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第6話 お前はなにに飼われているんだい?・中編

「おーい、大丈夫かー? 生きてるかー?」
「……………はっ⁉︎」


 首がガクンと落ちる衝撃(しょうげき)で、大志は目を覚ました。
 場所は支部局に備えられている食堂。目の前には一膳の食事。なんなら(はし)を持っている。
(やべっ……食べながら寝てた………)
 人生初の体験に、彼は軽く衝撃を受ける。食べながら寝るなんて芸当ができる自分に驚いた。
「相当お疲れのようだね〜。グリーン・バッジの訓練って厳しいもんね、仕方ないよ」
「すみませ………すぐ食べます………」
「いいよいいよ、集合時間までまだ時間あるんだし。ゆっくり食べなって」
「はい……」
 もはや自分がなにを話しているかも曖昧な意識で、大志は無意識に箸を動かす。
 味も食感もほとんどわからないままモソモソと食べていると、ふと疑問が浮かんだ。
(俺、誰と話してるんだ……?)
 極度の疲労と消耗した精神でぼうっとする頭を起こし、大志は目の前の席に座る人物を見る。
 大志と同じくらいの年齢の女だ。明るい髪色で、快活(かいかつ)そうな顔をしている。胸にはグリーン・バッジがきらりと光っていた。
 彼女はその見た目の印象を裏切らず、ハキハキと喋り出す。
「おーい、マジで大丈夫かー?」
「あっ、え、あ、すみません」
 大志の顔の前でヒラヒラと手を振る。慌てて返事をすると、彼女はニカッと笑った。
「あっ、あの時の……!」
「やっと気づいたか新入りくん」
 明るく笑う。(おとろ)えた思考で、大志はその笑顔を思い出した。
「その節はお世話になりました」
「いいってことよ。いきなりこんなトコに連れて来られちゃった元お巡りさん」
 箸を置いて頭を下げる大志に、またも明るく笑う声。
 勤務初日の市中見回りの前に、車のキーの場所や帳簿の付け方を教えた女はニッカリと笑う。
「あの時はうっかり名乗らなかったのがずっと気がかりでさ。アタシ、三浦(みうら)ほのかっての。よろしくね」
「宮本大志です、こちらこそよろしくお願いします」
「知ってるよー! 帝都の(はし)から来た、オーパーツを一度使ったきりの元お巡りさんでしょ? もう軍の中じゃ有名だよ〜」
「うっ……」
 その言葉が、ぐさりと胸に刺さる。
 言葉通り、食堂にいる軍人たちはチラリと大志を見ては声を潜めた。
 就任初日から徐々に大志の噂は広まっていた。失われた叡智(オーパーツ)を一度起動したきりの、使い物にならない突然変異(ミュータント)。あれでは突然変異ではなく欠陥品(ディフェクティブ)だ、と。廊下の角で偶然耳にしてしまった自分の噂話に、悔しいとかよりも『そうだろうな』と納得したのを覚えている。
 使い物にならない、そう言われて当たり前。自分の評価は自分だってできている、と。
 町のお巡りさんは、一気に好奇心の見世物へと身を落としたのだ。だが大志もこの現状は、正直なんとかしたいとは思っている。
 その様子を察してか、ほのかはニッカリと笑った。
「だいじょーぶ、最近の噂話はもっぱら『軍に来ていきなり代表選手になった謎の武闘家』って感じだし!」
「俺、別に武闘家じゃないですよ……」
 しかも謎ってなんだ謎って、元お巡りさんだっつのと心の中で付け足した。
 そういえば食事の途中だと思い出して、ほのかに許可を取って食事を再開する。きゅうりの浅漬けをポリポリと噛み(くだ)きながら、疲れた身には染みる味噌汁でそれを流し込む。
「でも、アタシは別にオーパーツが使えないなんてどうでもいいよ。仲間ってことには変わりないんだし、仲良くしてこうよ!」
「ありがとうございます。なんか、そういう言葉をかけられると今の疲弊(ひへい)した心にはもの凄く響きます」
「しっかも相棒がね〜、銀臣でしょぉ? アイツ取っつきにくいし話広げてくれないし素っ気ないし大変でしょ。堤さんも人選もうちっと考えてくれりゃいいのにね」
「はは………」
 全くその通りで、思わず乾いた笑いがこぼれる。
 だけど近しい仕事仲間の愚痴(ぐち)はあまり言えなくて、すぐに食事に戻る。口は災いの元という言葉が頭に浮かんだ。
 そんな大志を余所(よそ)に、ほのかは軽いノリで続ける。
「あんなんなのに顔だけはやたら良いからさ、モテモテなんだよ。信じられないよね。結局顔さえ良ければ性格がひん曲がっててもモテるのよ。世の中がバカらしくなってくるわ」
「ははっ……」
「だけど()は良い奴だからさ、まぁ、嫌いにならないでやってね」
「え、あ、はい、もちろん」
 あれだけ言っていたのに、ほのかはふと声のトーンを変えてそう言った。
(柴尾さんと仲が悪いわけじゃないのか)
 確かにさっきから銀臣を語る彼女の声に、嫌悪(けんお)などの感情は無かった。
 むしろ仲が良いからそこまで言えるのかと大志が考え始めると、彼女の後ろに影が立つ。
「なにやってんだ」
「あ、おはようございます」
「おーっす、銀臣」
 朝から不機嫌な顔をした美青年、柴尾銀臣はほのかをジロリと見下ろす。
「ほのか、新人にちょっかい出してんじゃねぇよ」
「ちょっかいなんて出してないよ。仕事仲間にイビられてカワイソーな新人くんに、先輩は相談に乗ってあげてたわけ」
 それに銀臣が、ピクリと眉を動かした。
「おい、まさかそれ俺のことか」
「ご自分のことがよーくおわかりになっているようで」
「てめぇは関係ねぇくせに出しゃばってくんな。さっさと支度(したく)して来いよ」
「うっへぇ、ホント愛想無い。こんなのがモテるんだから世も末だわ。大志くーん、また話そ」
「あ、はい。ありがとうございます」
 また、と小さく付け足す大志に、律儀に「またね〜」と明るく返したほのかは、さっさと食堂を出て行った。
「…………」
「…………」
「…………はやく食えよ」
「あ、はい、すみません……」
 ほのかとは全く逆のことを言われ、大志はなんとなく息が詰まる思いをしながら食事を胃に流す。
 膳を返却口に置いて、急いで銀臣の隣に立った。
「今日の大会、頑張りましょう」
「……おう」
 小さくそれだけ言い残して、さっさと背を向けて歩き出す銀臣。その後を追って、大志は小さく溜め息を吐いた。
(やっぱ一昨日のこと、怒ってるんだろうなぁ……)
 だがあれは自分が悪い。彼を責める気にはなれないと、大志はしっかりと自己評価している。


