第六章 紛れ込んだ現実
「うわっ!」
後ろ向きに投げ出された僕は、硬い床に尻餅をついて背中から倒れ込んだ。衝撃で剣が手から離れ、床を滑る。
「リッキ! 大丈夫ですか?」
「う、うん、大丈夫」
すぐ隣で立っていたキュイアの声を聞いて、僕はすぐに体を起こした。
「キュイアも大丈夫?」
「はい、びっくりしましたけど、ケガはしていません」
「そうか。よかった」
キュイアが右側にいてくれてよかった。左側にいたら、僕の剣でキュイアがケガをしてしまっていたかもしれない。
キュイアの無事を確認した僕は、現状を確認するため、周囲を見回してみた。
――なんだ、ここは。
部屋の広さは、僕の部屋の二倍くらい。壁も床も灰色。天井も灰色で、棒状の白い光が二列に並んでいる。左右の壁を見ると、なんの装飾もない木のドアが、向かい合わせに二つ設置されている。それ以外は、何もない。
立ち上がって前の壁に近寄り、触る。固くてひんやりとした、よく知っている感触。コンクリートだ。
「僕は、この壁を抜けてきたんだよね?」
振り向いて、キュイアに確認する。
「はい。私もたぶん、そうでした」
キュイアはうなずきながら答えた。
ということは、あの触手が生えた岩とこの壁がつながっている、ということなんだろうけど……。そんなことってあるのかな。本当になんの変哲もない、ただのコンクリートのこの壁が。
ふと天井を見上げる。白い光が、どことなく蛍光灯のように見える。FoMのダンジョン特有のオレンジ色の光はなく、天井の白い光だけがこのコンクリートの部屋を照らしている。
まるで現実世界にいるような、そんな錯覚を受ける。しかし、視界に映るHP表示や数々のアイコンが、ここが仮想世界であることを証明している。この部屋に投げ出された時も、コンクリートの床に体を打ったにもかかわらず、痛みはなかった。
「どこなんでしょうか、ここは」
キュイアが当然の疑問を僕に投げかける。
「わからない。こんなところ、初めて来たよ」
少しでも手がかりがほしい。落とした剣をドアの前で拾い、鞘に収めた。そしてドアノブに手をかける。鍵はかかってなく、簡単にドアは開いた。
ドアの向こうは、階段だった。廊下も何もなく、下りの階段が直接つながっている。
反対側のドアも開けてみる。ドアの向こうには、上りの階段が伸びていた。自然と顔が上を向く。
電子音が鳴った。左下の手紙の形のアイコンが点滅している。上を向いていた顔を戻し、メッセージを開く。
Airy: 大丈夫? どこにいるの?
Cuyia: はい、大丈夫です。
アイリーからのメッセージは、僕とキュイアに宛てたものだった。さっそくメッセージを返したキュイアだったけど、
「どこ、なんでしょうか」
さっきも言った質問を、また僕に言った。
「どこ、なんだろう」
キュイアの疑問を、そのまま返した。全く答えになっていない。
とにかく僕もメッセージを返さなきゃ。
Rikki: 僕もキュイアと一緒。何もない部屋にいる。階段があって、上にも下にも行けるみたい。
そして、キュイアにわからないように、個人メッセージで追加を送る。
Rikki: 壁も床もコンクリートで、まるで現実世界だよ。照明も蛍光灯みたいだし
こんなこと言って、アイリーは信じてくれるかな。実際にこの部屋にいる僕ですら信じられないというのに。
Airy: ちょっとそこで待ってて。
僕個人にではなく、二人へのメッセージだった。
「じゃあ、ちょっと待とうか。アイリーもあまりよくわかってないだろうしさ。あせってもしょうがないから」
「そうですね、待ちましょう」
僕は床に腰を下ろし、壁に背中を預けた。キュイアも隣に座った。
それにしても、本当にここは何なんだろう。FoMではこういう場所がよくあるのだろうか。いや、さすがにそんなことはないはずだ。だとしたらたぶん、あれだと思うんだけど……。
ふと、隣のキュイアの顔を見た。気づいたキュイアが、僕の顔を見る。目が合って、僕は顔を前に戻し、そして下を向いた。
待とう、とは言ったものの、何もない部屋にただ黙って二人っきりというのは、なんだか気まずい。何か話すことでもあればいいけど……。
「キュイア、僕は……」
この息苦しい空気を壊すため、というのが理由なのか。
それとも、それを言い訳にして言いたいことを言いたいだけなのか。
それもわからぬまま、僕は顔を上げることなく口を開いた。
「本当は、機織りをやりたくてキュイアの家に通っていたんじゃないんだ」
キュイアの顔を見ずにこんなことを話すなんて、僕はなんてずるい男なんだ。
「ただ……逃げたかった。それだけだったんだ」
言わなければならないという気持ちと、言ってはならないという気持ちの両方があった。
言わずにずっと黙ったままでいても、別に良かっただろう。
それでも僕は、言うほうを選んだ。
「とても悲しいことがあって、その現実に向き合うことができなくて、それで逃げたんだ。もうこんな目に遭いたくなくて、それまでの楽しかった時間が忘れられなくて……」
今、キュイアはどんな顔をして僕を見ているだろうか。
怒っているだろうか。呆れているだろうか。それとも、僕のことなんかなんとも思っていないだろうか。
でも、僕は顔を上げなかった。わかってしまうのが、どうしても怖い。
「僕には、もう会えなくなっちゃった人がいるんだ。キュイアは、その……、ちょっと、似ているんだ。その人に」
「そうだったんですか」
キュイアの声は、いつもと同じだった。
思わず顔を上げて、キュイアの顔を見た。いつもの穏やかな顔が、僕の隣にあった。
「リュンタルのどこかには、自分とそっくりの人がいるものだ――というのは、聞いたことがあります」
「いや、そういうことじゃなくて、その」
「そうじゃないんですか? では、何が似ているんですか?」
キュイアの穏やかな顔が、戸惑いの表情に変わった。
「え? えっと、その……」
しまった。言わなきゃよかったのに、つい口に出てしまった。
見た目は全然似ていない。
似ているのは、シュニーが人形だったということと、キュイアがNPCであるということだ。つまり、本当の人間ではないということだ。でも、そんなこと言えるはずがない。
「えっと、その人も、布を作っていて……」
「そうだったんですか! その人も、機織りをしていたんですね!」
戸惑いから一転、キュイアは華やかな表情を僕に見せた。
