第2話 失望
新生活一日目にして、俺の心は綺麗に折れた。
これでも、ある程度は覚悟していたのだ。
なにせ、こっちは侵略されそうになるや早々に降伏して王子を差し出した弱小国。
アルストロメリアのお偉方からすれば奴隷……いや、捕虜みたいなもんだ。
日々のストレスの捌け口として蔑み、見下す対象としてはもってこいだろう。
しかし……俺の考えはまだまだ甘かった。
まさか自分の妻が、こんな奇人だとは流石に思っていなかったのだから……。
別に絶世の美女を想像していたわけではないが、アレはあんまりだろう。
――――と、見事に希望を打ち砕かれて絶望していたのだが…………。
「ただいまー。ったく、この国は兵士までムカつくなぁ。やる気なさすぎんだろ、くそが……」
仕事を終えてリナリアの汚部屋、改め俺達夫婦の部屋へと戻った俺に、リナリアは軽く手を振ってから隅の方を指差す。
「おかえりシオン~。ねぇー、そこにあるマンドラゴラの根っことってぇー」
「あ~……これか? しっかし、大国っつっても数が多いだけじゃねえか。肝心の剣のレベルがあんなんで大丈夫なのかよ……ほらっ」
「ありがとぉ~」
相変わらずソファーと一体化しているリナリアに汚い根っこを手渡し、隣に腰掛ける。
剣術の訓練指南――それが俺の唯一の仕事だ。
本来なら仮にも王族となった人間のすることではないのだが、国政に関わる重要な仕事など俺に回ってくるはずもなく、さりとて体面を重んじて手持ち無沙汰にさせるわけにもいかないから仕方なく……という涙が出るほどありがたい理由で任せられている。
「魔法の方がねぇー人気だからぁ~。シオンも魔法覚えようよー、とぉぉぉっても面白いよぉぉおぉお?」
気持ち悪いネバネバした物体が入った器に受け取った根っこを放り入れて夢中にすり潰すリナリアが、いつもは抑揚のない声を弾ませる。
そう、この国のやつらはみんな剣を舐めている。
それゆえに、俺なんかが偉そうに指導してもなんら問題がないのだ。
位の高い役職とは縁遠い、俺にぴったりの閑職ってわけだ。
「いや、俺は剣一筋だから……。それよりリナリア、お前またご飯食べてないだろ? そんなだから細いしちっちぇーんだよ、ったく……」
俺と同じ十七歳とは思えないほど小さな体を見て、いつものように口を酸っぱくして注意する。
が、当の本人は気怠そうに顔をしかめた。
「だぁぁってめんどくさぁいもーん。じゃあじゃあ、そこのタルトちょーだーい。あーん、あ~~ん」
「……俺、未だにお前が甘いもん以外食べてるの見たことないんだけど……。ってか、寝転んだままかよ……」
大きく息をついて呆れる俺をよそに、リナリアは目も合わせないまま、餌を求める雛のように口をパクパクさせる。
一か月――。
俺はリナリアに対する評価をすっかり改めていた。
たしかに、彼女は二十四時間ずっと本と向き合うか怪しげな薬を作るヤバイ引きこもりの変人だ。
それどころか、放っておけば飲まず食わずだし、化粧はおろか風呂にも入らない。
しかし、一緒に過ごす内に俺は気づいた。
彼女はただ、自分のやりたいことを自由に好きなだけしているだけの純粋で無邪気な女の子だと。
……まあ、少し度が過ぎてるけど。
つーか、新婚生活っていうより子育て生活って気分だけど。
ともあれ、プライドばかり高くて威張りくさった他の王族連中とは違い、リナリアだけが着飾ることなく素直に平等に俺と接してくれるし、だからこそ俺も同じように接することができる。
リナリアと一緒にいる、この時間だけが安らぎを感じることができる。
勘違いだったら恥ずかしすぎるが、最近はリナリアもそう思ってくれている気が――。
「よぉぉし! たーーくさん思いついたからぁそろそろ試そうかなぁあぁああ♪」
「…………は? 思いついた? 試す? 何を?」
らしくない感傷に浸りながら、勧められた魔法書を理解不能のまま流し読みしていた俺は、急に飛び上がったリナリアをぽかんと見上げた。
「シオンー、おんぶおんぶ~。早くいこーいこぉーー!」
「え? いや……えええ……??」
……何なんだ……一体……。
妙にハイなリナリアが背中に張り付いて急かすため、俺はやむなく言われるがまま部屋を出る。
そして、指示されるまま普段通らない裏庭を通り、うっすらカビの生えた頑丈な石造りの階段を下り……。
たどり着いた先は、牢獄だった。
「……? こんなとこで、一体何を……」
「にひひひひっ! たのしイイぃぃたのしイイぃいいい実験だよぉおおっ♪」
「…………はあ?」
実験?
