第二章 三本の塔
期末テストまであと一週間だ。
勉強しなきゃならないけど、アミカにはまた遊ぼうって誘われちゃったし、どうしようか。この時期にテスト勉強を気にしないということは、アミカはやっぱり小学生なのかな。それとも愛里みたいに勉強より遊び優先で考えているんだろうか。
どんよりとした曇り空の下、そんなことばかり考えて僕は学校に行き、席についてもやっぱりそのことを考えていた。
「立樹! 立樹!」
ふいに廊下から僕を呼ぶ声が聞こえた。
「これ、体操着! 忘れて行ったでしょ!」
開いたドアの向こうで、智保が僕の体操着を振り回していた。
そうだった。体育があることはわかっていたのに、体操着のことをすっかり忘れていた。アミカのことを考えていて、頭が回らなかったみたいだ。
智保はのんびりした性格のせいか、学校に行くのも僕より遅い。でもそのおかげで、今日みたいにお母さんが忘れ物に気づいて智保に持たせてくれることがある。
「あー、ごめんごめん。ありがと」
廊下まで取りに行こうと立ち上がろうとしたら、
「ぶわっ!?」
智保が体操着を投げつけてきて顔にかぶさって、前が見えなくなった。慌てて体操着を取り去り視界を回復すると、智保がくすっと笑っていた。
「じゃあね」
バイバイ、と手を振ると、智保は自分の教室へ戻って行った。
「相変わらず
ニヤニヤしながらクラスの男子たちが寄ってきた。
「嫁じゃないって。そっちもいい加減それ言うの飽きてくれよ」
ため息混じりに言い返す。
「でも本当に、沢野は
「どうって……ただの隣の家の幼なじみだろ。何度も言ってるじゃないか」
「いいかげんきちんと付き合えよ」
「なんでそうなるんだよ!」
「俺たちも応援するぜ」
「だからなんで!」
「はいみんな席についてー。ホームルーム始めまーす」
教室の前のドアから先生が入ってきた。担任の
僕の周りの男子たちが席についた。
人垣が去り、僕は視線に気づいた。
牧田だ。
手にしていた文庫本を閉じ、長い黒髪の間からじっとこっちを見ている。
もしかして成績のことで智保をライバル視しているのか? だからって僕は関係ないだろ。それに牧田と智保は仲がいいんじゃないの?
◇ ◇ ◇
「ねえねえ誰か、パソコン詳しい人いる?」
昼休み。山根先生が教室に飛び込んできた。
「なんかよくわかんないんだけど動かなくなっちゃって」
「先生、またトラブルですか?」
最前列の席で、西畑が立ち上がりながら答えた。
山根先生はささいなことで大袈裟に慌てる癖がある。おまけにそそっかしい。だからしょっちゅう大事件が起きたかのように騒ぎ立てるんだけど、ほとんどが簡単に解決できる問題だったり、ただの単純ミスだったりする。きっと今回もそうなのだろう。
「パソコンなら私に任せてください」
「ありがとう~西畑さん。助かるわ~」
山根先生は目をうるうるさせて喜んでいる。いつもこんな調子だ。でも西畑がパソコン得意ってのは知らなかったけど。ちょっと意外だな。
「それと、沢野君も一緒に来てくれる?」
「あっ、あ、はい」
急に呼ばれたから、変な返事になってしまった。
「お願い、どうしても頼みたいことがあるの」
「はい、いいですけど」
僕が名指しで頼みごとをされる場合、大抵の場合、理由はひとつしかない。
「さすが沢野君。助かるわ~」
僕が呼ばれる理由はほぼ間違いなく、高い所にある物に関係することだ。今回の用事も、理科室の壁に掛かっている時計を外すことだった。午前中に電池が切れて止まってしまったのだそうだ。
「先生、こっちも電池切れです」
隣の理科準備室から、西畑の声が聞こえてきた。
