第三章 埋もれた街
アミカは『
「ねえ、今日はリッキだけなんでしょ?」
「うん、アイリー風邪引いちゃってさ、僕だけなんだ。ごめんね」
メッセージを送っておいたから、風邪のことはアミカも知っていた。
「じゃあ今日はリッキをひとりじめだね!」
アミカが僕に腕を絡めてきた。身長差があって腕を組みにくい。伸ばしている僕の腕にアミカの腕がくの字に絡んでいるような形だ。
「あ、ああ、そうだね」
「わーい」
アミカはべったりと体をくっつけてきた。
はは……これはちょっと困ったな。
「えへへー」
アミカの表情は緩みっぱなしだ。
僕とアミカはソフォイダン公園を出て、ギズパスの街の中を歩いていた。相変わらずアミカは僕に体をくっつけている。周囲の視線がなんとなく気になる。どうにかしなきゃ。
「ア、アミカ、アミカはアイドルなんだからさ、いくらプライベートとはいえ、あんまり人前でこういうことしちゃいけないんじゃないのかな。ちょっと別の街に行ってみようか? それならあんまり気づかれずに――」
「ダーメ! もう行くとこは決まってるの!」
アミカは僕の手を引いて走り出した。
「お、おい、アミカ、ちょっと待ってよ!」
引きずられるように、僕もついて行く。
アミカと僕は街の中心部を外れ、積み重なるように雑然と建物が並ぶ地域にやってきた。
ここは……スラム街だろうか。
きっと本物のリュンタルではここに多くの人が住んでいるのだろうけど、この仮想世界には僕とアミカ以外、誰もいない。
迷路のように入り組んだ道の、ある家の前で、アミカは止まった。
「リッキ、もう逃げられないよ!」
アミカは腰に手を当てて胸を張っている。
「いやあ、逃げるも何も、僕は最初から逃げる気なんて――」
「じゃーん! 今日のぼうけんをはっぴょうしまーす!」
アミカは右腕をビシッと真上に伸ばした。人差し指が空を指している。
「……上?」
僕は空を見上げた。
「ちがうよ。地下だよ」
じゃあなんなのこのポーズは?
「この街の地下にはね、すっごいお宝がねむっているんだよ!」
アミカは大きく頷いた。
アミカの話によると、ギズパスの地下には大昔の遺跡が埋もれているのだそうだ。そこにはお宝も一緒に埋もれているのだけど、道が相当複雑で、辿り着くのが大変らしい。
その家の玄関のドアには、ドアノブがなかった。あるべきはずの位置に、形が違う三つのくぼみがあった。くぼみはそれぞれ違う色で縁取られている。縁取りの色とくぼみの形に合わせて、アミカは希石を嵌め込んでいく。青い正方形、赤い星形、黄色い三角形の希石が嵌め込まれると、希石は一瞬それぞれの色に輝いた。
ドアは、音もなく開いた。
アミカは家の中に入った。僕もついて行く。中に入ると、またドアノブがないドアが現れた。別の色の縁取り、別の形のくぼみがある。アミカは希石を嵌め込みドアを開け、さらに奥へと入っていく。さらにその先に立ち塞がるドアを次々と開けていく。五番目のドアを開けた時、アミカは先へと進まなかった。
「ここから入るよ」
アミカは振り向いて僕に告げた。
ドアの先には床がなく、四角い穴になっていた。ドアの真下に、地下へと繋がるはしごが降りている。
こんな仕掛けが待っていたなんて。
ギズパスに来るようになってから、知らないことばかりに出会う。
今の僕は、それが楽しい。
今日も楽しい一日になるだろう、そう確信して、僕は地下へと続くはしごを降りた。
◇ ◇ ◇
地上にあるような街が、地下に埋もれていた。家や店などの建物が、地上と同じようにごちゃごちゃと入り組んで建っている。魔石による明かりが至るところで炎のようにゆらめき、街は夕暮れ時のような弱いオレンジ色で照らされている。さすがに過去の街なので、建物のあちこちが風化して欠けていたり、ヒビ割れたりしていた。
もちろん地下なので、空はない。土の天井が街全体を圧迫している。剣を抜いて真上に掲げてジャンプしてみた。もうちょっとで天井に届きそうだ。左右の建物は上のほうが天井に埋まっていて、二階部分は下半分しか見えていない。それどころか一階部分も含めてほとんどが土に埋もれ、壁や窓がわずかに見えているような建物もところどころに見受けられる。
街とは言っても、実質はダンジョンだ。
「アミカ、ここから先は?」
「ちょっと待ってね」
アミカは右手を動かし、ウィンドウを操作し始めた。人差し指が空中を叩くと、アミカの手に地図が現れた。
「地図あったんだ? どうしたのそれ」
「買ったの」
「宝の地図って売ってるの? まさか、オフィシャルショップじゃないよね?」
「オフィシャルじゃないよ。うさんくさくて有名なお店」
なんだよそれ。怪しすぎるじゃないか。大丈夫かな……。
ガサゴソッ、と物音が聞こえた。
道路脇の荷車の陰から、一メートルくらいの大きさのネズミが飛び出した。一直線にこっちに向かってくる。アミカは地図を見ていたせいで反応が遅れ、次の動作に移れていない。僕はアミカの前に出た。大ネズミはジャンプし、前脚を振りかざした。長い爪が僕を襲う。僕は剣で爪を薙ぎ払った。大ネズミの進路が逸れ、僕たちの右側を通過した。
「アミカ、大丈夫?」
「うん。だいじょうぶ。ちょっと油断した」
アミカの右手の人差し指が空間をつついた。弓が現れ、アミカの左手が掴んだ。
大ネズミは振り向き、再び突進してきた。さっきと同じようにジャンプして長い爪を僕たちに向けた。
アミカの右手が弦を引き絞り、光の矢が出現した。アミカが弦から手を離す。空中にいる大ネズミの胸に、光の矢が突き刺さった。大ネズミはバランスを崩し、僕たちまで届くことなく地面に倒れ込む。が、素早く起き上がり、今度は走って突っ込んできた。口を大きく開け、長い前歯を二本、僕たちに見せつける。
「アミカ、右に逃げて!」
僕は突進の直撃を食らわないよう素早く体を右に移動させながら、左腕だけを大ネズミの突進の延長上に残した。左手に握りしめた剣が、突っ込んできた大ネズミの開いたままの口の奥に突き刺さった。その瞬間大ネズミのHPはゼロになり、光の粒子が僕の左腕を包みながら駆け抜けていった。
「ここはもう戦闘区域なんだね。街の中だと思って、ちょっとうっかりしていたよ」
「アミカもうっかりしてた。気をつけないとね」
アミカが頷き、僕も頷いた。
僕は剣を抜いたまま、アミカの盾になるように歩いている。アミカは後ろから、進む方向を指示しているんだけど、
「うーん、おかしいなあ?」
「どうしたのアミカ?」
僕が振り返ると、アミカは困惑の表情を見せていた。
「なんかね、道が合ってないような気がするの」
「それってつまり、地図が間違っているってこと?」
やっぱり宝の地図を売っているというのが、そもそもおかしな話だ。お宝は独り占めしたほうがいいに決まっている。地図を売ったほうが儲かるのなら、大したことないお宝なのか、お宝なんて最初からないのか、そのどちらかだ。
「わかんない。どうしてなん――」
アミカの話を遮るように、ズザザザ……という音が遠くから聞こえてきた。音の方向を見ると、右前方に立ち並ぶ家の一軒が、天井から落ちてきた土で埋もれかけていた。土はどんどん落ち続け、家は完全に埋もれてしまった。
「もしかして……どこかで曲がるはずだった道が土で埋もれていてわからなかった、とか?」
「そんなことないと思うんだけどなあ。おかしいなあ。……リッキはどこ進めばいいかわかる?」
