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最終話 その後

 失望した。
 まさか、リナリアがあんな奴だったなんて……。
 そして同時に驚いた。
 ぽっかりと穴が開いた自分の心に。
 自分が思っていた以上にリナリアの存在が大きな心の拠り所となっていたことを、今はただ苛立たしく感じた。

「シオン様……よろしかったのですか? こんな前線まで出てこられて……」
「ん……?」

 馬に揺られながら物思いに耽っていた俺は、隣を歩く兵士に声をかけられて我に返り、目を瞬かせる。

「前線って……ここが……か?」

 俺が率いる部隊の役目は、最前列の後方に位置する魔法攻撃部隊――のさらに後方に控える予備隊の護衛。
 そもそも戦力差が歴然としている今回の戦いにおいて、剣を振るう機会はまずない安全地帯だ。
 前線とは程遠い。

「王族の方が自ら戦場に出られるだけでも前代未聞です。今からでもお戻りになられた方が……」

 なるほど。
 兄上に出陣を命じられて配置を聞かされた時は、てっきり俺に武勲を上げさせないようにする嫌がらせかと思っていたが……どうやら違うらしい。
 むしろ死地に送り込んでビビらせてやろうという粋な計らいだったようだ。

「……本来なら、そういう者こそ前線に立って皆を鼓舞するべきだと俺は思う。城に引きこもるなんて論外だ」

 情けない親族を思い浮かべて吐き捨てる俺に、兵士達は驚嘆の声を上げる。

「おおおっ! まだお若いのに、なんと頼もしい! シオン様がいらっしゃれば、アルストロメリアの将来はより一層輝かしいですっ!」
「奥方様といい、下々の者にとってこれほど心強い王族の方は他にいらっしゃいません!」

 …………は?

「…………何だって? 奥方様……? リナリアが……心強い……だって? どこが?」

 俺が呆然と聞き返すと、兵士達は自分のことのように自慢げに語り始めた。

「リナリア様がお作りになられた魔法薬に我々は何度救われたことか……。魔力の回復、傷の治療……戦場ではもちろんのこと、昨年に国全土を襲った疫病も瞬く間に解決してくださいました!」
「噂では日の下にも出ず、国民のために寝る間も惜しんで新たな薬を発明していらっしゃるとか……。リナリア様とシオン様にお仕えすることができて我々は本当に幸せでございます!」
「っ…………!」

 城内では、俺ほどではないにしてもリナリアの評判は悪かった。
 王族らしからぬ気品のなさ、礼儀のなさ、常識のなさ……それら全てが疎まれていた。
 俺に対する嫌味に、リナリアの悪口がセットとなっていることも少なくなかった。
 だから、知らなかった……。
 リナリアが……こんなに慕われていたなんて……。

 だが……ここにいる者は、誰も知らない。
 リナリアの……あの、残虐的で非人道的な人体実験を……。

 …………いや。
 知らないのは俺も同じだ。
 リナリアが作っていた魔法薬が、こんなにも人のためになっていたことを……俺は知らなかった。
 たった一か月で、俺はリナリアを知った気になっていた。
 だけど……でも…………。

「て……敵襲! 敵襲ーーーーーっ!!」

 不意に響き渡る絶叫を聞き、俺は胸中に渦巻く葛藤を無理やり押し込める。
 気づけば、左方に広がる森から大勢の敵兵がなだれ込んでいた。

「いつの間に……!?」
「く……この数は……ッ!」

 完全に油断していた。
 この戦力差で部隊を分断するなど自殺行為。
 敵の本陣があっという間に壊滅するのが目に見えている。
 ゆえに、これほど大規模な奇襲を受ける可能性なんて微塵も考慮していなかった。

