其の二
「ほげべっ!」
と、突如としてわが身、というより顔面を襲った得体の知れない衝撃と痛みに、ランマルはエリートらしからぬ悲鳴をあげて床にひっくり返った。
そして顔を押さえながら起きあがったとき。その目に一番に映ったのは、きらびやかな刺繍細工がほどこされた女性用のパンプスだった。
どうやら顔面を襲ったのはこれらしい。
「パ、パンプス……!?」
「この最低オトコ! あんたなんかチーズの角に頭をぶつけて死んじゃえばいいのよ!」
ふいに鼓膜を叩いたその怒号に驚いたランマルは、とっさに前方を見やった。
すると、そこには赤色を基調としたドレス姿の少女が一人廊下の角に立ち、目端をつりあげた凄い形相でランマルを睨みつけている姿があった。
「エ、エマ様!?」
その姿を視認するなり、ランマルは驚きのあまり声を失ってしまった。
それも当然であろう。彼女の名はエマニュエル内親王といい、フランソワーズの妹、つまり王族の一人なのだから。
妹といってもフランソワーズとは異母姉妹であるが、それでもフランソワーズはこの異母妹をことのほか溺愛していた。
骨肉の争いを演じた王族の中で唯一、自分と敵対することのなかった人間だからかもしれない。
そのエマ王女はこの年十六歳になる。
小柄でちょっと丸顔の、やや癖のかかった金髪とふっくらとした唇がとても印象的な女の子なのだが、じつはランマルとエマは王族と家臣という立場を超えた「いい仲」なのであった。
ようするに恋人同士というわけなのだが、しかし、そんな二人の関係を知る者はフランソワーズも含めて城内には一人としていない。
それも当然で、ランマルもエマも周囲には秘密にして交際を続けていたからだ。
その理由は二人の身分にある。
いくら子爵家の出身で女王側近のエリート侍従官といえど、つまるところランマルは一介の廷臣でしなく、対してエマは傍流とはいえ王族の一員である。
この交際が周囲に知られでもしたら、互いの身分を理由に強制的に別れされられるのは目に見えており、ゆえに二人は細心の注意をはらいながら今日まで交際を続けていたのである。
そのエマ王女だが、どういうわけか廊下の先で目端をつりあげた形相でランマルを睨みつけていた。
絵に描いたような憤怒の態に、いったい何事であろうかとランマルはいぶかった。
ここ最近、彼女を怒らせるようなことをした憶えはランマルにはないのだが……。
「な、なにをお怒りになられているのですか、エマ様?」
「なにを白々しい! 聞いたわよ、今度、縁談をするんですってね!?」
「え、縁談……?」
一瞬、ランマルはエマの言葉が理解できずポカンとなったのだが、ややあってその意味が脳裏に染みわたると、ようやくエマの怒っている理由を察することができた。
どうやら彼女、姉のフランソワーズに舞いこんできた縁談話を、なぜかランマルの話と誤解して、それで嫉妬のあまり怒り狂っているらしい。
(何かと思えば、まったく嫉妬しちゃってほんと可愛いんだから……って、今はそんな呑気なこと言っている場合じゃない!)
内心でにやけたのも一瞬、ランマルは慌てて首と両手を激しく左右に振りながら、事実誤認であることを必死に説いた。
「ご、誤解ですよ、エマ様!」
「何が誤解よ! 私、姉様からちゃんと聞いたんだからね。自分の勧めた縁談話をあんたが喜んで承諾したって!」
「へ、陛下が!?」
意外な一語にランマルは目玉をむいて仰天したが、すぐにおおよその事情を察した。
すなわち、フランソワーズが自分への縁談話をランマルの話にすりかえてエマに伝え、それを信じたエマが「自分という恋人がいながらよくもよくも……!」と妬心まじりに怒っているという構図をである。
(まったく、あの底意地の悪いスイカップ女王め。いくら僕とエマ様の関係を知らないからって、しょうもない嘘をつきやがって!)
女王への憤りにランマルは歯ぎしりする思いであったが、それよりなにより今は悪鬼の形相で怒り狂っている恋人の誤解を解かなければならない。
「そ、それは僕の、いえ、私の話ではありません。陛下の縁談にございますよ!」
ランマルが「冤罪」であることを必死に主張すると、エマはそれまでの憤怒の形相から一転、きょとんとした顔になり、
「……陛下? もしかして姉様の縁談話なの?」
「そ、そのとおりにございますよ!」
一連の話をランマルが詳しく説明すると、ようやく誤解であることを理解したエマはたちどころに笑顔になり、
「なんだ、姉様の話だったの。どうりで変だと思ったわよ。だってランマルはまだ十七歳なのに縁談なんてね。怒って損しちゃったわ、ウフフ」
「ご理解していただけて私も嬉しく思います。ハハハ……」
と、ランマルも笑って追従したのだが、本音はというともちろん別で「そういうことは靴を投げつける前に気づいてくださいね」と文句のひとつも言いたかったのだが、ここは年上の恋人として(たった一歳ちがいだが)大人の態度をとることにした。