「もう西畑さんったら何言ってるの? パソコンはコンセントに繋いであるのよ? 電池で動いているんじゃないわ?」
「違います先生。マウスの電池です」
蓋を取って電池が見える状態のマウスを手にして、西畑が理科室に来た。
「ええっ!? そんな所に電池が入ってたの? 知らなかった!」
……こんな人が理科教師で大丈夫なのか? この学校。
時計とマウスに新しい電池を入れ、僕たちの仕事は終了した。山根先生は理科準備室に戻って行った。
「じゃあ、僕たちも教室に帰ろうか」
理科室を出ようとした僕の腕を、西畑が引っ張った。
「沢野君、ちょっといい?」
「え、何?」
僕の腕を掴んだまま、西畑は理科室の後ろへと歩いて行く。僕もついて行くしかない。
最後列の机のところまで来て、西畑は手を離した。振り向いて、赤い縁の眼鏡を指で直す。
「沢野君てさ、松川さんとは付き合っていないんだよね?」
またこの話か。
「付き合ってないって。智保とはただの隣の家の幼なじみで、それ以上はないよ」
「……なんで男子たちが沢野君と松川さんをくっつけたがっているか、わかってないでしょ」
「よくわかんないけどさ、きっと面白がってからかっているんじゃないの?」
「はぁー……」
西畑が小さな体で大きなため息をついた。
「沢野君、全っ然わかってない」
「な、なんだよ」
確かにわかってないけどさ、そんなに盛大にため息つかなくたっていいじゃないか。
西畑は机の上に乗って座った。目線の高さが近くなる。
「沢野君を狙っている女子、けっこう多いんだよ? 背が高いし、性格も尖ってなくて優しいし、背が高いし、左利きってなんかちょっと魅力あるし、それに背が高いし」
背が高いばっかりじゃないか。
「狙っているって、え? えっと……」
「松川さんてさ、その……あまり、容姿端麗って感じじゃないじゃない?」
智保は確かにぽっちゃり体型だ。『リュンタル・ワールド』ではシェレラのアバターを修正して体を細くしているけど、それでやっと平均的な体型になっているくらいだ。
「それに松川さんと沢野君は元々すごく仲がいいし、男子はわざわざ沢野君から松川さんを奪い取ろうとかって思わないのよ」
うん。奪い取るって言い方もなんかおかしいけど。
「だから、男子にとっては、沢野君と松川さんを正式にくっつけちゃって、自分が好きな女子に沢野君のことを完全に諦めさせよう、って魂胆なのよ」
「はぁ? なんだよそれ」
「やっぱり沢野君、自覚なさすぎ」
「いや、だってさ、僕はそういうの全然考えたことないしさ、それにほら、智保だってそうだろ? 智保だってそういうの全然考えてないって」
「…………じゃあさ、沢野君」
「な、なに?」
「私が沢野君と付き合いたいって言ったら、付き合ってくれるの?」
「……………………え?」
心臓がドクンと鳴った。
西畑がじっと僕の顔を、目を見つめている。
「そ、それは、その…………」
思わず視線を逸らし、遠くを見る。電池を新しくしたばかりの時計が、秒針をゆっくりゆっくり刻んでいる。
視線を戻す。西畑は僕から目を逸らさない。
誰かと付き合うとか、全然考えたことがない。僕と西畑が? いやいや、西畑みたいな優秀な女子には僕なんか釣り合わないって。それに智保はどう言うかな? どう言うかなっていうか、そもそもなんて言おうか? 智保に黙っていきなりこんな大事なこと……
「あははは、ウソウソ」
えっ?
「はい、って言われたら、どうしようかと思った」
西畑は顔を真っ赤にして笑った。額から汗が流れている。
「だって沢野君、きっと松川さんのこと考えてた」
「えっ、い、いやその」
なんでわかるんだ?
