第4話 iron gate
森に生えている木は、どれも神社でご神木にでもなっていそうな大木だった。
個々の木のテリトリーは広く、一本一本が何メートルもの間隔を開けて立っている。
足下に草は短くしか生えておらず、総じて森にしては開放的で歩きやすい場所だった。
それに明るい。
道中の、鬱蒼としていた山道とは大違いだ。
それでも真上を見ると、木々は途方もなく高く伸びていて、空の代わりに青葉が敷き詰められていた。
明るいのは、その木々に絡みつくようにして無数の光るウツボカズラのようなものが生えているからだった。
ウツボカズラたちは蔓でつながっていたが、木のみならず地面にも這うようにして至る所に蔓が伸びているから、どこが根元なのか見当もつかない。
それだけ野放図に光るウツボカズラが生えているので、それ自体を見つけることは容易だった。
まるで模様のパターンのように、どこを見ても光るウツボカズラは存在していた。
だけどそんなに無数にあるものから、とびきりの一つを選ぶというのも骨が折れそうだった。
悠介は屈んで、足下にあったウツボカズラのようなものを手に取り、
「どれも綺麗なんだけどな」
と言った。
私も同感だったけれど、どれも綺麗だと言ってそれぞれの個体の特徴を見極めようとしないのは不誠実にあたりそうだった。
千代子さんは相性のことを言っていたけれど、私は光るウツボカズラたちに囲まれてみて、むしろこの植物たちに対する礼節が求められているように感じた。
永遠の命をもらうための儀式として、真摯に探し求める行為が必要なのだろう。
「もっと真面目に探そうよ」
と私は言った。
「そうは言ってもな。不老不死になんて、なりたいか?」
悠介は手に取ったウツボカズラのようなものを軽く横に振った。
中身の液体が揺れて、悠介の靴や足下の草がちらちらと照らされる。
私もなりたいと思ってないけれど、
「いいじゃん。死なずに済むなんて、ラッキーだよ。普通の人だったら、どんなに死にたくないって思っていても死んじゃうんだよ」
と言ってみた。
そうしたら、私が小学生の頃に死んでしまったおじいちゃんやおばあちゃんも、死にたくないと思っていたんだろうか、とふと疑問になった。
人は死にたくないと思いながら死ぬのだろうか。
それともどこかで死からは逃れられないと諦められるのだろうか。
諦めたつもりでも、死ぬ直前になってやっぱり怖くなったりするかもしれない。
「その代わり、死にたいと思っても死ねないんだぞ? 死んだら、苦しみや悩みから解放されるかもしれないけど、死ねないんなら永遠に苦しみ続けるってことだ。詠子はそれでいいのか?」
「それでも生きることには価値があると思う」
私は、床に伏せって死の淵にいる未来の老いぼれた自分の醜い姿を脳裏に描いていた。
どうか神様、私だけは死なない体にしてください。
私以外の人はどうなってもいいから、どうか私だけは生き続けさせてくれませんか。
そんなふうに命乞いをしている、死の恐怖に怯えた自分の姿を想像してみると、本当に将来自分がそんな祈りをしてしまうのではないかと恐ろしくなる。
おじいちゃんやおばあちゃんも、そうしていたかもしれない。
あるいは、今までこの世界で亡くなった数え切れない人たちの中には、そんな身勝手な願望を切実に唱えながら力尽きていった人が何万人もいるのではないか。
そんな醜い振る舞いが人生のラストシーンになってしまうなんて、世界の仕組みそのものが私たちの尊厳を傷付けているに等しい。
永遠に生き続けるのであれば、たとえ今日醜い姿を晒してしまっても、明日は立ち直って華麗に振る舞える。
再起の可能性を果てしなく持ち続けられる。
「特に悠介は、生きる価値があると思う」
「俺? どうして?」
「悠介なら、たとえ永遠に生きることが辛くなっても、全然平気だぜって百点満点の笑顔で言えそうだから」
「よくわからない喩えだな」
悠介は白い歯を見せて苦笑いした。