「アミカがわからないのなら、僕はもっとわからないよ」
僕は地図を見せてもらった。合っているような、いないような……。完全に正確ではないけど、全くのでたらめでもないようだ。つまり、過去にここに来た人がちゃんといるということだ。地図には赤でバツ印が書いてある。そこがお宝の在り処のようだ。まだまだ距離はある。現在地には青い丸が点滅している。どうやら僕たちの動きに合わせて自動で動くようだ。
「……リッキ、てきとうに歩いてよ。ついてくから」
「ええっ? そんな無茶苦茶な……まあ、しょうがないか」
よく考えてみたら、最初にここに挑んだ人は予備知識が何もない中で歩き回ってルートを探し出したんだし、やってやれないことはないはずだ。それに僕はもう、知らないことがあってもためらわないと決めたんだ。きっと正しいルートを探し出してみせるさ。
「リッキ、また行き止まりだよ……」
「うん、そうだね……」
現実は厳しい。仮想世界といえども厳しい。
僕が進む先は、行き止まりばかりだった。袋小路になっていたり、本来道である部分が天井から落ちてきた土で壁になっていたり、地面に大きな亀裂が入っていたり、とにかく先へ進めなかった。先へ進むなら引き返すしかないけど、土砂の中や地面の亀裂から大ネズミのモンスターが現れて戦闘になってしまうこともあって、引き返すことでさえすんなりとはいかなかった。街の構造は相変わらずごちゃついていて、道を引き返すにしてもどこまで引き返せばいいのか、ちゃんと引き返せているのか、いつも不安に襲われていた。
やばい。このままでは辿り着けないまま終わってしまう。
でも、地図の青い丸と赤いバツはだいぶ近づいた。もう少し頑張ろう。
そう自分に言い聞かせながら、また歩いた。
突然、広い大きな道に出た。見通しのよい下り坂の道が、真っ直ぐ伸びている。
地図の上では、道幅はこれまでの細い道と変わらない。やっぱりこの地図、間違っているんじゃないのか?
でも、この広い道をまっすぐ進めば、赤いバツ印に辿り着けそうだ。本当にその場所にお宝があるのかどうか信じ切れないけど、行ってみるより他はない。
進むにつれて、建物が高くなっていく。下り坂になっているぶん、天井までの距離がだんだん伸びていっているからだ。二階の上半分が天井に埋もれていた街並みが、今では四階や五階の建物が目立つようになってきた。
「あったね!」
「うん! あった!」
赤いバツ印の場所。
街並みからは不自然に凹んで見える、一階建ての白い家。
魔石の明かりでオレンジに照らされた白い壁に、ドアノブがないドアが嵌め込まれていた。
円環状に並んだくぼみは七つ。全て違う、七種類の色と形。
アミカが希石を取り出し、嵌め込んでいく。
七つ目の希石を嵌め込むと、円環は一瞬、七色に輝いた。
音もなく、ドアが開く。
「きゃあああああああぁぁっ!」
アミカの体が、宙に浮いた。
「アミカ!」
アミカの体に絡みつく触手。
ドアの隙間の向こうから伸びた触手が、アミカの腕、足、腹、胸に絡みつき、空中に押し上げていた。あまりにも一瞬のことで、アミカはもちろん、僕もなすすべがなかった。
ドアが完全に開いた。その先に見えるのは、蓋が開いた宝箱。鍵穴があるはずの部分には大きな目玉が一つあって、真っ黒い瞳がこっちを見ている。宝箱の中から赤やピンクの触手が伸び、アミカの動きを封じていた。さらに新しい触手が伸び、僕に向かってきた。剣を振って斬り払う。手に入れて間もない新しい剣が薄い緑の残像を残し、触手の先端が地面に落ちた。
「リッキ、助けて!」
宝箱は僕だけでなくアミカにも新しい触手を伸ばした。元々なかったアミカの体の自由が、さらになくなっていく。ぬめぬめした粘液を纏った触手が、動けないアミカの太もも、腹、胸、首筋、頬を這う。
「アミカ! 今助ける!」
僕はひたすら剣を振った。しかし宝箱は僕への攻撃の手も緩めない。切り落とした触手は先端を再生させまた襲ってきた。それだけでなく、更に新しい触手が次々と宝箱から伸びてきた。僕はアミカを助けるどころか、少しずつ後退させられていった。
アミカは弓はもちろん、魔法を放つこともできない。アミカの位置からは宝箱は見えないし、手の自由が効かない以上、触手に向けて攻撃魔法を放つことはできない。アミカの得意とする天から降り注ぐ魔法も、地下では使えない。
「リッキ、エナジードレイン受け、てる」
「なんだって!」
アミカのHP表示に目をやる。数値がどんどん減っていっている。触手がアミカの体を這うたび、さらにアミカはHPを減らしていった。
アミカが回復魔法を使った。弱々しい白い光が、微かにアミカのHPを回復させた。こんな弱い魔法しか使えないはずがない。触手がMPを吸収して、MPが尽きてしまったのだろう。
触手はさらに袖や襟から服の内側へと侵入していき、執拗にアミカの体を舐め回す。最後の魔法で回復させたHPも吸い取り、さらにアミカのHPが減っていく。
「アミカ! アミカ!」
僕は必死に剣を振った。触手は攻撃の手を休めない。どんなに剣を振っても、まるでアミカに近づけない。
「リッキ、助けてリッキ! やだ、気持ち悪い、死にたくないよ、リッキ! 助けてリッキ! 助けて!」
アミカが絶叫する。
「アミカ!」
僕も大声で叫ぶ。
アミカを助けなきゃ。アミカを助けられるのは僕しかいないんだ。僕がアミカを助けなきゃ。それなのに、全然前へ進めない。どんなに剣を振っても、アミカに近づけない。
「リッキ! お願い助けて! 死んじゃう! リッキ!」
触手の動きは止まらない。服の内側に潜り込んだ触手がうねうねと動き回っているのが、外側から見てもはっきりとわかる。
アミカのHP表示が、赤になった。
「アミカ! 絶対助ける!」
僕は全力で剣を振った。全力で振っていた剣の動きを、さらに早めた。
それなのに、それなのにアミカへは届かない。
「死にたくないよ! 助けて、お願い助けて! リッキ! やだ、死にたくない!」
アミカの赤いHP表示が三桁から二桁、そして一桁へ……。
「やだ! 助けて! 死にたくない! お願い助けて! 助けて! 沢野く」
赤い数字が、ゼロになった。
その瞬間、アミカの体が消えた。
アミカの体を襲っていた触手は、攻撃対象を僕に変えた。現状でも精一杯なのに、これ以上襲われたらいくらなんでも敵わない。
僕は、逃げ出した。
何より、アミカを救えなかったという精神的ダメージが大きかった。
モンスターは、一定距離を超えて攻撃することはできない。僕を追撃してきた触手も、やがて動きを止め、宝箱へと帰っていった。
左手の人差し指で、メニューアイコンに触れた。
最下段の「ログアウト」を選択する。
――本当にログアウトしますか? <はい> <いいえ>
戦闘にリアルさを出すためという理由で、戦闘中はログアウトしようとしても反応しない。確認メッセージが表示されたことが、あの戦闘が終わったことを告げている。
僕は、アミカを救えなかった。
いくらゲームとはいえ、仮想世界のこととはいえ、アミカを死なせてしまったんだ。
死んだからといって、特にペナルティはない。ただ強制ログアウトされるだけだ。
それでも。
アミカの叫びが、脳に蘇る。
左手の人差し指が、弱々しく<はい>に伸びる。
助けを求めるアミカの声が、繰り返し脳の中を流れ続ける。
そういえば。
アミカの最期の言葉。
どうして?