「でも沢野君を狙ってる女子が多いのは嘘じゃないからね。気をつけるのよ」
「あ、ああ、うん」
「さー教室に戻ろうかー。なんか暑いねー。もう夏だねー」
西畑は手をうちわのようにして扇ぎながら、理科室を出て行った。
◇ ◇ ◇
僕はアイリーと二人でギズパスの街を散策していた。アミカと約束していた時間まではまだちょっとあるから、それまでの暇つぶしだ。初めて来た時は時間が遅くてあまり歩けなかったから、その続きみたいな感じだ。
結局、僕はアミカの誘いを受けることにした。勉強しなきゃいけないとは思っているんだけど、新しくできたフレンドのお願いをいきなり断るというのはなんだか気が引けるし、アミカと一緒に戦ってクエストをクリアしたあの楽しさをもう一度味わいたいという気持ちに、勉強への気持ちが負けてしまったというのもあった。本当は勉強しなきゃいけないんだけど、一日くらい大丈夫だろう。明日から勉強すればいいさ。
ギズパスは芸術の街だ。街のあちこちに像が立っている。リアルな人物のブロンズ像だったり、大小の立方体の石を不規則に積み上げている、なんだかよくわからない前衛的な物体だったり、とにかくいろいろな像があちこちにある。像には必ず作品名と作者の名前が書き添えられていた。これはもちろん、本物のリュンタルがこうなっているからなんだろうけど……お父さん、まさか全部覚えてたの? そんなわけないよね?
ショップも画廊や楽器店など、他の街では見かけない店がある。絵は家を持っている人が飾るくらいしか使い道はない。家を買うにはかなりの大金が必要だから、僕にはまだ縁がなさそうだ。実際、店の中はNPCの店員が一人いるだけで、客はいない。
一方、楽器店は客が入っているようだ。
「アイリー、楽器って人気あるのかな?」
「リアルで楽器鳴らすのって騒音になったりして大変じゃん? あとリアルの楽器は値段が高くて買えなかったりとか。だからリュンタルで楽器やるの。お兄ちゃんもやってみる?」
「いやあ、僕はいいよ」
「……お兄ちゃんって趣味全然ないよね。音楽とかどう?」
「いや、いいっていいって!」
うっすらと冷や汗が流れる。このままだと無理矢理楽器をやらされる流れになりかねない。
何か別の話題に変えなきゃ。
そうだ。
「あのさ、今日学校でさ……」
僕は、昼休みにあった出来事を話した……んだけど。
「お兄ちゃんのバカ!」
いきなりアイリーが杖で殴りかかってきた。
「痛たたた!」
「嘘なわけないじゃん! その西畑さんて人、完全にお兄ちゃんのこと好きじゃん! なんでわかんないの?」
「だ、だからって杖で殴ることないだろ」
僕の言葉が届いていないかのように、アイリーは僕を杖で殴り続ける。
「何が『痛たたた』よ! 痛くないに決まってるでしょ!」
「そ、それは、そうだけどさ」
ここは仮想世界だ。痛みはない。
「で、お兄ちゃんは、その人のことどう思ってるの?」
「どうって、ただのクラスメイトだよ」
「じゃあ智保のことは?」
「智保だってただの隣の家の幼なじみだろ」
「……信じらんない」
アイリーは大げさにため息をついた。
昼休みの西畑のため息を思い出す。
電子音が鳴った。
視界の左下にある手紙のデザインのアイコンが点滅を始めた。開いてみると、やっぱりアミカからだった。ログインしたことを知らせるメッセージだ。
「とにかく、智保には黙ってるんだよ! いい?」
「う、うん。わかった」
◇ ◇ ◇
今日は僕とアイリー、アミカの三人パーティだ。ナオは平日は忙しいらしい。レイとシロンも、しばらくは自分たちでやりたいことがあるので来られないとのことだ。そして、シェレラは相変わらず助っ人の仕事だ。
アミカから聞いた、仰向けでボールにじゃれる猫の像の前で待つ。普段ギズパスにいる人にとっては、この像が待ち合わせの定番なのだそうだ。場所は街の中心部に近い。この像がある大通りは道幅が広すぎて中央部分には人通りはなく、代わりに楽器を演奏している人が点線のように間隔を置いて並んでいた。リュンタル版のストリートミュージシャンだ。多くの聴衆に演奏を披露している人もいれば、ぽつんと一人で何もない空間に向けて楽器を鳴らしている人もいて、不規則な濃さの点線が仮想世界における現実を示している。
アミカの姿が見えてきた。大きく手を振っている。僕とアイリーも手を振る。今日はどんな楽しいことが待っているのだろうか。
「アミカ、今日はどこ行くの?」
「あれ!」
アイリーの問いに、合流したばかりのアミカの腕が、北の空に向かって綺麗に伸びた。ピンと張った人差し指の先には、三本の塔が霞んで見えている。
「あの塔のてっぺんに行くよ」
僕とアイリーは顔を見合わせた。
アイリーはもう一度訊いた。
「あの塔……って、どの塔?」
「ぜんぶ!」
「全部? 三つとも?」
「そう! ぜんぶ!」
街を出て北に進み、小高い丘を登ると、レンガ造りの塔が三本、僕たちを待ち受けていた。
アミカの話によると、この塔の屋上にモンスターが棲みついていて、強力なアイテムを持っているのだそうだ。
これは……完全に知らない。テストプレイでも来ていないし、こういう話を聞いたことすらない。
これまでの僕だったら、やめていたかもしれない。
でも僕は変わった。知らないことから逃げたりせず、立ち向かっていくんだ。それに仲間もいる。仲間と一緒なら、できないことはないさ。
目の前に聳える三本の塔を見上げ、僕は二人に言った。
「行こう! 絶対にモンスターを倒すんだ!」
◇ ◇ ◇
入口のドアは、最初から少し開いていた。
怪しいと思いつつも慎重にドアを開け、中に入った。
――――――――!
