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第二章 大商人と二人の王子

 ソンペスの大通りを、フィオと二人で歩く。本物のリュンタルの街を歩くのは、これが初めてだ。
 街並みは仮想世界とほぼ同じだけど、人々は違う。
 僕たちのような旅人もわずかにいるけど、ほとんどはここで生活している人たちだ。そういう人たちを見ると、本物のリュンタルにいるんだという実感が増すと同時に、戸惑いも感じる。
 今の僕は旅人としてソンペスに来たことになっているから、この街のどこに何があるか、知っていても言わないほうがいいだろう。どうして知っているのかとフィオに問い詰められても、答えに困るし。
 フィオは大通りから一つ外れた、人通りの少ない道へ進んだ。ここに道があること自体はうっすらと知っていたけど、実際に通ったことはない。初めて通る道だ。うっかり知っていることを言ってしまうようなことは、どうやらなさそうだ。
 しばらくそのまま歩いていると、
「ここにしよう」
 小さな宿屋の前で、フィオは止まった。
 だいぶ古そうな宿屋だ。歴史や伝統など感じることのない、ただ古いだけの宿屋。
「どうした? 入るぞ」
「う、うん」
 フィオに促されて、宿屋の中に入る。外見同様、中も古い。というかボロい。宿屋というと一階が酒場になっているイメージがあるけど、それもない。
「おや、お客さんかい」
 奥で掃除をしていた老婆が、ほうきを置いてこちらへ来た。
「二人だ。部屋はあるか?」
「全部空いているよ」
 やっぱり、こんな宿屋に泊まる人なんていないんだ。
「ベッドはいくつだい?」
「ベッド?」
 僕はフィオと顔を見合わせた。
「一つの部屋も、二つの部屋もあるけど」
「ふ、二つで!」
 僕はフィオを押しのけて言った。つい力んでしまい、声が大きくなってしまった。
「いや待てリッキ。私は一つでも構わんぞ」
「なんでだよ!」
 フィオは僕を抑えて、老婆に訊く。
「ちなみに、料金は違うのか? やはり一つのほうが安いのか?」
「そうだねえ、ちっとばかり安いねえ」
「ならば一つだ!」
「フィオ!」
「心配するな。ベッドは君が使え。私はなくてもいい」
「そんなことできないって! フィオのお金でここに泊まるんだ。それなのにフィオがベッドを使わないなんておかしいだろ」
「そうだ。私の金でここに泊まるんだ。だからリッキは私の言うことを聞け」
「うっ……」
 そう言われると、反論ができない。
 僕は渋々、ベッドが一つの部屋を受け入れた。
「心配せんでも、ちゃんと二人寝られる大きさだから」
 老婆はそう言うけど、もちろんそういう問題ではない。

 部屋は全部空いていて、一階に酒場もないというのに、部屋は二階だ。
 部屋に入り、二人並んでベッドに腰を下ろした。木製の椅子とテーブルが粗末すぎて、そこに座りたいと思えなかったからだ。ベッドも古いものだけど木の椅子と比べればクッションが効いているし、ゆったりと座れる。
「僕が言うのもなんだけどさ、フィオ、あんまりお金ないでしょ」
「…………………………………………すまぬ」
 フィオは顔を真っ赤にしてうつむいた。
 なんとなく言っただけだったんだけど、まずかったかな。
「君にあんなことを言っておきながら、本当は私は貧しいのだ。つい現実が見えず、先走ったことを口にしてしまう。私の悪い癖だ。そのせいで、こんな粗末な宿に君を泊めることになってしまった。すまぬ」
「そんなに謝ることじゃないって。僕はフィオに感謝しているよ」
「そうか。そう言ってくれると助かる」
 フィオはまだ顔を上げない。
「大丈夫だって。明日からは僕もなんとかするよ。何かこう……小さな仕事を見つけるとか、とにかくなんとかするから」
「そうはいかない。君の世話になることなどできない」
 フィオはまだうつむいたままだ。
「こんなことでは、いつまでたってもレイアンツェレ様の足元にも及ばない。私では無理なのだろうか。レイアンツェレ様のようには、なれないのだろうか」
「えっと……誰? その人」
「レイアンツェレ様か?」
 フィオはやっと顔を上げた。
「レイアンツェレ様は、私の生まれ故郷の村で語り継がれている伝説の剣士だ。私はレイアンツェレ様に憧れて剣士になったのだ」
「へー、そういう人がいるんだね。フィオが憧れるくらいなんだから、きっとすごい剣士なんだろうね」
「ああ、レイアンツェレ様を超える剣士など想像できない。それほどまでに強く、気高く、そして立派なお方なのだ」
 フィオの顔が明るくなった。元気が戻ってきたのを感じる。
「私の故郷はディポーケという村なのだが、まだリュンタルに魔族がはびこっていた頃、ディポーケを救ったのがレイアンツェレ様なのだ。村人たちが魔族の侵攻に怯えながら細々と生きていた時、レイアンツェレ様だけは勇敢に魔族と戦っていた。逆に言えば、他の村人は何もせず、レイアンツェレ様に戦いを押し付けていたのだ。しかし、これではいけないと思った村人の中から、剣を手に取って戦う者が現れ出した。ついには村人全員がレイアンツェレ様のもとで戦い、そして魔族に勝つことができたのだ」
 またフィオが突っ走り気味になってきた。でも、さっきまでのうなだれていたフィオより、故郷の英雄を熱っぽく語るフィオのほうが、断然フィオらしい。
「ただ、長い間魔族と戦ってきたレイアンツェレ様の体は、もうボロボロになってしまっていたのだ。その後、村人たちは国を興すのだが、その頃にはもうレイアンツェレ様は永い眠りにつかれていたそうだ。皆は過去を反省し、他人に頼ることなく自らが強くなり人々を守るのだ、という思いを強く持つようになった。国は時代とともに大きくなり、そして廃れ、また小さい村に戻ってしまったが、それでもレイアンツェレ様の精神は今も受け継がれている。もちろん、私もそれを受け継いだ一人だ」
「そんな立派な人がいたんだね。でもフィオだったら、きっとその人にようになれるんじゃないかな」
「軽々しく言わないでくれ。想像してみてほしい。私と同じ十七歳の女性が、たった一人で魔族と戦っていたんだぞ。しかも体は私よりだいぶ小さかったというのに」
 フィオは十七歳だったのか。僕より一つ年上だ。
「私が旅に出たのは、このままでは一生レイアンツェレ様に追いつけないと思ったからだ。でもそう簡単ではないな。なかなか強くはなれないし、それに金もない。修行の旅どころか、ただ貧乏旅をしているだけだ」
「そんなことないって。僕を助けてくれたじゃないか。たぶん、僕よりは強いんじゃない? だって僕はあの魔獣の群れに立ち向かって行けなかった」
「私だってあれだけ魔獣がいるとわかっていれば戦おうとしなかっただろう。それに、リッキだって一緒に戦ったじゃないか」
「じゃあ……同じくらいかな。強さは」
「うむ。そういうことにしておこうか。君は頼りなさそうに見えて、意外と腕が立つ」
 頼りなさそうに見えるのかな。でも実際、僕ができることなんてそんなにない。
 お互いわずかにほほえんで、少しの間ができる。
 その時、ぐうぅぅ~、と音が鳴った。
「いや、あの、その、違う」
 フィオが顔を赤くして、広げた両手を振って否定している。
 音の出どころは、フィオのおなかだ。
「そういえばおなか空いたね。昼ごはん、食べてなかったからね」
 食べ物は持っているけど、フィオに怪しまれないように取り出さなきゃ……。
「ちょっと待ってて」
 僕は部屋を出て、さらに一階に下りた。そして宿屋の老婆がこちらを見ていないことを確認し、ウィンドウを開いた。

