19話 凡人が天才に勝るもの
大砲にキャピタラが付いて戦車になりやがった。
それが率直な感想だった。
突進力はあるが曲がることのできなかった大砲が、縦横無尽に動き回る戦闘車両になったのだ。
ほんの少し見ただけで、俺のフットワークを盗んだセルスタ。
俺は最早、成す術もなかった。
距離を取ろうにも簡単に追いついてくる足に、どのように対処すればいいのかわからない。
とにかく逃げなければならない。
救いはロープがないことだ。闘技場ならロープ際やポールに追い込まれることがない。
最悪走って逃げればいい……そんなことは出来ないが。
セルスタに対してアドバンテージであったフットワークが通用しないということが、俺の気持ちをどんどん焦らせていたのだろう。
俺は逃げ回ることに必死で、とにかく今はセルスタと距離を取りたかった。
それから……。
セルスタの左ジャブが飛んで来る。
ジャブ? これはジャブだ。
右も左も関係ないストレート主体の攻撃だったセルスタがジャブを打っている。
俺はウィービングをしながらそのジャブを躱すのだが、全て避けるのは無理だ。
何発かはガードで受けるのだが、数発顔に喰らって顎が跳ねる。
くそっ! 距離だ、距離を取って、冷静になるんだ!
それから……それから。
セルスタのジャブの雨は止まない。
ガードを上げた瞬間、懐に飛び込んできたセルスタのリバーブローが俺の体を打ち抜いた。
く……そ……それもかよ……。
堪らず俺はセルスタの攻撃から逃れるように距離を取った。
するとなぜかセルスタは追いかけて来なかった。
なぜだかわからないが追って来ない、これでなんとか態勢を立て直せる。
今食らったボディーブローのダメージを回復してから、そこから……。
そこから、どうすればいいっ!?
そこで、俺は足を止めてしまった。
ウィービングも忘れて惚けていると、セルスタは一瞬不思議そうな顔をするのだが、なにかを悟ったような表情になると間合いを詰めてきた。
俺の顔面を二発、ジャブが捉えると、同じ場所を右ストレートで打ち抜かれた。
抗うこともできずに俺はその場に膝を突き蹲る。
今のも、渾身の一撃ではないだろう。
セルスタは手加減して右ストレートを打ったのだ。
本気だったら一瞬で意識を失っていただろう。
くそぉ、くそぉ……。
朦朧とする意識を繋ぎとめているのは、悔しさだけであった。
距離を取ってもどうにもならないと言う現実が重く伸し掛かる。
そこから先が俺にはなにもなかった。
距離を取ったところで、俺にはセルスタに対抗できる手段がなかった。
逃げ回るだけでは相手を倒すことはできない、セルスタが勝負に片を付けようとしないのは、まだ俺に何かがあると思っているからなのだろうか? ただの情けなのか? それはわからなかった。
テンカウントはないと言っても、いつまでも地面に蹲っていたら審判に続行不能と見做されてしまう。
俺は震える足で踏ん張り立ち上がった。
遠くで俺の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
カトルとトールだろう。だが、その声援に応える余裕は今の俺にはなかった。
目の前に居る怪物を見据えると、俺は初めて怖くなった。
どうしてこんな化け物に勝てるだなんて思ったのだろうか?
次元が違いすぎる。まさに神憑り的な強さだ。
俺はまだ子供だからとか、そんなレベルの話ではない。
例え俺がセルスタと同じ年齢だったとしても届きはしない。
そんな雲の上の存在であると思えるくらいに、セルスタの天才的才能に俺は打ちのめされていた。
駄目だ……降参しよう……。勝てるわけがない、これ以上続けたって、なにもできないまま負けるだけじゃないか……。
俺は戦意を失っていた。
あの時と一緒だ……あの時? なんだっけ?
そうだ、東日本新人王戦の時だ。
下馬評では、相手の石田選手の方が有利だった。
中学アマチュアボクシング時代から天才と称され有名だった石田は、五輪金メダル間違いなしと将来を嘱望される選手だった。
そんな石田がプロへの転向を発表、デビューの遅かった俺とは知名度も雲泥の差だった。
華のない俺のボクシングと違って、華麗なテクニックを見せる石田に対して俺はなんの活路も見いだせないでいた。
しかし、そんな俺の姿を見かねて喝を入れてきたのが会長だった。
ずっとやる気がなかった癖に、俺のボクシングに懸ける思いはそんなものなのかと、急に説教をしてきたことは今でも忘れない……おまえが言うんじゃねえって。
華がなかろうが泥臭かろうが構う物か。
凡人が天才に勝るものがあるとすればただ一つ。
それは、凡人であると言うことだ!
会長はそう言った。
凡人が天才になれないように、天才は凡人にはなれない。
だから、天才は凡人と同じ努力はできないのだと。
努力に勝る天才なしなのではない。凡人だから天才的な努力をできるのだと。
俺はそこから猛練習をした。
ややもすればオーバーワークで身体を壊してしまうのではないかと、周りの皆も心配するくらいに。
現代スポーツでは否定されている精神論や根性論。
これらは確かに非科学的で、根性のあるなしが勝敗を分けるなんて、なんの根拠もないものである。
しかし、真剣勝負の世界では時に、そんなことが起こりうるのだ。
現に俺は、自分よりも格上の石田に新人王戦で勝利したのだ。
凡人だからこそ成し得た根性だと、俺はそう思っている。
セルスタは確かに天才だ。
だが、俺の前世よりも生きてない奴が、俺のボクシング人生と同じだけの努力をしてきただなんて思いたくない。
「まだやれるんだな」
ファイティングポーズを取る俺に審判が聞いてくる。
俺は返事もせずにセルスタに向かって行った。
ステップを踏む力は残っていない。
摺り足でジリジリと距離を詰めて行く。
セルスタはジャブを放ってくるが、俺はガードを固めてそのまま進む。
単なるジャブが、まるでハンマーで殴られているかのように重い。気を抜けばそのまま後ろに転がってしまいそうだ。
今倒れたらもう立ち上がれない。俺に残された余力はほんの僅かだ。
アッパーだ、届くかわからねえが、渾身のアッパーを放ってやる!
俺は最後の力を振り絞り、セルスタのジャブを潜り抜けると肉薄するのであった。