どうしてアミカは、僕の本名を?
人差し指の先が<はい>に触れた。
意識が遠のいていく――。
◇ ◇ ◇
今日は期末テスト前の最後の学校だ。週末を挟んで、月曜日からテストだ。
それなのに、愛里は今日もまだ風邪が治っていない。
「ごめんお兄ちゃん、これ返しといてほしいんだけど。期限が今日までだからさ」
朝、様子を見に愛里の部屋に行くと、本を一冊渡された。学校の図書室から借りてきた本だ。
神話に出てくる伝説の剣とかの、武器の百科事典みたいな本だ。ちょっと開いてみると、ゲームでよく使われていそうな名前の武器がたくさん書いてある。武器と一緒に、使い手が超美男子のイラストで描かれているんだけど……。
こういう本が学校の図書室にも置いてあるのか。知らなかった。
「わかった。返しておくよ。ちゃんと寝てるんだぞ」
「うん。風邪治さないとリュンタルに行けないしね」
そっちかよ。期末テストのことは本当にどうでもいいんだな。
◇ ◇ ◇
チャイムが鳴った。
期末テスト前最後の授業が終わり、放課後になった。
カバンを開けた僕は、思わず声を出した。
「しまった……」
愛里から預かった本を返すのを忘れてしまっていた。
今はテスト前だから、放課後には図書室は開いていない。図書委員が図書室での活動のせいで勉強の時間を失ってはいけない、というのが理由だ。だから、テスト前の期間に利用できるのは昼休みだけだ。なんでこういう大事なことを放課後になった瞬間に思い出すんだろう。
どうしようか。
僕は廊下側の端の列の、図書委員の牧田の席をちらっと見た。
一瞬、牧田と目が合った。
牧田はすぐに目を逸らし、前を向くとカバンを開けて机の中の物を急いで入れ始めた。
またか。
最近、なんだか牧田に見られている気がする。
(沢野君を狙っている女子、けっこう多いんだよ?)
西畑の言葉を思い出す。
まさか、牧田が僕のことを……?
い、いや、自意識過剰だろ。
僕は牧田の席のところまで行った。
「牧田さん、あの」
「な、何? 急に」
僕の声に驚いたのか、牧田はいつもより大きくて高い、ちょっと裏返った声を出した。
普通に声を掛けたつもりなんだけどな。
変な声を出して恥ずかしかったのだろうか、牧田は口に手を当てた。体がちょっと震えている。なんか普通じゃない。本当にまさか……。
いや、そんなことは……。
「実はさ、図書室の本を返したいんだけど、昼休みに行くのを忘れちゃってさ。牧田さん図書委員だろ? なんとかならないかな。今日が期限なんだよ。本当は妹が借りた本なんだけど、今日風邪で休んでてさ。預かってきてるんだよ」
「ああ、そういうこと?」
牧田は大きく息を吐いた。数秒、何かを考えていたようだ。
「しょうがないわね。一緒に図書室に来てくれる?」
いつもの牧田の、ちょっとぶっきらぼうな口調だった。
僕と牧田はカバンを持って図書室に行った。牧田に本を渡せば済むのかと思ったけど、一緒に来てほしいということは、何か手続きが必要なのかもしれない。妹とはいえ、他人が借りた本でもあることだし。
図書室の鍵はかかっていなかった。利用できないという規則ではあるものの、出入りはできるようだ。
牧田は図書室のカウンターには行かず、司書室のドアを開けた。
「今日先生いないから。入って」
司書の江藤先生は近隣の学校と仕事を掛け持ちしている。今日はそっちの学校に行っているのだろう。
牧田の後について行く。司書室なんて入ったことないから、ちょっと緊張する。本やファイルがたくさん積んであって、けっこう雑然としている。机の上も散らかっている。
僕はカバンから本を取り出した。
「この本なんだけど……どうすればいいのかな」
僕の問いかけに、牧田は反応しない。武器と美形の武人が描かれた本の表紙をじっと見ている。
「牧田さん、これ」
「沢野君、あの……あのね」
牧田は僕の顔をじっと見ている。ちょっと顔が赤い。
こ、この状況は……。
これってやっぱり? 牧田が僕のことを?
牧田は右手で黒い長髪をかき上げた。真っ赤に染まった耳が露になる。そして体は僕の正面に向けたまま、顔を少し横に向けた。
「あー、ああー」
声が出づらいのだろうか。胸や喉に、軽く手を当てている。ひょっとして牧田も風邪? 顔が赤いのもそのせい? でもさっきまでそんな様子はなかったけど……。
「あああー。あー」
声を出すたび、どんどん高い声になっていく。まるで幼い子供のような声……。
手を離し、顔が正面に向いた。またじっと僕を見つめる。
すっ、と息を吸った。
「昨日はごめんね。リアルの苗字で呼んじゃって」
…………えっ?
