毒麦と麦角菌
『毒麦と麦角菌』
そう標題された物語を、その日もシェエラザードは推敲していた。章によってはまだプロットしか書かれていないが、一度は別々の道を選んだ二人の主人公が再会し、善と悪について問答する場面は何度も手を入れている。ここは一字一句たりとも手は抜けない。最高の状態で世に出したい。
小説家になりたいのか、と問われるとよくわからない。とにかくこの物語を完成させ、世に問いたいだけだった。他の物語も書いたが、すべて『毒麦と麦角菌』を書くために必要な筆力を培うための習作として書いた。主人公が一人ではなく二人の人生を描く物語の練習として、ファン・ボイ・チャウとホー・チ・ミンの二人の人物を軸にヴェトナム建国を描いた小説を書いたりもした。そんな、他人から見れば遠回りにも見える努力を重ねながら、シェエラザードはその物語を紡いでいた。
原稿の手を止めて、彼女は先刻買ってきた本を手に取る。今日発売されたばかりの若王子元清の新作だった。
思えば、『毒麦と麦角菌』を執筆するきっかけも若王子元清だった。シェエラザードは思い出す。中学に上がったばかりの頃、学校の図書室で彼のデビュー作、『雪は真白に山嶺を飾る』を読んだ。それまで児童文学しか読んで来なかったシェエラザードは、その重厚な世界観と、人生の意味を問うストーリーに衝撃を受けた。
こんな小説を書きたい。彼女の中に生まれたその衝動は、身を焦がすほど情熱的になっていった。こんな、読む人に感動を与える作品を書きたいという思いは強くあるのに、何をどう書けばいいのかわからない。そのもどかしさに身悶える日々が続いた。
それからの彼女は、いつも若王子元清の新刊を待ちわび続け、新刊が出ると発売日に読み切った。新しい本が上梓されるたびに次第に若王子独特の文体が確立されていったが、時々そういう若王子らしさを残しつつ、全く新しい作風に変貌する彼の小説は、いつもシェエラザードに新鮮な驚きを与えた。
若王子の小説に耽溺しているうちに、いつの間にか自分の書きたい物語が少しずつ形をなしてきた。いつしか彼女は、その物語に『毒麦と麦角菌』という標題をつけた。麦畑に紛れて生える毒麦のように、見た目は人間と区別がつかないが、人間らしい思いやりが欠如しており、平然と人を傷つける少年。そんな少年を嫌悪しながらも、周囲の善良な麦たちのようには生きられず、麦角菌に侵されるように堕落した道におちてゆく少年。そんな二人の半生を描く物語だ。
シェエラザードが今日買ってきた若王子の新刊を読み終わるのに三時間とかからなかった。彼の作品はいつも面白くて夢中で読むためすぐ読み終わってしまうのが、残念といえば残念だった。
特に今回の作品は素晴らしかった。天台宗の最澄と法相宗の徳一との間に起こった仏教の教学上の論争を描いた時代小説なのだが、九世紀の京都や奈良、比叡山の描写は目に浮かぶほど細やかで、緻密に時代考証されていた。なにより驚いたのは、天台教学や唯識などの仏教に関する衒学的な知識がおびただしくちりばめられていることだった。このような衒学的な小説を若王子は今まであまり書いて来なかった。若王子の作風が大きく変わるのは今までも何度かあったが、また彼は作家として新しいステージへ進んだのだ。
その新刊『大白牛車』を愛おしそうに本棚へ納めると、シェエラザードはまた自分の作品の執筆を始めた。
*
彼女の運命が大きく回りはじめたのは、その翌日だった。その日彼女は大学の図書室で最澄や徳一について調べ物をしていた。気づいたら出なければいけない講義を全部欠席してしまっていたが気にしない。仮に留年したとしても、若王子の『大白牛車』を少しでも深く理解したいというこの衝動を我慢するよりはましだ。
ふと時計を見ると夜の七時半だった。お腹もすいているし、今日の調べ物はここまでにして夕食にしよう。そう思ってシェエラザードはカフェテリアへ向かった。
シェエラザードの大学のカフェテリアは午後八時まで営業している。夜学部の学生やら、遅くまで研究を続けている助教やらが、みな一様に押し黙って夕食をかきこんでいた。
そんな客の中に、明らかに学生ではない風体の男がカツレツ定食を口に運んでいた。食べながら時々、横にいる若い女性に二言三言話しかけたりする。話しかけられた女性はサンドウィッチをほおばる手を止め、上品に口を抑えながら何か答える。その男の方に、シェエラザードは見覚えがあった。
歳の頃は四十代前半、オーダーメイドらしきスーツを着ているが、ネクタイはせずシャツの第一ボタンを外している。この人物の服装まで完全一致する姿を、シェエラザードは文芸誌で見たことがある。
「若王子元清先生」
思わず呟いてしまったその声が、どうやら相手に聞こえたようだ。男はシェエラザードの方に視線を向けると、にこりと微笑んで会釈した。シェエラザードも慌てて会釈を返す。
思わぬ邂逅に、シェエラザードはもう夕食どころではない。大学の駐車場でそれとなく出待ちして、夕食を終えて帰る若王子氏に声をかけた。
「若王子先生がうちの大学にいらっしゃるなんて、びっくりしました。私、ファンなんです」
若王子氏は気さくに答えた。
「ここの大学の姫川先生とは、十年来の知り合いでね。研究室にお呼ばれして話し込んでいたら長くなってしまって、凄く腹が減ったものだから、もう大学のカフェテリアでもいいから何か食べてしまおう、となってね」
「『最果てのリストランテ』の若王子先生なら、もっと良いものしか召し上がらないのかと思っていました」
「ひとたび美味しいものを食べようと決めれば妥協なく美味を追求するが、普段は食にこだわりがなくてね。ただし――」
若王子氏は、シェエラザードに向かって悪戯っぽく微笑んで言った。
「誰かをおもてなしするときは、最高の酒と料理を用意する。そして僕はファンを大切にすることに決めているんだ。君さえ良ければ僕のお勧めのバーにご招待して、少し話をしたいんだが、どうだね?」
「えっ?
――でも……」
シェエラザードは躊躇いがちに、若王子氏の隣にいる女性を見やった。この女性が彼の恋人か何かなら、自分はお邪魔なのではなかろうか。
「遠慮はいらないよ。単行本未収録の『最果てのリストランテ』を知ってるなんて、熱心なファンなのだろう? 是非とも一緒にお酒が飲みたいね」
シェエラザードの方でも、若王子氏に逢えたら話したいと思っていたことが山ほどある。『雪は真白に銀嶺を飾る』に、少女だったころの自分がどれだけ感銘を受けたか、最新作の『大白牛車』について、自分なりに史実や仏典を調べて考察したこと、それと……
結局、彼女は若王子氏の誘いに応じることにした。