其の三
「よし、行くぞ。足音をたてるなよ」
クルーガーを先頭に三十人の兵士たちは森を出て、屋敷に向かって走りだした。
たちまち敷地を取り囲む石塀の傍まで来ると、その石塀沿いに裏門へと向かい、ほどなく門前にまでたどりついたとき。そこに人の気配はやはりなかったが、そのことにクルーガーたちが疑念をおぼえることもまたなかった。
松明の炎に淡い朱色に染められた鉄の門扉を開けて敷地内に踏み入ると、クルーガーたちは樹木と芝地が混在した裏庭を横切り、そのまま屋敷本館の勝手口へとまわった。
当然ながら勝手口の扉は固く閉ざされていたが、カギ職人にして窃盗の常習犯という経歴をもつ部下の一人に解錠を命じると、クルーガーは他の兵士たちに低声で指示をだした。
「よし、ここから三手に分かれるぞ。バランたちは屋敷の東館から侵入しろ。ランスローたちは西館からだ。俺は本館から入る。中に入って屋敷の家人や従者と出くわしたら即座に殺せ。決して声をあげさせるな」
名前を挙げられた二人の兵士がそれぞれ十人ずつを率いて場を離れると、クルーガーは鍵の開いた勝手口の扉を押し開けて部下ともども邸内に侵入していった。
そして邸外同様、静まりかえる薄暗い邸内を気配と靴音を消しつつ廊下を歩き進み、すばやく階段を上がっていく。
一階二階と、運よく誰とも出くわすことなく目的の三階にまで上がることができたのだが、そこでクルーガーの動きはぴたりと止まってしまった。
何を思ったのか、廊下の隅に身を潜めたまま動かなくなったのだ。
そんな上官に部下の一人が問うた。
「どうしたんですかい、隊長。もう三階ですぜ。さっさと部屋という部屋に乗りこんで女王を捜しだし、首を獲りましょうぜ」
「……妙だと思わないか? 人の気配がなさすぎる。いくらなんでも家人の一人にも出くわさないというのはおかしくないか?」
「そりゃ今は真夜中ですからね。みんな寝ているんでしょうよ」
あんた自身が言ったことじゃん。応じた部下は暗に皮肉ってみせたのだがクルーガーは気づかず、不安の韻が含んだ声で語を継いだ。
「いや、やはりおかしいぞ、この静けさは。もしかしたらこれは……」
言いさしてクルーガーは口を閉ざした。
後背をかえりみたとき、部下の一人がいないことに気づいたのだ。
「おい、ハンスの奴がいないぞ。あいつはどうした?」
クルーガーの一語によって、部下たちもようやく仲間の一人がいないことに気づいた。
最後尾を歩いていたハンスというまだ二十歳になったばかりの、ほんの一月ほど前に黒狼団入りした空き巣あがりの新参兵の姿がどこにもなかったのだ。
姿を消した新参兵にクルーガーたちが狼狽している同時分。その新参兵はひとつ下の二階にいた。
二階から三階に向かう途上でこっそりと一団から離れた彼は、二階にある一室に忍びこんで金品の類を物色していたのである。
「フン。せっかく貴族の屋敷に忍びこんだというのに手ぶらで帰ったとあっては、天才盗人ハンス様の名が泣くってもんよ。俺は他の連中とちがって、金貨百枚ていどの報酬で満足するような小さい人間じゃねえからな」
うそぶきながら嬉々として室内を物色していたハンスが、ふと部屋の隅に視線を走らせたとき。そこに置かれた、絹作りのテーブルクロスで覆い隠されている「何か」に気づいた。
近づいてそのクロスをはぎ取ってみると、中にあったのは樫の木造りのワイン樽だった。
それが十個ほど部屋の隅に並列されてあったのだ。
「あん? なんでこんなところにワイン樽があるんだ?」
場違いなワイン樽に小首をかしげたハンスが、さらに視線を横に走らせたとき。
今度は黒檀造りのキャビネットの上に、一体の女神像が置かれてあること気づいた。
無学な彼にはそれがなんという女神像なのかはてんでわからなかったが、金造りの像であることは特有の光沢で一目でわかった。
「おおっ、あれは!」
すぐさまキャビネットの前に駆け寄ると、思ったとおり、まさしくそれは純金造りの像であった。
持ち上げてみるとずしりという重みが手にくわわった。
この手の像にありがちな、中身空洞のメッキ物などではないことは明らかだった。
「やりぃ、本物の純金像だぜ!」
ハンスの面上に満面の笑みが広がった、まさに直後のことだった。背後で何かが砕ける音が彼の耳を打ったのだ。
驚いたハンスが振り返ると、部屋の壁に掛けられていたランプのひとつが床に落ち、ガラス部分が砕け散っているのが見えた。
このときハンスはまるで気づいていなかったが、手にする金造りの女神像には一本の細い黒糸が結びつけられていて、それは壁掛けのランプにつながっていた。
像を持ち上げると糸が張り、それによってランプを壁につなぎとめていた金具のピンがはずれ、床に落下する仕掛けになっていたのである。
「ったく、なんだよ、おい」
ハンスは舌打ちし、手にする純金像をキャビネットに戻した。
たんにランプが落ちて砕けただけなら無視もできるが、落ちた拍子にランプの中の火が床に敷かれた絨毯に燃え移ったとあっては放ってはおけない。
別にこの屋敷が火事になろうが焼失しようがハンスの知ったことではなかったが、仲間たちが女王の首を狙って邸内に侵入している最中であり、くわえて、もう少し「戦利品」を得たいという個人的事情もあった。
そう考えたハンスは、仕方なく絨毯の火を消すために歩きだした。
向かったのはワイン樽のほうにである。
樽の中のワインを大量にかければ、いくら酒でもあの程度の火ならすぐに消えるだろうと判断してのことだが、このときワイン樽に向かっていたのは彼だけではなかった。
絨毯に燃え移ったランプの火が、まるで導かれるように絨毯の上をワイン樽のほうに向かって燃え進んでいたのだ。
ハンスがそのことに気づいたのは、ワイン樽の蓋を開けようとしたときのことである。
まさか、あらかじめ絨毯の表面に獣油が染みこませてあったなど、神ならざる身のハンスにわかるはずもなかった。
「な、なんだよ、この火は……?」
戸惑うハンスをよそに絨毯の上を流れるように燃え進んできた火は、やがて並列されているワイン樽の間隙に消えていった。
わずかに遅れて、ハンスがその隙間の奥を覗きこむ。
峻烈な閃光が彼を包みこんだのは、その直後のことであった……。