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
いや、今でもよくわからない。
体のバランスを失い、衝撃を受けたことだけは確かだ。
「……ちゃーん、おーい、お兄ちゃーん、大丈夫ー?」
上のほうから声がする。
見上げると、僕を覗き込むアイリーとアミカの顔。
まさか、塔に入って一歩目で落とし穴にハマるなんて!
テストプレイでも、こういうことはなかったわけじゃない。
でもそれはいかに騙されるか、いかにトラップに引っかるかというテストなのであって、たとえこういう目に遭っても、テストへの協力なのだと思えば納得がいっていた。
でも今のは悔しい!
正式サービス後に、こんなシンプルなトラップに引っかかることがあるなんて、考えてもみなかった。
でも、僕はこの塔のことを何も知らない。
知らないんだから、トラップに引っかかることだってあるだろう。
むしろ僕には新鮮だった。より一層、この塔を攻略したくなってきた。
ご丁寧に、縄ばしごが垂れている。
この縄ばしごには、トラップはないのだろうか?
でも他に脱出方法がない。それに、考えすぎたり疑いすぎたりしていたら、先へ進めなくなってしまう。
僕は素直に縄ばしごに足を掛けた。
「いやー大変だったねーお兄ちゃん。でもお兄ちゃんが先に落っこちてくれたおかげで私もアミカも助かったよ。ここから先もお兄ちゃん先頭お願いね」
縄ばしごにトラップはなかった。
上がってきた僕を迎えたのは心配する声ではなく、これからも盾となり犠牲となれという妹の厳しい態度だった。
「アミカからもおねがい。リッキがさきに行って」
「う、うん、まかせとけ……」
アミカからも言われてしまったのでは仕方がない。
それに、この塔を攻略したいというのは、僕の意思でもある。
僕は慎重に、薄暗い塔の先へと進んだ。
しばらく、何もなく進んだ。
通路はかなり入り組んでいたし、上に行く方法は階段だったりはしごだったり、あるいは上り坂だったりとその時によって違っていた。しかし下ることはなく、順調に上に進んでいった。モンスターも出てこない。ひょっとしたらこの先は何もなくて、最初に落とし穴を置くことが、「この塔にはトラップがある。気をつけろ」という余計な神経を使わせるためのトラップだったんじゃないだろうか。
僕だけではない。アイリーも、
「せっかくお兄ちゃんにトラップに引っかかってもらおうと思ったのに、何もないね」
とか言っている。僕は後ろからついてくるアイリーのほうを振り向きながら、
「あのなあ。トラップはないほうがいいに決まってるだろ。引っかかるのに期待するのっておかしぶぇへっ」
衝撃を受け、顔がひしゃげた。
「な、なんだあ……?」
頬をさする。
通路は先へと続いているはずなのに、なぜか目の前が壁になっていたみたいだ。
「お兄ちゃん、これ、トリックアートだよ」
「ええっ!?」
先へ続く通路だと思っていたら……よく見たら、それは絵だった。
「忘れたころにやってくるなんて、いいトラップだね~。お兄ちゃんが先頭にいてくれてよかったよ」
「あのなあ……」
僕はアイリーに呆れつつ、行き止まりとなっているトリックアートの壁に手をついて寄りかかった。
抵抗がなかった。
「うわああああぁっ!?」
僕はそのままバランスを崩し、壁の向こうへと行ってしまった。
「お、お兄ちゃん!」
「リッキ!」
かすかに声が聞こえる。
振り向くと、そこには壁があるだけ。
「アイリー! アミカ!」
しまった! 分断されてしまったか?
