第一章 村の少女と魔女
少しだけひんやりとした冷たさを感じながら、真新しい
ボタンを留め、制服同様真新しいカバンを手に取った。なじんでないせいか、持った感じがいまいちしっくりこない。
一息ついて、部屋のドアを開けた。階段を下りると、ちょうどお父さんも家を出るところだった。いつも朝早く会社へ行くことが多いから、時間が重なるのはかなり珍しい。
「お、
「そうかな? 普通だと思うけど」
女子は制服のかわいさを気にするのかもしれないけど、男子、少なくとも僕にとっては、変なデザインでさえなければ特に気にすることではない。
リビングのドアが開き、
「おーいいねーお兄ちゃん。高校生って感じがするよ」
新しい制服姿の僕を、頭の先から爪先まで顔を何度も上下させながら見ている。そんなに見て、何が楽しいんだろうか。
「あ、ちょっと、並んで立ってみて」
「並んで?」
「うん。お兄ちゃんとお父さん、壁に背中つけて立ってみて。はい、気をつけー」
言われるがままに、僕とお父さんは並んで立ち、背筋を伸ばした。
愛里がスマートフォンを掲げた。カシャッ、とシャッター音が鳴る。
「ほら、お兄ちゃんのほうが背が高くなってる」
そう言いながらスマートフォンを裏返し、撮った写真を僕とお父さんに見せた。
確かに一センチ、いや二センチくらい、僕の頭の先がお父さんより上にある。
僕とお父さんは、顔を見合わせた。
「いや……たまたまじゃないか?」
「身長にたまたまなんかないでしょ。あーわかった。お父さん、お兄ちゃんに身長抜かれたのがくやしいんだ」
「……立樹、もう一回、ちゃんと立ってみろ」
妙に真剣な顔をしたお父さんに言われて、今度はお父さんと向かい合って、気をつけの姿勢を取った。
同じ姿勢のお父さんの目が、ほんの少しだけ下にあるように感じる。
「……マジかよ」
そう言ったお父さんの顔の角度が、ほんのちょっとだけ上を向いているように思えた。
いくら僕が毎年クラスで一番背が高いといっても、それはあくまでもクラスの中でのことだ。お父さんは僕よりずっと背が高いはずだった。それが今は、そうではない。
つまり、それだけ歳を取ったし、成長もしたということだ。
「身長で負けたからってなんだよ。剣を握れば俺のほうがまだ上だぞ」
別に勝負しているんじゃないんだけど。それにここは異世界でも仮想世界でもない。スーツ姿で剣の話を持ち出されても、返答に困る。
「とにかく俺はもう会社に行くから」
逃げ出すように玄関のドアを開け、まだ革靴にかかとが入りきっていない足で、外に飛び出していった。
「……そんなにくやしがらなくてもいいと思うんだけどな」
思わぬ形でお父さんを見送ったけど、僕だっていつまでも家にはいられない。
「じゃあ、僕も行ってくるよ」
「いってらっしゃーい」
愛里に手を振って、外に出る。すると、
「おはようございます」
「あ、
ちょうど智保も同じタイミングで家を出たようだ。
「お父さん! 智保をナンパするなよ!」
「あ、立樹、おはよう」
優しい笑顔で僕に挨拶する智保に、僕は挨拶を返すより先に智保に駆け寄ることを選んだ。
「いい? 智保。こんなチャラい大人のチャラい誘いになんか乗っちゃダメだからね」
「立樹はあっちだろ」
お父さんが道を指差した。
「俺はこっち、智保ちゃんもこっち。立樹はあっち。俺は電車、智保ちゃんも電車。立樹は自転車。俺たちのことはいいから、早く行かないと遅刻するぞ? 智保ちゃん、俺たちも遅刻しないように早く行かなきゃ」
「俺たちって言うなよ! なんだよ、“たち”って!」
ものすごく心配だけど、ついて行くことはできない。お父さんが言った通り、僕が行く方向は反対側だ。
「智保、なるべく離れて歩くんだよ」
「うん、わかった」
智保の返事はあてにならないからもっと念を押したいけど、もう時間がない。
僕は自転車にまたがり、智保とお父さんから離れていった。
この春、僕は高校生になった。
中学三年生の一年間、頑張って受験勉強をしたんだけど……。それでも、智保と同じ高校に進学することはできなかった。トップクラスの中でも超トップの高校に進学した智保とは違い、僕は普通よりちょっと上といった程度の高校に進学することになった。智保は自分のことはそっちのけで僕の受験勉強に付き合ってくれたんだけど、僕はそれに応えることができなかった。でも、普通よりちょっと上の高校に行くことができたのは、間違いなく智保のおかげだ。智保にはとにかく感謝している。
◇ ◇ ◇
入学式が終わった。今は教室で、一人ひとりが自己紹介をしているところだ。
いつものことだけど、新年度は落ち着かない。正式な席順が決まるまでは、名簿順で席が決まっているからだ。
背が高いからという理由でいつも後ろの席に座っているけど、新年度ばかりはそうはいかない。今は教室の真ん中あたりの席に座っている。普段みんなの後ろにいて目立たないぶん、真ん中に座っているのがなんだか恥ずかしい。
自己紹介の順番が、僕に回ってきた。椅子を引き、その場に立つ。
教室中の目が、身長が一九〇センチを超えた僕を見上げていた。心なしか、これまで自己紹介をした人の時よりざわめいているような気がする。中には僕と同じ中学から来た人もいるんだけど、他の人と同じくざわめきの一員となっていた。それはきっと、その人とは中学で同じクラスになったことがなかったからだろう。
やっぱり、どうしても目立ってしまう。
「えっと……
とにかく早く座りたい。特に自己アピールするようなこともない。
「その、よろしくお願いします」
しまった、出身中学を言っていなかった、と座りながら思ったけどもう遅い。言い直すことなく、そのまま座った。
僕の後ろの席の女子が立って、自己紹介を始めた。周囲の視線が、僕の後ろへと移る。
と思ったら、まだ一人だけ僕を見ている人がいた。一番壁側の、前から二番目の男子。名簿が二番ということだから、「あ」「い」「う」あたりで始まる名前だったはずだけど、何だったっけ。なんだか落ち着かなくて他の人の自己紹介をきちんと聞いていられなかったから、その男子の名前を僕は覚えていなかった。
目を丸く見開いて、口を半開きにして僕を見ていたその男子は、僕と目が合ったのを避けるように、僕の後ろへと目を移した。僕は後ろを見ることなく、背中を丸めてうつむいたまま、後ろから聞こえる自己紹介を聞いていた。
全員の自己紹介が終わり、今日はこれで下校することになった。
とにかくこの教室の真ん中の席は居心地が悪い。早く帰ろう。
そう思って急いで教室を出ようとすると、
「あの……沢野、だったっけ。ちょっといいかな」
僕を呼び止める声。
さっきの、自己紹介が終わってもずっと僕を見ていた男子だ。中性的な顔立ちに、ふわりとした茶髪。色白で細身の体つき。ファッション誌のモデルにいそうな感じだ。
「えっと……何?」
「いいからちょっと」
その男子は僕の手を掴んで教室の外に引っ張り出し、そのまま歩き出した。仕方がないので、どこへ向かっているのかも知らないまま、僕も歩く。
「どこへ行くの? ……えっと、ごめん、名前、なんだっけ? ちょっと忘れちゃって」
「あ、俺、
岩淵と名乗った男子は僕の手を引き、どんどん歩いて行く。
一体どこへ行こうとしているのか。入学したばかりだからどこに何があるのかがわからず、全く見当がつかない。ただ、場所がわからないのは岩淵も同じなのか、さっき右へ曲がった廊下を引き返して左へ行ったり、階段を途中まで上って下りたりしている。目的地へ向かっているというより、さまよっているといったほうがいい様子だ。
結局僕たちは、玄関ではない場所から外に出てしまった。ここは隣の棟とを結ぶ通路だ。土の上に灰色のブロックが敷かれていて、頭上にはトタン屋根という簡素な作りをしている。
岩淵はドアを閉めた。隣の棟のドアも閉まっている。
周りには誰もいない。二人きりだ。
入学早々、なんだかまずいことになった……ような、気がする。見た感じは、あんまり乱暴なことをするような人ではなさそうだけど……。
岩淵は黙って僕の体を頭から足の先まで見て、また頭を見た。まるで今朝の愛里だ。
何なんだ? どういうつもりなんだ?
岩淵の口が開く。
「すげーな! マジでこんなに背が高いんだな! 顔とかもマジでリッキのまんまじゃんか!」
え!?
「人違いじゃないよな? 名前もそんな感じだったし」
「う、うん、本名は立樹だけど」
「だよな! 俺、感動しちゃったぜ! まさか同じクラスにリッキがいるなんてな!」
まさか、仮想世界の僕のことを知っている人と同じクラスになるとは思わなかった。
でも……誰だ?
「えっと、岩淵は、誰」
「ってことはもしかしてアイリーもか? アイリーもリアルであんな感じなのか? 俺、アイリーにも会ってみたいんだけど」
僕が言い終わるより前に、岩淵は自分の言いたいことをどんどん言ってきた。
「いや……アイリーのことは、答えられないけど」
いくらクラスメイトでも、愛里のプライベートな情報を教えることはできない。
僕自身のフレンドはとても少ない。でも、アイリーはやたらと知り合いが多い。フレンド登録している人だけでなく、それ以外の付き合いも広い。そのせいで僕もアイリーの兄として広く知られてしまっている。もしかしたら岩淵もアイリーの知り合いで、それで僕のことを知っているのかもしれない。
「えっと、その、岩淵は、アイリーの」
「ん? 待てよ?」
また僕が訊きたいことを無視して、岩淵が話し出した。
「リッキがタメってことは、ひょっとしてお嬢もタメなのか? てっきりお嬢は少し年上だと」
思っていたのと違った!