 山を駆けていた。
 それはグリーン・バッジの山中行軍(さんちゅうこうぐん)訓練で、敵陣営に山中から行軍して襲撃することを想定したものだった。小規模チームで必ず行動し、一日の平均睡眠時間は四時間。それで三日間獣道を歩き続ける。
 グリーン・バッジは優秀な精鋭(せいえい)部隊と言われるが、そのぶん訓練は厳しい。危険生物の相手や反乱軍との最前線の戦場に出る為だ。過去には訓練中に死亡者が出たこともある。
 大志は二日目の夜から急激な目眩と吐き気に襲われ、短い睡眠時間でどうにか回復させようと無理やり寝て、起きたら今度は耳鳴りまで追加されていた。
 重量約40kgの野営(やえい)荷物は重くのしかかる。だけど指定された時間までに合流地点に着かないと脱落扱いされる。
 銀臣に荷物を少し持ってもらい、なんとか合流地点には時間ギリギリで着いた。
 次は装甲車(そうこうしゃ)に乗って、敵陣営を想定した演習場での襲撃戦闘訓練。フラフラになりながら車に乗ろうとした大志の襟首を掴んで、銀臣は訓練総監督の堤に言う。
『脱落します』
『みやもっちゃん、かなりヤバイね。救護班回すから』
 いえ、大丈夫ですと言おうとした大志の意思とは裏腹に、体の力は抜けていく。
 ほぼ倒れるように地面に崩れ落ちるのを銀臣は受け止めながら、肩から荷物を下ろすのを手伝った。
 それにお礼を言う余裕も無い大志。音がぐわんぐわん響いて、目の前はどんどん暗くなっていく。
 こんなんじゃチームとして認めてもらうどころじゃないと自分を叱咤(しった)していたら、そこで暗転した。

