題? なんで?」
「貴族と奴隷が拳闘試合をして、しかも奴隷が貴族に勝っちまったんだ。これが世間にどんな影響を与えるかわかるか?」
エドガーの質問の答えがわからずに首を傾げていると、バンディーニが神妙な面持ちで答える。
「奴隷の反発を誘発しかねない……ってことかな」
その言葉にエドガーもいつになく真剣な表情で頷く。
つまりこういうことだ。
奴隷階級の俺が、拳闘試合ではあったにしろ貴族のエドガーに勝ったことが、奴隷による主人への反乱を彷彿とさせると言うのだ。
実際に俺の勝利は奴隷拳闘士のみならず、他の労働奴隷達にかなりの影響を与えているらしい。
奴隷であっても支配階級に一矢報いることができると、俺のやったことが奴隷達に勇気を与える英雄的扱いにさえなりかねないと。
「なんだよそれ、俺達は正々堂々と、決められたルールの中で試合をしただけじゃねえか」
「俺達の間ではそうでも、外野にとっては“奴隷が貴族を倒した”この事実だけが重要ってことだ」
顔を顰めながらエドガーは髪を掻き上げる。
普段はニヤニヤと余裕の表情をしてみせているこいつがこれだ。今回の件は結構本気でやばいことになっているのかもしれない。
「ロゼッタも、かなり厳しい立場にある」
エドガーの言葉に俺は、ああなるほどと思う。
こいつの、一番の目的はロゼッタだったんだな。なにが俺のことが気になってだよ。まあ別にどうでもいいけど。
「だったらおまえがなんとか口添えしてやれよ婚約者なんだろ」
「おまえまだそんなこと言ってるのかよ。はあ……まったく、呆れたぜ」
左手を額に当てながら天を仰ぐエドガーは急に立ち上がって、右拳で俺の顔面を殴りつけてきた。
突然のことであった為、俺は避けることもできず、丸椅子に座っていたのでそのまま後ろに転がる。
「なにすんだてめえっ! 喧嘩売りにきたのかよっ!」
「ああそうだぜ、今のてめえの態度でそんな気分になったぜ俺は!」
「ああっ? ふざけんじゃねえぞこのやろうっ!」
俺は立ち上がるとエドガーに殴り掛かる。
エドガーは俺の右ストレートを躱すと、得意の“右フリッカー”で応戦。そういやこいつサウスポーだったな。
狭い部屋の中で、ロイム対エドガーのエクストララウンドが始まろうとしたその時、バンディーニが大声を上げた。
「いい加減にしろおまえらっ! それ以上続けるなら私が相手になるぞ!」
そう言ってファイティングポーズを取るバンディーニ。
俺とエドガーは一瞬呆けるのだが、見つめ合うとニヤリと笑う。
「引退したおっさんが現役選手を相手にすんのか? 舐めんなよ?」
「いいから掛かって来いロイム。君はいい加減私のことを甘く見過ぎだ。ここらで再教育が必要だね」
その言葉が皮切り、三人一斉に殴り合いを始めるのであった。
「くっそぉ……、折角腫れが引いたのにまた顔面がボコボコじゃねえか」
「ははっ、まったくだ。男前が台無しだぜ」
俺とエドガーは息も絶え絶え、部屋の真ん中で大の字になりながら笑う。
バンディーニはと言うと、どっちの拳をもらったかはわからないが、早々にノックアウトされて部屋の隅で伸びていた。
しばらくすると俺達は黙り込み、二人の荒い息づかいだけが響く。そして落ち着いてくると部屋は静寂に包まれた。
「ロイム……」
「なんだよ?」
「俺は、ロゼッタに正式にプロポーズするつもりだ」
「……」
重く静かに、真剣な声色でエドガーが告げる。
「ロゼッタの気持ちがどうであれ、身分がある以上、おまえとロゼッタが結ばれることはない」
そう、それが現実だ。ずっと前からわかっていたこと。
エドガーがようやく口にしてくれたその事実にずっと目を背けていただけなのかもしれない。
続く。