最近、毎日聞くようになった、あの女の子の声。
昨日もそばにいた、地下都市で一緒に戦った、あの女の子。
「死ぬのが初めてで、怖くてパニクっちゃったのよ。ついうっかり『沢野君』って言っちゃった。死んでログアウトされて、もう隠し通せない、隠していちゃいけないって、現実の醒めた頭が教えてくれた」
牧田はほんの少しだけ、顔を斜め下に向けた。視線も自然と落ちる。
「私のことはいつか言わなきゃ、ってずっと思っていたのよ。だってずるいじゃない。アミカはリッキが沢野君だって知っているのに、リッキはアミカが私だと知らないなんて」
どう反応したらいいのかわからない。驚いたまま次の動きに移れないちょっと間抜けな顔が、牧田の目に映っているに違いない。
なんとなく、取り出した本を持っていたカバンに戻し、床に置いた。
牧田の姿をしたアミカが、幼い子供の声のまま話し続ける。
「最初に会った時のこと、覚えてる? ひどい反応だったよね、私。……あの時は本当に心臓が止まるかと思った。だってリッキのアバター、沢野君そのまんまなんだもん。名前もほとんど同じだし、声も話し方も普段と変わらないし、左利きだし、間違えようがなかった。
その次に思ったのは、アミカが私だってバレるんじゃないかってことだった。バレたらもう会えない、もう学校に行けないって思った」
「いや……さすがにバレないだろ。全然わからなかった」
僕はなんとか喉の奥から声を絞り出した。
牧田はちょっと俯いたまま、視線だけを僕に向けた。
「沢野君って、あまり感情が表に出ないよね? それとも起伏が乏しいタイプ? いつも淡々として落ち着いている」
いつもの牧田の声に戻っていた。
「今だってそう。アミカの中身が私だって知っても、あまり変わらないし」
「そんなことないって。驚いた。驚いたけど、だからって騒ぎたてることもないだろ。アバターと中身が違うなんて珍しいことでもないだろうし、どっちかが嘘なんじゃなくて、どっちもその人なんだと思うよ」
「本当に、そう思ってる?」
「うん。そう思うけど?」
「……やけに簡単に答えるのね。どうして?」
「どうしてって……。別に迷うようなことじゃないし」
さすがに「異世界での父親が、自分が知っている父親とは全然違ったから」なんてことは言えない。
「……沢野君になら、言ってもいいかな。むしろ聞いてほしい」
牧田は書棚に背中を預け、天井を仰いだ。
「私ね、歌って踊れる魔法少女になりたかったの。普段はかわいい衣装を着てステージに立っているアイドルなんだけど、悪者が現れたら魔法を使って退治するのよ」
あー、幼稚園のころの話だな。こういう妄想をする子って、たまにいる。
「でも、現実は非情だった。だんだん成長して、人より大きい体になってしまって、これじゃかわいいアイドルは無理だって思った。魔法もいつまでたっても覚えられないし、悪者も意外と現れないのよね」
いや、ちょっと待って? アイドルはともかく、魔法で悪者を倒すほうは諦めなかったの? 牧田って実はメルヘンな子なのか?
「そう思っていた時、仮想現実型のゲームが登場したの。私はすぐに飛びついた。この世界でなら、歌って踊れる魔法少女になれる、って。でもね、意外と難しかった。ゲームによっては体型の修正ができなかったり、戦闘に特化していて音楽活動ができなかったり、非ゲーム系の自由度が高い仮想世界もあったけど、今度は悪者が存在しなかったりして」
僕は『リュンタル・ワールド』以外はこのタイプのゲームをやったことがないけど、いろいろ種類があるのは知っている。『リュンタル・ワールド』は、最近たくさんできた仮想現実型のロールプレイングゲームの中のひとつにすぎない。
「でも『リュンタル・ワールド』は違った。いろんな種類の国があって、いろんなプレイスタイルがあって、音楽と戦闘を両立させるには理想の世界だった。だから私はここで生きていくことに決めたの。
でもこのことは、リアルの世界には絶対にバレちゃいけなかった。だから名前も本名からは推測できないようにしたし、ゲームをやっていること自体、絶対に言わなかった。アミカでいる時も、リアルのことは絶対に言わないようにしていたし」
「うん、それは、十分に成功しているよ。これからだってバレないさ。僕も絶対、何も言わないし」
「ありがとう。私、沢野君なら信用できる。だからこそこうして話しているんだけどね」
牧田は天井ではなく、また僕を見ていた。
「でも、隠し通すなら、もっとちゃんと隠し通さなきゃね。アミカがリッキと毎日会いたがっていたのも、リッキがちゃんと隠せていなかったからだし」
「え……どういうこと?」
「初めて会った時に行った豚人間の森のクエストね、あれ、リッキは手際が良すぎたのよ。全く行動に無駄がなかった。ギズパスで戦ったことがなくて、たった今聞いたばかりのクエストなのに、道に迷うこともなかったし、モンスターの出現ポイントや特性もわかっていた。道中で情報を探そうとするそぶりすら見せなかったし、まるで予めシナリオを読んできたかのようだった」
うわ……。鋭い。
「どうしてだろうって思った。その時ふと、沢野君のお父さんがゲーム会社で働いているのを思い出したの」
確かに、教室で男子同士で雑談をしていた時に、そういう話をしたことはあった。聞こえていたのか。
「もしかしたらお父さんがなんらかの関係者で、そこから情報を得ているんじゃないかって。調べてみたら関係者どころか開発者本人じゃない。それで納得がいったの。リッキは、知り得ない情報を知っている人なんだって。アミカの中身が私だとは気づいていないみたいだし、仲良くなって一緒に行動していれば、そのうち裏情報をいろいろ引き出せるんじゃないか、って思ったの」
豚人間の森を歩いている途中で、アミカは必死に右手を動かして何かを見ていた。あれはお父さんについて調べていたんだ――。
「そういうことだったのか……」
僕は前髪をかき上げ、天井を見上げた。
「参ったな。まさか見抜かれていたとは思わなかった。確かに僕は非公開のデータを持っているよ」
「やっぱりね。それに比べてアイリーは上手いわ。完全に隠せてる」
「いや、アイリーは元々そんなに詳しくないよ。僕はデータに頼ってプレイしていたけど、アイリーは楽しけりゃいいってタイプだから。それに僕はアイリーとは違ってソロプレイばかりだったから、人と一緒にいることに慣れていなくって。これからは気をつけるよ。教えてくれてありがとう」
牧田は少し笑った。
「ありがとうはおかしいんじゃない? アミカは悪意を持ってリッキに近づいたのに」
「でもさ、今ここで牧田さんが言ってくれたおかげで、僕はこれから気をつけて行動することができるんだし。やっぱりありがとうだよ」
僕は再び牧田と向き合った。
他に人はいないのに、誰にも聞かれないようについ小声になって話す。
「ところで、僕、どれくらいデータバラしちゃってた? 全然自覚なくってさ。三本の塔や、昨日のあの地下都市は本当に何も知らなかったから、何もバレていないはずなんだけど」
「だと思った。知っていたらあんなにトラップに引っかかることもないし、道に迷ったり、戦闘に負けたりしないものね。秘密の知識なしではクリアできなさそうな難易度の高い場所をあえて選んだんだけど、無駄だったみたい。さすがに全部を知ってはいないだろうってことは、最初から思っていたけど。……大丈夫。リッキは何も情報を漏らしていない。変な言い方だけど、期待はずれだった。ひょっとしたら隠しスキルでも持っているんじゃないかって思ったけど、全然そんなのなかったし」
「隠しスキルだなんて、そんなの持ってないよ」
僕は慎重に言葉を選ぶ。
「僕はこれまで、知っているクエストだけに挑んで、知っているモンスターだけを倒してきたんだ。絶対に成功するとわかっているのに、特別な技なんか必要ないだろ?」
「あはは、それもそうね」
牧田が口を大きく開けて笑った。
その笑顔は……本物なの?
今も僕から秘密を引き出そうと探っているんじゃないのか?
そのために笑顔を作って、僕の心に隙を作ろうとしているんじゃないのか?