機織りじゃないんだけど、などと言ってしまうとまた疑問を持たれてしまう。僕はキュイアに言葉を返さず、続きを話すことにした。
「最初は、その人が布を作っていたのが忘れられなくて、それでキュイアのことを思い出して家に行ったんだ。その時は、自分が布を作るなんて考えもしなかったんだ。でも、機織りをやってみると、夢中になることができて、嫌なことも思い出さなくなって……。そのうち、もう剣を握ることなんかやめて、ずっとキュイアと一緒に機織りをしていれば、嫌な目になんか遭わなくて済む、って思うようになって。僕にはキュイアさえいればいいんだって思うようになって」
「ありがとうございます」
ありがとうございます――それは感謝の言葉のはずだ。
でも、その言葉が僕の言葉を遮った。キュイアは僕に話を続けさせてくれなかった。
「そんなにも私のことを思ってくれていたなんて、本当に嬉しいです」
違うんだ。
「それなのに、私はどうしてもリッキに冒険をしてほしくて……。辛い思いをしていたことも知らず、無理を言ってしまいました。本当にごめんなさい」
違うんだ。そうじゃないんだ。
「嫌なことはもう忘れましょう。帰ったら、また私と一緒に機織りをしませんか? それでリッキが嫌なことを忘れられるのなら、そのままずっと機織りを続けても」
「違うんだ!」
つい大きな声が出てしまって、キュイアの体が少しビクッとした。
「あ、ごめん……驚かせちゃって。その、機織りをしたくないとか、そういうことじゃないんだ。ただ、僕はやっぱり剣士だからさ。冒険をして、剣を振っているのが一番いいんだ」
恥ずかしさを隠すために、少しだけ笑いながら謝った。
少しだけ視線を逸らし、またキュイアの顔を見た。さっきまでよりも、しっかりとキュイアの目を見つめながら、僕は続けた。
「キュイアには、本当に感謝しているんだ。僕の心を癒してくれたのも、こうしてまた剣士として冒険しているのも、全部キュイアのおかげだよ。キュイアがいなかったら、僕は壊れたままだったはずなんだ」
「そうでしょうか? それは私よりも、リッキが会えなくなったという人のおかげではありませんか?」
キュイアはすぐにそんな言葉を返してきた。
「だって、リッキは忘れたくないんですよね、その人のことを」
「……うん」
「私がまた一緒に冒険に行きたいといった時、断ることもできたはずです。でもそれをしなかったのは、その人のことを思っていたからですよね?」
「……そうだね」
シュニーがいなければキュイアと二人きりの日々を過ごすことはなかったし、こうして心の内側をキュイアにさらけ出すこともなかった。それは間違いない。
「じゃあ、その人とキュイアの、二人のおかげだよ。ありがとう、キュ……」
突然、僕たちがいるのとは反対側の壁から、何かが突き出てきた。
ピンク色の棒のようなものが目に入った。驚いて身構えようとする僕にその時間を与えることもなく、すぐさま同じピンク色の大きな塊が灰色の壁から勢いよく飛び出てきた。
「うわっ」
「きゃっ」
思わず声を上げた僕とキュイアの目の前に、そのピンクの塊が転がり込む。
「あ、キュイア、久しぶり。それとお兄ちゃんも」
魔法の杖を握りしめたまま仰向けに寝転んでいるアイリーが、僕とキュイアを見上げた。
「アイリー! 来てくれたんですね!」
「うん! キュイアが無事でよかった! あとついでにお兄ちゃんも」
「なんで僕だけおまけみたいな扱いなんだよ」
「だってお兄ちゃんなら心配しなくても大丈夫だろうし」
「あのなあ……」
アイリーなりに僕のことを認めてくれているんだと思いつつ、仰向けのままの顔をじっと見つめる。
「ん? どうしたのお兄ちゃん。私がかわいすぎて目を離せないの?」
「そうじゃないって。ただ……」
「ただ……何?」
「あとは、アイリーのおかげかなって思って」
キュイアはシュニーの代わりじゃない。
アイリーがそう言ってくれなかったら、僕はいつまでもキュイアに依存していただろう。そしてアイリーが機織り機を片付けなかったら、今日も僕は剣を握らずに機織りをしていただろう。僕の心の傷が癒えたのも、アイリーが気遣ってそっとしておいてくれたからだ。
「えっと、私、褒められてるの?」
「そうですよアイリー! 今リッキと話していたんですけど――」
「キュイアごめん、私ちょっとすることがあるから」
アイリーは上半身を起こすと、僕たちに背中を向けたままメッセージを打ち始めた。そういえば他のみんなはどうしているんだろう? 戦闘はどうなったのだろうか。アイリーがこっちに来たり、メッセージのやり取りをしたりする余裕があるってことは、もう戦闘は終わっているんだと思うけど……。
指の動きを止めたアイリーが立ち上がった。
「お兄ちゃん、ここに立ってくれる? キュイアはこっち」
アイリーに促されて、理由もわからないままさっきまでアイリーが寝転んでいた場所に立った。キュイアはアイリーと並んで、左側にあるドアの前に移動した。
「で、これからどうすれば――」
「お兄ちゃん! ちゃんと前向いて!」
「え、前?」
アイリーの指がコンクリートの壁を差した。その動きにつられて体をそっちに向けると……。
さっきアイリーが飛び出てきたのと同じ場所から、また何かが飛び出してきた。
いや、何かじゃない。よく知っている人だ。
その白いジャケットの背中が、僕に迫る。
避ける訳がない。でも体勢が整わない。全身で受け止めながら、僕は後ろへ倒れ込んだ。
ショートカットの金髪が、僕の頬に落ちた。
「シェレラも、こっちに来たんだ」
「うん。リッキに会いたかったから」
僕の上で重なったまま、シェレラが答えた。
シェレラが来るとわかっていれば、ちゃんと受け止める体勢をとっていたのに。こんな慌てて倒れ込んだりなんかしなかったのに。
「アイリー! なんでちゃんと教えてくれなかったんだよ!」
倒れたまま顔だけ左に向けて、アイリーを見上げた。すると、
「リッキ、その、確かに、大きくて掴みやすいとは思いますが」
アイリーの隣で、キュイアが顔を赤くしている。声は小さく、少し上ずり気味だ。
「でもさー、キュイアだって結構あるほうじゃん?」
「ええっ!? そ、その、そうでしょうか……」
アイリーがニヤニヤしながら見つめる視線の先は……キュイアの胸元だ。
と、いうことは……。
指を動かしてみる。
柔らかい感触。
やっぱり!