 目を覚ましたら、軍病院のベッドの上だった。

 点滴での栄養補給と安定剤を貰って、次の日に退院。
『気にしないで〜。毎回必ず倒れる子はいるから。俺なんて新人の頃、同僚(どうりょう)(かつ)いでもらったこともあるしね〜』
 堤には笑って出迎えてもらった。
 さて一番迷惑を掛けた銀臣に謝罪とお礼をしようと出向いたら、だ。
『なんだ、警察に帰ったんじゃねぇのか』
 と冷たく言われた。それからは妙に気まずい空気が流れている。


 だから銀臣のこと態度も甘んじて受けようと覚悟は決めている。大志にできることは、なるべく彼の気に障らないようにいることだと目標を変更した。
「おい」
「はいっ」
 前を歩く銀臣が、いきなり背中越しに声をかける。大志はそれに肩を跳ねさせて返事をした。
 今度はなにを言われるのだろうと身構えていると、銀臣はぽろっと口から(こぼ)すように言う。
「イビってるように見えるか?」
「?」
「俺」
「……あぁ、そういう」
 すぐに合点(がてん)がいった。
 ほのかに言われたことを気にしているのかは声音だけではよくわからなかったが、それでもそう聞いてきたということは多少気にしてのことだろう。
「いえ、そんなこと。俺が使えないのは事実ですし」
 大志は素直な気持ちを言ったつもりだが、銀臣からすれば気を使われたように思えた。
 気難しくて愛想のない先輩にイビられる後輩。ほのかに言われなくても薄々は自分も思っていたのだ、銀臣は。
「……警察に帰りたいとか思わねぇの?」
「え?」
「だから、地元だよ、地元」
 銀臣は少し強めに言いながら振り返る。視線の先で、大志はキョトンとしていた。
 それからじわじわと言葉の意味を噛み砕くような顔をして、静かに語り出す。
「あー……いえ、確かに訓練が厳しいと帰りたいなぁとか考えちゃう根性無しですけど、普段は全然、思いません。なんとかやっていかないとってばかり考えてます」
「アンタだって納得いかないだろ。たかがオーパーツが使える程度で……いや、正確には使えてねぇんだけど。一度起動したっきりでこんなトコに連れて来られてよ」
「そうですね……辞令が降りた時は本当に参りました。ここに来る列車の中でも、不安で全然落ち着かなくて」
「だろうな」
「だけど、あいにくと思い通りになったことがあまりない人生でしたので、諦めと切り替えが早いのも俺の特技ですね」
 眉を垂れさせて困ったように笑う大志に、銀臣はほんの少し息を詰めた。
 こんな大人しくて礼儀正しい大志がそんなことを言うなんて思いもしなかったのだ。平穏な暮らしをしてきたんだろうなと、銀臣は勝手に思っていた。
「……なに? けっこう泥水すすってきた感じ?」
「はい、文字通り」
「は?」

《連絡、連絡、大会出場者用のバスが到着します。出場者の皆さんは正門前に集合してください》

「あ、いよいよですね」
 言葉の真意を探る前に、連絡用の放送に邪魔をされる。
 なんとなくタイミングを失った銀臣は、特にそれ以上追求しなかった。共だってロッカールームに荷物を取りに行く。