「どこへ行っていたのだ……ど、どうしたのだそれは」
 部屋に戻った僕を見て、フィオは驚いている。
「うん、ちょっとその辺の木になっていたのを取ってきたんだ。今食べるぶんと、夜のぶん」
 僕はりんごに似た果物のクムズムを四個、両手に持って部屋に戻って来ていた。
「クムズムの木なんて、近くにあったか? それに、今は時期が」
「いいから、ほら、食べようよ」
 細かいことを訊かれてしまうと答えにくい。考える間を与えないように、すぐにクムズムを渡した。
 りんごに似たクムズムの実にかじりつく。おなかが空いている時に食べるのは、食べ慣れた物であってもおいしく感じる。
「まさか、盗んできたのではないだろうな」
「違うって! 本当に木から取ってきたんだって!」
「……まあ、リッキはそんな大胆なことをするようなやつには見えないしな」
 そう言って、フィオもクムズムにかぶりついた。
「ところで、フィオは本当に僕と一緒に旅をするの? 行き先は決まっていないの?」
「心配するな。特に目的地は決めていない。君の問題が解決するまで、必ずついて行く」
「じゃあ、明日は南にあるズーリョに行こうよ。大きい街だし、人の出入りもたくさんあるからさ。きっと情報が集まりやすいと思うんだ」
「そういうことならそれがよさそうだな。私はその街のことをよく知らないのだが、リッキは行ったことはあるのか? 知っているような話し方だったが」
「え、う、うん、ちょっとね」
 危ない。知識のさじ加減が難しい。
 あまり詳しいと変に思われるし、逆に何も知らないフリをしても変に思われる。
 フィオは小さな村の出身だと言っていたし、旅をしているとはいえまだまだ知らないことも多そうだ。何かあったら、そこを利用してごまかすしかない。
 本当は、ズーリョに行く理由はフィオに言ったことじゃない。ソンペスの南にある街だからだ。ピレックルはリュンタルの南側にあるから、行く方向が合っているというだけだ。大きい街だから情報が得られるかもしれないし、お金になるようなことがあるかもしれないけど、それはあくまでもついでにすぎない。

 夜になるまで、もう少し時間がある。
 フィオは暗くなる前に街を散策しようと提案してきたんだけど、疲れているからと断った。「ゆっくり休め」と言って、フィオは部屋を出ていった。

 ボロボロの上着を脱ぎ、ベッドに仰向けになった。くすんだ天井をぼんやりと見ながら、今日の出来事を振り返る。
 スバンシュは、僕のことを知っていた。
 どうして、知っているんだ。
 何度か来たことを知っている、と言っていた。つまり、初めてリュンタルに来た時のことだけではなく、ヴィッドの時のことも、シュニーの時のことも、スバンシュは把握しているということだ。
『リュンタル・ワールド』でバグが発生して本物のリュンタルにつながる仕組みははっきりしないけど、その先に困った人がいるというのは確かだ。スバンシュもそのことはわかっていて、自作自演でその状況を作り上げて、僕たちを本物のリュンタルに呼び込んだんだ。
 スバンシュの誘導で何度か僕一人になってしまう場面はあったけど、最終的には仲間のおかげで解決して、元の世界へ帰ることになった。
 そして、これが――。
 右手首に巻かれた、白い毛糸で編んだブレスレットを見つめる。
 スバンシュがとった、最後の手段。
 いや、もしかしたら、それまでのことすべてが、このための前フリだったのかもしれない。
 僕は見事にスバンシュの罠にかかってしまった。
 僕だけが、この世界に取り残されてしまった。

 どうしてスバンシュは、そんなに僕が欲しいのか。
 それは、“別の世界”に興味を持っているからだ。
 ただ知りたいだけなのだろうか。それとも世界を渡ろうとしているのだろうか。
 そして……、お父さんに、関わろうとしているのだろうか。

 思い出さずにはいられない人物が、一人いる。
 エマルーリだ。
 バグをきっかけに『リュンタル・ワールド』に侵入し、お父さんを本物のリュンタルへ連れ帰ろうとした狂科学者(マッドサイエンティスト)、エマルーリ。
 見た目はぜんぜん違うけど、“別の世界”の人間に関わろうとしていること、そしてなんと言っても狂気じみた性格が、エマルーリに似ている。
 スバンシュとエマルーリは、何かつながりがあるのだろうか。
 エマルーリは若い頃のお父さんと会ったことがあったけど、スバンシュもそうなのだろうか。

 考えがまとまらない。
 お父さんがこの世界へ来た時は楽しい一年間を過ごしたようだったけど、僕はどうなるのかな。
 いつまでこの世界にいることになるのかな。いつになったら、またみんなに会えるのかな。
 ひょっとして、もう会えないのかな…………。

   ◇ ◇ ◇

「あ、起きたか?」
 粗末な椅子に座っているフィオが、クムズムをかじりながら僕に声をかけた。
 窓の外はもう暗い。ベッドの枕元にあったはずの魔石灯が、テーブルの上から青白い光を放っている。いつの間にか眠ってしまっていた僕が眩しくないように、フィオが気を使って移動させてくれたようだ。
「ごめん、つい眠ってしまった」
 ベッドから下り、椅子に座る。
「いいじゃないか別に。疲れていたんだろ?」
「だって、ベッドはフィオが使うべきだ」
「最初に言ったじゃないか。リッキ、君がベッドで寝るのだ。私は床でいい」
「そうはいかないって。フィオがベッドで寝てよ。僕はもうこのベッドで寝たから、次はフィオの番だ」
 テーブルの上の魔石灯を、枕元に戻した。フィオがこの場所を使ってくれ、という意思表示だ。
「フィオがお金を出しているんだから、このベッドはフィオのベッドだって」
「その金を出している私が決めたのだから、リッキは私の言うことを聞くんだ」
「フィオを床で寝かすなんてできないって!」
「私がいいと言っているんだからいいんだ!」
 全く話が終わりそうにない。
 こうなったらもう、これしかない。
「じゃあ、二人で寝よう」
「ふっ、二人で、だと?」
 フィオは裏返り気味な声を上げながら立ち上がった。
「だってこれ、二人用のベッドだろ? 僕もフィオもベッドで寝る。これでいいだろ」
「いや、しかし、リッキ」
 僕はベッドに上がり、半分開けて横になった。
「ほら、ここ!」
 隣の空いたスペースを、手のひらでバンバンと叩く。
「しかし、その、それは」
 フィオは立ったまま動かない。
「その、つ、つかぬことを訊くが、リッキは、その、女と二人で一緒に寝たことはあるのか」
「あるけど」
「あ、あるのか!」
 一応、間違いではない。洞窟の中でフレアと一枚の毛布にくるまって寝たこともあるし、智保がログイン中の僕が寝ているベッドにもぐり込んできたことだってある。
「し、しかし」
「ほら、早く!」
「…………」
「わかった。フィオは僕を助けるって言っておきながら、本当は僕が嫌いなんだ。そばにいたくないんだ。だから一緒に寝たくないんだ」
 少し芝居がかった言い方で、フィオにプレッシャーをかける。
「そ、そんなことはない!」
「だったら一緒に寝てもいいだろ。 ほら、来て!」
 さらに激しくベッドを叩いて促す。
「……………………う、うむ」
 ぎこちない動きで上着を脱ぎ、フィオは僕の隣で横になった。
 僕は毛布を掛け、魔石灯を消した。

 あんなに言い争っていたのが嘘のように、静寂が訪れた。
 隣のフィオは、僕とは反対側に顔を向けている。
 これからずっと、夜になるたびにこんな言い争いをしなければならないのかな。
 一緒に寝るのはいいとして、喧嘩はしたくないな……。
 すう、と寝息が聞こえてきた。
 フィオはもう眠ってしまったみたいだ。
 僕はさっきまで眠っていたから、今はあんまり眠くない。でも明日から旅が続くし、できるだけ疲れが取れるように、眠るようにしよう……。

   ◇ ◇ ◇

 ん……。
 なんか、息苦しいな……。

 目を開ける。
 飛び込んできた朝の光が、僕の意識を少しずつはっきりさせていく。
 くすんだ天井。
 そうか、ここは僕の部屋じゃない。リュンタルだ。
 僕は、フィオと一緒にこの部屋に泊まって、一つのベッドで寝て……。
「んうぅぅ~~ん」
 ものすごく近いところから、なまめかしい声。
 掛けられていたはずの毛布はベッドの下に落ち、代わりにフィオが僕の体に覆いかぶさっている。
 どうしよう。
 とりあえず、フィオが起きるまで、動かないほうがよさそうだ。
 なるべく早く起きてほしいけど……。とりあえず待つしかないか。今後の予定でも考えよう。まず、宿を出てズーリョへ向かう。歩いてどのくらいかかるのかな。『リュンタル・ワールド』では『(ゲート)』でしか移動しないから、実際の距離感覚がよくわからない。たぶん、今日中には着くだろう。ということは、ピレックルまではどのくらいかかるんだろう。一ヶ月、いや二ヶ月かかってもおかしくないな――。
「うぅん…………んっ?」
 フィオが目を覚ました。
 超至近距離で、目が合う。フィオの吐く息が、かすかに僕の顔に当たった。
 二度、三度と、フィオが瞬きをする。
「おはよう、フィ――」
「のわああああああぁああああああぁぁあああぁっ!」
 フィオは超高速で体をのけぞらせながら、さっきまでのなまめかしい声や吐息からは信じられないような絶叫を、部屋に響かせた。
「な、何をしている!」
「何って、何もしてないけど。動けなかったし」
 フィオは上半身を起こしただけで、下半身はまだ僕の上に跨っている。周囲を見回し、そしてベッドの上を見た。現状を理解したようだ。
 途端に、フィオの顔が赤く染まる。
「す、すまぬ。私としたことが」
 ベッドから飛び降り、畳んであった上着を着た。
 僕も起きて、上着を着た。ボロボロだからあまり着たくないんだけど、荷物にすると手が塞がるし、かといってフィオの前でウィンドウにしまう訳にもいかないし、着ているしかない。
「さあ、行くぞ、リッキ」
「うん」
 僕たちは安宿を後にし、ズーリョに向かって歩き出した。