しかし、すぐに壁が回転し、アイリーとアミカの姿が現れた。
「忍者屋敷みたいだね、ここ」
トリックアートの壁は、回転する壁、どんでん返しだった。
真ん中を押しても何も起きないけど、端を押すと回転する仕掛けになっていたのだ。
通路が先に続いていると思わせておいて壁になっていて、行き止まりだと思わせておいてやっぱり先がある。やっぱりここはトラップの塔なんだ。
また三人が一緒になった。
どんでん返しの壁が閉まり、カチリと音がした。
「――――!?」
頭上から柔らかい感触が降り注ぎ、全身を覆った。
とっさにその場から逃げようとしたけど、体が思うように動かない。
「なにこれー! きもちわるーい!」
アミカがロリ声で叫ぶ。
三人が合流してほっとしたのもつかの間、というかそこを狙って設置したトラップなのだろう。
天井が開き、大量のスライムが降ってきたのだ。
ヌルヌルベトベトのスライムが体中にまとわりつき、僕たちに不快感と動きの制限を与えている。
やがて天井が閉まり、スライムの流れが止まった。
でも、僕たちの体には大量のスライムがまとわりついたままだ。
「お兄ちゃんこれどうにかしてよー。気持ち悪いよー」
「どうにかって言われてもな……。僕だって気持ち悪いよ。アミカ、いい方法ないかな?」
「わかんない。リッキもわからないの?」
「うん……」
テストプレイでも、スライムまみれになったことなんてなかったしな……。
「お兄ちゃんちょっとじっとしてて! 焼き払ってみるから!」
アイリーが僕に杖を向けた。
「ええっ!? ちょ、ちょっと待って?」
「いくよお兄ちゃん! ……あれ?」
火だるまになるのを覚悟した瞬間。
床にこぼれ落ちたスライムが流れ始めた。平らな床を這うようにして、どこへともなく去っていく。同時に体にまとわりついたスライムも流れ落ち、先を行くスライムに合流して去っていった。
僕たちの体は、すっかりスライムまみれになる前に戻っていた。ヌルヌルベトベトの痕跡など全く残っていなかった。
「なんだったんだ今の……」
「元に戻ったんだから、いいじゃんそれで」
「うん。よかった」
こういうトラップは、女の子のほうが堪えるものだ。
そのアイリーとアミカに精神的ダメージが残っていないのが何よりだ。
トラップにかかってしまったのは癪だけど、前に進もう。
しばらく歩いていると。
真っ直ぐな上り坂。その向こうから日光が射し込んでいる。
やっと出口だ。いよいよ屋上だ。
そう思ったら。
ドンッ、という音と共に、日光が遮られた。
天井から落ちてきた、通路を埋め尽くす大きさの岩の球。
ゴロゴロと地響きを立てながら、通路を転がり落ちてくる。
なんて古典的なトラップ!
「逃げろ! 走れ!」
僕たちは全力で坂を駆け下りた。
ふと、壁にくぼみがあるのを見つけた。
上ってくる時にはなかったはずだ。
いかにも怪しい。怪しすぎる。
でも、岩は僕たちの背中のすぐそこまで迫っている。もうそこへ逃げるしか方法がない!
僕たちは壁のくぼみに飛び込んだ。
直後、岩がゴロゴロと轟音を鳴らしながら目の前を通り過ぎていった。
ガシャン!
突然、通路との間に鉄格子が降り、僕たちは閉じ込められてしまった。
やっぱりこのくぼみ、トラップだったんだ!
そして、浮遊感。この感覚、現実世界で何度も経験したことがある。
壁のくぼみは、エレベーターだった。
僕たちを真上へと運んでいく。
鉄格子の向こうに見えてきた、青い空。
さっきまでのトラップが嘘のように、僕たちはあっさりと屋上に着いた。
鉄格子が上がり、僕たちが外に出ると、エレベーターは降りていった。
屋上には、ぽつんと一つ、ソファが置いてあった。
モンスター……なのか?