「お嬢って! お、おまえ、ザーム」
「あーそうそう。俺、ザーム。リアルでもよろしくな、リッキ」
ニコリと笑ったザーム、いや、岩淵の口には、八重歯がなかった。
◇ ◇ ◇
「それは……お疲れ様」
ザームとクラスメイトになったことを聞いた愛里は、なんとも微妙な言葉を返し、うどんをすすり、つゆを飲んだ。
僕と違って今日までが春休みの愛里は、朝からずっと『リュンタル・ワールド』へ行っていたけど、昼食のタイミングで戻ってきた。食べ終わったらまたログインするつもりなのだろう。
今日の昼食は天ぷらうどんだ。天ぷらはお母さんがヤスコで買ってきたものなので、僕はうどんをゆでただけだ。
「見た目はちょっと違うけど、性格はたぶん、ザームと同じかな」
「へー、そうなんだー」
愛里はうどんをすすり続ける。
「あんまり興味なさそうだな」
「まーね。リアルのザーム、私関係ないし。どうせお兄ちゃん、家にザーム呼んだりしないでしょ?」
元々アイリーはアバターの中身がどんな人か、詮索することはない。たとえザームであっても、それは同じなのだろう。
「呼ぶつもりはないけど、妙に馴れ馴れしいやつだから、そのうち家まで押しかけてこないか心配だよ。愛里にも会いたがっていたし。それにフレンド登録もしつこく言われて結局させられちゃったし……。僕が『リュンタル・ワールド』をやっていることは絶対に言うなってかなり強めに言っておいたから、それだけは守ってほしいんだけど」
僕が『リュンタル・ワールド』をやっているのを公開しないのは、僕がプロデューサーの息子であることがバレないため、そのせいで内部事情を知っているのではないかと勘ぐられないためだ。これが知られてしまうと、裏情報を教えろという脅迫を受けてしまう可能性も否定できない。
「それはちゃんと守るんじゃない? ザームって、根は真面目だし」
「真面目? ザームが?」
僕にはザームはおちゃらけた軽い感じの男に見えるけど、愛里にはそうは見えていないのだろうか。
「だってあんなにフレアに一途じゃん。フレアはどう思っているかわからないけど、ザームの気持ちは本当なんじゃないの? じゃなきゃ、とっくにフレアからもギルドからも離れてるでしょ」
「…………えっと、だから、何?」
「だから真面目だって言ってんの! もーお兄ちゃんのバカ!」
最後の一本をすすり上げた愛里は、ゴクゴクとつゆを飲み干すと丼をテーブルに叩きつけた。
「じゃ、私また行ってくるから」
「なんでそんなに怒ってるんだよ」
僕の疑問に答えることなく、愛里はリビングを出て階段を駆け上がっていった。
◇ ◇ ◇
「あのバカ、リアルでもリッキに迷惑かけるなんて」
ティーカップを持つフレアの手が震えている。カップがソーサーに当たって、カチャカチャと音を立てた。
「同じクラスになっちゃったのはザームのせいじゃないしさ。ザームが迷惑かけてるってことはないよ」
ちょっと遅れてうどんを食べ終えた僕は、『フォレスト・オブ・メモリーズ』
「とにかく後でキツく言っておくから。これ以上沢野君に関わるなって」
「『リュンタル・ワールド』をやっているってことを黙ってさえいてくれれば、問題はないから。クラスメイトなんだし、関わるなっていっても無理だって」
「そうよねー。あーもうどうすればいいのかしら……」
フレアは顔を伏せた。その顔を両手で覆う。
「フレアは別に何もしなくていいって。これは僕とザームとのことなんだから」
「ありがとう。気を使わせちゃってごめんね。……ところで」
顔を両手で覆ったまま、指の間から目を覗かせる。
「リアルのザームって、どんな人?」
愛里と違って、フレアはリアルのザームが気になるのだろうか。
「ちょっと中性的で、モデルっぽいというか――」
僕がザームの印象を説明すると、
「やっぱりリアルでもカッコつけたがりなのかしら。性格も残念っぽいし」
顔を起こしたフレアは紅茶を一口飲んで、さらに話し続けた。
「あいつ春休みになったら急にギターの練習なんか始めたのよ。こっちじゃギター売ってないからわざわざリュンタルまで買いに行って。どうしたのかと思ってたんだけど、高校デビューと同時にモテたくて始めたのね。勘違い男の見本みたいなヤツよ」
モテたくてギター、というのはよくある話だ。ただ、それが実ったという話は聞いたことがない。
ただ、仮想世界で音楽活動をする人は多い。アイリーやアミカだってそうだ。それに、現実世界で楽器は持っているけど大きな音を出せる環境にない人が、練習する場所を求めて仮想世界に来る、ということも珍しくない。
「あ、そうそう、知ってる?
中学校でトップスリーと言っていい学力を誇っていた
「え、そうなの? 知らなかった」
「『立樹がいないなら眼鏡してても意味ないから』って言ってたけど?」
玻瑠南が言った部分を、フレアはそれっぽくマネてみせた。
「もしかして別れたの?」
フレアはぐいっとテーブルに身を乗り出した。
「別れたっていうか、その、学校が別々になったってだけで」
迫られたぶん、ちょっと体を引いて答える。
玻瑠南は元々学校では眼鏡じゃなくてコンタクトだったけど、僕が勧めて眼鏡をかけるようになった。似合っているからということの他に、高身長の玻瑠南が上から見下ろすと怖がってしまう人が多かったから、目つきを和らげる意味もあってのことだった。
だから、僕がいないからといって、それが眼鏡をやめる理由にはならないはずだ。他の人から怖がられてしまわなければいいんだけど。
「沢野君って実はメガネ女子が好きだったりするの? だったら私、理想的じゃない? リッキが望むんなら、こっちでも眼鏡かけてもいいけど」
「眼鏡だから好きとか、そういうのは別にないよ。それにどうやってネコ耳で眼鏡かけるんだよ」
「それはまあ……なんとか作ってみる」
乗り出していた体を引き、フレアは椅子に腰を落とした。ティーカップに指をかける。
「眼鏡の話はもういいから。それよりさ……智保はどうだった?」
「
ティーカップを持ち上げようとした、フレアの手が止まった。
少し鋭い目つきで、じっと僕を見つめている。なかなか答えてくれない。
長い間を置いて、フレアの口が開いた。
「それ、私に訊くの? 本人に訊いたらいいんじゃない?」
話し終えたその口が、不機嫌そうに紅茶を飲む。
ちょっと……怒らせてしまったみたいだ。二人はそんなに仲がいい訳じゃないしな。
「ごめんフレア、その、深い意味はなくて、ただちょっと気になっただけで」
フレアはティーカップを置いた。
「……何かあったの?」
「いや、何もないけど……なんか心配でさ。浮いてしまってないかとか」
「あ、そういうことね。それなら本人には訊きづらいわね……」
クッキーを手に取り、ポリポリとかじりながら、フレアの目が斜め上の天井を眺める。
智保は行動が独特だから、新しい生活になじんでいけるか心配だ。学校が別々になってしまった以上、同じ学校の玻瑠南や西畑に訊くしかない。
「松川さんとは同じクラスじゃないし、よくわからないわ。……あ、ザームがインした」
フレアの指が空間で動く。
「あいつここに来るって言ってるんだけど! 勝手にギター弾いてればいいのに! あ、でもギルドのことで話したいこともあるし……。ごめんリッキ、また後にしてくれる?」
「うん、じゃあまた後で」
僕は部外者だ。ギルド内部の話に関わることはできない。申し訳なさそうな顔を見せるフレアに軽く手を降って、部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
ピレックル郊外にある劇場に来た。
やることがなくなったからなんとなくアイリーにメッセージを送ってみたら、これから劇場にアミカが来るから僕も来ないか、という返事が来たからだ。
最近のアミカと今朝のことを重ね合わせながら、劇場の裏手にある稽古場のドアを開く。同時に音楽が聞こえてきた。
「あ、お兄ちゃん! お兄ちゃんも聞いてよ! 今度の新曲、すっごいいいから!」
ドアを閉めるよりも前に、アイリーが大きな声で僕を呼んだ。空中には黒い球体が二つ、アイリーの左右に漂っている。音楽はここから放たれていた。歌っているのはアミカだ。
「アミカの新曲?」
アイリーの前にはアミカがいて、反応を伺うようにじっとアイリーを見ている。きっと新曲を聞かせるために来たのだろう。
アイリーの指が空中を動く。音楽の音量が下がり、話しやすくなった。
「違う違う。アミカが私に書いてくれた曲なの。今は仮歌を聞いてたんだけど、それがすっごいよくって。だからお兄ちゃんも聞いてよ」
「でもさ、僕は歌のことはよくわからないから」
「もーせっかくアミカが書いてくれたのに! すっごいいいんだよ! これまでにないような、こう、んー……大人っぽいというか、とにかくすっごいよくって」
「すっごいいいばっかりじゃないか」
アイリーの表現の貧弱さに呆れつつ、隣にいるアミカに目を移す。
「まあでも、アミカもちょっと大人っぽくなったもんな」
「うん、アミカ、いつまでも子供じゃないから」
ここ一年くらいで、アミカの身長はかなり伸びた。小学校の高学年くらいの身長しかなかったのが、今ではアイリーよりもちょっと高いくらいだ。少しずつ伸ばしていったから僕にとっては違和感はなかったけど、久しぶりに会った人や、ライブに来るファンなんかは、身長の変化にずいぶん戸惑っていたらしい。ただ、身長だけじゃなく、服装や言動もそれに合わせて子供っぽさが抜けてきているから、ファンや周囲の人たちはこれをアミカの成長と受け止めているようだ。
もっともこれには、現実の玻瑠南の身長とアミカの身長との差がつきすぎてしまって、思うようにアバターの体を動かせなくなってしまったから、という本人にとってはあまり喜べない事情が隠されているんだけど。
「これからは大人っぽい服もどんどん着ていけばいいんじゃないかな」
「うーん、でもナオが忙しくなったから、あんまり新しい服が着られないかも」
「あー、そうか……。それは、しょうがないね」
アミカのステージ衣装を担当しているナオは、現実世界ではファッション関係の専門学校に通っていた。アミカと出会ったのも、自分が考えた服を着てくれる人を探していたことがきっかけだった。
でも現実のナオは就職が決まり、四月から念願のファッション関係の仕事をすることになった。だからこれまでのようにアミカに新しいデザインの服を提供できなくなるということは、十分考えられる。
「でも、アミカはうれしいよ。ナオの夢が叶ったんだから」
アミカの表情に不満の色はない。むしろ笑顔だ。
「あ、ところでさ」
僕はさっき聞いたことを思い出した。
「最近、ザームがギターを始めたらしいんだけど、一緒にやってみたら――」