   ◇ ◇ ◇

 街道沿いの木の実を食べて空腹や喉の渇きを満たしながら、南へ歩く。
 夕方になって、ズーリョに着くことができた。
 大規模な商業都市だ。この街を中心として伸びる街道が、ソンペスなど周辺の中小の街へとつながっている。
 この街のことは知っている。『リュンタル・ワールド』で行ったことがあるし、お父さんが旅の途中でこの街に立ち寄った時の話を聞いたこともある。面白いエピソードだったから、特に記憶に残っている。
 とても活気がある街だ。
 五階ぐらいある石造りの建物が、大通りを挟む巨大な壁のように並んでいる。それらの建物はすべて店だ。実際には下の階が店になっていて、上の階は事務所や店員が住む部屋になっている。大通り沿いは店員を雇っている大きな店ばかりだけど、少し外れた道を歩けば、個人経営の店も多く見られるはずだ。
 いくら店がたくさんあったとしても、今の僕にはお金がない。まずはお金のことを考えなきゃ。お父さんはどうやってお金を稼いでいたんだろう。賞金稼ぎのようなことをやっていたのだろうか。それともフォスミロスがお金を出してくれていたのだろうか。
 少なくとも、フィオはそんなにお金を持っていない。僕のぶんは僕自身で稼ぐしかない。
 クエストのようなものはあるのだろうか。もしクエストがゲーム要素なのではなく本物のリュンタルにもあるのなら、それを利用したいけど……。
「ずいぶんと賑やかな街だな」
「そうだね、話には聞いていたけど、実際に来てみると想像よりもっと賑やかだよ。……それにしても何か変だな? 賑やかと言うより、騒々しいような……」
「おい、リッキ、なんだあれは?」
 ちょうど十字路を渡ろうとした時だった。フィオが右を指差す。その先からは馬車がこちらに向かって来ていた。
 その馬車が、普通じゃなかった。
 馬車とは思えない猛スピード。そして御者がいない。コントロールを失った、暴走馬車だ。
 近づいてくるにつれ、さらに様子がわかってきた。馬車を引く馬は漆黒の体をしていて、頭には二本の角。横腹からは小さな翼が生えている。
 これは馬じゃない。魔獣だ。
 魔獣の馬車はスピードを緩めることなく十字路を突っ切る。そして魔獣が右に少し進む方向を変えた。大きな荷台が、魔獣に遅れて角度を右に変える。
 道の右側には、見るからに他の店よりも大きく、そして高級そうな店がある。
 魔獣の馬車は、猛スピードのままこの店に突っ込み、壁を突き破った。
「行こう、フィオ!」
「ああ!」
 店の中からは、パニックになった店員や客が次々と外に出てきている。
 その波に逆らって、店の中に入った。
 ひどい有り様だ。棚はめちゃくちゃに壊れ、商品の宝石やアクセサリーが散乱している。馬車は横倒しになり、馬の魔獣は壁に激突した衝撃で死んでしまっていた。
 そして、壊れた馬車の荷台からイノシシのような魔獣が何匹も出てきて、まだ無事な棚や壁に突っ込んで壊している。先に荷台から出てきていたのだろう、二本足で立つトカゲの魔獣が、店のあちこちで散乱している商品を拾い集めていた。
「きゃあああぁっ!」
 奥のほうから悲鳴が聞こえた。
 逃げ遅れたのだろうか、女性が一人倒れている。店員ではないようだ。客だろうか? この高級な店に合った気品を感じる。
 そこへ、剣を持ったトカゲの戦士が近づいていく。倒れた棚が邪魔になって、女性には逃げ場がない。
 それだけではない。上からも物音が聞こえてきた。階段から魔獣が上っていったようだ。
「ここはフィオに任せた! 僕は上に行く」
「ああ、引き受けた!」
 フィオが剣を抜くのを見て、僕も剣を抜いて階段を駆け上った。
 二階にはイノシシの魔獣とトカゲの戦士が一匹ずつ。イノシシの魔獣が暴れ、棚を壊している。そして散らばった金や銀のアクセサリーを、トカゲの戦士が拾っている。
 僕に気づいたイノシシの魔獣が、こちらに向かって走ってきた。横に飛んで躱しながら斬る。一撃で仕留めることはできなかった。通りすぎたイノシシの魔獣が振り向いて、また襲いかかってきた。もう一度斬る。今度は倒すことができた。
「く……来るな!」
 上から声。三階へ上がる階段を、トカゲの戦士が上ろうとしている。その前に男性が立ちはだかり、長い木の棒を構えて迎え討とうとしている。店員か、あるいはアクセサリーを作る職人だろうか。棒を持つ手が震えている。剣の心得などないのだろう。
 トカゲの戦士が剣を振り上げた。まずい。
「こっちだ!」
 僕は叫び、落ちていた棚の破片を投げつけた。振り向いたトカゲの戦士の顔に、破片が当たる。トカゲの戦士は奇妙な叫び声を上げて怒り、僕に向かってきた。トカゲの戦士の剣に剣を合わせ、丁寧に振り払う。何度か剣を合わせているうちに、向こうの剣が乱れてきた。隙を見て剣を突き、トカゲの戦士の腹を貫いた。
 一階にいた魔獣が、次々と二階へ上ってくる。階段の上で待ち伏せ、二階へ上り切る前に魔獣を斬った。
「待て!」
 フィオに追われたトカゲの戦士が、階段を上ってくる。
「そいつが最後だ!」
 フィオがそう言い終わるかどうかのうちに、僕はトカゲの戦士を斬り捨てた。

 一階へ下りた。
 店の中は壊れた棚と商品、そして魔獣の死骸で足の踏み場もない状況だ。
 僕の後を追って、あの棒を持って戦おうとしていた男性も下りてきた。
「わたくしはこの店の主、ホージェンと申します。助けていただき、ありがとうございました」
 店員か職人かと思っていたら、まさか店主だったとは。これだけ大きな店を持っているにしては、ずいぶんと若く見える。
「いえ、たまたま通りがかったので、戦ったまでです」
「あ、あなたは……」
 声をしたほうを向くと、倒れていた女性が、フィオの肩を借りて立っていた。
「コーヤ? コーヤですよね? 間違いないわ。命の恩人であるあなたの顔を忘れるはずがありませんもの。ああ、また来てくれたのですね」
 女性は僕に歩み寄り、手を取った。
「覚えていますか? わたしを助けてくれた、あの時のことを」
「何を言っているんだ。もうあれは二十年以上も前のことじゃないか」
 ホージェンに発言を否定されて、女性はパッと手を離した。
「そ、そうよね。わたしったら。この人がコーヤであるはずがないわ。だけど、この人はなんだか――」
「あの……ひょっとして、ニティ、ですか? ジピートン家の」
 僕は、お父さんから聞いた話を思い出していた。
「ええ、そうですけど」
「たしか、子供の時に別荘で人さらいに遭って――」
 これを聞いた途端、女性は驚いた顔を見せた。
「ああ、あの時のことを覚えていてくれたのね! あなたはやっぱりコーヤ、コーヤなんでしょ?」
「いえ、僕はリッキ。コーヤは僕のお父さんです。昔の話は、お父さんから聞いています」
「コーヤの……息子さん?」
「はい。ちょっと訳あって、今は旅の途中と言うか、なんと言うか」
「おいリッキ、ちょっと……」
 フィオが呆然と僕を見ている。
「君は……、コーヤ様の、息子なのか。あの『白銀(しろがね)のコーヤ』の」
 僕は苦笑いなのか照れ笑いなのか、自分でもなんだかよくわからない笑みを浮かべた。
「う、うん、そうなんだ」
「なぜ隠していたのだ!」
 僕に詰め寄りながら、フィオが大声を出す。
「いや、別に、隠していたんじゃなくて、ただ言ってなかっただけで」
「言ってくれればよかったではないか!」
「まあまあお二方、ここはひとまず」
 ホージェンが僕とフィオの間に割って入る。
「どうかお礼をさせていただきたい。お二方にはこの店を、そして何より妻を救っていただきました。食事を用意いたします。部屋も用意しますので、今晩はゆっくりしていっていただけませんか」
「わたしからもお願いします。タダで帰してしまってはジピートン家の恥です。どうかお礼をさせてください」
 ということは、この二人は夫婦なのか。
 ホージェンだけでなくニティからもそう言われると、断るのもなんだか申し訳ない。
「じゃあ、今晩はお世話になります」
 僕は二人の厚意に甘えることにした。
 とりあえず、今日の宿をどうするかという心配は、これでなくなった。

