其の二
グレーザー男爵邸の上空には澄んだ夜空がひろがり、そこでは黄金色の半月と無数の星々とがそれぞれの輝きを競いあっていた。
さながら天上の神々が、無数の宝石を投げ打ったかのような光景である。
その男爵屋敷は今、音のない世界に包まれていた。
ここ数日来、昼夜問わず内外で軍靴と馬蹄を響かせていた四騎士団が盗賊団の捜索のために当地を離れたことで、屋敷自体はむろんのこと、周辺に広がる森の木々や湖の水面も静寂を守っていた。
つい半刻ほど前までは、である。
黄金に輝く半月が中天に至ろうとしていた夜半過ぎ。
屋敷をとりかこむ深い森の中を息と気配を殺し、それでいて邪念の混じった微量の足音を発しながら歩く三十人ほどの集団の姿があった。
皆、森の暗中に同化するような黒い革甲を身に着け、腰には長剣や大型の短剣を帯びている。
その集団の先頭を歩く筋骨たくましい中年の男は薄い笑いを口にたたえながら、薄闇が広がる森の中を慎重に、だが力強く歩を進めていた。
「四騎士団は盗賊捜索のため四方に散り、屋敷内には帰都の途につく女王とその近習のみになった。屋敷は現在、警備が手薄である。今こそフランソワーズ女王の首を獲る好機である」
その情報をたずさえて、男たち――黒狼団の賊たちは森の中を進んでいたのである。
先頭を歩く中年の男の名をクルーガーといった。凶悪無比でならす黒狼団の頭目であり、祖国ミノー王国にあっては歩兵隊長の地位にあるれっきとした国軍兵士であった。
噂されていたように、黒狼団の正体はミノー王国の兵士であったのだ。
そのクルーガーが率いる三十人ほどの男たちも皆、彼の部下でミノー王国の兵士なのだが、まがりなりにも下級騎士の出身である上役とは異なり、部下たちは「名誉ある国軍兵士」などという立派な存在ではなかった。
ある者は顔に刀痕があり、ある者は入れ墨を彫り、無精ひげも強く汚く、総じて目つきも悪い。見るからにまともな出自の兵士たちではなかった。
それも当然で、皆、殺人、強盗、誘拐、その他さまざまな悪事に手を染めて牢獄送りにされた身でありながら、その「凶悪さ」を見こんだ正体不明の【雇い主】によって赦免されたばかりか国軍兵士にまで取り立てられ、「盗賊団を擬装してとしてオ・ワーリ国内で暴れてこい」という【雇い主】からの命令を忠実に実行している「半兵半賊」の一党。それが彼らなのである。
「もしオ・ワーリ王国の女王を討ち取れれば、俺はいよいよ将軍閣下だ。こんな二度とない機会、逃してたまるか。グフフ……」
森の中を進みながらクルーガーは胸の内でつぶやいた。
祖国にあっては国軍兵として働き、隣国にあっては盗賊集団を擬装して暴れまわる。
この二つの顔をもつ生活に、クルーガーは毒々しい満足感をおぼえていた。
下級騎士の出自ゆえ、ミノー軍内で出世することなど不可能ということを知っている彼は、その不満と鬱積のはけ口を与えてくれた【雇い主】に心底から感謝していた。
その【雇い主】の正体をクルーガーは知らされていなかったが、じつのところ誰が命じているかぐらい、今から五年ほど前、黒狼団の頭目に抜擢されたときから彼は承知していた。
そもそも牢獄の囚人を赦免したり、国軍兵士に取り立てたり、さらにはオ・ワーリ女王の首を獲れば、クルーガーには将軍の地位、部下たちには金貨百枚という「恩賞」まで約束できる人物など、この世に一人しかいないのだから……。
やがてクルーガー率いる一党は森を抜けでた。彼らの視線の先には男爵邸の裏門が見える。
その門前では鉄籠の中で松明が煌々と焚かれていたが、警備の人間の姿はない。
静まりかえる一帯で、松明の燃え弾ける音だけが不気味に響いていた。
