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シェエラザード

 最初に断っておくと、今回の話に私は出てこない。私のあずかり知らぬところで発生した物語なのだ。
「物語を買わないか」
 築垣禮音が突然電話営業をかけてきたのは、寒いさかりの頃だった。
「実はある女性に物語を売ってやったんだがね。その物語自体はもちろんその女性のための物語なのだが、どう言うわけか、『その物語を売る時の顛末』が、君が書くべき物語になっていてね」
 お隣に配達する手紙の束に、君宛てが一通紛れ込んでいたよ、というような口調で彼女は言った。妙なことだ。作劇屋は客に対し、その人が書くべき物語しか売らないのは知っているが、「書くべき小説」というのは基本的にその人に関わりの深い話のはずだ。実際にその人が体験した事とか、テーマがその人にぴったりだとか。なぜ他人が作劇屋から物語を買った話を私が書くべきなのだろう。
「こないだ君が私の物語を書いたから、私の話は基本的に君が書くことになってしまったのかもね」
 そんなものなのだろうか。釈然としないがとにかく、築垣禮音から買った物語を語ることにしよう。

 築垣禮音がampmのレジに並んでいるところから物語は始まる。いつものごとくお米サンドを買いにやってきていた彼女は、自分の前で会計中の若い女性を見るとはなしに見ていた。
 女性は終始うつむき加減だった。レジの店員が彼女の購入物、青いカッターナイフを持ち上げ、ハンディでバーコードを読み取った時も、「百五円になります」と告げられた時も、財布から百十円を取り出すときも五円のお釣りをもらうときもうつむいていた。まあ別に良い。客がうつむいていようが笑気ガスでも嗅がされたみたいに上機嫌だろうが、会計が済めば次は自分の番なのは変わらないのだから。そう禮音は思った。
 禮音は一旦出かけるとあちこちで用事を済ませてしばらく帰らない。日の高い時間帯で、作劇屋を訪れる客がいるかもしれなくても、鍵もかけずに外出を続ける。その日もまだ部屋へ帰らずやりたいことがあったので、お行儀が悪いがコンビニ前の駐車場に座って食べてしまおう。会計をしながらそう考えた禮音が駐車場に出てくると、すでに先客があった。
 先ほどレジで禮音の前に並んでいた女性が、駐車場に座ってぼんやりしているのだ。彼女の手には、先ほど買ったカッターナイフが握られていた。手のひらにすっぽり入る小さいものだ。長い刃に幾つも切れ込みが入っていて刃先が欠けたら切れ込みから折って使うようなものではなく、刃先が欠けたら替えはないようなタイプのものだ。
 女性はカッターナイフの刃を出すと、ゆっくりと左手首に近づけていった。
「そんな貧弱なナイフで手首を切って死ねるほど、人の身体はやわじゃないよ」
 その刃が手首に届く前に、禮音が声をかけた。女性はビクッとして動きを止めた。
「そんな小さなナイフでも、頸動脈をすっぱりかき切れば死ねるかも知れんがね、自分の頸動脈を躊躇いなく一気に切れるほど強い意志の持ち主なら、生きることもできるんじゃないかな」
 女性はカッターナイフの刃をしまうと、消えそうな声で「死ぬつもりはありませんでした」と呟いた。
「ただ、死ぬべきなのだろうな、と考えながらコンビニに入ったら、カッターナイフが目に入って、気がついたら手首を切ろうとしていました」
 寒さのせいか、それとも自分のしようとしていたことへの恐怖のせいか、彼女は震えていた。
 ところでこの物語の中で、今後彼女をシェエラザードと呼ぶことにする。本名を書いても支障はないと思うが、物語の登場人物にはそれぞれふさわしい呼び名というものがあると私は考える。彼女がなぜシェエラザードなのかは、物語が進むにつれ分かってくると思う。
 そのシェエラザードに、禮音は自分の名刺を差し出した。サイズは普通だが一目見てその名刺は異様だった。闇を切り取ったように真っ黒なのだ。小さな長方形のその紙片には、黒地に白い明朝体でこう書かれていた。

 作劇屋 築垣禮音

「差し支えなければ聞かせてくれないか。あんたが世を儚んでいるそのわけを。物語を売ることしかできない作劇屋だが、力になれるかもしれない」
 お米サンドの包みをあけながら禮音が言うと、その女性はゆっくりと語り始めた。

「若王子元清という小説家を知っていますか?」
「知っているとも」
 寒空の下、湯気を立てるお米サンドにかぶりつきながら、禮音は頷く。
「売れっ子作家だね。ヴェトナムの建国を描いた歴史小説『ファン・ボイ・チャウとホー・チ・ミン』は読んだよ。ファン・ボイ・チャウが孫文に会ってアジアの未来について語り合う場面は圧巻だった」
「それ、私なんです」
 女性のその言葉は、にわかには信じがたかった。なにしろ――
「若王子元清はTVで見たことがあるが、男性だったぞ。かなりハンサムな」
 若王子はデビュー当時からジャニーズ系のルックスで二枚目作家としてTVに取り上げられていた。デビュー後十数年を経た今はその端正な顔だちに大人の魅力が加わって、本を全く読まない女性の中にも彼の容姿のファンがいるほどだ。彼はその人気ゆえに、『ファン・ボイ・チャウとホー・チ・ミン』が映画化された際に犬養毅役で銀幕デビューしている。
「皆さんがご存知の、あの若王子元清は、小説を書けないんです。二枚目小説家を売り出したいという広告代理店の戦略のために、ゴーストライターが書いた作品を彼の名義で出版しているんです」
 ゴーストライター自体はこの業界では珍しくないが、無名の新人が実績のある作家の名義を借りるケースがほとんどで、そもそも小説を書けない人間を小説家に仕立て上げるケースは聞いたことがない。それに、他にも不自然なところがある。
「しかし、若王子がデビューしたのは十数年前だ。君はその頃、まだ中学生くらいだろう」
 女性はどう見ても二十代だったので、禮音は当然の疑問を口にした。女子中学生に小説家のゴーストライターがつとまるとは思えない。
「私が書いたのは、『太陽帆船漂流記』から最新作までの作品です。その前の『電網上の密室犯罪』は別の方が、それ以前の何作品かはまた別の方が書いているそうです」
「ゴーストライターを取っ替え引っ替えして作品を上梓し続けているわけか。そうすると『ファン・ボイ・チャウとホー・チ・ミン』は、発行時期からいって君が書いたんだね。極めて興味深いな。一体どういった顛末で君はゴーストライターになって、どういう理由で死のうとしてたんだい?」
 禮音の問いに答えてシェエラザードが語った話を要約すると、以下のようになる。

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