「いらない。足りてるから」
「アミカも」
「そ、そうか」
こんなにもあっさり否定されてしまうなんて、さすがザームだ。
「でもさ、お兄ちゃんも楽器とかやったら? お兄ちゃんとだったら一緒にやってもいいけど」
「僕はいいよ。そんなに興味ないし」
「じゃー楽器じゃなくて歌でもいいから! あ、この間奏のとこ、男声コーラスが入るとカッコよくない?」
そうアミカに提案しながらアイリーの指が動き、音楽の音量が上がる。
「うん、それもいいかも。ラップっぽいのでもいいし」
「あーそうだよね! お兄ちゃん、ちょっとやってみてよ!」
「できる訳ないだろ! いきなりラップなんか!」
「いきなりが無理なら練習してよ」
「しないって!」
アイリーが僕を呼んだ理由がわかった。ようするに僕に何かをさせたいんだ。イベントをやる時、アイリーはいつも僕を参加させたがる。歌を歌うように誘ったのも、これが初めてじゃない。僕がザームの話を出さなくても、きっと何かにかこつけて僕を誘っていただろう。
「なんにもやらないんなら、お兄ちゃんを呼んだ意味がないじゃん」
やっぱり。
僕はちょっとイライラしてきた。
「僕は冒険ができればそれでいいんだ。音楽を聞くだけならいいけど、歌とか楽器とかはしないから。そうだ、これから歌の練習をするんだろ? 僕がいたら邪魔だろうから、また後で。アミカ、また会おうね」
「う、うん」
戸惑うアミカの返事を聞くか聞かないかのうちに、僕は背を向けて稽古場を出て行った。
◇ ◇ ◇
「智保、学校どうだった? ……というかその前に、お父さん大丈夫だった?」
シェレラがログインしてなかったので、僕はログアウトして智保に電話してみた。
「うん、大丈夫。方向逆だし」
「そっか、ならいいんだけど」
いくらお父さんでも、さすがに現実世界で問題行動をとることはないだろう。
そう思いつつもやっぱりちょっと心配していたけど、本当に何もなくてよかった。駅は同じでも行く方向が逆だというのは、安心できる要素だ。
「で、学校、どうだった?」
「うん、入学式があった」
「……えっと、他には?」
「教科書もらってきた。今めくっているところ」
「え、もう読んでるの?」
「めくっているだけ」
僕も教科書をもらってきたけど、まだかばんに入ったままだ。そもそも普段ですら、宿題や試験もないのに家で教科書を開くなんてことはない。
とりあえず、智保の声を聴く限りは、学校で特に何かがあったということはないみたいだ。
「ごめん、邪魔しちゃったみたいで」
「大丈夫。大体わかったから」
「わかった? 何が?」
「教科書」
「えっ??」
「教科書、大体わかった」
「えっと……、うん、そうなんだ」
僕には到底理解できないけど、智保ならちょっと見ただけで教科書の内容がわかってしまうのだろう。
じゃあまたね、と言って、僕は電話を切った。
◇ ◇ ◇
高校生になっても、『リュンタル・ワールド』での僕たちは変わらなかった。アイリーはイベントを開催し、シェレラは工房でアクセサリーを作り、アミカは歌を歌い、フレアはギルマスとしてギルドを運営していた。そしてたまに集まって、リュンタル各地で冒険をした。もちろんパーティにはザームが加わることもあったし、レイやシロン、それにアイリーが新しく知り合ったNPCが加わることもあった。
そして、一ヶ月が過ぎた。
ゴールデンウィーク最終日。
僕はソンペスという街に来ていた。
試験勉強であまり『リュンタル・ワールド』に来ていなかったから、最近はいろんな街へ行って現状を確かめることにしている。ソンペスもそんな街の一つだ。とは言っても、前にソンペスに来たのはいつだったっけ……。確か、本物のリュンタルがあると知ったのより前だったはずだ。ということは二年くらい前か? 試験勉強、全然関係ないな。
ピレックルからはだいぶ離れているし、特に大きな街でもないから、用もないのにわざわざ来るような所ではない。それが、こんなに久しぶりになった理由だ。
ここへ来る前にすでに別の街へ行っていて、ソンペスは二つ目の街だ。たぶん、今日一日で五つくらいの街は回ることができるだろう。
装備は外し、軽い腰で街の大通りを歩いてみる。普通の中規模の街の、よくある普通の街並み。太陽をモチーフにした紋章があちこちにあるのが、ちょっと目立つくらいだ。人通りもまあまあ普通。前に来た時のことをあまり覚えていないけど……たぶん、こんな感じだったのだろう。何か特徴があったら、覚えていたはずだし。
ショップに入ってみる。アイテムも普通。他の街でも売っているものばかりだ。
小径を覗いてみても……、特に何もなさそうだ。
だいたい見て回って、来た時の『
特に何もなかったから、そろそろ次の街へ行ってみよう。そう思い、『門』に入ろうとしたその時。
電子音が鳴った。最近追加された、右向きの三角形のアイコンが点滅している。
指先で触ると、アイリーの顔アイコンと名前が追加で表示された。
その顔アイコンから、画面を開く。画面にはアイリーの姿が映っていた。
最近導入された、ビデオチャットだ。
後ろには見慣れた噴水が映っているから、ピレックルの噴水の広場にいることがわかる。
「お兄ちゃん、今どこ?」
「今はソンペスって街にいるけど」
でも次の街に行くつもりだ、と言おうとしたら、
「じゃあこれからそっちに行くね」
「え、なんで?」
「だってゴールデンウィーク終わるじゃん。だからみんなで集まって何かしよかなーって思って」
「何かって、何?」
「もーそんなの後で決めればいいじゃん! とにかく行くから! ソンペスソンペス……あー、ここかー」
相変わらずアイリーは計画も何もない。いきあたりばったりだ。場所も後から確認しているし。みんなで集まってって言っているけど、どうせこれから声をかけて集めるのだろう。
「じゃーこれから行くから、『門』で待ってて」
同意した覚えはないけど、すでに決まってしまったらしい。
もっとも、断る理由はない。街巡りは暇な時にやればいい。
「うん、ちょうど今『門』の前にいるから――」
言い終わらないうちに、ビデオチャット画面が消えた。
そしてすぐに、目の前の『門』から円筒状の白い光が立ち上った。
数秒後、光が徐々に下りていく。
「なんだ、みんないたのか」
アイリーが一人で来るんだと思っていたら、意外にもそうじゃなかった。
シェレラ、アミカ、フレアの姿も、光が下りるとともに見えてきた。
◇ ◇ ◇
「お兄ちゃん、この辺に冒険するとこある?」
合流した途端、アイリーが切り出した。
「いやあ、わからないけど」
二年前に来た時に、冒険をした記憶はない。ただ街に来ただけだったはずだ。
「じゃあ何かクエストとかないかな?」
「クエストかー。あったはずだけど、内容まではわからないな」
街を歩いていた時に、クエストを掲示するためのボードは見た。少しだけクエストがあったはずだ。でも、どんなクエストなのかまでは見ていなかった。
「ちょっと見に行ってみようよ」
「そうだな、そうしようか。みんなもそれでいい?」
そう言うとみんながうなずいたので、ボードがある所までみんなを連れて行くことにした。
「他にメンバーはいないの? 五人だからまだ入れられるけど」
「あー、それは私も思ったんだけど……」
遊ぶと決めたのが急すぎて、さすがのアイリーでもNPCを含めて時間が空いている人を見つけられなかったらしい。それでも、いつもの仲間が集まっただけでもすごいことだと思う。ザームはいないけど。
そんなことを話しているうちに、クエストボードの前まで来た。
「ないね……」
ボードには何もなかった。この少しの間に、誰かがクエストを引き受けてしまったようだ。
どうしようかと思って辺りを見回すと、壁に寄りかかって座っている白髪のおじいさんが目に入った。この人はNPCだ。途中で追加された自由意志を持つNPCじゃなくて、昔からいる、特定の役目をするためのNPCだろう。
NPCとの会話からクエストに発展することもある。話してみよう。
「こんにちは。最近、この街で何かありましたか?」
「いや、特にないが」
「じゃあ、街の外に、冒険者が行く場所はありますか?」
「ないな」
ハズレだったか?
しかし、おじいさんは話し続けた。
「北の森に、何もない場所がある。本当に何もない。森の中だというのに、木もなければ草もない。石ころ一つない」
そんな場所が? 何もないどころか、むしろ何かありそうな気配がする。
「何もないことを怪しんだ者が調べたが、本当に何もなかった。本当にだ」
「本当に何もなかったの?」
アイリーも興味を引いたのか、おじいさんに話しかけた。
「ああ、何もなかった」
「それって、いつ頃の話?」
「そうだな、二年ぐらい……いや、もっと前だったか。とにかく、何もないのだ。本当に、何もないのだ」
「そっかあ……」
残念そうな表情をおじいさんに見せたアイリーだったけど、振り向いてみんなに見せた顔は一変していた。楽しそうな表情で、目で何かを求めている。
みんなが小さくうなずくと、アイリーはまたおじいさんのほうを向いた。
「ねえ、それって、森のどの辺りにあるの? 間違って行ってしまわないように、教えてほしいの」
「うむ、場所は――」
◇ ◇ ◇
僕たちはおじいさんが言っていた場所へ行くことにした。アイリーが場所を聞き出した理由はあくまでも方便で、何かがありそうだ、ということでみんなの意見は一致していたからだ。
街を出て、街道を歩く。北に伸びるこの街道は森を貫いていて、さらに北にある街へとつながっている。森の中で細い分かれ道があって、そこから奥へ入って行けばいいそうだ。
「絶対何かあるよねー」
歩きながら、僕の右側でアイリーがつぶやいた。右手の人差し指が、何もない空間で激しく動いている。
「掲示板にも何もないなー」
ここ二年の間に何かあったかを調べたアイリーが、結果を得られずに右手を下ろした。
「行ってみなきゃわからないこともあるだろうし、気にすることはないわ」
落ち込んだアイリーを、フレアが励ます。
「うん、そうだね。とにかく行ってみよう! おー!」
アイリーは急に上機嫌になってスキップでどんどん先へ進み、森の中へ入って行ってしまった。相変わらずお気楽だ。
「もし何もなくても、アミカ、リッキと一緒にいるだけで楽しいよ」
アイリーがいなくなって空いた場所にアミカが来て、僕の手を握った。
こういう時、以前ならシェレラが後ろからアミカの首根っこを引っ掴んで無理やり引き剥がしていたけど、今は違う。
アミカの背が伸びて、シェレラとの体格差がほとんどなくなったからだ。
「あたしもリッキといると楽しい」
シェレラは僕の左側に来て、同じく手を握った。
「シェレラ、そっちはだめ。リッキが剣を握れなくなる」
「街道はモンスターが出ないでしょ」