その苦笑は、私の思った百点満点の笑顔に結構近かった。
八十八点といったところか。
困った眉の真下には、とても前向きな眼差しがあった。
彼の笑顔につられて、私まで同じような表情ができそうだと思わせてくれる。
「悠介なら、みんなが羨むような笑顔で生きていけるよ」
「そんなことできるか?」
「できるよ」
悠介はいじっていた光るウツボカズラから手を離して、立ち上がった。
そうかね、と呟いてそこら中に生えている光るウツボカズラを見渡す。
その一つ一つを見て、彼は運命の個体を探す。
ゆっくりと首を動かしていった最後に私を見て、
「めちゃくちゃ褒めてくれるのに、どうしてさっき、付き合ってないなんて言ったんだ?」
と聞いてきた。
「そんなの」
悠介が本当に好きなのは紗季だからに決まってるじゃん。
とストレートに言ってしまっていいものかどうか。
私が振るのではなくて、悠介から紗季の方へと向かってほしい。
どう遠回しに言おうかなって考えていたら、私たちのものではない甲高い声が少し離れた木の辺りからした。
「オマエハオレノセカイノスベテダー」
目を同じ大きさに丸くした私と悠介は、間違いなく同じことを思っていた。
声は、聞き覚えのあるインコの声だった。
紗季の飼っていた、キイロくんだ。
声のした方を、悠介が指差す。
私は頷く。
音を立てたくないから走らずに、だけど焦った足取りで声のした木に近付いてみると、悠介の頭よりも少し高い位置に生えた光るウツボカズラの上に、キイロくんが乗っかっていた。
「お前、こんな所に来ていたのか。どうりで探しても見つからないわけだ」
悠介が手を差し伸べると、キイロくんはその手のひらの上にひらりと移った。
「良かった。俺はずっとお前のことを、紗季のところに戻してやりたかったんだ。探してたんだ」
悠介は人差し指でキイロくんの頭を撫でる。
キイロくんは凄く大人しくしていて、悠介の手のひらから逃げる気配はなかった。
その紗季のインコを悠介は大切そうに手で包んだ。
そして悠介は言った。
「俺、紗季のことが世界で一番好きだ」
私はその言葉をずっと待っていた。
やっと悠介は愛を取り戻せた。
「そうだよ、悠介は紗季のことが好きなんだよ」
と私は言ってあげた。
でも言い切る前に涙があふれ出てきた。
嬉しくてたまらなかった。
「もっと早く気付いてよ」
泣きながら文句を言うと、悠介は困ったように笑う。
「すまなかった。これからは紗季のことを誰よりも大切にする」
とても優しくて真摯な声で、その言葉は信じられると感じた。
きっと悠介ならそれができる。
いつまでも心変わりせずに紗季のことを愛し続けられるはずだ。
一番の願いが叶って、私は満足してしまった。
永遠の命はいらないと言われれば、私はうんと頷くしかなかった。
「だって紗季を置いて死なない命になってもつまらないもんな」
悠介は百点満点の笑顔を私に見せ、さらに目尻から喜びの涙を垂らした。
私たちは光るウツボカズラを取らないで、千代子さんのところに戻った。
「結構早かったわね。二人とも、見つかった?」
「いえ。代わりにこいつが」
悠介はキイロくんを千代子さんに見せた。
「このインコ、俺の一番好きな人のインコなんです。でも俺が逃がしてしまって。きっと俺たちが今日ここに来たのは、この子を見つけるためだったんです」
そういうことだったの、と千代子さんは納得して深く頷いた。
そしてキイロくんと悠介の双方を慈しむ優しい顔をして、キイロくんが見つかったことを祝福してくれた。
「でもいいの? ついでに不老不死になってもいいのよ」
「このインコの飼い主、彼女を差し置いて不老不死にはなれません。また今度、彼女と一緒に来た時にでも」
「残念だけど二度目はないわ」
千代子さんは、私たちがこの場所には二度と来れないことを、穏やかな幸福の雰囲気を一切崩すことなく優しい声色で告げた。