「ちっちっち違うんだキュイア! これはその、ちょっとしたはずみで!」
僕は光の速さでシェレラの大きな胸から手を離した。
「っていうかシェレラもさ、はねのけるとか悲鳴をあげるとかしていいから! いやむしろして!? 前もそうだったけど、周りの目だってあるんだしさ」
「前にもこんなことがあったんですか!?」
驚いたキュイアが、今度は逆に大きな声で叫んだ。
「うん、あった」
「シェレラ! なんでうれしそうに答えるの!」
「えっと、その時は、その、どう……なったんですか」
「キュイアもお願いだからもう言わないで! その時も、その、ちょっとしたはずみで」
「キュイアって意外とこういう話好きなの? あ、そういえばお兄ちゃんと二人でいた時間も多かったし、ひょっとして……」
「何もないに決まってるだろ!」
そう叫んだ瞬間、
「うぐっ!」
大きな衝撃が、僕にのしかかった。
「ふにゃぁ……」
ロリ声の吐息が、シェレラのさらに上から漏れてくる。
「アミカちゃん!」
「うにゅぅ」
コンクリートの壁から飛び出てきたアミカが、シェレラの上に重なっていた。いつものように、シェレラの胸の谷間に顔をうずめている。後頭部と背中には、シェレラの手がそっと添えられていた。
見慣れたこととはいえ、さすがに僕の体の上でされるのは困る。
「あ、あのさ、とりあえず、僕から降りてくれないかな……」
その願いは、さらなる衝撃によって叶えられた。
続けて壁から飛び出てきたフレアが、シェレラとアミカを弾き飛ばした。もつれ合って右へ転がっていくシェレラとアミカとは対照的に、左側に転がったフレアはアイリーとキュイアにぶつかることもなく、素早く立ち上がっていた。
首を左右に一振りし、部屋全体を確認したフレアは、
「ごめんリッキ、ぶつかっちゃったみたいね」
倒れている僕に手を差し伸べてくれた。
「いや、むしろ助かったよ」
フレアの手を掴み、立ち上がる。そして、
「ほら、二人とも立って」
飛ばされてもまだ重なって抱き合っている、シェレラとアミカの元へ行く。
「うわああああぁっ!」
背後からの大きな声に、思わず振り返る。
さっきまで僕が倒れていた場所に、ザームが倒れていた。
「うわ、なんだここ」
仰向けに倒れたままのザームが、天井を見上げてつぶやく。
「さっさと立つ!」
フレアの蹴りが入り、跳ね起きるザーム。
「ほら、シェレラもアミカも立って」
僕に言われて、やっと二人は立ち上がった。
「結局、全員こっちに来たんだね」
「まだ全員じゃないわ」
フレアが灰色の壁を見つめる。
「全員そろっているじゃないか。他に誰がいるんだよ」
でもフレアだけじゃなく、僕以外の全員が、僕たちが飛び出てきた壁を見つめている。
そして――その壁から、黒い何かが出現した。
そいつは床に倒れ込むことはなかった。飛び出してきた勢いで一回転して、その場に立った。かなりの勢いがついていたにもかかわらず、全く体が揺らいでいない。
パーティで一番背が高い僕よりもさらに背が高い、全身黒ずくめの男。
「ハンジャイク! お前……」
僕は右腰の剣に手をかけた。そして抜こうとした寸前、
「待ってリッキ! 今のハンジャイクは敵じゃないわ」
フレアが僕とハンジャイクの間に割って入った。
「戦闘は終わったの。これからしばらく、ハンジャイクも一緒に行動するから」
「一緒に? ……って、どういうことだよ。一体何があったんだよ!」
「ちゃんと説明するから。だから、剣を抜かないで」
声を荒らげる僕とは逆に、フレアは落ち着いている。
ハンジャイクから攻撃をしてくる様子は全くない。
戸惑いつつも、僕は剣から手を離した。
◇ ◇ ◇
キュイアと僕が触手に掴まれて岩の中へ消えていったのは、みんなにも見えていたそうだ。
「その時、ハンジャイクが戦闘の中止を言ってきたのよ。こっちがパニックになる暇もないくらい、直後のことだったわ」
ハンジャイクから?
僕はちらりとハンジャイクの顔を見た。クールな表情に変わりはない。
「戦闘なんかよりリッキとキュイアの無事を確認するほうが大事だし、はっきり言ってありがたかった。だからすぐに同意したわ」
「お嬢が止めなきゃ、俺がぶった斬っていたところだったけどなっ、ぐふっ」
いつものように、フレアの拳がザームのみぞおちにくい込んだ。
「剣が届く距離になんかいなかったじゃない。勝手に話を盛らないで」
「いや、それくらいの気合いというか勢いというか、そういうのがあったっていうか!」
「それから、お兄ちゃんとキュイアにメッセージ送ったんだけど」
ザームの話を無視して、今度はアイリーが話し出した。
「よくわかんない場所みたいだけど、とにかくみんなで行ってみようってことになったの。そうしたら、ハンジャイクも行くって言い出して」
「どうせ、最初からそのつもりで戦闘をやめたんでしょ。こいつは」
フレアが斜め下からハンジャイクを冷ややかに見上げた。
「未知のエリアが見つかったのだから、探索するのは当然だろう」
視線を合わせたハンジャイクが、低い声で返す。
「まあ、その気持ちはわからなくはないけどね。それに、下手に断って戦闘が再開してしまうのも避けたかったし」
目を逸らせたフレアが、今度は僕を見た。
「あくまでも、たまたま行き先が同じなだけの赤の他人、って関係だから。仲間じゃないわ。だからリッキにも、ハンジャイクが一緒に行動するのを認めてほしいのよ」
「そう言われてもな……」
さすがに、簡単には受け入れにくい。
「みんなはどうなの? これでいいの?」
救いを求めるように、アイリー、アミカ、そしてシェレラの目を見た。
三人は即座に首を縦に振った。
「考えすぎだってお兄ちゃん。もっと楽しく行こうよ。人数が多いほうが楽しいじゃん」
「よくこの状況を楽しんでいられるな……」
こんな時ですら楽しむことを徹底しているアイリーには、呆れるのを通り越して感心してしまう。
でも、アイリーはともかく、シェレラとアミカも受け入れている。