   ◇ ◇ ◇

 お父さんから聞いた話によると、出会った頃のフォスミロスは、袖がなくて胸元が開いた、マッチョな筋肉がひと目でわかる服装をしていたそうだ。ところがある時を境に、自慢の筋肉が外見ではわからない、大きくてゆるい服を着るようになった。
 そのきっかけというのが、ズーリョで起きた事件だった。

 ズーリョの郊外に、この街で一、二を争う商家であるジピートン家の広大な牧場がある。馬車や荷車を引くための馬が、そこで生産されている。また、この牧場には別荘もあって、家族で休暇を過ごすこともよくある。
 ニティは子供の頃、この別荘から誘拐されそうになったことがあった。ズーリョに流れ込んだ盗賊団が、街よりも警備が手薄なこの別荘を狙ったのだ。
 広大な敷地の中で一人で遊んでいた幼いニティに、大人たちの目は届いていなかった。
 その隙に捕まってしまったニティは麻袋に押し込められ、荷車に乗せられ連れ去られようとしていた。
 そこへ、旅の途中だったお父さんとフォスミロスがたまたま通りがかり、それを見つけた。
 たちまち盗賊団と戦闘になった。
 二人だけとはいえ、盗賊団など相手ではなかった。あっさりと盗賊団を退治し、ニティを救い出すことができた。
 ところが。
 麻袋から出てきたニティは、フォスミロスの姿を見るなり泣き出してしまった。
 救出されたことによるうれし涙ではない。
 マッチョな筋肉むき出しのフォスミロスが、怖かったのだ。
 あらん限りの大声で泣き叫びながら、騒ぎを聞いて駆けつけた両親の元へ走り出すニティ。
 それを呆然と見送るフォスミロス。
 お父さんは大笑いしてしまったそうだ。

 自慢の筋肉が、むしろ子供に怖い思いをさせることになってしまった。
 ショックを受けたフォスミロスは、それ以降体を覆い隠すような服を着て、筋肉が人目に触れないように気をつけるようになった。
 そして旅先ではよく新しい服を買い、ファッションにも気を配るようになったらしい。あの無骨なフォスミロスがファッションを気にしていたなんて、なんだか面白い。
 お父さんが言うには、全くセンスがなかったらしいけど。

   ◇ ◇ ◇

 店の裏手の広大な土地に、ジピートン家の巨大な邸宅がある。
 僕とフィオはそこに招待された。

 邸宅では銀髪の執事が僕たちを迎えてくれた。それぞれ別の客人用の部屋に案内される。その部屋では若いメイドさんが二人、僕を待っていた。
「新しいお召し物をご用意いたしております。こちらですが、いかがでしょうか?」
 そう言われて、あらためて自分の服装を確認する。ボロボロの上着は、確かにこの豪華な邸宅には相応しくない。
 見せてもらった服は、派手すぎず地味すぎず、濃い青と薄い青の落ち着いたデザインだ。触ってみると、とてもなめらかで心地よい。戦闘用ならもっと厚手のものがいいけど、部屋の中で着るならこれくらい柔らかいほうがいい。
「じゃあ、着替えさせてもらいます。わざわざ用意してくれて、ありがとうございます」
 すると、メイドさんが僕の両側に立った。
「お手をこちらに」
「はい……え、えっ?」
 メイドさんたちが僕の服を脱がし始めた。
「えっと、大丈夫です、自分で着替えますから」
「お気遣いなさらず、私たちにお任せください」
 メイドさんたちは手を休めることなく、上着だけではなくインナーまで脱がそうとしている。
「本当に! 本当に大丈夫ですから!」
 力ずくでメイドさんの手を振りほどく。
「ちょっと、外に出てもらっていいですか? 自分で着替えますから」
「そうですか……では、部屋の外でお待ちいたします。ご用があればお声がけください」
 メイドさんが一礼して、部屋を出て行く。それを見届けてから、もう一度用意された服を確認してみた。
 上着だけかと思っていたら、シャツやズボン、それにパンツまで用意してあった。もしあのまま、メイドさんたちに着替えを任せていたらと思うと……。
 変な想像はやめよう。
 急いで着替えて、メイドさんを呼ぶ。
 脱いだ服は洗濯するということで、メイドさんが持っていった。上着は新しいのを用意してくれるそうだ。
 残ったもう一人のメイドさんが、僕を隣の部屋に呼んだ。
 部屋に入ると――。
「リッキ、た、助けてくれ」
 フィオが顔を赤らめて、取り囲むメイドさんたちにされるがままになっている。
 まるで、別人だ。
 胸元が大胆に開いた黄色いドレス。その開いたところにふんだんに宝石が使われたネックレスが輝いている。オレンジの長髪はきれいに編まれ、やはりいつくもの宝石を使ったヘアアクセサリーが彩りを添えている。
「すごく綺麗だよ、フィオ」
 美人とはこういう人のことを言うのか、と思ったくらいだ。
「そ、そうか? 本当にそうか?」
「本当だって。もし知らない人にこの家のお嬢様だって言ったら、信じてくれるんじゃない?」
「そんなことはないだろう!」
「いや、本当に本当だって」
「リッキ様、フィオ様、お食事の用意ができましたので、ご案内いたします」
 別のメイドさんが僕たちを呼びに来た。
「ほら、行くよ、フィオ」
「う、うむ」
 僕はフィオの手を取って、案内をするメイドさんについて行った。

 食事の席には、ホージェンとニティが先についていた。
 フィオが戸惑っていていつまでも座らないので、「ほら、ここに座って」と椅子を引いて促す。ようやくフィオが座り、僕もその隣に座った。
 テーブルを埋め尽くす料理に、フィオが固まってしまっている。料理の名前まではわからないけど、肉料理も野菜料理も魚料理も、ひと目で一流の料理人が作ったとわかる料理ばかりだ。食器も鮮やかな絵付けがされた皿や緻密な細工が施された銀の器など、王侯貴族や大富豪でなければ持てないようなものばかりだ。
「リッキ、こ、これ、本当に、食べて、いいのか?」
「うん、せっかく作ってくれたんだからさ、たくさん食べようよ」
「ははは、どうぞたくさん召し上がってください」
「う、うむ」
 返事はしたものの、ナイフとフォークを持つフィオの手が空気を切っているかのように震えている。
「リッキ、これは、その、どうすればいいのだ。その、私は田舎育ちで、こういうものの食べ方を知らないのだ」
「適当でいいんじゃないかな。そんなことより、楽しく食べようよ」
「リッキは、その、こういう食事は、慣れているのか? 私と違って、ものすごく余裕を感じるのだが」
「慣れているってことはないけど、フォスミロスの屋敷で似たような食事をしたことはあるよ」
「フォスミロス様のお屋敷で? そ、そうか。リッキはあのコーヤ様の息子だものな。それくらいはあるよな。私とは違う」
 もし、リュンタルならではのテーブルマナーがあるとしたら、僕は何もマナーを知らない人ということになる。でも、そんな心配をする必要はないだろう。
 リュンタルで初めて食事したのはピレックルの騎士団長の屋敷、つまりフォスミロスの家でのことだった。その時も今日のような豪華な料理だったけど、特に決まった食べ方はなく、わいわい騒ぎながら自由に食べていた。だから今日も、難しいことを考えずに自由に食べればいいはずだ。
 僕もナイフとフォークを手に取った。左利きの僕のためにカトラリーが左右逆に置いてあって、心遣いを感じる。
 こぶし大の肉の塊にナイフを入れると、スッと刃が沈み込んだ。中がわずかに赤い肉を切り取り、口に運ぶ。おいしい。柔らかく、肉汁が口の中の隅々まで旨味を届けてくれる。フォスミロスの家で食べたステーキはノスルアザラシの肉だったけど、この肉は何だろう。これもまた、僕が住む世界にはない肉の味だ。
 黄金色に輝くスープに、赤や緑の野菜を細かく刻んだものが入っている。野菜と一緒にスープを掬って飲む。鶏ガラのスープだ。思ったほど熱くない。野菜を噛むと甘味や苦味が出て味が変わるのが楽しい。
 僕が食べるのを見て、フィオもようやく手を動かした。切り身の煮魚にナイフを入れる。柔らかく煮てあるはずだから、ナイフはいらないと思うんだけど……。
 案の定あっさりと崩れた煮魚はなんとか一口大にまとめられ、フィオの口に入った。
「……………………」
 フィオは黙ったまま、次々と残りの煮魚を口に運んだ。それを食べ終えると、目の前に並べられた料理をあれもこれもと食べ始めた。
「フィオ、もっとゆっくり食べようよ。誰もフィオの料理を取ったりはしないからさ。いろいろおしゃべりしながら、楽しく食べようよ」
 口いっぱいに料理を詰め込んだフィオが、顔を赤くしてうなずいた。
 間を置いて、口の中が空になったフィオがようやく話し出す。
「す、すまぬ。私はその、田舎者でこういう料理は」
「だからそういうのは気にしなくていいんだって。ですよね?」
 僕は向かい側に座る二人に問いかけた。
「ええ、もちろんです。どうか堅苦しくならず、ご自由に召し上がっていただきたい」
「わたしもですよ、フィオ。食事の席は楽しくあるべきですから。そうだわ! リッキ、コーヤの話を聞かせてもらえるかしら? コーヤは今は何をしているの? フィオも聞きたいでしょう?」
「そうだな! 私も聞きたい! リッキ、コーヤ様の話を聞かせてくれ」
「えっと……そうですね」
 やっとフィオから固さが取れてきた。
 でも、お父さんの話って、何を話せばいいんだろうか。
「知っていると思いますが、父はリュンタルの人間ではありません。ですから僕も――」