 ◇◆◇


 西条(さいじょう)地方・皆島村(みなじまむら) 領主館


 ふふふ、と___妙にねっとりした笑い声が豪華絢爛(ごうかけんらん)な部屋に響く。
 でっぷりと指まで()えた男が、手に持った札束を数えては満足そうに口を緩める。
「ん〜、しかし新しく別荘を建てるにはまだ足りんかぁ。もう少し税率を上げるしかあるまいなぁ」
 脂肪が邪魔してくぐもった声は、楽しそうだった。
 机の上には、七番目の愛人に頼まれた別荘の設計図が広がっている。(みずうみ)のほとりに静かに過ごせる療養所が欲しいと、(はかな)い笑みで微笑んだ可愛い女だ。胸を患っている彼女の喜ぶ顔の為に、領主は日夜(にちや)資金繰りに奔走している。
 頭をひねり悩み抜き、出た結論は「税を上げる」という素晴らしいものだった。思考時間にして一分。男はその長い長い苦悶(くもん)の末、領民に少し協力してもらうことにすることを決めた。
「仕方あるまいなぁ。一人の尊い若い命を救う為には、療養所が必要なのだ」
 そうして自分の見事な手腕で資金を生み出し、湖のほとりにひっそりと佇む別荘を作る。そういえば愛人が指定してきた湖には先住民が小さな村を作っているが、それも早く立ち退きを命じなければならない。
 愛人の喜ぶ顔(正確にはその肢体(したい))を思い浮かべて、領主である男は椅子にもたれた。

 領主とは、(おも)に貴族から雇われた統治代理人のことを言う。

 皇帝から貴族へ、領地や領民、それを取り仕切るあらゆる権利を与えられる。貴族は領民を保護する代わりに年貢や『礼金』を貰う権利がある。貴族はそこから決められた割合の上納金を皇帝に捧げる。
 だが最近では、統治を代理する貴族が増えた。
 土地や領民の管理を任せ、領主が徴収した礼金を貴族へ上納するという仕組みになっている。
 だが領主も貴族も、『上』に納める税率は決まっている。なので、より自分の取り分を多くするには税を上げるのが手っ取り早い。
 貴族が領主へ『税を上げろ』と命じ、自分の給料を上げたい領主は更に税を上げるという悪循環を(まね)いていた。
「全く……貴族様は仕事もしないで金だけ巻き上げて……お気楽なものだ」
 自分のことを(たな)に上げていることすら自覚していない領主の男は、数えた金を大事にケースに仕舞う。
 これから、最近では一番気に入っている八番目の愛人が来るのだ。洒落た服に着替え、その前に体を洗おうと思い至った。
 椅子から少し腰を浮かせた時、いきなり部屋のドアが開く。
 どうせ(しつけ)のなっていない使用人だと思い、乗馬用の(むち)で滅多打ちにしたあとクビにしてやろうと考えた。
「誰だ、ノックも無しに無礼な」
 ギィ……と、やけにゆっくり開いていくドア。
 そこには、用心棒(ようじんぼう)に雇っている体格の良い私兵が立っていた。
「なんだ、汚い服でこの部屋に入ってくるんじゃない」
 しかし反応は返ってこない。
 氷のような無表情で、妙に焦点の合っていない瞳が空虚(くうきょ)にどこかを見つめる。
「おい、返事をせんか」
 様子が変だとなんとなく察した領主は、テーブルの横に置いてある鞭を手に持った。
 使用人が少しでも粗相(そそう)をしたり気に入らないことがあると、よくそれを殴るように叩きつける。それ故、鞭の先は血が染み付いていた。
「わたしの問いに返事もせんとは、覚悟はあるのだろうな?」


「はい、もちろん」


 穏やかで優しげ。
 なのに澄み渡りすぎて、ある種のもの寂しさすら感じさせるような声。
 大柄で無骨(ぶこつ)な印象の男なのに、あまりに予想を裏切る声色に領主が怪訝(けげん)に感じたのも一瞬だった。
 用心棒の男は、次にはぐらりと倒れる。まるで糸が切れた人形のように、ぷつりと。
「な、な⁉︎」
 突然のことに言葉が出てこなかった領主が立ち尽くしていると、『人影は立ったままだった』。
 いや、それは見間違いで。用心棒の後ろに男がもう一人立っていただけだ。