僕も受け入れるしかないのだろうか。
「リッキ、気を緩めるな。こいつは信用できねえ」
どうやらザームだけは納得していないみたいだ。
「お嬢がいいって言ったから、お前はここにいられるんだ。本当だったら俺に殺されているんだからな」
僕のほうを向きつつ、目だけをちらりとハンジャイクに向けた。殺気立った目つきを、全く隠そうとしていない。
「お前はフレアに従っているのではないのか? だったら口を慎め」
「なんだとコラ!」
静かに立っているハンジャイクとは対照的に、ザームは今にも殴りかかりそうな勢いだ。
そのザームの体が突然、横に飛んだ。コンクリートの壁に打ちつけられ、鈍い音が響く。
「あいつバカだから、ちょっと大目に見てもらえるかしら」
ザームを蹴りつけた右足を大きく振り上げたまま、フレアはハンジャイクに言った。謝っている、という感じではない。感情を含まない、ただ言っただけという言い方だった。本当はフレアも、ハンジャイクと一緒にいることには抵抗があるんだ。
右足を下ろしたフレアが、今度は僕のほうを見た。
「リッキがいないところで勝手に決めちゃったのは悪かったわ。でも成り行きでそうするしかなかったし……」
一番ハンジャイクを嫌っているはずのフレアが、それでも一緒に行くことを決めた。
それも、僕とキュイアを心配してのことだ。
だったら、僕が駄々をこねることはできない。
「わかった。ハンジャイクも一緒に行こう。キュイアも、それでいい?」
「ええ、リッキがいいなら、私もいいですよ。リッキがついて来てって言ったのですから、私はついて行くだけです」
僕はキュイアにうなずくと、
「じゃあ、いつまでもここにいる訳にもいかないから、先に進もうか。みんな、どっちに行く?」
上りの階段と下りの階段、それぞれにつながるドア。
その二つのドアを交互に見て、進む方向を促した。
◇ ◇ ◇
「本当にコンクリートなのね。なんなのかしらここ」
灰色の壁を触りながら、隣にいる僕にだけ聞こえるくらいの声で、フレアがつぶやいた。
僕たちは今、階段を下りている。最初は上りの階段を選んだんだけど、すぐに鍵がかかったドアに行く手を阻まれてしまったからだ。僕とフレアが並んで先頭を進み、その後ろをフレア以外の女子たちが歩いている。さらにその後ろを、ザームがしきりに振り返りながら続く。そして、やや距離を置いてハンジャイクがついて来ている。ザームはハンジャイクが近づかないよう警戒しながら歩いているんだけど、そもそもハンジャイクは集団の中に入るつもりはないようだ。
「FoMにはこういう場所はよくあるの?」
「ないない。絶対ない。ありえない」
かなり大げさに手を振って、フレアが否定した。
ということは、やはり……。
Rikki: もしかしたら、なんだけど。
ハンジャイクとキュイア以外に、メッセージを打つ。ハンジャイクを仲間だとは思いたくない、という感情はどうしてもある。それに、ただ同行しているだけだから、メッセージを送る手段がない。そしてキュイアに送らなかったのは、内容的に送りづらかったからだ。直接言うのではなくわざわざメッセージにしたのも、それが理由だ。
Rikki: ここって、FoMのスタッフが、仕事の都合で使う裏道なんじゃないのかな?
メッセージを読んだみんなの視線が、僕に集まる。
Rikki: 開発中だったり、バグが発生したりした時に、スムーズにその場所に行けるための通路だよ。だからFoMの世界観は関係なくて、事務的な作りになってるんじゃないのかな。
Zahm: そんな通路、本当にあるのか? 都市伝説みたいなもんだろ?
Frair: 余計な詮索はするな
ザームの疑問を、フレアが瞬時に咎めた。メッセージでもこんなに速くツッコむんだな……。
でも、僕がなんでこういう裏事情を知っているのかということは、なるべく知られたくない。フレアはそのことに配慮して、ザームにこんなメッセージを出してくれたということもあるのだろう。
誰も声は出さず、静かな中に靴の音だけがコンクリートに反響している。途中にいくつも踊り場があって、何度も折り返しながら下り続けている。
足を止めることなく、フレアの指先が動く。
Frair: つまり、鉱山の奥へ行く時に手間がかからないように、この通路を使うってことね?
Rikki: うん。開発当時のものが残ってしまったのか、今もメンテで使っているのかはわからないけど、この先は絶対にどこかとつながっているはず。たぶん、重要な場所なんだと思う。
「それにしてもこれ、どこまで下りるんだ? この鉱山ってこんなに深かったか?」
耐えかねたようなザームの声が、表向きの沈黙を破る。
「最深部なんて誰も行ったことないんだから、深さがわかる訳ないでしょ? 本当にバカねザームは」
「いや、それはそうなんだけどよ」
位置が分かれているからフレアに殴られたり蹴られたりすることはないけど、それでも罵られるのは変わらない。
「でも、壁も天井もずっと同じ灰色だし、感覚が狂っちまうって。実は同じところをぐるぐる通らされるトラップなんじゃないのか? これって」
「そんなことはないって。普通の階段だって。トラップはないよ」
「ホントかよ。リッキが嘘をついてるとは思わねえけど、いまいち信じられねえっつーか」
メッセージを受け取った中で、僕が『リュンタル・ワールド』開発時から関わっていると知らないのはザームだけだ。いくら僕がスタッフ用の通路だとかトラップはないとか言っても、疑ってしまうのは仕方がない。
しかし。
「あ……ホントだ。ゴールに着いちまった」
階段の先に、一枚のドアが待っていた。やはりなんの装飾もない、ただの木のドアだ。
「この階段がトラップじゃなかったってのはわかった。でもまだわかんないぜ。上のドアみたいに、鍵がかかっているかも――」
ザームが言い終わるより早く、僕はドアノブに手をかけた。
カチャリ。
軽い音を立て、あっさりとドアは開いた。