疑いが疑いを呼ぶ。
僕は、隠しスキルを「持っていない」。
これは本当のことだ。
隠しスキルが「存在しない」なんて、言っていない。
僕は嘘をついていない。
何を考えているんだ、僕は。
何を迷っているんだ。
牧田は僕を信用して、すべてをさらけ出してくれたんだ。
僕が牧田を信じなくてどうする……。
「ありがとう。短い間だったけど、楽しかった」
牧田の声が、僕の心に侵入してきた。
明るい笑顔のまま、話し続ける。
「ここまで打ち明けちゃったら、もうアミカはリッキのそばにはいられない。だってそうでしょ? 偶然出会ったとはいえ、秘密を引き出すために近づいて、それがバレちゃったんだから」
それから、少し俯いた。
「でもね、私はリュンタルからは去りたくないの。だから、虫のいいお願いだとはわかっているけど、出会う前のように、お互い知らない存在として」
「あ、あのさ」
僕は無意識に口走っていた。
「今日、これから、時間ある?」
顔を起こした牧田は、ぱちぱちと何度もまばたきをした。
「え、まあ、いちおう、大丈夫だけど」
――あいつを倒したい。
「じゃあさ、昨日のあの場所、もう一回行こうよ。負けたままなんて悔しいじゃないか。目いっぱい準備を整えてさ、今度こそあのモンスターを倒そうよ」
牧田は切れ長の目を大きく見開いた。
「え……でも、何で」
――絶対にあいつを倒したいんだ。
「大丈夫、何も知らなかった昨日とは違うって。知っているモンスター相手に負けるはずがないだろ、この僕が」
「それは……うん、そ、そうね」
――絶対にお宝を持って帰りたいんだ。アミカと二人で。
「よし、じゃあすぐに帰ろう。また、いつもの公園で」
僕はカバンを手に取った。今はもう、あのダンジョンの攻略のことで頭がいっぱいだ。
「あ、待って、沢野君」
なんで止めるんだよ!
「どうしたの? 急ごうよ」
「だって、本、返してない」
「あ……そうだった」
返すはずの本を、またカバンにしまったんだった。
ずっとここにいたのに、なぜか現実世界に戻ってきたような錯覚を受けた。
僕は急いでカバンから本を取り出そうとしたんだけど、
「ごめんね、実はこの時間は返せないの」
牧田はクスクス笑っている。
「今はパソコンを動かせないのよ。返却処理ができないわ。それに病欠じゃしょうがないし、期末テストが終わってからでも大丈夫だから」
「そうなの? じゃあ、僕をここに呼んだのって……」
「そう。二人きりになりたかったから」
だよね。やっぱり。
「せっかくだから、これも言っちゃおうかな」
牧田が僕に近づいてきた。まだ何かあるのか?
「私、背が高いせいで男子から怖がられているでしょ? でも沢野君は、私のことを怖がっていない」
「あー、そうだね。正直、『牧田さんから見下ろされて怖い』ってのが、僕にはわからないんだ」
牧田は僕の顔を見上げている。
全然怖い顔つきなんかじゃないんだけどな。
「沢野君のこと、前から気になっていたのよ。私が見上げることができる人って、クラスには沢野君しかいないし。お願い、沢野君の顔を、もっと近くで見上げさせて」
「え、な、なんだよそれ」
牧田がぐいっと顔を近づけた。ほんのすぐ目の前に、牧田の顔が迫る。牧田の吐く息がかすかに僕にかかる。もう近すぎて焦点を合わせにくい。でも牧田がさらに顔を近づけようとしているのはわかる。やばい、このままでは、ふ、触れる――。
すっ、と牧田の顔が離れた。
「今日はここまで」
牧田もカバンを持った。僕の脇を通りすぎる。
「じゃあ、公園で待ってるね」
振り返りもせず、僕を置いてさっさと帰ってしまった。
牧田の息の感触が、僕の顔に残っている。
思わず顔をなで回す。
これって…………
アイリーに杖で殴られなくても、さすがにわかった。
◆ ◆ ◆
ソフォイダン公園のベンチに、アミカはひとり座っていた。
もう会わない、会いたくても会えないと思っていた人と、これから会う。
まさかまた会えることになるなんて、アミカは想像もしていなかった。
もしかしたら、これは罠なんじゃないだろうか。期待させておいて、突き落とすんじゃないだろうか。わざと人が多いところで正体をバラすつもりかもしれない。バラさないという条件でシルやアイテムを脅し取ろうとするのかもしれない。
(でも、それだけのことを、私はやったんだ……)
どんな状況を突きつけられても、アミカは受け入れるつもりだった。
自分への罰として。リッキへの償いとして。
『門』が淡く白い光を発し、円筒を作った。
光が解けると同時に、リッキが姿を現した。『門』から出て、一歩、また一歩とこちらに向かって歩いてくる。
もう逃げられない。アミカは覚悟を決めた。
「ごめん、待たせちゃった? ちょっとアイリーの具合が気になってさ。様子を見たり、あと簡単な食べ物作ったり……お母さん料理苦手でさ、おかゆですら作れないんだよ。えっとね、お母さんのことはいいとして、アイリーはほとんど治りかけているから、心配しなくていいよ。たぶん明日には元気になっているよ」
何事もなかったかのように、いつもの調子でリッキは話している。
アミカは呆然とリッキを見上げていた。
「じゃあ行こうか」
リッキが右手を伸ばした。
「う……うん」
差し出された手を、アミカは両手で握った。
立ち上がる。
「ちょっとショップに寄って行きたいんだけどいい?」
「……うん。いいよ」
リッキの右手を、アミカは左手で握り直した。
手をつないだまま、ショップへと向かって歩いていく。
「アミカ」
静かに名前を呼ばれたのに、アミカの心臓は跳ね上がった。
リッキは何を言うつもりなんだろう?