「こんにちは、突然お邪魔してすみません」

 そして澄んだ声の持ち主は、その男の方だった。
 逆光の中、白い髪がきらりと光る。まるで日差しの中に溶けてしまいそうだった。声からしてまだ若い。青年のようだ。
「な、なんだ、何者だ貴様!」
「少し通りすがっただけです、すぐに消えますよ」
 青年が一歩、部屋に入る。
 いい部屋ですねと、どこまでも落ち着いて温和そうな声がむしろ恐怖を駆り立てた。
「わ、わかった! 強盗だな!? 金目のものが欲しいのだろう!? 好きな物を持っていけばいい! こんな物、わたしならすぐに買えるのだからなぁ!」
「確かに金目のものも目的の一つではありますけど、僕はあなたに用がある」
「わ、わたしに……!?」
「先日、この屋敷に奉公(ほうこう)していた下働きの少年が死にました。あなたが『躾』と称する鞭打ちの傷が化膿(かのう)して、感染病に。ご存知でした?」
 領主は、きれいさっぱり忘れていた記憶を掘り返す。
 確か歳は十を過ぎたばかりくらいの少年だった。家が貧乏で学校には行けず、下働きとして働きたいと。庭仕事の際、肥料と除草剤を間違えて愛人が気に入っていた薔薇(ばら)を枯らしてしまった。泣く愛人の前で英雄と言わんばかりの勢いで鞭打ちをして、汚いので捨てた。その後のことは領主の知るところではない。
「そ、そんなもの、わたしの所為(せい)ではない。それに貴様にはそんなこと関係ないだろう!」
「えぇ、関係ない。僕はその男の子と話したことすらないし、どんな人生を送ってどんなものが好きなのかも知らない」
 ならばなぜそんなことをと疑問に思う領主を尻目に、青年は穏やかに続ける。
「関係ないからこそ、僕は怒りや復讐に燃えることなく、お前を冷静な状態で殺せる。僕がお前を殺すのは復讐じゃない。ただ僕の『通りすがった道に邪魔』だった。それだけ。自分がなぜ殺されるのかくらい、知っておきたいでしょう?」
 純粋な声。
 逆光で今更気づいたが、よく見れば青年の手には一振りの日本刀が握られていた。
 スラリと()れる音と共に刃が現れる。ギラギラと光るそれに領主は短く悲鳴を上げた。
「ま、待ってくれ! 金ならいくらでも! いくらでも出す!」
 しかし青年の足は一歩、領主へと近づく。
「なんなら手を組もう! 税率を上げればいくらでも、好きなだけ手に入るぞ! 取り分は半分だ!」
 にこりと、青年の口元は緩やかに笑う。
 だけどそれは領主の提案を飲んだからではなく、そんなものには興味ないと言う冷たい微笑みだった。
「な、なら女はどうだ!? 何人でも用意しよう、なんならあんたにも何かしらの地位をやろう! 遊んで暮らせるぞ!」
 青年の足は止まらない。
「う、うわああああぁぁぁぁぁぁぁ」
 いよいよ日本刀が眼前(がんぜん)まで迫った領主は、混乱して冷静な判断を欠いた。
 乗馬用の鞭で立ち向かったのだ。日本刀に。ただ突進していくようなやり方で。
 しまった、これではただ斬られるだけだと、冷静な思考が頭の隅に戻って来た時にはもう遅かった。
 鞭を持った己の手が飛んで行くという信じられない光景を見て、領主は絶叫しながらのた打ち回る。
「ねぇ、お前はなにに飼われているんだい?」
「っ……、……? ぉ……ぁ……、……?」
 穏やかな問い。優しげな語り掛け。
 まるで天使が人間に啓示(けいじ)を告げるような。
 もしかしたらその先に救いがあるのかもしれないと、領主は馬鹿らしいことを考える。
 武器を持って笑う天使など、いるはずがないのに。

「お前は復讐によって殺される価値も無い。ただ道に転がってる小石と同じだ」

 殺そうとしている青年の方が、なぜか悲しげに笑った。

しおり