街道は非戦闘区域だ。モンスターが出現することはない。
「モンスターは出ないけどさ、ちょっと歩きにくいから、二人とも手を離してほしいんだけど」
右を見て、左を見る。
離さない。
両手が不自由なまま、森の中へ入っていく。
「えっと……」
「諦めたほうがいいんじゃない?」
後ろでフレアが言った。
「私は別に手をつながなくてもいいけど。あとでギルドのホームに来てくれれば」
アミカとシェレラが、同時に振り向く。
「ちゃんとお茶とお菓子も用意してあるから。ザームはギターに夢中でここんとこ顔を出していないし、完全に二人っきりになれるわ」
今日ザームが来ていないのは、やっぱりギターが理由か。
「あたしの工房にも来るけど?」
「作業場でしょ? ゆっくりくつろぐことはできないわ」
「アミカ、スタジオの中に部屋があるよ」
「人気アイドルが男を部屋に連れ込んでもいいの? ファンが発狂しそうね」
「ちょっとやめろよ! 喧嘩するなって! ……あ、ほら、アイリーが待ってる」
街道の先で、アイリーが左腕を頭上で振って呼んでいる。
右腕は真横に向けて指さしている。「ここに道があるよ」と叫んでいるのが聞こえてきた。
「ほら、街道から外れるから、手を離して」
そう言うと、やっと二人は手を離してくれた。
僕は剣を装備し、戦闘に備えた。
街道から分かれた小道を進む。モンスターは現れない。
やがて小道はなくなった。木々の間を縫って進む。やはりモンスターは現れない。
だんだん緑が濃くなっていく。
「モンスター、いないね」
アミカが僕の右手に触れた。
「うん、でも気をつけなきゃ」
僕は手をつなぐのを拒んだ。
ここまでモンスターが現れていなくても、これからも現れないという保証はない。周囲を警戒しながら歩く。
「なんだかFoMみたいな場所ねー」
僕の後ろで、フレアがつぶやく。
「でも、FoMならもっとモンスターが出てくるけど」
「本当はこの森もモンスターがいていいと思うんだけど……もしかしたら、わざと森の奥に行きやすくしているのかも」
モンスターの配置や強さを調整することで冒険者の侵入を拒んだり、特定の方向に進むよう誘導したりするのはよくあることだ。
「何かありそうに思わせて行きやすくしておいて、それで何もなかったとしたら相当な罠ね。誰も得しない、本当にがっかりな罠。作った人に文句言いたくなる」
「えっと、それは、ちょっと……」
「冗談よ、冗談」
軽く叩いてくるフレアの手を、背中で感じる。
「もしお父さん……というか、運営がそういうふうに作ったのだとしても、結局はおじいさんを疑った僕たちが悪かったってことなんだけどね」
「それはそうだけど……」
でも、きっと何かがあるだろう。こういう時は、何かがあるものだ。
そう思いながら歩き続けると、濃密な緑の向こうから明るい光が差し込んできた。
木々の向こうに、森をくり抜いたような円形の砂地が広がっていた。
本当に、何もない。雑草一本、石ころ一つない。
起伏もない。つながる道もない。
空を見ても、雲ひとつない。太陽が真上から照りつけているだけだ。
ここが、おじいさんが言っていた場所で間違いないだろう。
「本当に何もないね……」
アイリーがつぶやく。そして、何も警戒せずに足を踏み入れた。円の中心に向かって、足跡でできた点線が伸びる。
「アイリー! そんな簡単に行くなって! 何かあったらどうするんだよ!」
「えー、でも何もないよ? みんなも来なよ」
アイリーに誘われ、他のみんなも歩いていく。
仕方がないので、僕も行くことにした。
円の中心まで来た。
何もない砂地が、僕たちを中心に広がっている。
「真ん中まで来れば何かあると思ったんだけどなー」
アイリーがどうしてそう思ったのかはわからない。たぶん根拠はないのだろう。
それに、そんな簡単なことでイベントが発生するなら、二年以上もずっと何もなかったなんてことはないはずだ。
「もしかしたら、昔の戦闘の跡地なのかもしれないね。本物のリュンタルで、こういう場所を見たことがあるよ」
ヴェンクーのお母さん、ミオザが生まれた村へ行った時のことを思い出した。森の中で火の魔族が生まれると、周辺が焼け焦げて森に穴が空いたような黒い円形が生まれる。この砂の円も、本物のリュンタルで過去に何かがあって、その地形をお父さんがそのまま再現しただけなのかもしれない。
「じゃあ、こっちの仮想世界では、これはただの地形ってこと?」
フレアが僕に確認する。
「うん、その可能性は高いと思う」
「あたし、ちゃんと発動条件があると思うけど」
「えっと……、シェレラ、どうしてそう思うの?」
シェレラが言うなら何かがある。僕には理解できないことも、シェレラなら気づいて理解できる。
「例えば、影もなくなった時とか」
「影?」
足元を見る。確かに、ないと言ってもいいくらいに影が小さい。太陽が真上にあるからだ。
「何もない場所だから、影もあったらダメ。前に来た人には、たぶん影があった」
本当に? 本当に、そんなことが条件なのか?
「あ、ちょうど十二時」
アイリーが言った、その瞬間。
円と森との境界から、黒いもやが立ち上りだした。
「ほんとだ! 何か来た!」
そう叫んだアイリーだけでなく、僕も周囲を見渡す。
黒いもやが、少しずつ、砂の円を狭めて近づいてくる。
逃げることはできなさそうだ。
強制的に、ここで何かが起こる。
僕だけでなく、みんなが戦闘態勢を整えた。黒いもやに、目を凝らす。
その黒いもやが、近づくにつれ徐々にはっきりと見えてきた。
「あれは……、そんな、まさか」
黒いもやの正体は、何度も見たことがある、あのドット。
本物のリュンタルへの入り口だ。
また、あの世界へ行くのか。
行っていいのか? 行くべき、なのか?
相反する気持ちが、心の中で混ざり合う。
行きたい。
吸い寄せられるように、ふらふらと足が前に出た。
「お父さん! 見える?」
アイリーが叫んだ。
ふと我に返り、僕の足が止まる。
「『門』を開いて! バグに飲み込まれる!」
ビデオチャットで、お父さんに訴えているんだ。
アイリーは僕なんかよりよほど冷静だ。
ドットに触れることで本物のリュンタルに行った場合、向こうでは決まって気絶してしまっている。
でも『門』を通じて行けば、その心配はない。
黒いもやはどんどん僕たちに近づいてくる。あと十秒もあれば飲み込まれてしまうだろう。
「お父さん! 早く!」
足元に光の円が広がった。お父さんが『門』を開いたんだ。
「アミカもフレアもごめん。また巻き込んじゃって」
アイリーの声に二人が返す間もなく、『門』の周囲から白い光が立ち上った。
◇ ◇ ◇
白い光が下りていくと同時に、見えてきた風景に違和感を覚えた。
木々が近い。
仮想世界の円形の砂地より狭い空間に、僕たちはいる。
そして光が消え、全体が見えるようになると、さらなる違和感。
下が砂地ではない。でこぼこの硬い土の地面だ。草も生えているし、石ころも転がっている。それに道が前後にある。ここは道の途中にある空き地、といった感じだろうか。
本物のリュンタルには何度か来たけど、仮想世界と地形が違うなんて初めてだ。
「ここ……異世界、なのよね?」
「うん。ごめんね。こうするしかなかったから」
アイリーがフレアに謝る。
「やっぱり発動した。あたしが言った通り」
シェレラは勝ち誇ったように言っているけど、僕たちが思っていたのはあくまでも仮想世界のゲームとしてのイベントだ。シェレラだってきっとそのつもりだったはずなのに。
アミカが僕の袖を掴んだ。頭を下げるように仕草する。
頭を下げると、アミカは耳元で囁いた。
「こんなことになるなら、小さい体のままにしておけばよかった」
アミカの声だけど、言っているのは玻瑠南だ。
初めて本物のリュンタルに来たときにも、こういうことがあった。
仮想世界のアバターではなく、実体としてロリっ娘の身体を得たことがうれしかった玻瑠南は、アミカの声のままで僕に本音を言ったのだった。
でも今のアミカは、成長してしまっている。
「しょうがないだろ、ははは……」
二回目だから驚かなかった。僕は笑ってごまかした。
異世界に来てしまっても動じることのないアミカと違って、フレアは不安をあらわにしている。
「どうして私たち、またこっちへ来ちゃったのかしら?」
「たぶん、呼ばれたんだと思う。あの時みたいに」
アイリーが答える。
「きっと、困っている人がいるはず。私たちの助けが必要な誰かが、きっと近くにいる」
「でも、こんな所に人なんて」
フレアは辺りを見回した。そして、
「あ…………」
後ろへ振り返ったまま、声を詰まらせている。
僕も後ろを見た。
その先にいる、見知らぬ女の子と目が合う。茶色い髪に白い肌。背は低く、僕たちよりも少し下の年齢に見える。武装はしていない。普通にソンペスで暮らしている人だろうか。
さっきまでは後ろには誰もいなかった。ちょうど後ろの道を抜けて、この空き地へ来たところのようだ。
女の子は右手にかごを持っている。隙間なく編まれていて、中身は見えない。
きっと僕たちはこの女の子を助けるために、本物のリュンタルに呼ばれたのだろう。
でも向こうはそんなことは知らない。女の子から見れば、僕たちはただの不審者だ。
とりあえず、軽く挨拶しておくのが無難だろう。
「や、やあ、こんにちは」
「あの……どなた、ですか」
女の子は右手に持っていたかごを両腕で抱え込んだ。奪われまいとしているのだろうか。
やはり僕たちは警戒されてしまっている。
「えっと、僕たちは、その、通りすがりの者と言うか」
「あなたがたは、魔女の仲間なんですか?」
魔女?
「それとも……魔女を倒しに、来たんですか」
僕たちは顔を見合わせた。
「どうやら、悪い魔女がいるみたいだね」
「きっとそれで呼ばれたんだよ」
アイリーはそう言うと、女の子に近づいていった。
「私たち、この森に迷い込んじゃって。魔女のことは何も知らないの。もしよければ、魔女のことを教えてほしいんだけど、いいかな?」
女の子はミーキーと名乗った。
「この森の奥に、魔女の館があるんです。あの煙突がそうです」
道の向こうを指さす。道は真っ直ぐではないので遠くは見えないけど、木々の緑を貫いて高い煙突が空に向かって突き出ているのは、はっきりと見える。
「でも、魔女の姿を見た人は誰もいません。声を聞いた人も、いません」
アイリーが首をかしげる。
「じゃあ、どうして魔女がいるってわかるの?」
「魔女が飼っているオウムが村に来て、村で採れる薬草を持ってこいと命令するんです。魔女は薬を作っているみたいなんです。どんな薬なのかはわかりませんが……」
村? ソンペスの人じゃないのか?
頭の中で、マップを広げる。
森の近くに、村なんてあったっけ……?