何を言われても受け入れると決めたはずなのに、アミカの心は体の中を不規則に駆け巡っていた。
リッキはずっと前を見ていた。アミカを見ることなく、リッキは口を開いた。
「実は、リュンタルで人が死ぬのを初めて見た」
リッキは俯いた。
「ショックだった。いくら仮想世界とはいえ、人が死ぬのを見たくはなかった。ただでさえショックなのに、それがアミカだったから、余計ショックだった。僕は、女の子一人守ることすらできなかったんだ。なんてダメなやつなんだろうって思った」
「そんな、リッキはダメなんかじゃないよ」
アミカは俯いているリッキの顔を、覗きこむように見上げた。
「あの後すぐ逃げ出してログアウトして、アミカにメッセージを送ろうとして、なんて言ったらいいのかわからなくて、結局送れなかった。もう一生メッセージを送っちゃいけないんじゃないか、もう一生会っちゃいけないんじゃないかとすら思った。またこうして会えるなんて、夢みたいだ」
「リッキ、何言ってるの? リッキがそんなふうに思うことはない――」
「おかしいだろ? 所詮仮想世界に過ぎないのにさ、こんなこと考えちゃうなんて。でも僕は最近、リュンタルにはリュンタルのリアルがある、って思うようになったんだ。詳しいことは言えないけど、僕はこの世界を、ゲームとして割り切って考えることができないんだ。たとえ仮想世界でも、僕はいい加減な生き方をしたくないんだ」
昨日までのアミカなら、リッキが言えないという「詳しいこと」について探ろうとしていたかもしれない。でも今のアミカにはそんな気は起きなかった。
それよりも。
(私の都合で誘って、行き先も私が決めて、そして私の不注意で罠に嵌って、何もかもが私のせいなのに。私の自業自得なのに。そもそも私はリッキから裏情報を得るために近づいて……)
リッキがこんなに思い詰めることなんてないのに。そう思っても、言えなかった。
いくら自分が悪くても、いや自分が悪いからこそ、弁解の言葉をぺらぺら喋り出すことができなかった。
少しの沈黙の後、リッキは再び口を開いた。
「ごめんね。僕の勝手な話のせいで、なんだか重苦しい話になっちゃったね。ゲームなんだから、もっと楽しめばいいのにさ。そうだ。楽しまなきゃ」
リッキは顔を上げた。
「やっぱり負けちゃ楽しくないからな。今日は絶対にあいつを倒そう。大丈夫。絶対に勝てる」
「アミカも」
繋いだ手を、ぎゅっと握った。
「アミカも、あいつを倒したい。アミカをあんな目にあわせたモンスターは、ぜったいに許せない。アミカは」
リッキがそう言っている。
私も、楽しもう。
「アミカは、リッキといっしょなら、ぜったいに勝てるよ」
◇ ◇ ◇
僕はアミカと一緒に、ギズパスの街の中にあるオフィシャルショップに来た。公園の中にも小さなショップはあるんだけど、こっちのほうが大きくて、品揃えが豊富だからだ。個人のショップを使わないのは、店によってアイテムの効果や値段にばらつきがあるからだ。いいショップを知っていればいいけれど、僕はギズパスのショップ事情をよく知らないから、今回は利用しないことにした。
オフィシャルショップは一般的なアイテムしか売っていないけれど、買い取りはどんなアイテムでも買い取ってくれる。NPCの店員が一人いて、売っている商品の説明はしてくれるんだけど、売ろうと思って持ち込んだアイテムについては説明してくれないことがある。でも、これはバグなんかじゃなくて、レアアイテムの情報が漏れすぎてしまわないために、わざとNPCの店員が説明してくれないシステムになっているのだ。
「アイテムを売りたいんだけど」
NPCの若い女性店員に声をかけると、「はい」と答えた店員が空中で右手を動かした。僕のアイテムウィンドウが開き、アイテムの名前の横に買い取り金額が表示された。
「こないだの豚人間の時に手に入れた剣さ、どうせ使わないから全部売っちゃおう。えーと、とにかく不要なものは全部売っちゃおう」
僕は剣だけでなく、素材系のアイテムなど、今日は必要ないと思うものにどんどんチェックマークを入れていった。どうでもいいアイテムばっかりだから、いちいち店員に説明を求めたりはしない。
「リッキ、いいの? だいじょうぶ? なんかものすごいいっぱい売っちゃうみたいだけど」
アミカにはウィンドウは見えていないけど、僕の手の動きを見て数を把握しているのだろう。
「大丈夫だよ。使わないものばっかりだから」
素材系のアイテムはいつか使うことがあるかもしれないけど、どうせ今日は使わないんだ。だったら売っちゃっても構わないさ。
最後にOKの表示に触れた。買い取り金額の総額と確認メッセージが現れた。
――この金額でよろしいですか <はい> <いいえ>
僕は<はい>を選択し、売却を完了させた。
今度は買う番だ。
店員が商品リストのウィンドウを表示させた。欲しいアイテムにチェックマークを入れ、個数を入力していく。ポーションや攻撃用のアイテムなど、とにかくシルがなくなるまで買えるだけ買った。
「アミカも買うよ」
「アミカはいいよ。今日の戦闘は僕が言い出したことだし」
「そんなのダメ! アミカも買うの!」
「じゃあ、マジックポーションはあったほうがいいから、買っておいてよ」
「うん。ぜんぶ買う。買いしめる」
「買い占めは無理だって」
オフィシャルショップのアイテムには、品切れがない。ただ相場には敏感なようで、たくさん売れるとだんだん高値になっていく。それでも買う人がいれば、いずれは誰もが手を出せないくらいの高値になってしまうんだろうけど、いちおう品切れはしない。実際には、そんなに高値になる前に個人のショップに客が流れて行くから、売れなくなってしまう。そうすると高くなった値段がだんだん下がってくる、という仕組みだ。
もっとも、ポーションのようなとても一般的なアイテムは流通量がものすごく大量だから、そう簡単には値が動くことはないんだけど。
アミカが操作を終えたようだ。
「ぜったいあいつ倒さないとね。シルもアイテムもぜんぶ使い切って倒せなかったら、アミカいちもんなしになっちゃう。そんなのいや」
「ははは、それは僕も同じだな。一文無しは嫌だね。でも大丈夫。必ず勝つよ。僕たちは」
「うん。かならず勝つ」
「よし、じゃあ行こうか」
僕はアミカとまた手を繋いで歩き出した。
◇ ◇ ◇
昨日はさんざん迷った道だけど、一度通ってしまえばもう迷うことなんてない。
昨日触手に襲われたあの扉の前に、すんなりと到着した。
「うぅ……」
アミカは顔や太ももをさすって、顔をしかめている。触手の感触を思い出してしまったのだろう。
「アミカ、無理しなくていいんだよ。僕一人でもなんとか戦えると思うし」
「ダメ! アミカも戦う! アミカ、あいつぜったい許せないもん!」
「わかった。一緒に戦おう。じゃあ僕がドアを開けるから、アミカは後ろで準備してて」
「うん」
ここの道だけは他と違って幅が広いから、距離を取ることができる。アミカはドアから離れた。それを確認して、僕は七つの希石を円環状のくぼみに嵌め込んでいった。
昨日と同じように、円環が一瞬七色に輝いた。ドアが音もなく開いていく。
僕はスキル<両利き>をONにした。
開きかけたドアの隙間から、数本の触手が伸びてきた。僕は素早く剣を振り切断した。同時にドアの隙間へ、爆裂玉という飴のような赤い物体を右手で投げ込んだ。爆裂玉が破裂し、ドアの隙間が煙を吐き出した。昨日は次々と襲ってきた触手だったけど、爆裂玉が効いたのか、次の攻撃がない。
ドアが完全に開こうとしている。僕はさらに爆裂玉を投げ込みながら、下がって距離を取った。ドアが開き切った瞬間、引き絞っていたアミカの弓が、光の矢を放った。矢は煙が立ち込めた部屋の中へと吸い込まれていく。触手や宝箱は、煙のせいで見えない。アミカの矢は命中したのだろうか?
