忘れてしまった赤
「おうさま、どうしておうさまは、みんなをたすけてくれるの?」
他の子供たちはもう眠ってしまって、眠れないという子供と王様は彼らを起こさないよう小声で話していた。
「それは、子供は希望そのものだからさ。このスラムには希望のかけらもないように思えてしまうけど、君のような子供たちこそ未来への鍵だ。そんな君たちが飢え、凍えて死んでいく姿を見るのが、僕は耐えられないんだよ。幸い、僕には君たちを守る力がある。だから、僕が出来る限りは君たち子供を助けたいんだ」
その答えに、子供は考え込むように黙る。そしてはっと顔を上げるとこう告げた。
「じゃあ、おうさまはわたしたちにしてほしいことはないの? わたし、おうさまのことがだいすき。だから、おうさまのためになにかしたいの」
それを聞いた王様は少し驚いた顔をして、それから小さな子供の体を抱きしめた。
「そんなことを言ってくれるなんて、嬉しいよ。じゃあ、一つお願いしても良いかな?」
「うん!」
王様はとても嬉しそうに、それでいてどこか熱に浮かされたように願いを告げる。
「僕の願いが叶うように、願って欲しいんだ。魔法の力は、強く願う思いの力だから。君が強く願ってくれたら、きっと僕の願いは叶う」
子供はあまり理解は出来なかったようだったが、決意を込めて頷いた。
「わかった。おうさまのおねがいごとが、かないますように!」
「ありがとう」
まるで神の祝福を受けた迷い子のように、そして悪魔に魂を売り渡した罪人のように、王様は歓喜に満ちた声で感謝を告げる。
「ふわあ……なんか、ねむくなってきちゃった……。おうさま、こもりうた、うたってくれる?」
「もちろん」
静かな声で、王様は歌った。賛美歌のようなそれは、優しく子供を夢の世界に誘う。すやすやと寝息が聞こえたのを確認して、王様はそっと部屋を出た。
※※※
「君もまだ起きていたの? 君にも子守歌、歌ってあげようか」
王様が談話室に向かうと、そこには一人絵本を見つめるニックの姿があった。
「あれ、それしまってくれてなかったんだ?」
「改めて読むと、酷い話だなと思って。ありきたりで退屈でつまらない」
吐き捨てるようなニックの言葉に、王様は肩を竦める。
「仕方がないだろう? だって、それが事実なんだから」
昔を思い出すように、懐かしげに目を細めて王様は笑った。
「姉さんは僕を捨てて壁の向こうへ行った。そして愛しの人と幸せに暮らしてる」
自らの引きずるほど長い赤い髪を、彼は愛おしそうに撫でる。
「素敵な話でしょう? 姉さんは壁の向こうで幸せに暮らして、僕はスラムでぼろぼろのまま、不幸の底に沈んでのたれ死ぬ運命。でも、それじゃあまりに理不尽だから」
楽しそうに、無邪気に、彼は運命を呪った。ニックはただ無表情にその言葉を聞いている。
「だから、願ったんだ。そうしたら、魔法が使えるようになっていた。そして僕はスラムの王様になった。ここじゃ誰も僕には逆らえない。城壁の中からほんの少しだけ流れてくる食料は全部、僕の元に届けられる。スラムにごろごろいるゴミどもには一つもやらない。誰にも必要とされないゴミは死ねば良い。あいつらには希望も願いもないのだし。蝋燭だって、服だって、毛布だって、全部僕のものだよ。逆らう奴らは皆殺した。そしたら、いつの間にか皆僕を緋色の王様と呼ぶようになった。この長い髪はね、忘れないためのものなんだ。姉さんが僕を捨ててから、どれだけの月日が経ったのか。こんなに長くなったってことは、きっともう信じられないほどの時間が経ってるんだろうね」
ニックの表情は最早前髪に隠されて全く見えなくなった。
「僕はね、特別な魔法が使えるんだ。火を起こしたり、風を操ったりすることくらいは、城壁の向こうの人間なら誰でも出来る。でも、僕はとっても強く願ったから、彼らには使えない魔法が使えるんだ」
そして彼はニックの前の机の上に置かれた絵本に手を伸ばす。しかし、彼の手は絵本に触れること無くそれをすり抜けた。
「僕は『触れたい』と思ったもの以外はすり抜けることが出来る。だから、城壁なんてあってないようなものだった。きっと僕が城壁を越えたいと強く願ったから、この力を使えるようになったんだね。そして僕は姉さんに会いに行った。会ってどうしたいのかは分からなかったけど、ただ会いたかった」
ニックの握りしめた拳が震える。
「姉さんは幸せそうだった。七歳の息子と、愛する夫と三人で平和に暮らしてた。城壁の中には、飢えて死にかけてる人なんて一人もいなかった。捨てられている子供は一人もいなかった。僕は気が狂いそうだった。どうしてかは分からないけど。でも、思ったんだ。この人たちがみんなこんなに幸せなら、ちょっとくらい不幸も味わっておくべきじゃないかって。だから、姉さんの子供を攫っていくことにした。姉さんの幸せの代わりに、子供が不幸になれば僕の心は慰められるんじゃないかと思ってさ」