   ◇ ◇ ◇

 空になった皿が、ずいぶん多くなってきた。

 お父さんがフォスミロスと一緒にリュンタルを旅した一年間のこと。
 そして、僕たちの世界では戦いがなく、今のお父さんは剣士ではないこと。でもリュンタルを懐かしんで、魔法のような技術でリュンタルに似た世界を作ったこと。その世界で人々が楽しく遊べるように管理するのが、お父さんの仕事だということ。僕はそこで剣の腕を身につけたのだということ。リュンタルに来たのは、これが初めてではないこと。
 なんとか、頑張って話してみたんだけど……。
「……………………」
 旅の話は楽しんでくれたけど、僕たちの世界や仮想世界のことは、やっぱりフィオはよくわかっていないようだ。目の前の皿は空になっているのに、ナイフとフォークを持ってきょとんとしている。
 ホージェンもニティも、あまり理解しているようには見えない。
 僕は説明が下手だ。
 こんな時、シェレラがいてくれたらと思う。シェレラの説明は本当にわかりやすい。シェレラだったら、きっとみんなが理解できるように説明できるだろう。
 ……なんだか、シェレラに会いたくなってきた。
 いつになったら会えるのかな。ひょっとして、このままもう会えなくなってしまうこともあるのかな……。
「ええと、それで」
 このままだとシェレラのことばかり考えてしまう。気持ちを切り替えて、僕は話を続けた。
「スバンシュという魔法使いがいるんですけど、そいつにつけられたこのブレスレットが邪魔をして、元の世界に帰れなくなってしまったんです。それで、このブレスレットを外せる方法はないかと思って、探しているところなんです」
「そうだったのですか……。それは、大変な目に遭われましたね」
「そんなひどい魔法使いがいるなんて、許せないわ」
「それで、これ、たぶんスバンシュ本人じゃないと外せないと思うんですが、肝心の居場所がわからなくて」
 右手首を指さしながらそう話すと、
「ちょっと、見せていただけますか?」
 ホージェンが僕の隣に来て手を取り、ブレスレットに顔を近づけた。
「うーん……。ただの白い毛糸で編んだものにしか見えませんね。すみません、わたくしには何もわかりません。何か協力できればよかったのですが」
「いえいえそんな! こうしてご馳走になっただけでも感謝しています」
「でも、これからどうするつもりなのですか?」
 ニティが心配そうに尋ねる。
「何か手がかりはあるのですか? そのスバンシュという人を探すにも、あてもなく探すのでは見つからないでしょう」
「とりあえずピレックルに行くつもりです。スバンシュは僕がコーヤの息子だと最初から知っていたし、もしかしたらお父さんやフォスミロスに会ったことがあるのかもしれません。だから、フォスミロスならスバンシュについて何か知っているんじゃないかと思って」
「そうでしたか。あの時のわたしはまだ幼かったとはいえ、フォスミロスには失礼なことをしてしまいました。もしお会いしたら、ニティは大変申し訳なく思っているとお伝えください」
「わかりました。でも、フォスミロスはそんなことは気にしていないと思いますよ」
「それならばよいのですが……。ところで、フィオはリッキとはどういう関係なのですか? 二人で旅をしてきたのですよね?」
 ニティは急に目をときめかせてきた。
「若い男女が二人で旅をしてきたのですから、相当固い絆で結ばれていると思うのですが」
「へっ?」
 フィオが変な裏声を発する。
「やっぱり、二人は恋人同士――」
「そそそそそ、そうではない!」
 フィオは顔を真っ赤にして大声を出した。
 激しく否定されて、ニティは戸惑っている。
「えっ、そんなに仲が悪いのですか? とてもそのようには見えませんが」
「あ、いや、そういうことではなくて……」
 一層顔を赤くしたフィオに代わって、僕が説明する。
「フィオとは昨日ソンペスで出会ったばかりなんです。魔獣の群れに襲われたところを助けてくれたんですよ。今日ズーリョに来れたのも、フィオのおかげです」
「そうだったんですか。ごめんなさい、わたし勘違いしちゃって。魔獣と戦っていた時、二人の息がとても合っているように見えたので、お互いよく知っている仲なのかと」
「それはフィオの剣の腕がいいからですよ」
「リッキ、そんなに私を褒めるな」
「だって本当のことじゃないか」
「やっぱり、二人はとても仲がいいのですね」
 ニティはにっこりとほほえんだ。

   ◇ ◇ ◇

 昨日の安宿とは全く正反対の豪華な広い部屋が、僕たちに用意されていた。それも二人一部屋ではない。僕に一部屋、フィオに一部屋だ。
 食事が終わった僕は、この部屋のふかふかなベッドに埋もれていた。一人部屋だからもちろんベッドも一人用だけど、それでも昨日の二人用のベッドよりさらに大きいベッドだ。
 そして、なぜかフィオも自分の部屋ではなく、僕の部屋に来ている。
「リッキ、私は恥ずかしい」
 フィオは立ったまま話している。うつむいていて普通なら顔は見えないけど、ベッドで横になっているこの位置からだと、赤くなっている顔がよく見える。
「私は君に対して、なんて偉そうな態度を取っていたのだろう。君はかわいそうな人間で、それを救うために私がいるのだと、出会ってからずっと思っていた。それがどうだ。君は実はコーヤ様の息子で、この大富豪の屋敷に来てからも全く動じていない。私は田舎の村の人間で、このような場所ではただうろたえるばかりだ。自分の小ささというものを痛感した」
「えっと、とりあえず座ってよ」
 立ったままのフィオに、ソファに座るよう促す。僕も体を起こし、そのままベッドの上に座った。
「僕はフィオに感謝しているよ。昨日の戦闘も、今日の戦闘も、フィオと二人で戦ったから勝てたんじゃないか。僕がフィオに助けてもらっていることに、違いはないよ」
「しかし、こうして綺麗な服を着て、豪華な料理を食べ、広い部屋にいることができるのは、リッキのおかげではないか」
「違うよ。僕じゃなくて、お父さんのおかげだよ」
「それはそうかもしれないが!」
「とにかくさ」
 僕はベッドから降り、フィオの隣に座った。テーブルの上に置いてある水差しを傾け、グラスに注いで一口飲む。
「お父さんは立派な人だったかもしれないけど、僕はただのリッキだよ。それに、自分を田舎者だからとバカにしないで。フィオが田舎者なら、僕は異世界者かな。フィオと違って、そもそもリュンタルの人間ですらない。もちろん、お父さんも。そうだろ?」
「う、うむ」
「僕は僕、フィオはフィオ、そして僕とフィオは上も下もない仲間。それでいいじゃないか。きっとお父さんとフォスミロスも、そういう仲間だったんだと思うよ」
「…………そうだな。それで、いいのだな」
 フィオもグラスを手に取り、水差しの水を注いで飲んだ。
「どうやら細かいことを気にしすぎていたようだ。リッキ、君のおかげでよく眠れそうだ」
「うん、このベッド、とてもふかふかなんだ」
「そういうことではない!」
 声は怒っていたけど、フィオは笑顔を浮かべていた。

