其の二
この地における女王の滞在先として定めたこの城――ホンノー城は湖の中に浮かぶ小島の上に建てられた湖城であり、城の周囲には城名の由来ともなったホンノー湖の鉛色の水面が広がっている。
今は夜なので無理だが、これが太陽の出ている日中だと鉛色の湖面に城の外観がまるで鏡に映ったかのように投影されて、幻想的な光景を堪能することができるのだ。
その城廊の窓からマッサーロの言うままに城の外を眺めやったとき。
ランマルの目に一番に映ったのは、夜空に圧倒的な存在感を見せる黄金色の円盤と化した満月だった。
はぐれ雲ひとつない、まるで天上の神々が無数の宝石を投げうったような満天の星空の中で、それに劣らぬ輝きを放つ姿は、まさに神々しいという表現がぴたりとはまる。
「おお、今宵は満月か。じつに美しいが、しかし、これではぐれ雲なんかが一角を隠していれば、より風情が増すところなんだけどな。ほら、短歌にもあるだろう。照る月の、曇るごとに……」
「ま、満月どころではありません、地上を見てください、ランマル卿!」
唾を飛ばしてわめくマッサーロに、「まったく風情というものを知らん奴だ」と内心で吐き捨てながらも、ランマルが上空から地上に視線を転じたとき。
最初に目に入ったのは城と湖岸とを結ぶ石造りの橋であり、次いで目に映ったのはその橋向かいにある湖岸帯で、最後に目に飛びこんできたのは、その湖岸沿いにひしめくように生え茂る木々の群と、その間隙でうごめいている小さな光点の群だった。
それが松明の灯火であることはランマルにはすぐにわかった。
まるで蛍の発光のように、木々の暗陰で淡いオレンジ色の炎がいくつもゆらめき、なんとも幻想的な光景をかもしだしている。
「うむ。普段はなにげなく見ている松明の灯火も、こうして満天の星空の下で見るとなんとも趣を感じさせるから不思議……うん、松明?」
ふと疑問づいたランマルは軽く両目をしばたたいてから、あらためて湖岸沿いを眺めやった。
やはり目の錯覚などではなく、湖岸沿い、それも橋の出入り口付近を中心に広範囲にわたって灯火が点在している。
それも十や百ではきかない。どうみても数千という数のだ。
むろん松明の灯火が見えるということは、そこに人の存在があるということだ。
それじたいは容易に理解できるのだが、まったくもって理解できないのは、こんな深夜にどこの誰が何の目的で松明を手に湖岸に集まっているのかということだ。
「なんだ、こんな夜更けにいったい何事だ?」
ランマルがいぶかしげに独語すると、傍らのマッサーロが意外なことを言いだした。
「ランマル卿、これはもしや敵襲ではありませんか!?」
「……敵襲だって?」
マッサーロの意外な一語に驚いたランマルは、向き直ってまじまじとその顔を見つめたのだが、すぐに察しがついた。
(ははーん、なるほど、こいつめ。深夜に松明を持った集団が突如として湖岸にあらわれたので、それで敵襲かなにかと勘ちがいして、慌てふためいて僕の部屋に駆けこんできやがったんだな)
まったく胆力はないくせにずれた想像力だけは豊かな奴だなと、マッサーロの「あわてんぼう」ぶりにランマルはなんだか可笑しくなったが、それが理由で寝たばかりのところを叩き起こされた身としては正直笑えない。
「おいおい、マッサーロ。ここは王国領のド真ん中だぞ。敵軍があれだけの兵力を率いてこんな所まで来れるはずがないだろう。あれはどう見ても数千人はいるぞ」
「す、すると、あの松明を持った集団は、いったいどこの何者でなんでしょうか?」
その疑問に対する答えはランマルの中ではすでに出ていた。
このあたりの察しのよさが、同じ学院卒のインテリでも「並」エリートのマッサーロと「超」エリートの自分との差であろうとランマルは心底思う。