「言うこと聞かなきゃいいじゃん。どうせ魔女は家から出て来ないんでしょ?」
「だめです! 村が魔獣に襲われてしまいます! ……もう、あんな目には遭いたくないんです」
「……ごめんね、ミーキー。つらいことを思い出させちゃって」
泣き崩れそうになったミーキーを、アイリーが抱きしめる。
「大丈夫。私たちがなんとかする。私たち、悪い魔女をやっつけに来たんだから。そうでしょ、みんな!」
振り向いたアイリーが、同意を求める。
うん、とうなずく。他のみんなもうなずいた。
「みなさん、ありがとうございます。でも、その、お気持ちはうれしいんですが……」
「大丈夫、心配しないで! 私たち、こう見えて結構強いんだから!」
「そうじゃなくて、その……魔女は、必ず一人で来るようにと言っているんです」
「え、一人で?」
「はい。もしみんなで行ったら、また魔獣が襲ってくるかもしれません」
「そっかー、どうしよう……」
もし魔獣が僕たちを襲ってくるのなら、戦えばいい。でも村が襲われたら、森にいる僕たちは何もできない。
ミーキーがちらちらと僕に目を合わせている。
僕だけが男だし、飛び抜けて身長が高いから、目立ってしまうのは仕方ない。どうしても気になってしまうのだろう。
アイリーも、ミーキーの様子に気がついているようだ。そして、
「じゃあお兄ちゃん、ちょっと魔女倒してきてよ」
「…………は?」
ちょっとポーション買ってきてよ、と言うのと同じような軽い感じで、僕に大役を振ってきた。
おかげで喉の奥から変な声が出てしまった。
「一人しか行けないんなら、お兄ちゃんが行ったほうがいいでしょ。一対一で戦ったら、一番強いの絶対お兄ちゃんじゃん」
「なんだか都合のいい褒め方だな」
一対一の戦闘なら、剣士である僕が一番向いている。それに相手は魔女だ。魔法で攻撃するより剣で斬り込んでいったほうが防御されにくいだろう。
とはいえ突然アイリーに「一番強い」とか言われると、背筋がムズムズしてくる。
「あの、わたしからも、お願いします」
さっきからちらちらと僕を見ていたミーキーが、今度はじっと僕を見据えた。
「村の薬草はもう取り尽くしてしまったんです。次にまた持ってくるように言われたら、今度こそ村は終わりです。お願いします、どうか助けてください!」
アイリーはともかく、ミーキーにここまで言われたら行かない訳にはいかない。
「わかった。僕が魔女を倒すよ」
そのために僕はまた本物のリュンタルに来たんだ。
ミーキーを、村の人たちを、絶対に助けなきゃ。
◇ ◇ ◇
ミーキーから預かったかごを持って、一人で森の中の道を進む。
魔女……どんなやつなのだろうか。
わかっているのは、オウムを使役できること、そして魔獣使いでもあるということだ。
それ以外は、想像のしようがない。
若いのだろうか。それとも年老いているのだろうか。
そもそも本当に女なのか? 魔女というのはオウムが言っているだけで、本当は男という可能性だってある。
そんなことを考えながら歩いていると、道の先が開け、空き地が現れた。
空き地の奥に、古い大きな建物がある。あれが魔女の館か。
まだ五分くらいしか歩いていないのに。意外と近かったな……。
いや、異様に近い。それに、そもそもこんな建物があるのも変だ。
ソンペスのおじいさんは、この館のことを何も言わなかった。近くにこんな建物があるのなら、言っていてもいいはずだ。
もしかしたら、『リュンタル・ワールド』には、この館はないのかもしれない。
お父さんがリュンタルで旅をしたのは、二十年以上も前のことだ。だから、お父さんが帰った後の新しいことには、『リュンタル・ワールド』は対応できていない。でもこの館は見るからに古くて、新しく建てたようにはとても思えない。お父さんがいたころにもあったはずだ。
他にも、砂地だった場所が硬い土になっていて雑草や石があったり、つながっていないはずの道がつながっていたり、近くにはないはずの村があったりと、おかしなところが多い。
ひょっとしてここは、ソンペスの北の森とは違う場所なんじゃないのか……?
そんな考えを、僕は封じた。
今はそれよりも、魔女を倒すことのほうが大事だ。
空き地を進み、館の門の前に来た。周囲は塀で囲まれているけど、高さは僕の身長より低く、簡単に塀の内側にある広い庭を見ることができる。あの高い煙突は、これだけ近づいてしまうと、先端がぼんやりとしか見えなくなってしまっている。
正面に門扉があり、その横にかかしが立っていた。
まるで門番をしているかのようだけど、もちろん門番のためにいるのではない。
かかしの胴体が、棚になっている。
ここに薬草を置いていくことになっている、と、かごを預かる時にミーキーから聞いた。
でも僕がこのかごを持ってきたのは、当然だけど薬草を届けるためではない。怪しまれずにすむためだ。
門扉には鍵がかかっていた。かごを持ったまま門扉を乗り越え、中に入る。もし魔女やオウムが出てきて何か言ったら、「初めて来たのでかかしのことがわからず、中に入ってしまいました」とでも言えばいい。
門から館の入口まで、真っ直ぐ道が通っている。花壇の草花を左右に見ながら、先へと歩く。
魔女の館の庭というと、普通は見ないようなおどろおどろしいどす黒い花とか、食虫植物ならぬ巨大な食人植物とかをイメージしてしまうけど、そんなものは見つけられない。釣鐘型の透明な花の中にもう一つの小さな花があったり、支えもないのに蔓が空へ伸びていたりとちょっと変わった植物が多いけど、真昼の明るさのせいもあって不気味さは感じられない。
さらに歩くと、普通の花も見つけた。僕たちの世界でよく見るバラが、左右で鮮やかに咲き誇っている。左には赤や白、右には黄色、それに青……青もあるのか? やっぱりリュンタルは僕たちの世界とは違うんだな……。
左足首に痛み。
見ると、左の花壇から赤いバラの茎が伸びてきて、足首に巻き付いていた。
とっさに剣を抜き、伸びてきた茎を断ち切る。
上に気配を感じて見上げると、空に伸びていた蔓草が、角度を変えて僕に迫ってきた。
かごを投げ捨て、両手で剣を振り上げて断ち切る。斬られた蔓の先が、勢いのまま僕の背後へ飛んでいった。
周囲を見る。
すべての草花が、不自然に小さく動いていた。
足首に巻き付いたままのバラの棘が食い込んで痛い。しかし取り去るヒマを与えてはくれなさそうだ。
この痛みは、花に見とれていた僕への罰だ。仮想世界にはない痛みを感じたまま、次の攻撃に備える。
今度は、どこからか鈴の音が聞こえてきた。
黄色い花と丸い実をたくさんつけた草が、花壇のあちこちで震えている。鈴の音はこの実が震える音だ。
鈴の音はだんだん大きく、そして小さくなってはまた大きく鳴った。前後左右から、音の大きさも間隔も不規則な鈴の音の波が僕を襲う。
耳が痛い。頭も痛い。平衡感覚がおかしくなり、立っていられない。
ダメだ。これじゃ戦えない。ひとまず引き返そう。
体を反転させ、思うように動かない足をふらふらと前に出す。
どこからか綿毛がふわりと飛んできた。この庭にはタンポポもあったのか。
そう思ったのもつかの間。
綿毛は大量に飛んできて、僕の行く手を遮った。前後左右、そして上からも、真っ白い壁が僕を取り囲む。
混乱する僕の目の前に、綿毛の壁を突き破ってきた巨大な花が開いた。
グラデーションピンクの花びらに囲まれた、中央の小さな玉が破裂する。
綿毛の壁に閉ざされた狭い空間に、花粉が撒き散らされた。
だめだ。吸ってはいけない。右手で口を覆う。
それでも、吸い込まないことは不可能だ。どうしても少しずつ吸い込んでしまう。
身体の自由が、徐々にきかなくなっていく。
意識が朦朧としてきた。
足元がふらついて、膝をつく。
仰向けに倒れ込む。地面に背中を打つ直前、綿毛の壁に遮られていたはずの青空が見えた気がした。
◇ ◇ ◇
目を開く。
青空が見える。
そうだ、僕は花粉を吸って、倒れてしまったんだ。
だから仰向けになっているんだ。だから、青空が見えるんだ。
でも、なんだか変だ。頭の下が柔らかい。枕? でも、ここは外だ。僕が寝ているのは、地面の上だ。
そういえば。
見えているのは、青空だけじゃない。
青空を遮る、何かも見える。
その、青空を遮る曲線が、揺れた。
「気がついた」
優しい声だ。
そして、青空が見えなくなった。
「シェレラ……」
青空を見えなくしたのは、僕を上から覗き込む、シェレラの顔だった。
最初に青空を遮っていたのは、シェレラの大きな胸。
そして僕の頭の下にあるのは、シェレラの柔らかい太もも……。
僕は跳ね起きた。
「あ、ありがとう、シェレラ。シェレラが助けてくれたんだね」
助けてくれたのはうれしいけど、何も膝枕までしなくてもいいじゃないか。
まだドキドキする。ぼうっとしていた頭も、完全に覚めた。
「うん。あたしが綿毛を吹き飛ばして助けた」
シェレラは地面に座ったまま、にっこりと僕を見上げている。
倒れた瞬間に青空が見えたように思ったけど、気のせいじゃなかったんだ。あれはシェレラがしてくれたことだったんだ。
後ろのほうで、爆音が響いた。
そうだ。戦闘中だったはずだ。
周囲を見る。
目に入ってきたのは、焼け焦げてボロボロになった草花が広がる庭。
アイリーが杖を振りかざしている。さっきの爆音はアイリーの爆裂魔法だ。
「あー、お兄ちゃん気がついた?」
攻撃を終えたアイリーが駆け寄ってくる。
反対側からアミカとフレアが、そして塀の向こうで待っていたミーキーも集まってきた。
「もーしっかりしてよね! 私たち来なかったら死んでたじゃん」
アイリーが僕に詰め寄る。
「うん、助かったよ。みんなが来てくれて」
……いや、ちょっと待てよ?
「でもさ、アイリーが僕に一人で行けって言ったんだよな。失敗はしたけどさ、そんなに責めなくたっていいじゃないか」
「ごめんごめん。お兄ちゃん強いからこんなことになるとは思わなくて。あはは」
都合のいい時だけ僕を強いと言ったり、アイリーの失敗でもあるのに笑ってごまかされたりしたら、たまったもんじゃない。
「ところで……大丈夫なのか? みんなで来て。魔獣は出なかったのか?」
この疑問にはシェレラが答えた。
「大丈夫。薬草を届けに行ったのは一人だから。約束を破ってない」
「それはそうだけどさ」
「私もシェレラがそう言い出した時はどうかと思ったんだけど」
フレアは呆れ顔だ。
「魔獣は出なかったし、リッキを助けることもできたし、これでよかったみたいね」
「でもここからはそうはいかないかも」
アミカが魔女の館を見据えた。
「ここから先、魔獣が襲ってきても、言い訳できない」
「そうだね。もしそうなったら、今度こそしっかり戦わなきゃ」
落としてしまっていた剣を拾う。
同時に、館の大きなドアがギィッと音を立てて開いた。
拾ったばかりの剣を握りしめる。
魔獣か? それとも魔女?
