バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

20話 初恋と敗戦と

 わかっている。
 セルスタが俺を懐に誘い込んだということは重々承知している。

 この試合の間、セルスタはずっとそうしてきた。
 わざと俺に打たれて、わざと苦戦している風を装って、俺の手の内を見ていたのだ。
 自分の知らない、未知の技術を俺から盗む為に、わざとそうしていたんだ。

 だったら見せてやるぜ、今の俺の全てを注いだこの拳を!

 俺は膝を落とし低く構えると、拳を腰の辺りに構える。
 セルスタは俺の一挙手一投足、全てを見逃すまいと、目を見開き凝視していた。

「喰らいやがれえっ!」

 俺は、構えた拳を上空へ突き出す。
 屈んだ状態の態勢から、一気に全身のバネを使い身体を伸ばす。
 拳はセルスタの顎ではなく、鳩尾へと喰い込んだ。

 俺が狙ったのは(ジョー)ではなかった。
 このまま拳を奥へと突き上げて、横隔膜を叩いてやる。

 そうすれば、人体の構造上、どんな人間でも一時的に呼吸困難にならざるをえない。
 息が止まった瞬間、動きも止まり、苦しさの余りガードと顎が落ちてくる。
 そこへ止めのアッパーを今度こそ入れてやるぜ。

 鳩尾を打たれたセルスタは、、想定外の攻撃に顔を歪めて苦しそうな顔になる。
 動きが止まり、ガードが弛むと、身体がくの字に曲がった。

 ここだ! ガードの隙間に返しの右アッパーをもう一発叩きこむチャンスだ!

 これで決まる! ここで決める!

 渾身の右拳を、セルスタの顎に叩きこんで試合終了だ!
 意識を飛ばす程の威力はないかもしれないが、ノーガードの顎を思いっきり突き上げるんだ。
 絶対に脳は揺れて、セルスタは立ち上がれない。
 それは、どんな天才であろうが、どんな凡人であろうが、人間である以上変わらない弱点だからだ。

 景色がスローモーションになる、俺の右拳がゆっくりと、セルスターのガードの隙間に潜り込んで行く。
 あと少し、ほんの十数センチで届く。
 あの顎を打ち抜けば俺の勝利だ。
 これで、俺の勝ちが……。

 拳が顎に届く瞬間、セルスタの身体が少し横に傾いた。
 ゆっくりと俺の拳は、セルスタの顔の横を過ぎていく。

 俺は自分の拳を、もう止めることはできなかった。

 拳を突き上げながら、セルスタがモーションに入っていることがわかるのだが、それでも体は止まらない。
 見えているんだ、頭ではわかっているんだ。
 それでもこのゆっくりと、まるで時間が止まったかのような時の流れは、そのままで。

 セルスタの振り上げた右拳が俺の拳とクロスするように振り下ろさるのを、ただただ、見ていることしかできなくて。

 打ち下ろす右(チョッピングライト)

 それが俺のアッパーへカウンター気味に入った。
 上から下へ打ち下ろしたセルスタの右拳が、俺の顔面へめり込んだ瞬間、俺の意識はブラックアウトするのであった。




 眩しい……。

 俺は仰向けに寝ているのか?

 目の前から、光のシャワーが降り注いでくる。

 ここはどこだ? そうだ、今はタイトルマッチの最中だったじゃないか。
 俺はキャンバスに寝転んでいるのか? つまり、ダウンしたということか?

 わからない、レフェリーのカウントが聞こえてこない。
 もう試合は終わってしまったのだろうか?

 俺は負けたのか? チャンピオンにはなれなかったのか?

 くそぉ……負けちまったのか。

 ごめん会長……、チャンピオンベルトを必ず持って帰るって約束したのに。


 俺はなんだか、無性に悔しくて、負けたと言う実感もないのに、それがわかってしまって、自分はチャンピオンになれなかったんだということがわかってしまって、本当に悔しくて悔しくて。


 気が付くと一筋の涙を流していた。


 そしてそのまま、リングを照らす眩い光が大きくなっていき、俺はその光に飲み込まれる瞬間、固く目を瞑った。


 しばらくすると、後頭部の辺りになにか柔らかい感覚がする、それに暖かい。
 ゆっくりと目を開けると、誰かが俺の顔を覗き込んでいた。

「カ……トル……」
「よかったロイム。意識が戻ったんだね」

 カトルは不安気な表情で俺の顔を覗きこんでいたのだが、俺が返事をしたので安堵の溜息をこぼした。

 立ち上がろうとすると、もう少し安静にして居なくちゃ駄目だと言われて、肩を抑えこまれる。
 その瞬間、なにやら柔らかい感触がまた俺の後頭部を押し戻した。
 どうやら、カトルが膝枕をしてくれていたらしい。

「他の皆は?」
「1時間程前に帰ったよ。ロイムは暫く動かさない方がいいだろうってことで、目覚めるまで僕が見ているから先に帰ってもらったんだ」

 なるほどな、俺はたぶんセルスタの一撃でノックアウト、そのまま意識が飛んでTKO負けだったのだろう。

「ありがとうな、カトル」
「うん……ロイム……僕は、明日になったらここを出ていかなくちゃならないんだ」
「ど、どうしてっ!?」
「僕は拳闘士にはなれないからね。マスタングさんの経営する農家を任されている、ご夫婦の元へ行くことになったんだ」

 明日だなんて、そんなの急過ぎるじゃないか。
 そう思うのだが、こればかりはどうしようもない。
 俺達は奴隷だ。タダで養ってもらっているわけではない、働かざる者食うべからずではないが、ここにいさせてもなんの利益も生まないカトルにただ飯を食わせる必要なんてないのだ。

「そうか、でも、また会えるんだろ?」

 俺の言葉にカトルは悲しげな表情を見せるとゆっくり首を振る。

「カ……ト……」
「リーナ」
「え?」

 俺がきょとんとしていると、カトルは微笑みながら言った。

「カトリーナ。ぼく……わたしの本当の名前だよ」

 そうか、カトルってのは偽名で、本当の名前がカトリーナって言うのか。

「カトリーナか……、良い名前だ」

 そう言うと、カトルは顔をくしゃくしゃにして大粒の涙を流し始める。
 俺はカトリーナの頬にそっと手を添えると、優しく涙を拭ってやった。

「さようなら、ロイム」

 俺の額にカトリーナの唇がそっと触れた。


 少女の初恋は、ほろ苦い敗戦と共に終わりを告げるのであった。

しおり