「アミカ、どんどん射るんだ!」
「うん!」
命中していない可能性もあるし、一撃で仕留めきれるとも思えない。アミカは次々と光の矢を放った。僕は右手にも剣を持った。触手がいつ反撃してきてもおかしくない。アミカが襲われないよう、アミカの斜め前に立ち剣を構えた。
煙が薄くなっていく。
――シュルッ。
まだ薄く煙が残る部屋の奥から、触手が一本伸びてきた。
触手の標的はアミカだ。僕はアミカの正面に立ち、触手を斬り払った。地面に落ちた触手の先端がまだうねうねと動いている。断面は再生を始め、また襲ってくるための準備を整えている。さらに新しい触手が一本、また一本と部屋の中から現れた。僕は前に進みながら剣を振り、切り落とした。触手の断面は再生をしようとするけど、その前に僕は前に進み切り落とし続けた。
煙が晴れた。部屋の中には焼け焦げた触手の破片が散らばっていた。爆裂玉は効果があったようだ。宝箱もところどころに傷がついている。爆裂玉のような基本アイテムだけでできる傷には見えない。アミカの攻撃も効いていたみたいだ。
「リッキ! よけて!」
アミカの声が聞こえ、とっさに横へ飛び退く。光の矢が目の前を横切り、開いている宝箱から出ている、触手が生まれてくる部分に突き刺さった。触手が一本、ちぎれ飛んだ。アミカはさらに光の矢を放った。光の矢は、本来は鍵穴があるはずの部分についている目玉に向かって一直線に伸びた。宝箱の中から触手が一本伸びた。光の矢は触手に突き刺さり、目玉には届かなかった。
宝箱本体には攻撃は届かなかったけど、宝箱のHPは確実に削れている。宝箱本体を攻撃するのが確実なんだろうけど、触手を攻撃するだけでも、長い時間をかければ宝箱を倒すことができそうだ。
宝箱の目玉が大きく開いた。大量の触手が僕とアミカに向かってうねりながら伸び出した。僕は向かってくる触手を二本の剣で斬りまくった。一瞬だけ振り向いてアミカを見る。アミカは近距離戦用の攻撃手段を持っていない。魔法で出現させた
僕があの触手を斬らない限り、アミカは攻撃に転じることができない。でも触手は僕にもどんどん伸びてきていて、その対処で精一杯だ。宝箱のHPは触手を斬るごとに少しずつ減っていっているけど、まだまだ余裕がある。
何か、弱点はないのか?
「リッキ、防護壁が溶かされてる!」
アミカの声に、思わずまた振り向いた。
シュルッ!
その一瞬の隙をついて、触手が右足首に絡みついた。右脚が引っ張り上げられ、体のバランスを崩す。僕は右手の剣を振って触手を斬った。足首に触手の先端を絡みつかせたまま、僕は地面に倒れた。倒れた僕に触手が襲いかかる。右手に触手が絡みつき、粘液でぬめった右手が剣を離してしまった。このままではまずい。僕は強引に右手を左側に寄せ、左手の剣で絡みつく触手を斬った。さらに襲ってきた別の触手を何度も斬り払う。なんとか立ち上がった。足元には切り落とした触手の先端が散らばっている。新たな触手の攻撃を警戒しつつ、アミカを見た。
アミカは防護壁の内側にさらに防護壁を作っていた。今はこれで凌げても、いずれ突破されてしまうだろう。触手は粘液を吐き続けていて、最初の防護壁はすでにあちこちに穴が開いていた。
どうすればいいんだ? まずアミカに近づこう。アミカを襲う触手を斬ることが何より大事だ。僕は襲い来る触手を斬り払いながら、少しずつ後退してアミカに近づいていく。
「リッキ!」
アミカが叫んだ。
防護壁の中に、触手が一本侵入している! 間に合わなかったか!
触手は次々と防護壁を溶かし穴を開け侵入すると、アミカの体に絡みついた。防護壁は解除され、自由を奪われたアミカの体は触手によって空中へと持ち上げられた。アミカの手から離れた弓が、地面に落ちた。
このままじゃ、昨日と同じだ。
そんなことがあってたまるか!
僕はなんとか左手の剣で触手を斬り払いながら、右手でアミカに絡みつく触手に爆裂玉を投げつけた。さらに雷撃玉、火炎玉、氷雪玉、風切玉など、買い込んだ色違いのアイテムを次々と投げて触手にぶつけた。どんなモンスターだって相性はある。強いモンスターほど弱点の設定はきちんとできているはずなんだ。どれか一つは効くだろう。頼む、効いてくれ。
触手が一本、凍りついた。氷雪玉が当たった触手だ。凍りついた触手は動きを止め、ヒビ割れて崩れていった。その触手が絡んでいたアミカの右手の動きが自由になる。
アミカはウィンドウを操作する仕草を見せた。右手に杖が現れた。杖が吹雪を放つ。アミカが自分の体に向けた杖は、絡みつく触手を徐々に凍らせていく。アミカに絡みついていた触手は、動きを止めた。凍った触手の先端部分が砕け散り、空中に持ち上げられていたアミカが地面に落ちた。
「アミカ、大丈夫?」
「うん。だいじょうぶ」
高いところから落ちれば、衝撃に応じたダメージはある。でも仮想世界に痛みはないから、HPに余裕があればなんてことはない。
アミカは立ち上がり、僕に攻撃する触手にも杖を向け、吹雪を浴びせた。触手は凍りつき、動きを止めた。
「はじめからこうしてればよかったね。ごめんねリッキ。気がつかなくて」
「うん、そ、そうだね。っていうか、杖、持ってたんだ?」
「弓と杖はいっぺんに使えないから。魔法は指輪で使えばいいし、杖は使う時がなかった。それに、あんまりいい杖持ってないし」
確かによく見ると、杖は簡素な作りをしていて、ちょっと安っぽいかもしれない。
「あんまりいい杖じゃないから、量でなんとかする。出しっぱなしで攻撃する。ポーションちょうだい」
最後の「ポーションちょうだい」は、全力で魔法攻撃をするから回復のためにMPを使いたくない、っていう意味だ。僕は持っているポーションをアミカにあげた。アミカはすぐにポーションを飲んだ。さっき触手に絡みつかれた時や地面に落ちた時にHPを減らしたからだ。僕もちょっとだけしか触手に絡みつかれなかったけど、HPを奪われていたから、ポーションを飲む。アミカはさらにマジックポーションも飲んだ。これで完全回復だ。
触手を斬ってHPを削り取る、なんてことはもう思わない。一気に決着をつけよう。
触手が再び動き出した。先端が凍っているだけで、触手全体はまだ生きている。先端が凍った触手は、凍っていない部分を使って巻き付こうと、僕たちが来るのを待ち構えている。
アミカは杖から吹雪を噴射させながら突撃した。僕は氷雪玉を投げつけた。白い飴のような物体が触手に当たった途端に破裂し、触手を凍りつかせた。触手は凍った部分から先の動きを止めた。
アミカの吹雪攻撃を前に触手はたじろいでいたようだったけど、攻撃に転じた複数の触手が同時にアミカの体に巻き付こうとした。アミカは杖の性能が低いせいで瞬時に触手を凍らせることができず、この攻撃に対応できない。僕はアミカを襲う触手を斬り捨てた。斬られた触手は断面から先端を再生させるために一時的に動きを止める。その隙にアミカは吹雪を浴びせ、触手を凍らせた。
