ニートと透明人間の存在証明
何かいいことがあったのだろうか?楽しそうに駆け回る少女がそこにはいた。
少女は白いワンピースをなびかせ、小さな百合の花束を持って走っていたが、あまりの勢いに足がもつれてしまった。ビタンッと前のめりに転倒してしまう。
「う……う……うわぁぁぁん」
少女は、こけた痛さよりも、潰れてしまった百合の花を見て泣き出した。
周りの大人たちが心配そうに駆け寄り慰めようとするが、少女は泣き止まない。
するとそこへ、
「大丈夫……?これ、良かったらどうぞ」
恥ずかしいのかなんなのか、少女とは目を合わせようとせず声をかけてきた男は、1枚の絵を差し出していた。
そこには、満面の笑みで今にも紙から飛び出し駆け回ろうかという少女と、それはそれは綺麗な百合の花が描かれていた。
「ぐすっ……ありがとう!おにい……ちゃん?」
少女が嬉しそうに顔を上げると、そこにはもう男の姿はなかった。
♢♦︎♢♦︎
(あれ、あれあれ?おかしいな。)
絵を描いて欲しいという彼女の言葉は、見事なまでにスルーされたのだ。この喧騒の中だ、聞こえなかったのだろうかとも思ったが、一瞬ピクッと反応はあった。あったがこちらを見ることもなく彼は絵を描き続けたのだ。
(ふむ、ここまで華麗にスルーされると逆に清々しかったりもする。自分だって突然見ず知らずの人間に喋りかけられたりしたら戸惑うし、そもそも彼は人見知りなのかもしれない。)
それからしばらく彼女は、彼の描く絵と、橋を渡る人たちを交互に眺めていた。一度無視されてしまったことによって、彼にもう一度話しかけなければいけない使命感の様なものを感じ座り続けている。
本来なら立ち去ればいい。だが立ち去る先もない。
今度は彼の正面に膝を抱えて座わり、もう一度同じ言葉を投げかけた。
「あの、よければ私の絵を描いていただけませんか?」
言ってしまってから、なんて図々しい事をしているのだろうと彼女は思った。そもそも、よければなどと言っている割に、拒否とも取れる無視を無視し二回も頼むなど、普段では考えられない行動である。今の非現実な状況だからこその行動と言えるだろう。
彼女は、突然恥ずかしくなった。彼の顔を見れなくなり顔を膝の間に埋める。
当然のように今回も反応はない。しばらくの沈黙の後、いたたまれなくなり顔を上げると、男がこちらをまじまじと見ていた。いや、おそらく見ている。髪の毛で目は見えないが見つめ合っている気がした。
(わぁすっごい見てる。すっごい見られてる気がする。)
自分から話しかけておいて失礼だが、少し怖いと思うほど男は微動だにせず、こちらを見つめ続けていた。
「あの……」
そう彼女が言った途端、またピクッと反応があった。同時に髪の毛が揺れ隙間から片目だけだが見える形になった。男は目をまるで、この世のものではないものを見るかの様に見開き、顎が外れんばかりに口を開いている。
絵に描いたような驚き顔だ。驚き顔ってなんだ。
「き、君は……僕が見えてるのかい?」
(おっと?このセリフ知ってるぞ。幽霊が見えるオレンジ髪の高校生がヒロインと出会った時的な?そういう展開ですか?彼から突然力を貰う的な?)
しばらく互いに、この世の物ではないものを見る目で見つめ合った。
「ああ、ごめん僕は幽霊とかそういうのじゃないよ」
(違うんかい。)
(なんだ違うんだ。そうか。少し残念だがまあ安心した。)
「ごめん、人と話すのなんて何十年かぶりだから」
比喩表現とも取れる言葉を、彼女は不思議そうに聞いていた。
「あのここで何をしてらっしゃるんですか?」
(当然、絵を描いてらっしゃる。)
質問を間違えたようだ。
「いつもここで絵を描いているんですか?」
絵を描いているという答えが返ってくる前に質問を変えた。
「そうだね、時々こうやって外の世界を切り取っておくことで、今この時間この場所に僕がいた証明みたいなものが作れる気がしてね」
(あまり外に出ないのだろうか。歴史上有名な画家も家に篭って絵を描いていたみたいだし。知らないけど)
「僕、家がないんだ」
(あ、ホームレスだった。)
「奇遇ですね、私も今家ないんですよ。いや、ないっていうか、無くなったっていうか……」
(帰りたいな家に。きっとお父さん心配してるだろうな買い物に出かけただけなのに。)
少し和らいでいた感情が込み上げてきて、今にも泣きそうになる。
「君の絵、描かせてもらってもいいかな」
男が見兼ねたように言う。
「はい。お願いします!あの、もし宜しければ、お名前聞いてもいいですか?」
その問いに彼は困ったような顔をした。
「名乗る様な名前は無いよ。僕は、この世界にいないのと同じ様な人間だから。僕は幽霊と同じだ」
「そんなことないですよ。あなたはここにいます。ここにいて私と話しています。少なくとも私は今あなたを必要としているし、あなたを見てる」
そう言い彼、女は彼の頬に手をやる。
「ね。触れられる幽霊なんて私は信じないですよ。あなたと私は同じ世界で生きてるんです」
同情などではなく、本心からの言葉だった。彼はそれに「そうか」と俯きながら、優しげに返事をすると、ペンをとった。
彼が絵を描きあげるまでの間、少し話をした。彼は自分の事をあまり話さなかったが、彼が何年もここで絵を描き続け、自分が死んだ後、絵だけでも残り続けて欲しい。この絵を描いた人物がいると、誰かに気づいて欲しい。死ぬ事で自分の存在は証明される。とそれだけ話してくれた。
それから、彼女は自分の話をした。突然わけのわからない世界に来てしまった事。自分が今、どこにいるかも分からず困っている事。
しばらくして、彼の絵が完成した。あふれんばかりの笑顔で描かれたその絵は、自分の絵のはずなのに、綺麗な人だと思ってしまった。それほどまでに、鮮やかだった。
「ありがとうございます。あ!!…………私.、今お金持ってなくて」
「いいよ。僕は商売で絵を描いている訳じゃないし。これは、僕の存在証明の一環だから」
「あの、じゃあこれ。貰い物なんですけど良かったら食べてください。あとこれも」
そう言って彼女は先程貰った果物と買い物の際に買っていたチョコを渡した。
「いやいや、そんなの受け取れないよ。君だって大変なんだ。もう会う事の無い男の為に、何もしてやる必要はない」
彼はそう言って差し出されたものを返そうとした。
「バレンタインデーって知ってますか?」
突然の問いかけに彼は、首を横にふる。
「私のいた世界では、2月の14日に好きな人にチョコを渡す習慣があるんですよ。他にも、友達とか家族にあげたり。少し早いですけど、というより、この世界の日付わからないけど。とにかくこれはバレンタインチョコです」
彼女は彼の手に果物とチョコを渡した。
「バレンタインにチョコを貰った男の人は、お返しをしないとダメなんですよ。だからまた会いましょう。お返し貰いに来ます。必ずですよ。約束です」
彼が今どんな表情をしているのか、髪の毛で隠れてわからない。彼はボサボサの頭を掻き、また「そうか」とだけ言った。
「本当にありがとうございました。ではまた」
彼女は深々と頭を下げた。
ーーそして彼女たちの約束は果たされ、また出会う。それはまだ先、彼の存在が証明される時に。