「決まっている、陛下の行幸を聞きつけた地元の民衆たちだ」
「地元民……でございますか?」
困惑げに両目をパチクリさせるマッサーロに、ランマルはうなずいてみせた。
「そうだ。ありがたくも自分たちが住む地に玉体をお運びになられた陛下を讃えるため、ああして深夜にもかかわらず集まってきたのだろう」
「な、なるほど……」
ランマルの見解にマッサーロが得心したようにうなずき、ほっと息を漏らしたまさにその瞬間だった。
突然「ワー」とか「オー」とか、とにかくもの凄い怒号のような叫び声が二人の鼓膜にとどろいてきたのだ。
おかげでランマルとマッサーロは、驚きのあまりあやうくひっくり返りそうになったのだが、そこはなんとか堪えると、すぐさま窓から身を乗りだすようにして同一方向に視線を走らせた。
それらの声が湖岸沿いから発せられていることに気づいたからである。
しばしの沈黙後、湖岸を眺めていたマッサーロがおそるおそる口を開いた。
「ラ、ランマル卿。民衆たちがなにやら不穏な声をあげておりますが……」
「不穏?」
マッサーロの言葉をうけて、ランマルは耳を澄ましてとどろいてくる声をよく聴いてみた。
すると、たしかに群衆からは怒号や奇声にまじって、「女王を捕らえろ!」だの「敵はホンノー城にあり!」だのと、なにやら物騒なことを叫んでいることにランマルは気づいた。
マッサーロはひとつ息をのみ、ランマルに言った。
「と、とても陛下を讃えているようには思えませんが……」
微妙に声をわななかせてマッサーロはそう言ったのだが、しかし、それでもランマルの見解はやはり異なった。
薄い笑いまじりに彼は、自分の部下に余裕然とした語調で答えたものである。
「おそらく、民衆たちは酔っているのだろうな」
「よ、酔っている……でございますか?」
またしても両目をパチクリさせるマッサーロに、ランマルは鷹揚にうなずいたみせた。
「そうだ。なにしろ今宵は満月。月見酒とシャレこむには絶好の夜だからな。ついハメをはずしたくなるのは人間の性というものだ。大目に見てやろうじゃないか」
「な、なるほど……」
ランマルの一語にまたしても納得した様子のマッサーロが安堵の息を漏らした、その直後だった。
ふいに「どぉん」という、何かか爆発したような異音が二人の鼓膜をしたたかに刺激したのである。
城の外壁の一部が音をたてて吹き飛んだのは、さらに直後のことだ。
砕け散った壁材が滝のごとく崩落し、それによって生じたもうもうたる砂塵が風に乗って城の周辺の宙空に広くまき散らされた。
突然のことにランマルとマッサーロの思考は同時に停止し、なかば惚けた態でその光景を見つめていたのだが、いち早く自己を回復させたマッサーロがヒステリックな声をあげた。
「ラ、ランマル卿、今のは大砲ではありませんか!? 奴ら、大砲を撃ってきましたぞ!」
「ハッハッハ! なあに、いまどきの民衆ともなれば大砲の一門や二門くらい所持していてもぜんぜんおかしくはない……」
――わけがなかった。
そんなハイレベルすぎる武器マニアの民衆など、このオ・ワーリ王国はおろかジパング島全域を探したっているはずもなかった。
となると、これはどういうことだろうか?
夜の夜中に女王の滞在先に松明を手に集結し、不穏なことを口々に叫びながら城に大砲を撃ちこんできた。
これらの事実をどう解釈すればいいのだろうかと、ランマルは一人思案の淵に沈んだのだが、じつのところ考えるまでもなく、
「大砲まで所有している武器マニアの地元民が行幸祝いに来たけれど、月見酒の酔いがまわりすぎてつい大砲をファイアーさせて城壁をクラッシャーさせてしまった」
という超極小の可能性を除けば、考えられることはひとつしかないのだ。
それはつまり……。
「て、敵襲だーっ!」