三毛猫が一匹、ソファの上で丸まって寝ている。
屋上にはモンスターが棲みついている。
そして、この屋上には、三毛猫が一匹いるだけだ。
ということは。
おそるおそる近寄る。
「モンスター……なのか?」
もう一度思った疑問が、つい口に出た。
「そ、そんなわけ、ないじゃん、お兄ちゃん? だって、かわいいよ」
「アミカより、か、かわいいかも」
もし現実世界なら、かわいさのあまりなでたり抱き上げたりしてしまうに違いない。
それができるくらい近くまで、僕たちは近づいた。
三毛猫が目を覚ました。
四本の脚を目いっぱい前後に伸ばし、さらに丸まっていた背中も伸ばす。
「「「かわいい~」」」
感想が一致して、三人の声がそろった。
アイリーがなでようとして右手を伸ばす。
三毛猫が、差し出された手を見た。
「痛っ!」
アイリーが素早く右手を引っ込めた。
指先に傷ができている。
三毛猫が噛みついたのだ。
立ち上がった三毛猫が僕たち三人の顔を見ている。その瞳は、ルビーが嵌め込まれたかのように真っ赤に光っている。
背中の黒い模様の部分から、何かが生えてきた。黒い棒のようなものが伸びてきて……広がった。
翼だ。
カラスのような真っ黒い翼が生えた三毛猫が、真っ赤に光る瞳で僕たちを睨んだ。
僕たちは後方に飛び退いた。
「ニギャアァァァァァァァァァァァァ」
三毛猫が潰れた声で鳴いた。全身の毛が逆立ち、まるで膨らんだかのようだ。
いや、目の錯覚ではない。本当に大きくなっている。
三毛猫は全身を、真っ黒い翼を、どんどん巨大化させていく。
僕たちはさらに後方に下がり、距離を取った。
十倍、いや二十倍の大きさになった三毛猫のモンスターが、乗っていたソファを押し潰した。
僕は剣を、アイリーは杖を、そしてアミカは弓を構えた。
全く知らない戦いが始まる。
「いくぞ!」
左手に握った剣とともに、僕は突っ込んでいった。
三毛猫のモンスターがジャンプし、僕の頭上を飛び越えて音もなく着地した。
アイリーとアミカが移動し、三人が等間隔になるように三毛猫を囲む。
アイリーが炎の玉を放った。それを見た三毛猫は黒い翼を羽ばたかせ、反転し僕に向かってジャンプしてきた。炎の玉は三毛猫に命中せず、そのまま通り過ぎていった。
「フギャアアアアアアアアァッ」
三毛猫が潰れた悲鳴を漏らした。
アミカの光の矢が命中したのだ。
三毛猫が炎の玉を避けるタイミングに合わせ、アミカは時間差で光の矢を放っていた。アイリーとの連携プレイだ。
三毛猫は悲鳴を上げながらも体勢を崩さず、そのまま僕に飛びかかってきた。僕は三毛猫の腹を斬りつけた。三毛猫がそのまま着地すれば、僕は押しつぶされてしまう。僕はジャンプの軌道に合わせず、横に回避した。
三毛猫は着地し、翼をバサバサと羽ばたかせて反転した。首を振り、真っ赤な瞳で僕たちを順番に見ている。苦しそうな声を出したわりには、あまり堪えた様子を見せていない。ダメージを与えたとはいえ、元々のHPが多いからこれくらいでは大した影響はないのかもしれない。
三毛猫はアミカに向かって走り出した。
アミカは光の矢を放った。アイリーは炎の玉を飛ばし、僕はダッシュして横から三毛猫に斬りつけた。
「えっ!?」
アミカが声を上げた。
光の矢が三毛猫に当たった瞬間に消えてしまったのだ。僕も剣を弾かれてしまった。
炎の玉だけが三毛猫にダメージを与えた。また三毛猫が苦しそうな大声を漏らす。でも、その程度では三毛猫の突進は止まらなかった。
三毛猫が前足を振り上げた。隠れていた爪が伸び、キラリと光る。
アミカの体が薙ぎ払われて吹き飛んだ。
「アミカ! 大丈夫?」
「……だいじょうぶ」
アミカはすぐに体を起こすと、自分に回復魔法をかけ、立ち上がった。
それにしても、さっき効いた光の矢や僕の剣が、今は効かなかった。
なぜだ?