…………魔獣だ。
角が生えた狼や二足歩行のワニ、背中が針に覆われたウサギなど、実際の動物ならありえない姿をした雑多な魔獣の群れが、我を忘れて館から飛び出してきた。
キャッ、とミーキーが小さな悲鳴をあげる。
「大丈夫。ミーキーは僕たちが守る」
僕を先頭に、ミーキーを囲む陣形を取った。
突っ込んでくる魔獣に、アイリーが炎の玉を炸裂させた。さらにアミカは弓で、フレアはパチンコで魔獣を倒す。それでも倒れずに迫ってくる魔獣は、僕が剣で斬り捨てた。
乱戦になってはまずい。陣形を崩さないように、なるべく魔獣が接近しないうちに倒したほうがいい。
しかし、そんな思いはあっさりと打ち砕かれた。
巨大なサイの魔獣が、館の入口を破壊して出てきた。鼻先の角だけでなく、頭の上にも鹿のような角がある。
アイリーが炎の玉を投げ込む。サイの魔獣は正面から受け止め、難なく突破して突っ込んできた。
「みんな逃げろ!」
たまらず花壇だった荒れ地へ跳ねるように逃げる。サイの魔獣はそのまま真っ直ぐ走り去って行ってしまった。
魔獣が森の外へ出て行ってはまずいけど、今はそれを気にしている場合ではない。
花壇に逃げた時に、陣形が崩れてしまった。その隙をついて、他の魔獣たちがパーティに割って入って僕たちを襲う。僕は他のみんなと離れてしまった。
「ミーキーを! ミーキーを守って!」
幸いにもミーキーは他のみんなと一緒にいた。ただ、魔獣は僕を合流させないように襲いかかってくる。僕と他のみんなとの距離が、どんどん離されてしまっている。
僕一人だけが、魔獣に押し出されるように館に近づいていく。
ついに館の入口まで来てしまった。
きっと、魔女はしくじったんだ。
パーティを分断することばかり考えて、かえって僕を館に近づけさせてしまうなんて。
館の中からは、もう魔獣の気配は感じられない。このまま中に侵入して魔女を倒してしまえばいい!
勢いよく、館へ一歩踏み入れた。
「行かないで!」
後ろから大きな声がして、勢いづいた体を無理やり止めて振り向く。
「戻って来て、一緒に戦って」
シェレラだ。ミーキーを守り、アイリーたちのHPを回復させながら、僕に叫んでいる。
「でも、魔女を倒してしまえば」
「一人じゃ無理」
今度は冷静に、シェレラは僕に告げた。
おかげで、僕も冷静になれた。
そうだ。ついさっき、僕は一人で戦って死にかけたんだ。
僕は館に背を向け、魔獣の群れに斬り込んだ。
一匹、また一匹と、魔獣を倒す。少しずつ、みんなに近づいていく。
だんだん魔獣が減ってきた。これならすぐに合流できそうだ。
しかし、そんな希望を打ち砕く音が、塀の外から聞こえてきた。
さっき出ていったサイの魔獣が、足音を轟かせながら戻ってきた。猛スピードで一直線にこっちに突っ込んでくる。
「シェレラ!
シェレラの周りには魔獣がいるから、逃げることができない。サイの魔獣の突撃を防ぐには防護壁しかない。防護壁を回避して僕に突っ込んでくることも考えられるけど、でもそれどころじゃない。
シェレラはアミカと何か話をしている。防護壁を張る様子はない。
「シェレラ! 早く!」
シェレラは……防護壁を張らなかった。
右手を前に突き出す。呪文を一言発すると、中指の指輪が紫色に光った。
猛スピードで走っていたサイの魔獣の動きが、突然鈍くなった。足だけでなく、体全体がこれ以上ないほど緩慢に動いている。
動物型のモンスターだけに効く、時間の流れを歪める魔法だ。
今度はアミカが右腕を上に伸ばす。すでに呪文を詠唱していたアミカが、サイの魔獣に雷を落とした。晴天だというのに落ちてきた雷が、角を避雷針代わりにしてサイの魔獣の体中に電撃を走らせる。
黒い煙を吐いて、サイの魔獣はゆっくりと倒れた。
僕なんかより、シェレラのほうがよほど戦い慣れしている。
僕はあせってばかりなのに、シェレラは本当に的確に状況を把握して、最善の判断を下している。
これまで何度もシェレラに助けられてきたけど、今日も助けられてばかりだ。
僕とみんなを隔てていた魔獣の群れも、すべて倒すことができた。
「シェレラ、ありがとう。助かったよ」
合流した僕は、まずシェレラに感謝を伝えた。
「リッキはずっとあたしと一緒にいればいい」
「そうだね、魔女を倒すまではもう離れないようにしなきゃ」
「そうじゃなくて、ずっと」
「……ずっと?」
「アミカもずっと一緒にいるよ!」
「私もずっと一緒にいるけど」
三人が睨み合っている。なんだか変な空気になってきた。
「あ、これ、いつものことだから。気にしなくていいよ。仲いいでしょ」
「は、はあ……」
アイリーの説明を聞いても、ミーキーはまだ戸惑っている。
「と、とにかく先を急ごう。……あ、しまった。かごが」
草花と戦う時に投げ捨ててしまったかごは……周囲を見る限り、もう残ってなさそうだ。
「かごなんていいですから、どうか魔女を」
「うん。わかってる。行こう」
さっき一人で入りかけた魔女の館に、パーティ全員で足を踏み入れた。
入口はサイの魔獣が壊してしまったけど、館の中は何も乱れていない。
入ってすぐに広いロビー。足音が消えるほどふかふかの絨毯。壁には肖像画が掛けられ、天井には金の装飾が施された大きなシャンデリア。奥にある階段の手前には、甲冑と槍が飾られている。
魔女はどこにいるんだ?
さらに館の奥へと歩く。
突然、上から激しい音が鳴り響いた。何かが壊れたような、高い音。
シャンデリアだ。
シャンデリアが落下し、いつの間にか張られていた防護壁がそれを受け止めていた。シェレラの頭上で、砕け散ったシャンデリアの残骸がキラキラと輝いている。
「シェレラ、よく気づいたね。僕は全然わからなかったよ」
「リッキはもう通りすぎてたし」
確かに、パーティの前にいる僕と後ろにいるシェレラとではほんの少しの時間のズレがあるだろうけど、それは大した理由にはならない。もし僕が後ろにいたとしても、きっと気づけなかっただろう。
偶然シャンデリアが落ちてきたとは思えない。これは罠だ。
そう思うと、すべてが罠に見えてくる。
あの肖像画は目が動くようになっていて、僕たちを監視しているんじゃないか。
あの甲冑も、近づくと槍を持って襲ってくるんじゃないか。
とにかく周囲に注意して、不意に何かが襲ってきてもすぐ対応しなければ…………。
不意に体のバランスを失う。
足元の絨毯がその部分だけ見せかけだったのだ、と気づいた時には、僕はすでに落とし穴を転がり落ちていた。
どこか広い場所に出て、そこに置いてあったものにぶつかってようやく僕は止まることができた。
体のあちこちが痛いけど、なんとか立った。
僕がぶつかったのはテーブル、そしてここは……女の子の部屋?
壁には棚が隙間なく並んでいて、本や人形が棚を埋めている。
窓はないけど、天井や棚の上に備え付けられたランプが、暖かみのある光を灯していた。
テーブルの上にも本がある。薄くて大きい。絵本のようだ。
ソファの上にも本や人形が乱雑に置いてある。もし子供が出しっぱなしにしていたのなら、お母さんに叱られてしまいそうだ。
でも、どうして魔女の館にこんな部屋が? ひょっとして魔女は母親なのか?