ドアの先は、壁も天井も岩で囲まれた道だった。さっきまでの蛍光灯のような白い光ではなく、FoMのダンジョンで一般的なオレンジ色の光だ。岩の色や質感はゾトルハ鉱山の地下一層や二層と変わらない。裏の通路を抜け出て鉱山に戻ってきた、と考えて構わないだろう。
歩き出してすぐに、道が左右に別れた。右の道の先は開けているようだ。逆に左の道はまたすぐに曲がっていて、ここからではその先がよくわからない。
「とりあえず、右に行くわ。それでいい?」
フレアの提案に、僕たちは一斉にうなずいた。それを見たフレアは、
「あんたはどうなの?」
離れた後ろに目をやり、少し大きな声で呼びかける。
「構わん」
動作はなく、ただ最小限の言葉だけでハンジャイクが答えた。
前に向き直ったフレアが、右の道を進む。階段を下っていた時と同じように、その横を僕が歩く。後ろを振り向くと、やはり階段の時と同じ隊列になって歩いていた。
開けた場所に出た。構造的には、これまで通ってきた地下一層や二層と同じようだけど……。
「な……何なのここ」
この場所の光景を見たフレアが絶句する。
トカゲが歩いている。ただのトカゲではない。人間と同じ大きさのトカゲが、人間と同じように二足歩行で歩いていた。手は剣を握っていて、頭には兜、胴体には鎧。露出した手足は青黒い鱗が覆っている。
それだけだったら、まだ驚かなかっただろう。でも、それだけでは済まなかった。
牛よりも大きそうなイノシシが、悠然と歩いていた。口の両端には、僕の剣より大きい牙を生やしている。そのイノシシを、額に角が生えているウサギの集団が眺めている。ウサギは一瞬だけ僕たちを見て、すぐにイノシシに目を戻した。ウサギにとって、僕たちはイノシシよりも軽い存在なのかもしれない。
岩陰では、とても剣では斬れなそうな殻を纏ったダンゴムシが、巨体を岩に隠しきれずに尻を見せている。その岩の近くに、赤や青の石、それに銀の光を放つ鉱物がゴロゴロと落ちていた。下層に行くほどレアな素材アイテムがあるとフレアが言っていたけど、これがそうなのだろう。
その色鮮やかな石や鉱物に、影がかかった。高い天井を見上げる。巨大な蛾が、紫や黄色の斑模様が入った翅を羽ばたかせ、地面に影を落としていた。強力な毒粉をその翅に含んでいることは、ほぼ間違いない。
よく見れば、他にもたくさんのモンスターが確認できる。数だけではなく、種類も多い。さらに奥まで進んだら、きっとこの程度では済まないだろう。
「うわー、なんかすごいね。見たことないモンスターばっかりだよ」
僕の隣に来たアイリーが、まるで動物園に来たかのような感想を漏らす。
「ねえフレア、こういうモンスターって、ここでは普通にいるものなの?」
「全然普通じゃないわ。ありえない。強さも数も」
ここまで先頭を歩いてきたフレアが、立ちすくんでしまっている。フレアだけじゃなく、僕も次の一歩が踏み出せない。さすがにアイリーも、僕より前に出ようとはしない。
「おじょー、ここ、なんそう?」
「……わからない。こんなの見たことないし」
いつもはアミカに「お嬢って言うな」と怒鳴り返すはずなのに、それを忘れてしまっている。それくらい、異常な状況なんだ。
フレアは過去に地下八層まで行ったことがある。そのフレアが見たことがないということは、さらに深い場所に来てしまったということだ。
「十二層だと思うけど」
フレアに代わって、柔らかい声がのんびりと答えた。
「どうしてあんたがわかんのよ。私ですらわかんないのに」
ネコ耳を少し立て気味にして、シェレラを睨む。
「だって、踊り場を十九回通ったし。つまり、最初の部屋から十層下にいるはずだけど」
「…………は?」
あっけにとられたフレアの口が、ぽかんと開いている。
よくわかっていないアイリーが、人差し指を上から下へジグザグに動かしている。
「ええっと……、途中で踊り場があって、一層ぶん降りたときにまた踊り場があって、それで…………十九って、なんか半端じゃない?」
「さいごのドアのところだけ、おどりばがなかったから」
「あ、そっか」
ちゃんと理解していたアミカの説明を聞いて、アイリーも理解したようだ。
それよりも、
「シェレラ、ちゃんと数えてたんだ」
僕はその事に驚いた。
「うーん、数えていたというより、覚えていた、かな」
平然と答えたシェレラの頭の中がどうなっているのか、僕は一生理解することができないだろう。
戸惑ってばかりの僕たちなど、モンスターにとってはいないも同然だ。悠然と地を歩き、空中を舞い、岩陰で体を休めている。
岩陰にいたダンゴムシが、イノシシに蹴飛ばされた。ダンゴムシは体を丸めて転がり、その先にある岩に激突して止まった。衝撃音と地響きが、僕の体に伝わってくる。
岩の近くには、ダンゴムシの体とほぼ同じ、直径一メートルくらいの大きさの白い球が転がっていた。
フレアがその白い球を指差した。
「あれ、星屑よ! あんな大きな星屑、初めて見たわ!」
「……あれが、星屑?」
この鉱山の地上でフレアが星屑を拾って見せてくれたことがあったけど、指の先でつまむ程度の大きさしかなかった。それが地下十二層ではこんなにも大きくなるのか。
「ねえ、あれ、シェレラみたい」
そう言ったのはシェレラだ。星屑とは全然別の場所を指差している。その先には、黄色やピンクのマーブル模様をした半球形の石があった。
「形や色は似ているけど、あんな模様してないだろ」
「でも似ているでしょ?」
「うーん、似てないと思うけど……」
「むー」
「……リッキもシェレラも、何言ってんだ?」
シェレラが言う『シェレラ』とは、自分自身のことではなく、飼っている亀のシェレラのことだ。亀のシェレラのことを知らないザームが、会話を理解できずに首をかしげている。
「ところで、どうするお嬢、さすがにこいつは厳しいんじゃねえか?」
意味不明な会話に関わることをやめたザームが、話を本題に戻して判断を仰ぐ。その言葉には、普段のおちゃらけた感じはない。冷静に現状を見て判断している。