疑問を解決する間もなく、三毛猫は羽ばたきながら体の向きを変え、標的をアイリーに定めた。
アイリーは走って突撃してくる三毛猫に、炎の玉を放って迎え討った。
炎の玉は、さっきアミカが攻撃した時と同様、三毛猫に正面から当たった瞬間、消えてしまった。
三毛猫が爪を伸ばした前足を振り上げた。アイリーもまた、アミカ同様まともに攻撃を受け体が吹き飛んだ。
どうしてさっき効いた魔法が効かないんだ?
魔法だけではない。僕の剣も一撃目は効いたけど、二撃目は効かなかった。
攻撃が成功する確率が設定されているのだろうか?
また黒い翼をバサバサと羽ばたかせ、三毛猫は僕のほうを向こうとしている。
アイリーはまだ倒れたままだけど、アミカは回復魔法を使わず光の矢を立て続けに放った。僕を攻撃するために三毛猫はゆっくり体を回転させる。自然と光の矢は様々な角度から体のあちこちへと三毛猫を攻撃することになった。
また、突き刺さった矢と弾かれた矢があった。
「わかった!」
アミカが叫んだ。
ひょっとして攻撃が効くか効かないかの謎が解けたのか?
「私もわかったよ」
ポーションを飲んだアイリーが立ち上がった。
「この猫、羽根があるけど飛べない!」
「うん、それはわかってる!」
「うそ! お兄ちゃんもわかってたの?」
「……わりと早い段階でわかっていたけどな」
三毛猫が翼を羽ばたかせるのは、方向転換をする時だけだ。攻撃は走ったりジャンプしたりして襲ってくる。鳥のように飛んだりはしない。
でもそれは、一回目の攻撃で気づいていた。今さら言うことじゃない。
アミカが気づいたのだって、もっと別のことのはずだ。
三毛猫が僕に向かって突っ走ってきた。
僕は右にジャンプして逃げた。広がっている翼が当たりそうになり、体勢を低くしながら走り過ぎようとする三毛猫に剣を突き出した。ちょうど翼が生えている辺りだ。
剣は、弾かれてしまった。
くそっ! どうなっているんだ?
僕は立ち上がり、通り過ぎていった三毛猫に向けて剣を構える。
「アミカ、わかったことって何? 教えて!」
「……………………」
アミカは黙っている。
黒い翼のバサバサという音が鳴り、三毛猫がこっちを向いた。
「アミカ! 早く!」
「剣は白いとこだけ、魔法は茶色いとこだけにきくから! 黒はぜんぜんきかない!」
「アミカ、それ本当?」
アイリーが驚いている。
「うん、まちがいない」
僕の攻撃を思い出す。
最初の攻撃は三毛猫の腹、白い部分だった。二回目はよく覚えていないけど横からの攻撃だったから、きっと茶色か黒だったのだろう。三回目は翼が生えている部分への攻撃、つまり黒だ。
そういうことだったのか。
三毛猫はまた黒い翼を羽ばたかせ、僕へと飛びかかってきた。僕は三毛猫を見上げ、白い胸を剣で突き上げた。
剣は、深々と三毛猫の胸に突き刺さった。
「フギャアアアアアアアアァッ」
三毛猫が潰れた悲鳴を上げた。
本当に効いた!