ここで?
何の?
俺の背中から元気よく飛び降りたリナリアは牢を開けると、虚ろな目をして横たわる囚人――おそらく戦争で捕らえた敵兵だろう――に向かって、鼻歌交じりにスキップしながら躊躇なく近づいていく。
そして……。
「さぁぁあぁてぇ……うるさくされても困るからぁぁ……最初はかるーーいのでいってみよぉおおっ! ほいっ♪」
そして……いつの間にか手にしていた、暗緑色のドロッとした液体が入った注射器を囚人の首に深々と突き刺した。
「ぅ……う………うぅぅ…………!」
途端、骸のようにピクリともしなかった男が小刻みに震え出した。
次第に呼吸も荒くなっていき、閉じかけていた瞼は限界まで見開き、瞳孔が拡大と縮小を繰り返し……やがて……。
「う……がぁあぁぁああああああっ!!」
生々しい刺し跡を中心にドス黒く変色した肌を掻きむしりながら、男は絶叫してのたうち回った。
悲痛な叫びが反響する狭い牢の中、何が起きたか分からない俺の目の前でリナリアは平然とした様子で小さく首を傾げる。
「ありゃー、ぜーんぜんダメだなぁあぁ。むぅー、おっかしーなあぁぁ……まぁーいーや! さぁーどんどんいこぉおぉおおおっ♪」
そう言って、リナリアは懐から同じように不気味な色の液体が入った注射器を何本も取り出し、高々と手を振り上げた。
「ちょっ……! 何やってんだリナリア! やめろっっ!!」
ようやく現状を把握した俺は、苦しみ悶える男の腹部に鋭い先端を向けて躊躇なく突き下ろされるリナリアの右腕を掴んだ。
簡単に折れそうな細い腕に凄まじい力を込めて抵抗するリナリアは、本気で不思議そうな顔で俺を見る。
「?? なあにぃぃい? シオンがやりたいのぉおぉぉ??」
「馬鹿! そんなわけねえだろ! 何考えてんだお前、殺す気かよっ!!」
声を荒げて怒りを剥き出しにする俺に、リナリアは歪な笑顔を向ける。
「別に殺すつもりはないけどぉぉ……まぁー死んじゃっても、まだまだいーーーーっぱいいるから大丈夫だよぉおおおっ♪」
「なっ……!?」
いっぱいいるから大丈夫?
何を言ってるんだ、リナリアは。
「だあってだってぇえぇ、ここにいるのはみぃーーんな悪い人なんだよぉぉ? 今までたーっくさん傷つけて騙して殺してるんだからぁー、あたしのお手伝いくらいしてもらってもよくない??」
「……たとえ……悪人だからって……どうして、こんな酷いことを…………」
短い呻きを繰り返しながら痙攣する囚人を直視できず、俺は俯き気味に声を絞り出す。
暗闇でもはっきりと映るリナリアの目が、下から飲み込むように迫る。
「? わっかんないなぁー、シオンはなんでこの人達が大事なのー? ねえなんで? ねえねえなんでなんでぇええぇえ??」
「お前……本気で言ってんのか……!?」
やめろ……。
冗談だと言ってくれ……。
頼む……。
頼む…………。
「あったりまえだよぉー。もぉ~邪魔しないでよねぇーまったくぅぅ……えいっ♪」
「っぐ……ぐあぁあぁぁああぁあああっ!!」
俺の願いを嘲笑うように。
リナリアは空いた左手で握り締めた注射器を囚人の肩に突き立てた。
「ッ…………分かった……分かったよ……」
その瞬間――。
俺の心を支えていた暖かい何かが、ふっと消え去り……冷たく凍りついた気がした。
同時に全身の力がすぅっと抜けて、リナリアの腕を掴んでいた手が滑り落ちる。
「この国の連中はクズばっかりだ。リナリア……お前だけは違うと思ってたのに……残念だよ…………」
もはや俺には目もくれず、もがき苦しむ囚人の様子を食い入るように見つめるリナリア。
俺は彼女に背を向けて小さく呟き、その場を立ち去った。
それから一週間。
俺はリナリアを避け、城下町の宿屋で夜を明かした。
贅の限りを尽くした城から離れ、わざわざ時間と金を浪費するのは我ながら馬鹿馬鹿しい。
しかし、どうしてもリナリアと一緒にいる気になれなかった。
そうして一人、鉢合わせる度に嫌味をぶつける家族に辟易し、熱意に欠ける兵士達と虚しい訓練を繰り返し……。
ついには一度もリナリアと顔を合わせることなく、俺は第四剣士部隊長として戦地へと赴いた。