「思ったとおり人気がない。情報どおり屋敷にはほとんど人がいないらしいな。フフフ」
肉食獣めいた笑いを漏らすとクルーガーは振り返り、部下たちに声を投げた。
「いいか。オ・ワーリ女王の首を獲れば各自に金貨百枚が与えられるのだ。こんな大金を得られる機会など二度もあると思うな」
自身の将軍への出世はあえて伏せて、クルーガーは部下たちを鼓舞した。
上官の一語は、彼に劣らず欲深い部下たちの欲望をたいそう刺激したようで、各自の顔に上官ばりの肉食獣の笑みが連鎖した。
ときとして欲は人間の目を曇らせる。
いくら騎士団が不在とはいえ、廃墟のごとく静まりかえる屋敷はむろん、女王が滞在しているにしては警備が手薄すぎるのではと不審をおぼえてもいいところなのだが、皆、将軍への出世と金貨百枚という夢のような「恩賞」の前に思考と判断力が麻痺し、不自然なくらい静かすぎる屋敷に手薄すぎる警備も、彼らの目には「女王の首を獲り大金を得る絶好の機会!」としか映っていなかったのだ。
むろん、すべての兵士が欲に目がくらんでいたわけでもない。
とくに用心深い人間と仲間内で言われている詐欺師あがりの兵士が、人気の無さと静けさにさすがに不審を感じてクルーガーに進言したのだ。
「しかし妙だと思いませんか、隊長。やけに静かすぎますよ。警備の人間も見えないし」
「あたりまえだ。騎士団は出払って中には女王と少数の近習しかいないのだからな。まして今は真夜中だぞ。皆、寝ているに決まっているだろう。それか小便にでも行っているんだろう」
「いや、それにしたって女王がいるのだから……」
「やかましい! ゴチャゴチャ言ってないで、お前もさっさと準備しろ。これから屋敷の中に侵入するぞ」
クルーガーは不快げに吐き捨て、腰の長剣を抜きはなった。
今のクルーガーにとって大事なのは、女王捕殺計画の成功と、それによって得られる自身の栄達であって、その前では用心深い部下の懸念など不要以外の何者でもなかった。
一方、進言した兵士は上司の言い分に納得したようではなかったが、まわりの仲間たちが長剣や短剣を鞘走らせたのを見て、「ま、いいか」と自身も腰の剣を抜いた。
不審が払拭されたわけではないが、金貨百枚という報酬の前では用心深い彼でさえも、不審や疑念よりも金銭欲が勝ったのである。
「よし、これから作戦を説明するぞ」
部下たちの視線と意識が自分に集まったのを確認し、クルーガーは続けた。
「見てのとおり、これだけ大きな屋敷だ。むやみたらに邸内に突入して騒ぎを大きくすれば、逆に女王に逃走を許してしまいかねん。そこで隊を三つに分けることにする。少数で行動すれば迅速に移動しやすい上、必要以上に物音を立てずにすむからな。中に入ったらそれぞれ別の箇所から女王が滞在している屋敷の三階をめざす。わかったか?」
「なぜ三階なんです? 他の階の部屋かもしれませんぜ」
部下の率直に疑問に、クルーガーはせせら笑いで応じた。
「お前らにはわからんかもしれんが、貴顕の身というのは常に他者よりも【高さ】を求める生き物なんだ。地位であれ、肩書きであれ、寝所であれな。ましてや女王だ。一階や二階に寝所をかまえるはずがない。まちがいなく最上階たる三階のどこかに女王はいる」
「なるほど。さすがは隊長、いい読みをしていますな」
クルーガーの洞察力に部下たちは感心した。
感心されればクルーガーも悪い気はしないが、この程度の洞察力もない連中を率いている現状に、今さらながらにクルーガーは疲労感をおぼえるのだった。
まあいい。将軍にさえなれば、こんな罪人あがりの連中ともすっぱりと縁を切れる。
それまでの辛抱だと自分に言い聞かせて、クルーガーは屋敷のほうに向き直った。