……そんな疑問は、どうでもいい。早くここを出なきゃ。
そう思った時、初めてこの部屋の不自然さに気がついた。
この部屋の壁には、棚がびっしりと隙間なく並んでいる。
ドアが、ない。
そんなバカな。
振り向くと、僕が通ってきた落とし穴の出口もそこにはなく、他と同じように壁と棚があるだけだ。
僕を閉じ込めて、どうする気だ。
そうだ。
こういう時は棚に仕掛けがあって、どこかがスイッチになっていてその奥の壁が開く、というのがよくあるパターンだ。
手当たり次第に棚の本や人形、そしてランプを動かす。しかし何も起きない。
「無駄だよ」
声を変えるおもちゃを使ったような、高い声が聞こえた。
振り向いても、誰もいない。
「魔女か? どこにいる!」
「ここだよ、ここ」
部屋中を見渡す。誰もいない。どこだ。
…………いた。
「あ、やっとわかった?」
ソファに置いてあった人形が、立って手を振っている。
「お前が魔女、ってことでは、なさそうだな」
「その通り。ボクは人形だよ」
「でも話しているのは魔女だ。魔女がお前の体を使って話している」
「やだなあ。ボクは人形だって」
「ここから出せ」
「ムリムリ。だってボクはただの人形だし」
「出せ!」
人形の喉元に、剣を突きつける。
「だーかーらー、ムリだっ」
人形の頭と体が、僕の剣に斬られて離ればなれになる。体はソファの上に倒れ、頭は床に落ちた。
こんなふざけた魔女に頼まなくても、自分で出口を探せばいい。絶対にどこかにあるはずだ。
「乱暴だなあ、キミは」
また人形の声が聞こえた。ソファとは別の場所からだ。
「おーい、こっちこっち」
棚に置かれていた人形の一つが手を振っている。
「あ、間違えた。こっちだった」
今度は別の棚の人形が手を振る。
「やっぱりこっちにしようかな」
さらに別の人形が手を振る。
「こっちだよこっち」「ボクが話すのがいいよ」「いーやボクだよ」「ボクが」
部屋中の人形が騒ぎ出し、不快な声が僕の耳を襲う。
「黙れ!」
僕は人形たちを睨みつけた。人形たちのおしゃべりが止まった。
「全部斬ってしまえばいい」
「えー、こわーい」
一番近くにあった人形が声を出した。
すかさず僕はその人形を斬った。中に詰まっていた綿が、空中に飛び散る。
「殺される!」「ボクも殺される!」「ボクも!」「ボクも!」「イヤだ!」「イヤだ! 殺されたくない!」「ボクも!」「ボクもイヤだ!」
棚に置かれていた本がふわりと浮き、開いた。部屋中からパラパラとページがめくれる音が聞こえてくる。
「殺される前に殺さなきゃ」
人形が呪文を唱えた。本が炎の玉を放ち、僕を襲う。横へ飛んで避ける。炎の玉は床に落ち、絨毯を焦がした。
「殺さなきゃ」「殺さなきゃ」「殺さなきゃ」「殺さなきゃ」「殺さなきゃ」「殺さなきゃ」
人形が一斉に呪文を唱え始めた。部屋中の本が、炎や電を僕に向けて放つ。
さすがに避けきれない。体のあちこちで、人形の魔法を受けてしまった。
仮想世界の魔法ではない。熱いし、痛い。
だけど、それほどでもない。弱い魔法だ。とはいえ体全体で浴び続けていたら、いずれは死んでしまう。
それはつまり、すぐに死ぬほどではないってことだ。
魔法攻撃を浴びながら、近くで漂っていた本に斬りつけた。だめだ。表紙が意外と硬くて斬れない。
だったらこっちだ。棚に駆け寄り、人形を斬った。どうやら人形はその場から移動することはないようだ。炎や雷を背中で浴びながら、ひたすら人形を斬る。
HPが徐々に減っていく。ポーションを飲み、人形を斬る。
この調子なら、なんとかすべての人形を片付けることができそうだ。
「これはまずいよ。ボクたち負けちゃう」「まずいよ」「負けちゃう」「負けちゃう」
また人形たちがざわめき出した。
本のページが、またパラパラとめくれ出した。
さっきまでよりも何倍も大きな炎の玉が、僕に向けて放たれた。
慌てて避ける。床に炸裂した炎の玉は絨毯を簡単に突き抜け、その下の石の床をえぐった。
こんなのを喰らったら、ひとたまりもない。
大きくなった炎の玉や、何倍も太く光る雷が、部屋中から僕をめがけて飛んでくる。
ひたすら避ける。
人形を倒さなければ攻撃は減らない。でもそれどころではない。なんとか隙をついて腕を伸ばし、人形を斬る。それでもなかなか減らせない。
「ぐああぁっ!」
ついに炎の玉が背中に当たってしまった。痛い。ポーションを飲む。今度は雷を正面から受けてしまった。ポーションを……いや、だめだ。その隙にまた狙われてしまう。逃げろ。とにかく逃げろ。
「殺さなきゃ」「殺さなきゃ」「あ、殺しちゃいけないんだった」「そうだった」「でも動けなくしなきゃ」「そうだね」「動けなくなるまで攻撃しなきゃ」「そうだそうだ」
どうやら魔女は僕を生け捕りにしたいらしい。でも死なずに済むからとか、そんなことは関係ない。とにかく逃げなければ。逃げながら人形を斬って、ここから脱出しなければ。
疲れた。息が切れてきた。仮想世界ならこんなことはないのに。疲れて足がもつれて、転んでしまった。倒れた僕に、炎の玉が浴びせられる。
逃げ、な、ければ…………。
爆発音。
煙がもうもうと立ち込める。
炎の玉ではない。外からの衝撃だ。
人形たちも爆発に気を取られ、本の攻撃が止んだ。
その隙にポーションを少し飲み、なんとか立ち上がる。
爆発があったところの壁が崩れ、棚が倒れていた。
ぽっかり空いた穴の向こうから、走ってくる足音。
「お兄ちゃん! 大丈夫?」
駆け込んできたアイリーが、漂っている本に炎の玉を浴びせる。
「アイリー! 本じゃない。人形を狙うんだ」
「人形? わかった!」
続けて駆け込んできたアミカ、フレアと三人で、人形を攻撃する。人形も攻撃を再開し、本が三人に魔法を放つ。
フッと体が軽くなる感覚。遅れて部屋に入ってきたシェレラが、回復魔法をかけてくれた。アイリーたちにも魔法をかけ、本から受けたダメージをすぐに回復する。
人形の数がみるみる減っていく。
僕は最後に入ってきたミーキーと一緒に、ただ見守っているだけでよかった。
アイリーの炎の玉、アミカの光の矢、そしてフレアの短刀での攻撃が、最後に残っていた三体の人形をほぼ同時に襲った。
人形は全滅し、使い手がいなくなった本が床に散らばる。
戦闘は終わった。
HPは回復しているけど、これまでのことを思い出して、肩で息をする。
「リッキ、服がボロボロね。あとで縫ってあげるから」
「シェレラ……それ、前にも言ったよね」
僕たちが初めてリュンタルに来た日の戦闘の後で、シェレラは同じことを言っていたはずだ。
でも服は仮想世界に帰れば自動的に直る。だからこのままでも別に問題はない……。
「そうだ! 魔女!」
戦闘が終わって、つい帰ることを考えてしまった。本番はこれからだ。
「あー魔女ね。もう倒したよ」
「へっ? ……倒した? って?」
あまりにもあっけらかんとアイリーが言うので、一瞬理解できなかった。
「うん。けっこう簡単だったよ」
「アイリーとアミカがHP削って、それから私が石化して砕いた」
「せ、石化? フレア、そんなことできるのか?」
「まあね。……でも、魔女といえども人間だから。悪いやつをやっつけたのだとはいえ、後味のいいものじゃないわ」
フレアは表情を曇らせた。
ここは仮想世界ではない。異世界といえども、現実の世界だ。
ここで生きる人たちは、仮想世界のアバターではない。生身の人間だ。
「そんな悲しい顔しないでください! わたし、本当に感謝しています!」
ミーキーの明るい声が響く。
「みなさんのおかげで村は救われました! 本当にありがとうございます!」
「そうだよフレア。これは……しょうがなかったんだ。僕たちは、やるべきことをやったんだよ」
「……そうね。そう言ってもらえると、救われた気持ちになるわ」
曇っていたフレアの顔から、笑みがこぼれた。
◇ ◇ ◇
「そういえばさ、お兄ちゃんがいた部屋、なんだったんだろうね?」
「ただの罠なんじゃないか? 本当は全員あそこに落として、全滅させるつもりだったんだろ。でももう済んだことだし、細かいことはいいじゃないか」
僕たちは魔女の館から、『門』へ戻るために来た道を逆に歩いている。
「それよりどうしてあの部屋がわかったんだ? ドアはないのに、外からはわかるようになっていたのか?」
「魔女のオウムから場所を聞き出したんだよ。……あ、そういえば、あのオウム、逃げちゃったのかな?」
僕以外のみんなが、顔を見合わせる。
「たぶん……逃げた」
「あの部屋に突入するまでは捕まえていたんだけど、戦闘中にどこかへ行ってしまったみたいね」
アミカとフレアも、アイリーと同じ意見だ。
「でも、魔女がいなくなってしまったんだから、大丈夫だろ。オウムだけじゃ何もできないさ」
オウムは魔女に使役されていただけだ。主がいない今は、ただのオウムと同じだろう。
『門』の前に戻ってきた。
「じゃあ僕たち、もう帰るから。これ、魔法で別の場所に行けるんだよ」
詳しい説明はしなくていい。『門』はそういうものだと言ってしまったほうがいいだろう。
「あの……リッキ。これ」
ミーキーは頬を赤らめ、僕の右手を取った。
「これ、受け取ってください」
手首に、白い毛糸で編んだブレスレットが巻かれた。
「ありがとう。大事にするよ」
「お兄ちゃんモテモテだねー」
隣でアイリーが肘で小突く。ミーキーの顔全体が赤らんだ。
「からかうなよ。大事なプレゼントじゃないか」
「はいはい。ごめんね、ミーキー」
いえ、とミーキーは軽く首を振った。
「じゃあね、ミーキー。早く村に帰って、みんなに知らせてあげて。魔女はもういないって」
アイリーが手を振る。
「はい!」
ミーキーも手を振り、僕たちもみんなが手を振る。
『門』から白い光が立ち上る。円筒状の白い光が、僕たちを包んだ。
◇ ◇ ◇
『門』の白い光が下りた――。
…………あ、あれ?
僕だけしかいない。
他のみんなは、どこへ行ったんだ?
……違う。
風景が変わっていない。
下が砂地じゃない。道もここから前後に伸びている。
自分の体を確認する。服が、ボロボロのままだ。
つまり――僕はまだ、本物のリュンタルにいる。僕だけが帰っていないんだ。
何が起こったんだ?
「おーい! 誰かー!」
返事はない。
『門』から出て、魔女の館とは反対側の道を覗いてみる。
ミーキーの姿はない。もう村へ帰ってしまったのだろう。
背後で光を感じた。『門』だ。
「もーお兄ちゃん何やってんのよ!」
アイリーが杖を僕に向けて怒っている。後ろには他のみんなも立っていた。
「いや、何もしてないんだけど」
「いーから早く来て! 帰るよ!」
「わかったから怒るなよ」
僕はまた『門』に入った。
「ふらふら出歩かないように、しっかり捕まえておかなきゃ」
アイリーの両手が、僕の右手をぎゅっと掴む。
「じゃあアミカはこっち」
アミカの両手が、僕の左手を掴む。
「あたしが握るんだけど」
「私にも掴ませて」
「なんで喧嘩になるんだよ!」
そんなことをしているうちに、『門』の白い光が立ち上り始めた。
「ぐっ!」
右手首に強烈な痛み。
見ると、ミーキーからもらった白いブレスレットが黒く染まり、同じ色の火花を散らしている。
驚いたアイリーが手を離す。
「ぐあああああぁっ!」
「お兄ちゃん!」
痛い。右腕を大きく振る。痛みも黒い火花も、何も変わらない。
白い光は上り切り、そして下りていく。黒い火花も、徐々に治まっていく。
そして、白い光がすべて下りた。
周りには誰もいない。また、僕だけが取り残されていた。
右手首のブレスレットは、つけてもらったときと同じ白さを取り戻している。
でも、原因はこれしか考えられない。
このブレスレットを外せば大丈夫だ。
あ、あれ?
外れない。
どういう仕組みになっているのか、しっかりと巻かれた毛糸のアクセサリーは手首との間に隙間を作ることさえない。
だったら切ってしまえばいい。小さなナイフを取り出す。アクセサリーの端をつまんで切ろうとしたけど、しっかり巻きついていてつまむことすらできない。手首に傷ができることを覚悟して、上からナイフを押し当てて引く。だめだ。切れない。
「無駄よ」
道の向こうから、声が聞こえた。
「ミーキー!」
現れたのは、さっきまで一緒にいた女の子。
どうして戻ってきたんだろう。それに、無駄っていうのは……。
また『門』から白い光が立ち上り始めた。
ミーキーがパチンと指を鳴らす。『門』の外側に黒い円が出現した。円の黒が『門』に侵食し、足元に近づいてくる。
ついに『門』は完全に黒に染まり、白い光は消えてしまった。
それだけではない。
石が転がり草が生えていた土の地面が、砂だけに変わった。
顔を上げると、木々が遠くなっている。その向こうに道はない。『リュンタル・ワールド』と同じ地形だ。
ミーキーがいない。
「こっちよ」
振り向くと、ミーキーはさっきとは正反対の場所にいた。
一瞬、ミーキーなのかどうかわからなかった。普通の村人の格好ではない。やたらと派手で、部分的に露出している服装。衣裳と言ってもいいだろう。そして、肩にはやはり派手な色のオウムが止まっている。
こちら側の道もやはりなく、その向こうの空に突き出ていたはずの煙突も、やはりなくなっていた。
「ようこそリッキ。リュンタルに来てくれてうれしいわ」
「よーこそー」
ミーキーが話した後に、オウムが一言添えた。さっき戦った人形と同じ、おもちゃのような声。
ひょっとしてこのオウム、魔女のオウムなのか?