そのまま部屋の中に突入した。アミカは吹雪を浴びせ続ける。触手は完全に凍った。アミカは宝箱にも吹雪を浴びせた。宝箱の開いた口からは、新しい触手が生まれようとしてもがいている。僕は氷雪玉を投げつけると同時に走り、開いた宝箱の真上から剣を突き刺した。アミカが吹雪を浴びせ、剣身を伝って宝箱の内部まで冷却した。攻撃手段を失った宝箱の目玉がもがき、瞳が上下左右に揺れた。僕は宝箱に刺した剣を引き抜くと、目玉の中央を突き刺した。
宝箱のHPがゼロになった。宝箱と、部屋の外に伸びている凍った触手が一斉に光の粒子となり、消えていった。
何も、起きなかった。
部屋は静まり返っている。
天井から吊るされた明かりが、外と同じように白い壁をオレンジに照らしているだけだ。
「お宝は……どこだ?」
部屋の主を倒したら、シルやアイテム、またはそれに繋がる隠し扉や通路などが出現するのがよくあるパターンだ。
でも、それがない。
もちろん、宝箱もモンスターだから、倒したことでシルは手に入った。でも、宝箱の強さを考えれば常識的な金額で、それ以上の特典めいたものはない。
僕もアミカも部屋の隅々を見回した。でも何もない。本当に何もない。
石ころ一個、木切れの一片も落ちていない。壁に仕掛けがないか、手で触りながら一周してみたけど、何もない。
アミカを肩車して、天井の明かりも調べた。でも、なんの仕掛けもない、ごく普通の明かりだった。
「アミカ……いちおう確認するけど、これは、公式のクエストでは、ないんだよね?」
昨日も今日も、アミカの口からクエストという言葉を聞いていない。
「うん」
「アミカは、この情報を、どこから手に入れたの?」
「うわさばなし」
「噂話……」
アミカはバツが悪そうに顔を逸らした。
「それで、ふつうの人じゃちゃんと聞いてくれないと思って、うさんくさくて有名なお店に行ったら、地図を売ってくれたの」
「…………」
アミカは顔を逸らしたままだ。
「アミカ、ちょっと言いづらいけど、やっぱりこれってニセ情報だったんじゃ」
「ごめんなさーい!」
アミカは大声でそう叫ぶと、勢いよく外に駆け出していった。
「アミカ、待って」
僕も急いで外に出た。
いくら勢いよく走っても、小さい女の子の足だ。すぐに追いついた。
「ごめんなさい、リッキ、ごめんなさい」
「大丈夫、怒ってないよ」
アミカは今にも泣き出しそうだ。
「昨日ひどい目に遭ったあのモンスターをやっつけたんだ。僕たちは勝ったんだ。勝ったんだからいいじゃないか。喜ぼうよ。僕はアミカと一緒に戦って勝てたことが、とってもうれしいよ」
僕はアミカの頭をなでた。
「ほんとに?」
アミカが涙をこらえながら、僕に訊いた。
「ああ。本当だよ」
思ったことを、そのまま言った。
「とりあえずさ、地上に出ようか」
僕はアミカの手を引いた。
「うん」
アミカは僕の手を握り返した。
僕とアミカの二人は、地上へと歩き出した。
○ ○ ○
柔らかい風が吹いて、アミカの薄紫色の髪が少し流れた。
夕焼け空を見上げるリッキの前髪も、かすかに揺れた。
地上に戻ってきたばかりで、街の中心部まではかなり距離がある。街に向かって歩く二人以外に、人影はない。
「アミカ、今日はありがとう。僕のわがままに付き合ってもらって」
「そんな、わがままじゃないよ。それだったらアミカのほうがわがままだし」
「そっか。じゃあ、二人ともわがままなんだ」
「あはは、そうだね」
「…………」
「…………」
「アミカ」
「リッキ」
二人同時に、名前を呼んだ。
「アミカ、先、言って」
「リッキから言ってよ」
「アミカからでいいって」
アミカはちょっと間を置いて、口を開いた。
「アミカは……リッキと、いっしょにいてもいいの?」
弱々しい声だった。
「僕は、アミカと一緒にいたいよ」
リッキの声には、迷いがなかった。
「でも、アミカは、リッキを利用しようとして」
「あのねアミカ、僕がリュンタルで出会った人で、最初にフレンドになってくれたのが、アミカだったんだ。本当にうれしかった。ずっとソロでやってきてたけど、フレンドが増えるっていいな、今度は僕からも声をかけてフレンドを増やそう、って、あの時そう思ったんだ。アミカがそう思わせてくれたんだ」
「でも、それだってリッキを利用するためで」
「そんなのどうだっていいじゃないか。僕はアミカをフレンドだと思っている。かけがえのない仲間だと思っている。僕は、リュンタルで初めてできたフレンドと離れたくなんかないんだ。これからもずっと、こうして一緒に戦ったり、一緒におしゃべりをしたり、一緒に遊んでいたいんだ。だから」
リッキは立ち止まった。
膝を曲げ、目線をアミカの高さに合わせた。アミカの顔を、髪と同じ薄紫色の瞳を見つめた。
「僕から言いたかったことを言うね。アミカ、お願いだ。僕の前から消えないでほしい」
「リッキ……」
アミカはリッキを振りほどくように歩き出した。歩き出して、すぐ止まった。
「アミカ、アイドルやめようかな……」
ぽつんと呟いた。
「え、どうしたんだよ急に。アイリーが言ってたよ。アミカのコンサート、すごかったって。僕だって次またコンサートやるなら絶対見に行くし」
アミカの背中で戸惑うリッキを無視して、アミカは話し続ける。
「だって、アイドルは恋愛禁止なんだもん」
数秒の沈黙。
アミカの口から出たのは、涙声だった。
「アミカね、リッキを好きになっちゃった」
アミカは振り向くと、流れる涙とともにリッキの体に飛び込み、抱きついた。
「うわーーん、どうしよう、アミカ、リッキのことが大好きだよう。アミカ、リッキが好き。大好き。ねえリッキ、どうしよう。アミカ、リッキが大好きだよう。うわーーーん」
「泣かないで、泣かないでよアミカ」
リッキはアミカを優しく抱きしめた。
後頭部を軽くなでる。
「ありがとうアミカ。うれしい。本当にうれしい」
リッキはアミカの髪をなで続ける。
「でも、ごめんねアミカ」
リッキの胸に顔を擦りつけたまま、アミカの表情が固まった。心臓がキュッと縮まる。
抱きしめていた腕を離し、アミカの両肩に添えると、リッキは涙に濡れたアミカの顔をじっと見つめた。
「僕はまだ、好きだとか、そういう気持ちのことが、あまりよくわからないんだ。アミカの気持ちをきちんと受け止めることができなくて、本当にごめんね」
そう言うリッキの顔を、アミカもまたじっと見つめていた。
アミカは涙を拭った。
「リッキは、まだまだお子さまだねっ!」
「なっ」
リッキの口元が歪んだ。
「お子様、は、ないだろ。いくらなんでも」
アミカはまた歩き出した。
「あーあ。アミカはまだまだアイドルつづけられそうだから、がんばらなきゃ。リッキ、つぎのコンサート見に来てくれるって言ったよね? ぜったい見に来てよね」
リッキは慌ててアミカの後を追って歩き出した。
「行く。絶対行くよ」
追いついたリッキの右手を、アミカの左手がぎゅっと握りしめた。
「もうぜったい、離さないんだから」