「俺が死ぬのは構わねえけど、リッキたちを危険に巻き込む訳にはいかねえし」
「勝手に死ぬつもりにならないでくれる? あんた、そんなに弱かったっけ?」
「いや、そんなつもりで言ったんじゃねえけどよ、その、なんつーか、全員無事って訳にはいかなくなった時は、やっぱ俺が、うっ、ぐふ」
勢いよく後ろに振ったフレアの肘が、ザームのみぞおちにくい込んだ。
「ごめんねみんな。こいつバカだから、バカなことしか言えないのよ。ほんとバカだから」
何もそこまで繰り返しバカと呼ばなくてもいいと思うけど……。
ただ、フレアはザームの力を認めているし、ザームに死んでほしくないという気持ちもある。だからこそ、自分が死んでも構わないと思っているザームに釘を差したんだ。
「でも、危険であることは間違いないわ。さすが十二層ね。どれだモンスターが強くなっているのか、どれだけレアなアイテムが取れるのか、確かめてみたいけど……。リッキはどう思う?」
「僕は決められないよ。フレアが決めてよ。この鉱山のことは、フレアが一番詳しいんだし。フレアが行きたいと思うなら、僕は行くよ」
「それはもちろん行きたいけど……でもやっぱり、危険すぎるわ」
フレアがこんなに迷うなんて珍しい。でも、八層までしか攻略した経験がないのに、十二層を進もうとしているんだ。臆病なくらい慎重なほうがいい。
「あんたはどうなの? 行くつもりはあるの?」
振り向いたフレアが、膝をついてうずくまっているザームを無視して、その向こうに目をやった。
しかし。
そこにいるはずの黒衣の男の姿が、ない。
「ハンジャイクがいない!」
後ろから離れてついて来ていたとはいえ、見えなくなるほど離れていたことはない。それにいつもザームが振り返りながら歩いて、ハンジャイクが勝手な行動をすることを封じていた。
でも、ザームが十二層の様子に気を取られていた隙に、ハンジャイクはザームの監視から逃れ――。
「左の道へ行ったのか?」
フレアと顔を見合わせる。
「追うわよ!」
◇ ◇ ◇
「悪りぃ、うっかり目を離しちまった」
「気にすることはないわ。私も油断してた」
走るフレアとザームを、僕やアイリーたちリュンタルのメンバーが追う。すでに最初の分岐点まで戻り、左の道を進んでいる。曲がり道がいくつもあって先は見通せないけど、分岐はないから、ハンジャイクの後を追っていることは間違いない。
「ねえ、もうほっといてもいいんじゃないの? 戦闘は終わっちゃったんだし」
「そうはいかねえ。これから戦闘を開始して、ぶっ殺してやる」
アイリーの提案を、ザームが退けた。しかし、
「早まらないで。私は戦うつもりはないわ」
「お嬢、どうして止めるんだよ」
「戦闘中止を受け入れたんだから、こっちから仕掛けることはしないわ。ただ、急に別行動を取るなんて、何か企んでいるとしか思えない。だから無視できないのよ」
最初はザームを見ながら、そして最後は振り向いてアイリーを見ながら、フレアは答えた。
「そういえば、世界が買えるお宝……でしたっけ? それがここにあるのでしょうか?」
「あーそれだよキュイア! すっかり忘れてた!」
「そんなはずはないわ。あれは根も葉もないうわさ話よ」
振り向いたままのフレアが、走りながらキュイアとアイリーに答える。
「さっきいた所だって、ただ難易度が上がっただけの通常のエリアに見えたし。特別なものはなさそうだったわ。こっちの道だってきっと同じよ」
「あたし、本当に何かあると思うんだけど」
シェレラが会話に割って入った。
「だってあたしたち、秘密の『
「……あれは『門』とは別の何かよ。あんなの『門』とは呼べないわ」
僕たちをコンクリートの部屋に引き込んだあの岩と触手は、見た目は『門』とは全く違う。でも機能は『門』と同じだ。だから『門』と呼べるとも、呼べないとも言える。
「とにかく、ハンジャイクを見つけさえすれば済む話よ。シェレラ、あんた足が速くなる魔法とかないの?」
「? ないけど?」
フレアは一刻も早くハンジャイクに追いつきたい。でもシェレラは足が遅い。走るペースをシェレラに合わせていたのでは、いつまでたってもハンジャイクには追いつけない。
「じゃあ私だけ先に行くから」
フレアは急に走るペースを上げた。ザームがそれについて行く。
僕も一緒について行きたいけど……振り返ると、やっぱりシェレラがついて来られないでいる。頑張って走っているんだけど、差はどんどん広がるばかりだ。
また道の先が曲がっていて、ついに二人の姿が見えなくなってしまった。
「お兄ちゃん、先に行って。私はシェレラと一緒に行くから」
「でも……フレアとザームなら、二人でもなんとかなるだろ」
道の先から轟音。足元がかすかに振動した。
アイリーと顔を見合わせる。
「アイリー、みんなを頼むよ」
アミカとキュイアも、そんなに速く走ることはできない。僕は一人で先に行くことにした。
◇ ◇ ◇
フレアはしゃがんでいた。ザームはその横で立ち、フレアを見下ろしている。
走ってきた僕に気づいて、ザームがこっちを見た。
「リッキ、一人か?」
「うん、あとでちゃんとみんな来るから」
答えながら走り続け、二人に合流した。
そして――フレアの前には、信じられないものが横たわっていた。
ハンジャイクだ。
顔は傷だらけ。黒いコートもボロボロに破れている。さらにその下の服やズボンもあちこち切り裂かれ、傷口が開いていた。
フレアは体の傷に札を貼り付けていた。札は光り、ハンジャイクの体に吸い込まれていく。さらに札を貼ると、また体に吸い込まれて消えていく。体中の傷の上で、フレアは延々と札を貼り続けていた。
「こいつここで力尽きてて。体が動かないみたいなのよ。だからポーション飲ませることもできないし、これしか回復させる方法がないから」
「でも……どうして」
「俺もそう思ったけどよ、お嬢がこいつを助けるって決めたからには、俺もそうする」
いや、そうじゃなくて。
どうしてハンジャイクは、こんな傷を負っているんだ?