   ◇ ◇ ◇

 朝食は昨日の夕食ほど量は多くないけど、高級レストランでなければ見られないような料理がいくつも用意されていた。
「リッキ、どうして皿は大きいのに料理はこんなに小さいんだ? 間違えたのか?」
 僕の耳元に顔を近づけ、フィオが小声で問いかける。
「そうじゃないって。これはこういう料理なんだよ」
「そうなのか。ならばいいのだが」
 幸い、向かいに座るホージェンとニティに聞こえなかったみたいだ。
 もちろん、すべての料理がそうなのではなく、お腹を満たすには十分な量の食事が用意されている。だからフィオが不満に思うことはない。
「ところで、ちょっと訊きたいことがあるんですが」
「なんでしょうか?」
 正面にいる僕にそう言われて、ホージェンがフォークを持った手を止めた。
「僕はニティのことはお父さんから聞いていますが、ホージェンのことは何も知らなくて」
「ああ、そのことですか。失礼しました。わたくしのほうから申し上げるべきだったのに」
「ホージェンは超一流のデザイナーなんですよ」
 ホージェンが答える前に、横からニティが答えた。
 少し照れ笑いをして、ホージェンが続けて答える。
「超一流かどうかはわかりませんが、わたくしは元々宝飾デザイナーとしてジピートン家に雇われました。当時のわたくしはまだ無名の存在で」
「ホージェンは本当にすごいのよ。あっという間に指名が殺到する人気デザイナーになったわ。デザインの素晴らしさもそうだけど、なんと言ってもお客様一人ひとりの希望に応えようとする誠実さが魅力なのよ。わたしはホージェンのデザインだけでなく、ホージェンという人そのものの虜になってしまったの」
 ホージェンよりも、ニティのほうが夢中になって僕の質問に答えてくれている。
「わたしはホージェンと結婚すると決めました。お父様もこれほどの人間を手放すことは万が一にもあってはならないと考え、賛成してくれました。私は一人娘ですから、ホージェンが自分の後継者となることも、もちろん考えてのことです。それなのに、ホージェンはなかなか受け入れてくれなくて」
「わたくしのような一介のデザイナーがジピートン家のお嬢様と結婚だなんて、最初は畏れ多くてお断りしていたんですが、ニティに何度も口説かれて、最後は『年上の人間の言うことは聞くものだ』とか無茶苦茶な理由をつけられて、結局結婚を決意しました。もちろん、今では結婚して本当に良かったと思っています」
「そうだったんですか。ニティのほうが年上なんですね」
「はい。わたしのほうがホージェンより一つ年上です」
「じゃあフィオと同じだ。フィオも僕の一つ年上だし」
「そうなのか!?」
 フィオが驚いて僕の顔をまじまじと見ている。
「だってフィオは十七歳だろ? 僕は十六歳だから。でも、そんなに驚くことでもないと思うけど」
「なぜ私の歳を知っているのだ! 私は言っていないぞ!」
「だって、レイアンツェレが同じ十七歳だって言ってたじゃないか」
「ああ……そうか、そういえば、そうだったな」
 フィオは顔を真っ赤にして、パンにかぶりついた。
「わたしはあの時ほど、ホージェンより一年早く生まれたことに感謝したことはなかったわ」
 ニティは少し体を乗り出し、フィオに顔を近づけた。
「フィオもきっと、そう思う時が来るんじゃないかしら?」
 小声で言ったけど、僕にもはっきりと聞こえた。
「…………んっ! …………ごほっ、げほっ」
 フィオはパンを喉に詰まらせ、なんとか飲み込み、そして咳込んだ。苦しかったからか、さっきよりもさらに顔が赤くなっている。
「わ、私は、決してそんな」
「今はわからなくても、そのうちわかってくるわ」
 ニティはちらりと僕を見て、にっこりとほほえんでから座り直した。
 そしてフィオもなぜか僕をちらりと見た。すぐに前に向き直し、残っていたパンを口に詰め込む。
「えっと、その……」
 僕は軽く笑ってごまかした。ホージェンも口には出さないものの、済まなそうな表情を僕に送っている。
 なぜか、ニティは僕とフィオを結ばせようとしている。
 でも、僕は元の世界に帰らなければならない。いずれフィオとは会えなくなってしまう。ニティはやっぱり“別の世界”のことをよく理解できていないのだろう。
 それに、僕はやっぱり“好き”という気持ちがよくわからない。フィオだって剣の修行中で、恋愛どころではないだろうし。ニティの願望が叶えられることは、絶対にない。
「と、ところで」
 僕はもう一つ、ホージェンに訊きたいことがあった。というより、こっちのほうが本題だ。
「昨日のあの魔獣は、なんだったんですか? 一体誰があんなことを」
「それは……どうか、お気になさらず。これはわれわれの問題ですので」
「気にするなって言われても、気になってしまいます。僕たちのことを無関係の人間だと思わずに、事情を話してくれませんか。フィオだってそう思うだろ?」
「そうだな。私もそう思う」
 フィオはコップの水を一口飲んだ。赤くなっていた顔は、すっかり元に戻っている。
「私には、あれがたまたまあの店に突っ込んだのだとは思えない。誰かが狙って送り込んだのではないのか? それならその送り込んだ奴をなんとかしなければ、解決はしない。私はできる限り協力したい」
 僕が思っていたのと同じことを、フィオが言った。
 それでも、ホージェンはなかなか口を開かない。
「わたしから話します」
 それを見かねたニティが、口を開いた。
「ニティ、しかし」
「リッキにはコーヤの血が流れているのよ。止めることはできないわ。リッキ、フィオ、わたしがすべてお話しします」

 少し間を置いて、ニティは再び口を開いた。
「ジピートン家が扱っているのは宝飾品だけではありません。生活に欠かせない食器や家具、それに衣服も、たくさんの職人を抱えて作り、そして売っています。他にも建築や運送、もちろんそれに必要な石や木、馬も、自分たちで生産しています。あとは宿屋とか、学校とか――」
「えっと、とにかくいろいろやってるんですね」
「はい、そうなんです。父が亡くなってからは、わたしとホージェンが共同で経営する形をとっています」
「経営に関してはわたくしはまだまだ勉強中の身ですが、ニティが詳しいので助かっています」
「ジピートン家に生まれた人間ですから。幼い頃から叩き込まれています」
 にこやかに微笑むニティ。
 しかしその微笑みは一瞬で、すぐに真剣な顔つきに戻った。
「このズーリョにはもう一つ、大きな商家があります。それが、ウォニドゥロ家です」
 僕もフィオも、真剣に耳を傾ける。
「最近、ウォニドゥロ家でも代替わりがありました。新しい当主のチェムテが大変な野心家で、ジピートン家を追いやって、ズーリョの支配権を掴もうとしているのです。それで、ジピートン家にいろいろとちょっかいを出してくるようになりました。昨日の一件も、チェムテの指示によるものであることは間違いありません。ただ決定的な証拠がなく、追求するには至らないのです」
 ニティの表情が曇る。
「それだけではありません。この国には二人の王子がいるのですが、王は病気がちで、長男のペールードに王位を譲ろうと考えています。ですが、チェムテは次男のジュンダンに近づきました。ジュンダンこそが王に相応しいとそそのかしてその気にさせ、さらに王の側近に賄賂を贈り、王にウソの噂を吹き込ませてペールードを引き離そうとしています。そしてジュンダンが王になった暁には、見返りとしてズーリョの街の支配権を認めさせようというのです」
『リュンタル・ワールド』にはない、本物のリュンタルだからこその現実だ。
 ホージェンが補足する。
「ペールードは大変聡明な方なのですが、ジュンダンは考えが浅く、何もかも人任せにして自分はただ遊んでいるような人物です。ジュンダンが王になれば、ズーリョは終わりです。実はすでにペールードはチェムテとジュンダンの策謀に気づいていて、密かにジピートン家と結び、対抗しているのです」 
「そのペールードって人もわかっているんだったら、すぐに捕まえてしまえばいいんじゃないですか?」
「ですが証拠がなくては」
「ああ……そっか」
 やはり本物のリュンタルは難しい。ここが仮想世界ではなく、現実の人々が暮らす世界なのだということを思い知らされる。
「大丈夫です。心配はいりません」
 ニティの力強い声が響いた。
「昨日のような嫌がらせがあったからといって、その程度で揺らぐようなジピートン家ではありません。決してチェムテの思い通りにはさせません!」
 ついさっきまで恋の話をしていたニティとは、まるで別人だ。
「そして、これは言ってみればズーリョ国内における内輪もめです。リッキやフィオが心配するようなことではありません。この点はわたしもホージェンと同じ考えです。まずはわたしたちの力で乗り切るべきだと考えています」
「わかりました。でももし僕たちが必要になったら、遠慮なく言ってください。フィオもそれでいいだろ?」
「もちろんだ。私はそのチェムテとかいう男が絶対に許せぬ。喜んで力を貸そう」
「ありがとうございます。万が一の時はよろしくお願いします」
 ニティの顔に微笑みが戻った。