王様はうなだれるニックの顔をのぞき込んだ。苦しげな彼の姿を見て、王様は心底満足そうに笑った。
「それが君だよね、ニック」
突然、ニックが緋色の王様につかみかかった。その華奢な体を押し倒し、力の限りのその細い首を絞めようとする。けれど、力を入れようとした瞬間その手は王様の体をすり抜けて、気がついたときには王様はニックの下から抜け出していた。
「ねえニック。僕のことが憎い?」
「……憎い。あんたさえいなければ、俺は両親の元で幸せに暮らしてたはずだった」
「そうだろうともね。僕のこと、殺したいかい?」
「そのためだけに、生きてきたんだ」
「そっか。じゃあ、僕を殺すまでは、君はずっと僕の側にいてくれるよね?」
黙り込むニックとは対照的に、王様はずっと笑っている。
「大丈夫。死ぬときは君に殺されてあげるから。今はまだ死ねないんだ。城壁の中の人たちの幸せを根こそぎ奪い取るまでは死ねないの。僕の力は強いけど、さすがにそこまでの力はないから。だから、子供たちに手伝ってもらうんだ」
再び顔を上げたニックには、もう先ほどまでの憎しみは消えていた。
「分かっています。子供たちがあんたの願いの成就を願えば願うほど、あんたの力は強くなる。子供の願う力は強い。だから子供を集めて、優しくして、あんたの願いが叶う日まで待つと決めた。大丈夫。取り乱してすみません。子供たちの願いが十分集まって、あんたの願いが叶えば、俺はあんたを殺せる。だから、協力すると決めたんでしたね」
「思い出してくれて良かったよ。やっぱりその絵本はしまっておこう。これを見る度君が情緒不安定になるのはちょっと面倒だからね。それにしても安心した! まさかその約束まで君の力で忘れてしまったのかと不安になったよ」
張り詰めていた緊張の糸がほぐれたようで、ニックはその言葉にふっと笑う。
「大丈夫です。俺の力は消したい記憶を消す力なので、意図しない記憶まで消したりしません。まあ、両親のことは全く覚えていませんが」
「じゃあさ、君の親は僕ってことにならないかな?」
「あなたの子供なんてまっぴらごめんです」
「ひどいなあ」
二人は顔を見合わせて笑い合った。先ほどまでの憎悪が嘘のように、本当の家族のように二人は笑う。
「ああ、でも、あなたのこと、俺がきっと一番よく分かってると思います。癪ですが。あなたが母に会いたかった理由は多分」
「……え?」
王様は本気で戸惑った顔をした。ニックが長年一緒にいて、一度も見たことのない顔。
「自分の名前を、教えてもらいたかったんでしょう。あなたはもうずいぶん、自分の名前を忘れたままだから」
「……だって、誰も、呼んでくれなかったからね」
王様は迷子の子供のような表情で呟く。
「ああ、そっか、そうだったのか。僕は、名前を、思い出したかったのかな」
「まあ、俺が勝手に想像しただけですけどね」
夜が更けても、二人は眠らない。何をするでもなく、ぼんやりと暖炉の前のソファに座ったまま。
「ニックの力って、自分の記憶以外も消せるよね」
「ええ。ただ、相手から消した記憶については俺も忘れます。何を消したかは分かりません」
暖炉の揺らめく火を見つめながら、王様は心ここにあらずと言った様子で問いかける。
「ずっと不思議に思ってたことがあるんだ。子供って、永遠に子供のままじゃないよね?」
「そうですね」
「僕らが子供を集め始めてから、もう随分経ったけど、その間に子供の何人かは大人になったはずじゃない?」
「そうですね」
「彼らはどこにいったんだっけ? 大人はいらないから、どこかにやったんだと思うんだけど、全然覚えていないんだ」
「……俺も、覚えていないです。俺の力で、忘れたのかもしれないですね」
「やっぱりそう思うよね? 子供たちを見てると、時々真っ赤な何かがちらつくんだけど……あれはなんなんだろう」
心底不思議そうに、彼は考え込んでいた。しかし、ふっと明るい顔に戻る。
「まあいいや。忘れてるってことは、忘れて良いことなんだろう。何であれ子供たちは幸せなはずだし。ああ、いつ僕の願いは叶うのかな。あと百人くらい子供を連れてくればいいのかな」
「さあ、どうなんでしょうね。早くしてください。はやくあなたを殺したいので」
「君は相変わらずひどいなあ」
「そういう風に育てたのはあなたですよ」
だって、とニックは笑う。
「あなたは俺に殺されたいんでしょう」
そう言われて、王様は夢見心地でうっとりとした表情で頷いた。
「君は本当に良い子だね」
空には赤い月が輝いて、真っ暗な夜を禍々しく照らす。天使たちの安らかに眠る教会で、眠らない悪魔たちはひたすら願いの成就を祈るのだった。