「ミーキー、これは一体」
「違うわ。ミーキーは仮の名前。わたしの本当の名前はスバンシュ。わたし、どうしてもあなたに会いたくて」
ミーキー、いや、スバンシュと名乗ったその女が、舌なめずりをした。
「そして、あなたがいる世界の情報を引き出したくて。だからあなたを呼んだの。あなたに来てもらいたくて罠を張ったら、掛かってくれたのよ。さっきまであなたが見ていたものは、すべて幻」
なかなか状況が読み込めない。
「どう……いう、ことだ」
「わたしは知っているわ。あなたがあのコーヤの息子だということを。これまでにも何度かこの世界に来ていることを。ねえ、“別の世界”ってどんな所? 大丈夫。教えてくれなくてもいいのよ。わたしが直接、あなたの頭から記憶を抽出するから。仲間の強さに手こずったけど、やっと一人になってくれたわ。さあ、わたしに捕まって」
よくわからないけど、わかったことはある。この女が、とんでもなく危険だってことだ。
スバンシュがまた指を鳴らした。
地面が小刻みに揺れだした。地震ではない。何が起きるんだ?
揺れと、そして低い音が近づいてきた。わかった。これは、足音だ。
スバンシュの背後から、魔獣の群れが森を割り裂いて現れた。
さすがに一人で戦える数ではない。
振り向いて、全力で走る。
「大丈夫。死なせはしないわ。逃げられないように、死ぬ寸前まで痛めつけるだけだから。記憶を抽出するには、弱っているほうが都合がいいのよ」
スバンシュの声を無視して逃げる。
道のない森を、木々の間を縫って走った。その後を、魔獣が木々をなぎ倒しながら追いかけてくる。
翼があるウサギのような魔獣が僕に迫ってきた。振り向きざまに斬り、また前を向いて走る。
色んな種類の魔獣だから、スピードは同じにはならない。最初は群れでも、走ればだんだんばらつきが出てくる。
だから、逃げながら、追いついてきた魔獣を一匹ずつ倒せばいい。
理屈ではそうだ。
でも、ここは仮想世界ではない。いつまでも走り続けることなんて、できない。
息が切れてきた。足がもつれて倒れそうになったけど、なんとか立て直した。
また、追いついてきた魔獣を斬る。そしてまた走る。
木々の向こうに、街道が見えてきた。ソンペスにつながる街道だ。
――人がいる!
木が重なってはっきり見えないけど、若い女の人のようだ。一人で歩いている。
このまま街道に逃げれば、戦闘に巻き込んでしまう。
でも、街道に逃げるより他に方法はない。このまま走り続けるしかない。
物音に気づいたのか、彼女はこちらを見て大声で言った。
「おい、どうした! 何があった!」
「魔獣に追われている! 君も逃げろ!」
「魔獣だと?」
「だから、君も早くここから」
彼女は逃げようとはしなかった。
その代わりに、腰の剣を抜く。
「ならば私が魔獣を倒す」
「君も剣士なのか? でも無理だ。とてもじゃないけど」
「うおおおおおおおおおぉっ!」
僕の話を全く聞かず、森の中へ入ってきた。オレンジの長髪をなびかせ、より濃いオレンジの目で前を見据えながらあっという間に僕とすれ違い、迫り来る魔獣を斬りつけた。
こうなったら、僕だけ逃げる訳にはいかない。
呼吸を整え、魔獣を迎え討つ。
数は多くても、一匹一匹はそんなに強い魔獣ではないようだ。襲ってきた魔獣を一撃で倒した。それでも追いついてきた魔獣がどんどん増え、僕たちは取り囲まれてしまった。
背中合わせになり、迎撃態勢を取る。
何重にも囲む魔獣の輪が、じりじりと距離を詰めてきた。一匹ずつ飛びかかって来てくれればよかったんだけど、そう簡単にはいかないようだ。
「突破するぞ!」
背中から声。
彼女が魔獣の囲みに突っ込んでいった。
とっさに僕もその後に続く。
目の前の一匹を、確実に倒していく。背後から襲ってくる魔獣を振り向きざまに斬り、また前を向いて斬る。一緒に戦う彼女もまた、剣を振り続ける。長身の体から細身の長剣で魔獣を斬り裂く姿に、親近感を覚える。
少しずつ囲みが薄くなっていき、ついに脱出に成功した。
「全滅させるぞ!」
「わかっている!」
勇ましい彼女の声に、当然の同意。
逃げることしかできなかった一人の時とは違う。
今なら魔獣を全滅できる。
野放しになった魔獣が関係ない誰かを襲うようなことは、防がなければ。
追いかけてくる魔獣を倒す。僕も彼女も、休まず剣を振り続けた。
そしてついに、最後の一匹が倒れた。
「ありがとう。君のおかげで助かった」
そう言った途端、思い出したように疲れが襲ってきた。足がよろけ、近くの木に手をついた。
「なに、当然のことをしたまでだ」
彼女は剣を収めた。
静かになった森に、突然羽音が響く。
彼女の手が、収めたばかりの剣の柄を握った。
「助けが入るなんて、運がよかったねー」
いつの間にか現れていたスバンシュのオウムが、空中に留まったままこちらを見ている。
「スバンシュ様からのほーこくー。リッキをもっと知りたいから、しばらく観察することにしたー。そのうちまた捕まえに行くから、楽しみに待っててねー。あははー」
伝言を終えたオウムは、笑いながら空の彼方へ飛び去って行った。
「なんだ、あれは」
オウムが飛んで行った先を不思議そうに見つめながら、彼女が言った。
「ちょっとね。厄介なことに巻き込まれちゃって」
「だろうな。でなければ、こんなことにはならない。で、その厄介なこととはなんだ? よかったら、詳しく教えてくれないか」
「えっと、その……」
どうしようか。
助けてくれたのはとてもありがたかったけど、あまり他人を巻き込みたくないという気持ちもある。
僕が返答をためらっているのを感じたのか、彼女はさらに続けた。
「私は剣の腕を磨きたく、また人々の助けになりたく旅をしている。言わば修行の旅だ。君が困っているのなら、私は君を助けたい」
「ありがとう。でも話してしまうと、君もまた襲われてしまうかもしれない」
「構わぬ。これも何かの縁だ。話せないのなら話さなくてもいい。さっきのオウムがリッキと言っていたが、それが君の名前か? 私の名前はフィオジッテ。フィオと呼んでくれ」
「う、うん」
「君は――」
「ちょっと、ちょっと待って!」
畳み掛けて話してくるフィオを制止する。出会った時からうすうす感じていたけど、どうもフィオは突っ走り気味の性格のようだ。
「フィオは旅の途中なんだろ? 歩いていた方向からすると、ソンペスへ行く途中なんだよね? だったら歩きながら話さないか。いつまでも森の中にいるより、そのほうがいいだろ」
「……そうだな。それがいい」
フィオが同意し、僕たち二人はひとまず森を抜け出して街道に出ることにした。
「――そうか。リッキも旅をしているのか」
「うん、まあ、旅っていうか、何というか」
「で、どうして魔獣に襲われたのだ」
「それがなんだかよくわからなくって」
どこまで言っていいものか。どう言えばいいものか。
仮想世界のことを言ったって仕方がないし、それが言えないということは、仲間は帰ったが僕だけ帰れなかった、ということも言えない。つまり本来は仲間がいるのだということも言えない。うまくごまかしながら、説明するしかない。
街道を歩きながら、そんなことを考えていた。
「スバンシュって女に襲われているんだけど、そいつが何者なのか全然わからなくて。魔法使いであり、魔獣使いでもあるんだけど」
「ということは、そのスバンシュとやらを倒せばいいのだな」
「それはそうなんだけど、どこにいるのかわからないから」
あの館はスバンシュが魔法で作った幻だ。オウムは森の中には戻って行かなかったし、スバンシュももうあの場所にはいないだろう。
「だから、これから居場所を探さなきゃ」
「ならば、私も手伝おう」
「えっ? えっと……、その」
僕は、情報を得るためのある方法を考えていた。
それは、「ベルを鳴らす」だ。
ヴェンクーからもらった、一方のベルを鳴らすともう一方のベルも連動して鳴るという、一対のアイテム。
このベルを鳴らせば、ヴェンクーはジザに乗って来てくれるだろう。
そしてピレックルまで連れて行ってもらって、フォスミロスに事情を話せば、きっと解決方法を探してくれるだろう。
でも……。
「遠慮することはない。さっきも言ったが、これも縁だ。いや、私は導かれたのだ。君を助けるために」
相変わらずフィオは僕にグイグイ関わろうとしてくる。いい人であることは間違いない。だから一緒にいることは悪くはないんだけど、別の世界から来たというのが何かの拍子にバレてしまったら、ちょっと面倒なことになりそうな気がしてならない。
「もしまた魔獣が襲ってきたらどうする。リッキ一人で戦うつもりか? さっきだって、私がいたからこそ、魔獣を倒せたのではないか」
フィオの剣の腕は、僕とほぼ互角くらいだろう。一緒にいれば頼もしい存在だ。
「それに、リッキは金を持っているのか? 見たところ、何も持っていないようだが。服もボロボロだし」
「それは……」
お金は持っていない、と言うべきだろう。
『リュンタル・ワールド』の通貨であるシルは、本物のリュンタルでは使えない。ウィンドウ内の数字としてのみ存在していて、実体がないから取り出せないのだ。
「ほらみろ。私がいなかったら、どうするつもりなのだ」
ベルを鳴らしても、ヴェンクーがすぐ来てくれるとは限らない。お金がないのは、確かに困る。
それよりも……。
フィオがこんなにも協力してくれると言っているんだ。
だったら、ヴェンクーの旅を遮るようなことは、しなくてもいいだろう。
「じゃあ、フィオに手伝ってもらうことにするよ」
「最初から素直にそう言えばよかったのだ」
「そうだね、ありがとう」
「礼などいらぬ。ほら、街が見えてきたぞ。ゆっくり体を休めて、これからのことを考えよう」