「……第四剣士隊、迎え撃つぞっ! 魔法隊が後退する時間を稼ぐんだ! すぐに援軍も来る……それまで持ちこたえろっ!!」

 恐慌状態に陥った兵達に向けて、俺は剣を天高く振り上げて叫んだ。
 半分は、この場の指揮官として誰よりも勇敢に戦うべきという責務を果たすため。
 もう半分は……内心怖気づく自分を無理やり奮い立たせるため。

「俺に続けーーーーーーっ!!」
「「「う……うおおおおおおおおおっっ!!」」」



 ――――どれだけの時間が経っただろうか。
 剣士隊の奮迅の甲斐もあって、アルストロメリア軍は最小限の犠牲で今回の戦を切り抜けた。
 ただし…………代償として、俺は重傷を負って城へと運ばれた。

「やれやれ、シオン殿は初陣で早々に醜態を晒すとは……。仮にも我が国の王族として恥ずかしい限りですなあ」
「仰る通りです。都合よくリナリアのお守り役ができたと思ったら、本当に使えない男でしたねぇ。まあ、すぐに代わりを見繕えばよいでしょう」
「それにしても……結婚すればリナリアも少しはまともになるだろうと期待してましたが、とんだ期待外れでしたな」

 聞えよがしに悪態をつく声がする。
 もはや俺に意識がないと思っているのだろう。
 いや、こいつらにそんな配慮は元からないか……。
 そんなことより、ここは……どこだ?
 訪れたことはないが、おそらく王族専用の医務室……だろうか。
 指一本動かないし、目も霞んでよく見えない。

「左腕を根元から切り落とされ、内蔵もぐちゃぐちゃ……一晩も保たないでしょうな、あれは」
「見るに堪えませんね、汚らしい……。早く行きましょう」

 鬱陶しい会話が遠ざかり、辺りが静寂に包まれて……ようやく俺は自分の状態を理解した。

 そうか……死ぬのか、俺は……。

 不思議と、妙に落ち着いている。
 戦場に立つ以上、死は覚悟していた。

 ただ……。
 ただ、思い残したことが……一つ。
 たった一つだけ……心残りが…………。

「――――シオン………………」

 徐々に薄れゆく意識の中。
 暗闇の奥で輝く、見慣れた赤い瞳。
 聴き慣れた澄んだ声。

 ああ……来たのか……リナリア…………。

 最後になるであろう妻の顔を焼き付けようと、必死で目を凝らす。
 どうにかその姿を捉えた俺が真っ先に気がついたのは……一本の注射器。
 禍々しい紫色の液体をいっぱいに湛えたそれを、小さな手で固く握り締めている。

「……殺す…………のか……俺も…………」

 虫が鳴くようなか細い声で何とかそれだけ呟くと、リナリアはぎゅっと口を引き結んで眉間に大きな皺を寄せた。
 そして……。
 注射器の先端を咥えて、中身を余さず口に含み――――。
 そのまま顔を近づけて――――。
 近づけて――――。
 さらに近づけて――――。
 俺の唇と、自分の唇を、重ね合わせた。

「う……ぐ…………な……にを……?!」

 抵抗する力も残されていない俺に、リナリアは口移しでひんやりと冷たい液体を流し込む。
 その途端、むせ返りそうな苦味が口内に広がる。

「むが……が……!?」

 この行為に一体どんな意図があるのか。
 問おうにも喋る力が失われつつあるし、それ以前に物理的に口を塞がれている。
 今の俺は、ただ目を見開くことしかできない。
 微動だにせず口づけを続けるリナリアを睨み――。
 やがて、ゆっくり……ゆっくりとリナリアは遠のき――そして見せた表情に、俺は激しく動揺した。
 目前に迫る死を忘れてしまうくらいに。