剣を抜き、着地する三毛猫に押しつぶされないように回避する。続けてアミカとアイリーが、三毛猫の背中の茶色い部分に目がけて攻撃した。アミカの光の矢は魔法の力でできているから、普通の弓なら狙いはきっと白なのだろうけど、アミカの場合は茶色だ。
アミカの光の矢も、アイリーの炎も、三毛猫にダメージを与えた。
弱点がわかってしまえば、後は簡単だ。
三毛猫は走って突撃するか、ジャンプして襲いかかるか、結局この二つしか攻撃パターンがなかった。
僕たちは狙いを定めた攻撃を続け、三毛猫のモンスターを倒すことができた。
かわいかった頃の三毛猫が座っていたソファ。
三毛猫が巨大化した時に、押し潰されてしまっていた。
その、壊れてしまったソファの残骸の中に、光を放っているものがあった。
僕たち三人で見てみると。
剣だった。
それも、僕に合った、細身の長剣。
拾い上げ、振ってみた。
僕がこれまで使っていたのは、オフィシャルショップで買った剣だ。これでも十分戦える。本物のリュンタルでも使ったくらいだ。でもこの剣は……なんだか手に馴染む。振った時の風切り音も心地よい。刀身がうっすら緑がかっていて、振ると緑の残像がかすかに残った。
僕はこの剣が気に入った。これからはこの剣を使うことにしよう。
◇ ◇ ◇
僕たちは三本の塔を三日間かけて攻略した。つまり、一日で一本の塔の屋上まで行き、モンスターを倒した。三毛猫だけではなく、二日目の豆柴や、三日目のハムスターたちも、最初はものすごくかわいかったのに、その正体は凶暴なモンスターだった。かわいい姿をしていたモンスターと戦うのはちょっぴり戸惑ったけど、モンスターとしての姿が本来の姿で、かわいいフリをして僕たちを騙していたのだと思えば、戦いに集中することができた。
僕たちは三つの戦い全てに勝った。
一日目の剣に続き、二日目にはアイリーが杖を、三日目にはアミカが弓を、それぞれ手に入れることができた。
僕だけでなく、アイリーもアミカも、それぞれ手に入れた杖や弓に満足していた。この塔を攻略したのは大正解で、そして大成功だった。
明日もまた一緒に遊ぼう、そうアミカと約束して、僕はログアウトした。
◇ ◇ ◇
「なんで明日も遊ぼうって言っちゃったかなー……」
ベッドの上で体を起こす。左側は壁だ。いつもの習慣で、自然と右を見る。ゴーグル越しに見えるのは、勉強机。現実世界に戻ってくるたびに、後悔する。
ゴーグルを外した。窓が雨音を鳴らしている。遊んでいる間に、雨が降り出していたようだ。梅雨明けの気配はまだ全然なくて、降ったりやんだりの毎日が続いている。
じめじめするな。夕食の前に風呂に入ってさっぱりしよう。
部屋のドアを開け、廊下に出た。
「くしょんっ」
隣の部屋から、妙な声が聞こえた。
「愛里?」
「……っくしょんっ」
「……愛里、入るよ」
僕は愛里の部屋のドアを開けた。
「くしょんっ」
ベッドの上で、愛里がくしゃみをしている。それに。
「愛里! なんで窓開けてるんだよ! 雨が中に入ってきちゃってるじゃないか!」
僕は慌てて部屋に入り、窓を閉めた。
愛里はボーッと僕を見ている。元気がない。
「うん、ちょっと蒸し暑かったからさ、窓開けてたの。……そしたらリュンタル行ってる間に雨が降ってきちゃっ……くしょんっ」
愛里の額に手を当てた。やっぱり熱がある。
「テスト前の大事な時期だってのに……。すぐに薬持ってくるから、飲んだらおとなしく寝てるんだ。それと、治るまでリュンタルは禁止! いいな!」
「えーっ! やだよそんなの!」
「リュンタル行ったってどうせまともにプレイできないだろ! わかるだろ!」
脳が体の不調を感じている状態でログインすれば、たとえアバターであっても体調が悪く感じてしまう。それはよくあることだ。いくら仮想世界の仮の体でも、脳だけは現実のものだからだ。
「うん……」
「じゃあ薬持ってくるから」
僕は愛里の部屋から出ようとした。
「お兄ちゃん、心配させちゃってごめんね」
背中から、愛里の弱い声が聞こえた。
僕は振り向いた。
「なんで謝るんだよ。心配なのは当然だろ? それに早く治さなきゃ、アミカもがっかりするだろ」
「そうだね。ありがとお兄ちゃん。頑張って早く治すよ」
「いいから横になってろって」
そう言って部屋を後にし、薬を持って戻ってきたんだけど……。
「愛里! なんでブログ書いてるんだよ!」
「あとちょっと! ちょっとだけだから!」
「ダメ!」