 ズーリョの街を、フィオと二人で歩く。
 ニティはまた新しい服を用意してくれた。街を歩くのにちょうどいい、ラフな服だ。ジピートン家は衣類も作って売っているからこれくらい用意するのは簡単だし、むしろ着てもらって人目につくくらいのほうがいい、と言っていた。まあ、僕もフィオも背が高いから目立つだろうし、それで宣伝効果があるのなら、ニティのためにもなってちょうどいい。
 昨日は着いたのが夕方だったし、来ていきなりあんな事件が起きてしまったから、街を見て回ることはできなかった。でも、今日はゆっくり歩きながら楽しむことができる。賑やかな街だから、見ていて飽きることがない。それに、ニティがちょっとお金をくれたので、買い物も楽しめるし。
 人の出入りが多い街だからだろうか。建物も売っている物も、『リュンタル・ワールド』にはない新しいものが多い。
 さっそく、見たことがない食べ物を買ってみた。コドーン芋という細長い芋を切って揚げた料理だ。ようするにフライドポテトなんだけど、とにかく長い。食べ歩きできるように紙の袋に入っているけど、その袋もやはり長い。食べてみると、甘辛い味をしっかり染み込ませてから揚げてあるようで、何もつけなくても十分おいしい。食感ももっちりしていて、フライドポテトとは違ったおいしさがある。
「おいしいねー。フィオはこういうの食べたことある?」
「…………いや、ない」
 ぶっきらぼうな答えが返ってきた。
 僕と違って、フィオはあまり楽しくなさそうだ。
「街歩きをするのがダメだとは言わないが、チェムテのことはどうするのだ。このまま何もしないつもりなのか?」
 どうしてもチェムテをやっつけなければ気が済まない、という気持ちはわかる。でも、
「フィオ、僕たちは本当の意味では部外者なんだよ。ニティも言ってただろ? 自分たちで解決するって。いくら事情を知っていても、旅人である僕たちがしゃしゃり出るべきじゃない。かえって事態をややこしくしてしまうだけだ。ズーリョのことは、ズーリョの人たちが決めるべきだよ」
「それはそうだが……」
 袋からにょっきりと生えたコドーンフライを抜き取り、大げさに噛みちぎる。やり場のなさをコドーンフライにぶつけているのはわかるんだけど、食べ終わらないうちにまたどんどん食べてしまうから、口の中がコドーンフライでいっぱいになってしまっているのがはっきりと見て取れる。
「今日はこうしてのんびり街歩きをしているけど、明日になったら次の街へ行くよ。ピレックルへ行かなきゃならないし、それに明日になれば洗濯物も乾いているだろうからね」
「……………………」
 フィオはの口の中にはまだコドーンフライが残っていて、返事ができない。
「…………………………………………………………そうか、仕方ないな」
 空になった口で、歯を軋ませる。
 僕だって、ニティの力になれるならなりたい。でも、そうはいかない。
 ちょっと、暗い雰囲気になってしまった。
 うつむいていた顔を上げると、遠くにひときわ高く、華やかな建物が見えた。『リュンタル・ワールド』には、あんな建物はなかったはずだ。これもきっと、新しい建物だ。
「フィオ、あそこへ行ってみようか」
 と言いつつも、フィオの返事を待たずに僕は歩みを早めた。