「なぜ……俺を、助けた」
ハンジャイクの口が、弱々しく動く。
「あんなとんでもないものを見ちゃうとね。あんたみたいな最低なヤツでも、救ってあげたくなっちゃうのよ」
フレアは顔を上げ、道の先を見た。
そこはもう道ではなく、空間が広がっていた。
もっと近くで見ようと、足を進める。
「ダメ、リッキ、行かないで」
「うん、わかってる」
モンスターは動ける範囲が決まっている。僕は道を越える一歩手前のところに立ち、その先を見た。
立ちつくす、岩の巨人。
大小の岩が組み合わさって構成されたその巨体は、ピレックルの建国王の像の二倍以上――少なくとも十メートル以上はある。ハンジャイクはあの巨人と戦って、あんなダメージを負ったんだ。
戦う相手がいなくなった巨人は、ただ首を振って辺りを見るだけで、動こうとはしていない。顔には横一列に並んだ点が四つ、赤く光っている。それが目なのだろう。よく見ると右端の目にはヒビが入っている。そのせいか赤い光は点滅していて、他の三つより暗い。
巨体を構成する岩はやや苔むしていて、岩と岩の隙間から上に伸びた筒が水蒸気を噴射している。水蒸気は巨人の頭上を覆い、厚く立ち込める白い雲となっていた。周囲は巨人と同じ灰色の岩の壁で囲まれていて、広い円形のフィールドを作っている。壁の上方は白い雲に遮られ、その先を見ることはできない。
そして――地面。
土のようだけど、なぜか半透明な灰色の地面。その下で、赤や青、黄色、そして緑や紫といった色とりどりの光が、ぼんやりと光っては消え、またぼんやりと光っては消えているのが透けて見える。
これは何なんだ? これも鉱山の資源なのか?
「リッキ、地面の下を見たでしょ? それがきっと『世界が買えるほどのお宝』よ。そしてあの巨人は、その番人」
「やっぱり、これがお宝なの?」
「まあ、本当に世界が買えるかどうかはともかく、このパターンであの巨人を倒して何もありませんでした、なんてことは絶対にない。おそらく純度が極めて高い素材や未知の素材が大量に眠っていて、最上級の武器や
もし本当にそうなら、武力で世界を制圧することだってできるだろう。“世界が買える”というのは、あながち嘘ではない。
円形をした戦場の中央に佇む岩の巨人、そしてぼんやりと光っては消える地面の下のさまざまな色を、漠然と眺める。
ここで、ふと気づいた。
このフィールドは、ダンジョンにあるはずのオレンジ色の光がない。
ということは、ここは……外? ゾトルハ鉱山とは別の場所?
後ろから足音。アイリーたちだ。
「えっ、どうなってんのこれ」
アイリーたちも、ハンジャイクの姿を見て驚いている。
「シェレラ、来たばっかりで悪いけど、こいつ回復してやってくれる?」
「その必要は、ない」
ハンジャイクの左手が、ほんの少し動いた。指輪がかすかに白く光る。光がハンジャイクの左手を覆い、左腕、そして全身を薄く覆った。指輪の光は徐々に強さを増し、ハンジャイクの全身を覆う光も眩しさを増していく。それと同時に全身の傷がなくなり、破れた服も元通りになっていった。
回復したハンジャイクが立ち上がった。アイリーたちが一歩引いて距離を取り、身構える。戦闘状態ではないとわかっていても、つい体が反応してしまったのだろう。それだけの威圧感が、ハンジャイクにはある。
「ハンジャイク。あんたは最初から、これが目当てだったのよね。『世界が買えるほどのお宝』が。私たちとの戦闘を中止したのも、そもそもゾトルハ鉱山をギルドのものにしようとしたのも、それが目的」
「その通りだ」
フレアの問いに、ハンジャイクが答えた。
「ただ、メンバーは資源を独占することが目的だと思い込んでいるがな。お宝のことを考えていたのは、俺だけだ」
「一人だけで手に入れられると思っていたの? ボス級のモンスターを倒さなければ手に入らないってことぐらい、簡単に想像できると思うけど」
「俺なら倒せると思っていた」
「……呆れた。じゃあ何? あの無様な姿は」
「笑いたければ笑え」
ハンジャイクは自分の失敗を認めながらも、堂々としていた。恥ずかしがることも、フレアから目を逸らせることもなかった。
フレアは振り向いて、ザームの顔を見つめた。
「お、おう、どうしたんだよ急に。俺の魅力に気がつくのはいいとして、何もこんな所でっ――」
フレアの回し蹴りが、ザームの股間を直撃した。ザームは両手で股間を押さえてうずくまったまま、立ち上がれない。いくら仮想世界に痛みはないとわかっていても、どうしても想像してしまう。見ていただけなのに、僕は顔を歪めた。
「勘違いしないで。もしあんたが笑おうとしたら、ぶん殴るつもりだったから。それだけよ」
蹴り飛ばしておいてそんなこと言うのも、どうかと思うけど……。
フレアは振り向いていた顔を前に戻した。
「お宝や秘密の『門』なんて、私は絶対にないと思ってた。そう決めつけてた。でもハンジャイク、あんたはそうじゃなかった。信じて、追い求めてた。冒険者として必要なものを、あんたは持ってた。私にはそれがなかった」
何かに気づいたのか、フレアがはっとした表情を見せた。
「もしかして、最初から知っていたの? 本当にここにお宝があることを。あの分かれ道で、右ではなくて左の道がお宝につながっていたことも」
「知ってなどいない。賭けただけだ。先が見えていた右の道ではなく、行かなければわからない左の道を選んだ。そして賭けは当たった。それだけのことだ」
「まったく、冒険者の鑑ね。そこは認めるしかないわ。それに、自分が情けなくなってくる」
最後は自嘲気味になって、フレアは言った。
ふと疑問が浮かんだ僕は、ハンジャイクに訊いた。
「ハンジャイク、自分一人でお宝を手に入れようと思っていたんだったら、どうして僕たちと一緒にあの灰色の部屋に来たんだ? もし僕たちが右の道ではなくてこの左の道を選んでいたら、どうするつもりだったんだ?」
「道が開いたタイミングを逃すまいと思っただけだ。それに、他の誰が一緒にいたとしても、後で始末すればいいだけのことだからな」
「始末するだって? そんなこと」
「で、今でもそう思ってんの? あんたは」
語気を強めた僕に、フレアが声を重ねた。
「…………」
ハンジャイクは答えない。
数秒の静寂。
「いいかげんに立て!」
ブーツサンダルの厚底が、しゃがんだままだったザームの顔面にめり込んだ。ハンジャイクが答えないからイライラしているのは、フレアの表情を見ればわかる。ザームは完全に八つ当たりの対象になってしまっていた。
のけぞって倒れたザームを無視して、フレアは僕やアイリーたちのほうに顔を向けた。