「……リナ……リア…………?」

 泣いていた。
 あのリナリアが。
 小さな顔をくしゃっと歪ませ、不健康で病的なまでに青白い頬を紅潮させ、大粒の涙が潤んだ瞳から溢れて次々とこぼれ落ちている。

「……めん……なさ…………」

 ぽつりと。
 囁くような震える声がかすかに届く。

「あたし……あたし、ずっと一人だったから……シオンが、なんで怒っちゃったのか……ぜんぜんわかんなくて……」

 徐々に……真っ直ぐ俺を見下ろすリナリアの顔が、断続的に嗚咽する声が、俺の頬に落ちる透明な雫が、徐々に鮮明に浮かび上がってくる。

「別に……それでいいって、思ってた……。だけど……シオンがいない時間が、つまんなくて……落ち着かなくて……もやもやして……。だから……だから……」

 感覚が失われていた全身が、かあっと熱くなる。
 痛みはない。
 ただ……。 

「ごめんなさい……。あたし、シオンに…………嫌われたく、ないよぉぉ……」

 ただ――息ができないくらい、胸が苦しくなった。

「リナリア…………」

 そうか……。
 これがリナリアなんだ。
 生まれたばかりの子供のように、純粋で無垢で自由奔放な女の子。
 つまらない節度や礼儀や常識や規律や義務や倫理や周囲の評価や価値観に囚われることなんてない。
 俺は、自分の勝手な理想を勝手に押し付けて勝手に失望して、リナリアのことを全然理解しようとしていなかった。
 そんなどうしようもなくひねくれた俺に、リナリアは素直に謝った。
 わけが分からないだろうに……泣きながら……一生懸命に……。

 ああ……。
 俺は今……ようやく気づいた。
 自分の気持ちに。
 そして、ようやく見つけた。
 かけるべき言葉を。

「シオン……ずっと、あたしと一緒に……いてくれる……?」

 正直、まだ呼吸をするだけで精一杯だ。
 だが……不安そうなリナリアから目を逸らさず、俺は心からの、ありったけの気持ちを伝えた。

「リナリア…………ありがとう…………愛してる…………」




「――――よし……今日の訓練はこれで終わりだ!」

 俺が剣の訓練の終了を告げると同時に、何人かの兵士が手を挙げる。

「シオン様! もうしばらくご教授いただけませんか!」
「はははっ、やる気があるのは嬉しいが……悪い、今日は大事な用があるんだ」

 あの日の奇襲以降、剣術に対する意欲が飛躍的に向上した。
 近接戦に持ち込まれた際の重要性を身に染みて実感した……というのもあるが、何より俺個人が兵達の信頼を得たことが大きい。
 誰だって、よく知りもしない人間に心を許せるはずがないのだから。
 ……まあ、家族による嫌味が最近減ってきたのは信用云々ではなく、単純に国内での評判が上がってきた俺を貶しづらくなっただけだろうが……。

「おかえりぃーシオン~」

 汚部屋に戻ると、定位置のソファーで寝そべって本を読んでいたリナリアがひょこっと顔を出した。

「ただいまー! 見てくれ、リナリア! 今日はプレゼントがあるんだ!」
「ふにゅぅ~?」

 首を傾げるリナリアのすぐそばまで近寄り、後ろ手に持っていた小箱を目の前で開ける。

「………………指輪……?」
「ごめん、遅くなって。アルストロメリアの王族に相応しい指輪なんて、俺にはなかなか買えなくてさ……。こういうの、リナリアは邪魔だからいらないって思うかもしれないけど……」

 照れ隠しに頬を掻いてゴニョゴニョ呟いていると、リナリアは真っ赤な宝石が埋め込まれた指輪にじろじろと視線を注ぐ。
 そして、それをひょいとつまんで指にはめてから、俺の目を真っ直ぐ見て……全財産を吹っ飛ばした最高級の指輪も色褪せる、抜群に可愛い笑顔を炸裂させた。


「にひひひひっ♪ ありがとぉ~、シオン。…………大好き!」


 ――グラジオラスを出てから、半年。
 政略結婚なんてろくなもんじゃないと思っていたけど……俺は今、それなりに充実した結婚生活を送っている。

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