 近づくにつれ、この建物の大きさがよくわかってきた。ジピートン家の邸宅もとても大きかったけど、その二倍、いや三倍はあるだろうか。道の突き当たりには大きな門があり、塀が建物を囲んでいる。塀から建物まではかなり距離がありそうだけど、それでも建物の大きさには圧倒される。ここは一体、何の建物なんだろう。
 コドーンフライを食べ終わって、ちょっと喉が渇いた。近くの店でジュースを買い、ついでに尋ねる。
「あの大きな建物はなんですか?」
「あれはジュンダン様の宮殿だよ。外側も立派だけど、中も相当豪華だって話だ」
 ちょっとチャラい感じの店員が答える。
 ただの建物ではないとは思ったけど、王族の、それもジュンダンの宮殿とは。
「ちなみに、今日これを訊かれたのは四回目。俺がココで働くようになってからだと――」
「ありがとう、教えてくれて」
 話が長くなりそうなので、早々に立ち去った。
 ジュースを飲みながら、宮殿の周辺を歩く。
「これ以上、何を望むというのだ。一体何が不満なのだ」
 宮殿の一角にそびえ立つ塔を見上げて、フィオが怒りを露わにする。
「僕たちとは感覚が違うんだろうね」
 どこの世界であっても、こういうことはあるものだ。
「こんな所にいては気分が悪くなる。早く立ち去ろう」
 フィオが吐き捨てるように言った。
 僕も、あまりここにはいたくない。ズーリョには他にも行くべきところがたくさんある。
 宮殿に背中を向け、歩き出した。
 その直後、気配を感じて振り向く。
 地面から、何か黒い物体が湧き出てきた。細長い蛇の姿をしたものがうねりながら何本も地面から生えてくる様子は、さっきまで食べていたコドーンフライを思い出させる。でも大きさは比較にならない。
「魔獣だ!」
 街の中に、急に魔獣が湧いてくるなんて。
 街を行く人々が悲鳴を上げて逃げていく。ジュースを売っていた店員も、店を放り出して逃げていく。
「どうする? 剣を持っていないぞ!」
 フィオが問いかける。街歩きの最中で、二人とも剣は装備していない。
 指を動かし、空間から剣を二本取り出した。驚くフィオに、一本渡す。
「使いづらかったらごめん」
「いや、これでいい」
 剣を構えたのとほぼ同時に、蛇の魔獣が飛び跳ねて襲ってきた。不規則に跳ねてくる蛇の魔獣にすばやく対応し、真っ二つに斬り捨てる。
 次々と襲ってくる蛇の魔獣を斬る。二十体、三十体と増えていく魔獣の死骸が、地面を埋めていく。
 ようやく倒し終わりそうだ……と、思ったら。
 二本足の巨大な怪鳥が、集団で襲ってきた。今度は地面からじゃない。宮殿の塀を飛び越えて、僕たちに迫る。
「どうして急に魔獣が現れたのかと思ったら、そういうことか!」
「ああ、明らかに私たちを狙っている!」
 チェムテとジュンダンには魔獣使いの仲間がいることは、昨日の事件からも間違いない。宮殿にいる魔獣使いが、僕たちを始末しようとしているんだ。
 部外者である以上、ニティたちの争いには関わらないようにと思っていた。でも向こうから直接襲ってきたのであれば話は別だ。
「フィオ、宮殿に乗り込むぞ!」
 怪鳥の首を刎ねながら叫ぶ。
「乗り込むのはわかるが、まずこいつらをなんとかしなければ。街じゅうで暴れだすかもしれないぞ」
「僕たちが宮殿の中にいれば、こいつらは外に出ないから!」
「……そうか! なるほど!」
 魔獣の狙いは僕たちだ。街に被害を出さないためには、僕たちは宮殿の塀の内側にいればいい。
「でも、どうやって入る?」
「門から突破だ!」
 門には門番がいるけど、ただ呆然と僕たちの戦闘を見ている。僕たちが何者かも、なぜ魔獣がここにいるのかも、おそらくわかっていないのだろう。何をしたらいいのかわからず動けないといった感じだ。
「「開けろーっ!」」
 二人で大声を出しながら、門に向かって走る。その後ろから、怪鳥が僕たちを追って走って来る。
「ひ、ひいいぃーーっ」
 門番は門を放棄し、横の道へ逃げていく。
 僕たちは門の直前まで走り、左右に分かれた。背後の怪鳥は急に止まることができず、走ってきた勢いのまま門に激突した。
 衝撃で、門が壊れる。
「行くぞ!」
 宮殿の敷地に入る。
 門から怪鳥が逆流してきた。宮殿の塔の近くにある池からはワニの魔獣が、塔の上からはコウモリの魔獣が、群れをなして僕たちに迫ってくる。
 この数は、さすがに厳しい。アイリーやシェレラがいれば問題ないけど、剣士二人では相手にしきれない。
 でも、方法はある。
「フィオ、あの塔だ。きっとあの塔に魔獣使いがいる。魔獣使いを倒すんだ」
 魔獣の出現位置から考えて、間違いないはずだ。それに、僕たちを襲ってきたのも、あの塔の上にいるからだ。そうでなければ僕たちを見つけられない。
 ワニの魔獣の頭を踏みつけ、コウモリの魔獣を払い除け、時折振り返って怪鳥の首を刎ねながら、塔へ突撃する。塔のドアのそばにいた衛兵も、門番同様に逃げ出した。ドアを開け、階段を上る。怪鳥は首の長さが邪魔で塔の中に入れない。でもワニの魔獣は階段を這いずりながら上って来る。コウモリの魔獣も小刻みに羽ばたきながら僕たちを追って来る。それに構わず、ひたすら階段を駆け上る。
 ついに最上階にたどり着いた。
 部屋のドアを開ける。中には、きらびやかな服が全く似合っていない大男と、派手さはないが値の張りそうな服装の小柄な男、そしていかにも怪しげな、全身をすっぽり覆う黒衣を纏った女。
 魔獣使いだけじゃなかった。男二人はチェムテとジュンダンに違いない。
「お前らだな! ニティや僕たちを襲ったのは!」
「はて、何のことやら」
 焦っている様子の他の二人とは違い、落ち着いた口調で小柄な男が答える。
「貴様らこそ何者だ。ここがジュンダン様の宮殿と知らずに侵入してきたとは言わせんぞ。ま、知っていようがいまいが、答えは同じだが」
「お前がチェムテだな」
「だからどうした」
 チェムテは右手を前に出した。人差し指と中指の指輪が、それぞれ青と赤に光る。
 こいつ、魔法が使えるのか?
「旅人が二人、人知れず失踪した。それだけの結果だ」
 ニヤリと笑ったチェムテが、魔法を放とうとして――止まった。
 僕たちを追ってきたワニやコウモリの魔獣が、部屋になだれ込んできたからだ。
「おい! こいつらを止めろ!」
「もう無理! 制御しきれない!」
 魔獣使いはパニックになってしまっていた。チェムテに魔獣を止めろと言われても、わめくばかりで何もできない。
 コントロールを失った魔獣は僕とフィオだけではなく、誰かれ構わず襲いかかる。
 チェムテは僕たちにではなく、魔獣に魔法を放った。僕もフィオも、やはりチェムテを相手にしている場合ではなくなってしまっている。魔獣に剣を向け、倒す。戦っているのはこの三人だけだ。魔獣使いはパニックが収まらずにただただ逃げ回り、ジュンダンは闇雲に剣を振り回しているだけだ。体格は立派だけど、ジュンダンは剣の使い方をろくに知らないようだ。
 しばらく戦い、ようやく魔獣が部屋に来なくなった。本当はもっといたような気がしたけど、全部は上って来なかったのかもしれない。
「ようやく邪魔が入らなくなったな」
 チェムテが低くつぶやく。
「まずは貴様らを片付ける。そしてこんな役立たずな女よりもっとまともな魔獣使いや殺し屋を雇って、王もペールードもとっとと始末してくれるわ。もう後には引けん。一気にカタをつけてやる」
「その言葉、間違いないな」
 部屋の外から、よく通る声。
 防具に身を包んだ壮年の男が、部屋に入ってきた。ヒゲがよく似合っている。その後ろには、剣を血で濡らした兵士の集団。きっと魔獣の血だ。この部屋に魔獣が来なくなったのは、兵士が戦ってくれたからだったんだ。
「このペールード、しかと聞いたぞ。お前たちの悪事、見逃すことはできん」
「あ、兄上、ちっ、ちち、違う。全てはこのチェムテが」
「今更言い逃れができると思うか!」
 ペールードの一喝に、ジュンダンはへなへなとへたり込む。
「女よ。何もかも正直に話せば、罪を軽くしてやらんでもない」
「は、話します。話しますから、どうか命はお助けを」
 魔獣使いは、ペールードの前にひれ伏して懇願した。

 チェムテは、もう何もできなかった。

   ◇ ◇ ◇

「騒ぎを聞きつけて来てみたが……。わかっていたこととはいえ、実際にこういう結果になってしまうとは」
 兵士に連行されていく三人を見ながら、ペールードは誰にともなくこぼした。
 そして振り向き、残った僕たちに話す。
「リッキ、それにフィオだな? 昨日のことはホージェンより聞いている。そして今日は我が弟が君たちに危害を加えてしまった。本当に申し訳なく思う。今後、弟は厳しく罰せられることになるだろう」
 小物っぷりが目立ったジュンダンとは違って、ペールードからは品格が感じられる。
「いえ、すべてはチェムテが悪いんですよね? だったら罰せられるのはチェムテだけでいいんじゃないですか? ジュンダンもあの魔獣使いも、ただ踊らされていただけで」
「そうかもしれぬが、悪事に加担したことに違いはない。私の気持ちも、そしてもちろんこの国の法も、弟を許すことはできん」
「リッキ、私たちのするべきことは終わった。あとは任せよう。リッキも言っていたではないか。ズーリョのことは、ズーリョの人たちが決めるべきだと」
 僕が言った言葉で、フィオが諭す。たしかに、その通りだ。
「……そうだね。じゃあペールード、あとは任せます。もう街歩きの気分じゃないし、僕たちはニティの家に戻ります。フィオもそれでいいだろ?」
「ああ、問題ない」
 僕たちは三人で塔を下り、門を出たところでペールードと別れた。
 振り向いて、塔を見上げる。一羽の小鳥が、遠くの空へ飛び去っていくのが見えた。

 お父さんも、こんなふうに事件と関わりながら旅をしていたのだろうか。
 そんなことを考えながら、ジピートン家の邸宅への道を歩いていた。

   ◇ ◇ ◇

 チェムテは投獄、そしてジュンダンは国外追放となることが決まったそうだ。王位はペールードに譲られることになり、式典の準備が今後進められるということだ。

 一夜明け、ジピートン家では二回目となる朝食を食べている。フィオはようやくこの家の食事に慣れてきた感じだけど、これがもう最後だ。
 僕たちはまた、旅に出るからだ。
 ホージェンは「ピレックルまでの馬車を用意しましょう」と言ってくれたけど、僕たちは断った。もしスバンシュが攻撃してきたら、馬や御者を巻き込んでしまう。どうしてもそれは避けたかった。
 代わりに、資金提供をしてくれることになった。ソンペスの時のような安宿に泊まらなければならないということには、もうならなそうだ。
 食事が終わると、メイドさんが新しい上着を持ってきてくれた。
 おとといから着ていたような日常的な服ではなく、厳しい旅にも耐えられるような丈夫な上着だ。着てみると、意外と軽い。布地はしっかりしているのに硬さがなく、動きやすい。さすがジピートン家の一流の職人が作ってくれただけのことはある。これまで通り青が基調なのも、なんだかしっくりくるし。
 ボロボロの上着は、ウィンドウにしまっておいた。元の世界に帰ったら、また着ればいい。
 フィオの服は前と同じだけど、洗濯されて汚れが落ち、さわやかな石鹸の香りを漂わせている。フィオも満足しているようで、顔がほころんでいる。

 ズーリョを離れる時が来た。
「スバンシュを倒したら、またこちらにお寄りください」
「またいつか、お会いしましょう」
 ホージェンとニティが、笑顔で僕たちを送り出してくれた。
「はい、またいつか」
 本当は、とっととスバンシュを倒して、元の世界に帰れるのが一番いい。
 でも、二人は僕が住む世界や仮想世界のことをきちんと理解できていないし、詳しく知る必要もない。だから、そんな二人に「もう会えないかも」なんて言えないし、言う必要もない。
 果たせないであろう約束を交わし、僕とフィオはズーリョを後にした。

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