「せっかくリュンタルから遊びに来たのに、ずっとギルドの都合に巻き込んじゃってごめんね」
フレアらしくない、弱気な声だ。僕たちを見る目も、少し下向きだ。
「ハンジャイクは何でもするやつよ。一人じゃ無理だとわかったら、今度はギルドメンバーを引き連れてここに来るはず。そうなったら、きっとあのモンスターは倒されてしまう。お宝はハンジャイクの、『黒獅子党』の手に渡ってしまうわ。だからその前に、私たちであのモンスターを倒したい」
ハンジャイク一人ではなく、ククナクやリャンネたちが協力して戦えば、たとえ巨大なモンスターでも倒すことができるかもしれない。そうなれば当然、お宝はハンジャイクたちのものになる。
「あのモンスターがどうなろうが、お宝がどうなろうが、リュンタルの人たちには関係ないことだってのはわかってる。戦って勝てる保証なんてないってこともわかってる。それでも私はみんなと一緒に戦いたい。お願い、力を貸してほしいの」
誰も答えない。どう答えたらいいのかわからなくて、戸惑っている。
「それはずるいよ、フレア」
いつまでも黙ってはいられないから、答える。
顔を上げたフレアに、僕はさらに答える。
「そういう言い方をされると、断ることなんかできないよ。それに……」
僕はアイリー、シェレラ、アミカ、そしてキュイアと目を合わせた。
みんなが僕と同じ気持ちであることを、確認する。
「僕たちは最初から、ずっと一緒に戦うつもりでここまで来たから。あの巨人とだって、もちろん戦うつもりだよ。それなのに改まってお願いなんてするからさ、どうして今さらこんなことを言うんだろうって思って、すぐに返事ができなかったんだ」
「みんなも……そうなの?」
フレアはまだちょっと不安そうだ。
「当たり前じゃん! ここまで来てボスと戦わないなんてありえないって。戦わないで帰るほうががっかりだよ」
アイリーが一歩前に出て答える。それに続いて、
「アミカも! アミカはつよいから、あんなモンスターぜんぜんへいきだよ!」
「あたしはみんながケガしてくれないと、することがないから。あのモンスターならみんな大ケガしてくれそうだから、絶対戦わなきゃ」
シェレラとアミカも、負けじと一歩前に出て戦う意思を表した。
みんなフレアの助けになりたいというより、自分の都合で戦いたいと言っている。でもそのほうが、フレアは負担に感じないはずだ。
「ありがとう! 本当にありがとう。みんなが一緒に戦ってくれるなら、絶対勝てるわ」
「あの……私は、戦うことができません……」
その後ろで、一人だけ取り残されたかのような、キュイアの寂しげな声。
「キュイアは見ているだけでいいんだって」
どこか申し訳なさそうなキュイアの手を取り、両手で優しく包む。
「これが最後の戦闘だから、しっかり見ていてほしいんだ。キュイアが見ていてくれたら、僕は絶対に勝てるよ」
「……はい! 絶対に、勝ってください!」
笑顔が戻ったキュイアと見つめ合い、勝利を約束する。
突然、横から手が伸びてきた。キュイアの手を包む僕の手が、隠れて見えなくなる。
「あたしも」
「…………えっと、どうしたの、シェレラ」
「あたしの手も握って」
「えっと、なんで」
「アミカも! アミカの手もぎゅってして!」
今度は反対側からアミカの手も差し出されてきた。
そして、いひひひと笑う声。またアイリーが面白がって笑っている。どうせおなかを抱えたり指を差したりしているのだろう。いつものことだから、いちいち見ない。
「あ、あの、私はもういいですから、みなさんの手も握ってあげてください」
「え、う、うん」
本当なら無視してすぐに戦闘を始めたいけど、キュイアがそう言うのなら無視できない。
僕はシェレラの手を一秒くらい握り、アミカの手も同じく一秒くらい握った。
「リッキ、もっと握って」
「アミカも! アミカももっと!」
「よーしじゃあ戦おうか。フレア、準備はいい?」
いつまでもこんなことをしていられない。僕はフレアに逃げ場を求めた。
「まだ」
「そっか、じゃあ、なるべく早く……」
「まだ、私の手を握っていない」
フレアの手が、そっと前に伸びた。
「お嬢の手なら、俺がいくらでも握ってあぶぇっ」
差し出された手を、いつの間にか立ち上がっていたザームが握ろうとした。しかしそれよりも速くフレアの手は拳に変わり、ザームの頬に激しくめり込んだ。顔面を歪めさせながら倒れていくザームを見ることなく、フレアはまた僕に手を伸ばした。
僕はフレアの手を取った。
「一緒に戦おう。そして、勝とう」
「勝てるわ。必ず」
握っていた手に一瞬だけ力を込め、手を離した。
「じゃあ、行こう」
戦場へ向けて一歩、足を踏み出す。しかし、
「あんたはどうするの?」
フレアはその場に立ち止まったまま、横を向いた。その先にいるのは、ハンジャイクだ。
「尻尾を巻いて逃げるのも、黙って指をくわえて見ているのもいいけど……」
続く言葉をためらい、少し間が開いた。そして、
「一緒に、戦ってくれないかしら」
まさかの提案に、僕だけでなく他のみんなも反応できない。
「……………………」
ハンジャイクは、無言だ。
起き上がったザームが、フレアの前に立ちはだかって両肩を掴んだ。
「お、お嬢、本気か? いくらお嬢の言うことでも、それはさすがに」
「答えて。ハンジャイク」
ザームの腕を払いのけ、フレアはハンジャイクに歩み寄った。
「何も信じていなかった私に、信じていたあんたを排除する権利なんてないから」
「……俺は戦う。しかし、お前たちの仲間にはならない。俺は俺で戦う」
「それで構わないわ。好きに戦って」
ハンジャイクが言う「仲間にはならない」というのは、パーティに加わらないという意味ではない。そもそも僕たちは七人パーティなんだし、ハンジャイクを加えられる余地はない。これは戦術の連携を取ったり、アイテムを分け合ったりするつもりはない、という意味だ。
「ザーム、わがまま言ってごめん」
フレアはザームに小さく頭を下げた。
「後でなんでも言うこと聞いてあげる。だから今は、私の言うことを聞いて」
慣れないことをされたせいか、ザームの反応がぎこちない。両手が壊れたロボットみたいに意味もなく動いている。
「お、お嬢が俺の言うこと聞いてくれんのかよ。なんか、ゆ、夢みてえだな」
ザームは巨人がいる空間に顔を向けた。火照った顔をフレアに見られたくなかったのかもしれない。
「だったら、とっととあのモンスターを倒して、夢を叶えねえとな」
巨人がいる空間へ、ザームは歩き出した。僕や他のみんなも、その後に続いた。