「ここは永遠を心から願う人だけがたどり着く場所。永遠の命を手にする機会を目の前にしておきながら、それでも手を伸ばさなかった人は、二度とこの場所への道を開くことができないの」
「それならそれで構いません」
悠介は迷うことなく、晴れやかな顔をして答えた。
その表情を見て、千代子さんも満足げな顔をした。
「その子のことをとても大事に思っているのね。きっとあなたなら、永遠の命がなくたって素敵な人生を送れるわ」
「ありがとうございます」
千代子さんは、光るウツボカズラを一つ持たせてくれた。
町に戻れば輝きも不死の力も失われてしまうけど、帰り道を少しは明るくしてくれるからと言うので、私はそれを受け取って、悠介の前を歩いた。
階段を降り、山道を戻り、木の股から垣根をハイハイしてくぐり抜ける。
光るウツボカズラは薄暗い道のりをさほど照らしはしなかった。
だけど私のすぐ傍に光は存在していて、それだけで意味もなく私は元気付けられた。
生け垣の四角い穴から出ると、紗季がぐったりと体を曲げて立っていた。
どこかに寄りかかるのも気が引けて、仕方なしにずっと立っていた様子だった。
「遅いよ、なにしてたの」
と紗季は言った。
結構な時間が経っていたようで、もう空が暮れていた。
それなのに帰ってなかったのか、と私は可笑しくなった。
「ずっと待ってたの?」
「そうだよ。悪い?」
「いや、悪くない。むしろ良かったよ」
私は大股で横にずれ、紗季の正面に悠介を立たせてやる。
悠介は、あの森で見つけたキイロくんを紗季に見せた。
「あの時は逃がしてしまって、本当にごめん」
紗季は悠介の手に乗っているキイロくんに顔を近付けた。
キスしそうなくらいの距離で紗季はキイロくんを見つめる。
キイロくんは小刻みにあちこちへ体を動かして、元気があることをアピールしていた。
その様子にほっとした紗季は顔を引き、
「見つけてくれたんだ?」
と嬉しそうな顔をして悠介に言った。
「ずっと探してたんだ。紗季と一緒にいられる日を取り戻したくて。もし良ければ、また俺と付き合ってくれませんか?」
悠介はキイロくんを乗せた両手を紗季に差し出した。
キイロくんも、逃げ出したというのが信じられないくらい、大人しくしていた。
悠介の手の内に留まって、紗季が受け取るのを待っている。
紗季は私の方を向いた。
今悠介と付き合っているのは私で、その私に許可を求めるように、目を合わせてきた。
だけど私は、悠介は紗季のものだとずっと思ってきたのだ。
許可もなにもない。
私の手元のウツボカズラはもう光っていないどころか、僅かな時間のうちにくしゃくしゃにしなびていた。
それを握り締め、私は紗季に頷いた。
そして悠介と紗季は元通りの関係になった。
私は最初から考えていたとおり、二人の邪魔をしないように距離を置いた。
だからその後の二人のことについては、よく知らない。
私が知っている数少ないことの一つが、キイロくんのことだ。
あの森にいたキイロくんだったけれど、チャイロさんのように不老不死にはなっていなかった。
私たちが高校を卒業する前にキイロくんは死んでしまったのだ。
キイロくんは紗季の家の庭に埋葬されることになって、その時に私は紗季の家に招かれた。
悠介が私にも来るように言ってきたのだ。
そういうことがあったので、たぶんあの二人は不老不死になろうとは考えていないのだろうと思う。
千代子さんのいたあの不思議な場所を探してさえいないのだろう。
二人はいつも楽しそうに笑っていて、悠介の気持ちの良い笑顔が紗季にも移っていた。
遠目に見ていても素敵なカップルだった。
そして人づてに二人の恋路が順調に進んでいることを聞くこともあった。
永遠の命が手に入らなくて、いつかは死んでしまうとしても、悪くない生き方はいくらでもできるものだ。
悠介と紗季とあの不思議な体験から、私はそんな人生の希望を教えてもらった。
でも、それはそれとして、私の不思議な物語にはまだ続きがある。
私が二十五歳の時の夏、海水浴場で私は千代子さんと再会したのだった。