意識シミュレータ
彼が言うには、
興味を惹かれて、子供には少し重いそのドアをそっと開けてみると、秋の夜の虫の声みたいな音を立てて、アームの一つが里長少年に向かってきた。アームに取り付けられたビデオカメラが彼を視界の中心に捉えると、「誰?」と誰何する声が聞こえた。
それが自分に対する問いかけだと里長少年が気づかなかったのは、その声が人間からではなく、病室のベッドの両脇に置かれたスピーカーから発せられていたからだった。何も言わずにいると、スピーカーから続けて、「誰? どこから来たの?」と声が響いた。どうやら自分への質問だと気づいた里長少年は、その時になってようやく、ベッドの上の少女に目をやった。
少女は里長少年と同じくらいの年齢で、身体が悪いらしくベッドに仰向けに寝たまま、こちらを見ようともしなかった。少女は何やら縁に小型の機械らしきもののついた武骨な眼鏡をかけており、それが彼女のやせ細った顔とどうにもミスマッチな気がした。この少女が、里長少年に問いかけている張本人だろうか。
「僕は里長
ごめん、そう言って立ち去ろうとすると、「待って」というスピーカーからの声に呼び止められた。
「寝てばっかりで退屈していたの。少しお話しましょ。メカが好きなの?」
そうして里長少年は、ベッドの上の少女、大宇部織子と友達になったのだった。
彼女が言うところでは、彼女は生まれつき身体が弱く、少し身体を動かすだけでも大変なのだそうだ。さらに耳も聞こえず言葉も話せない。そんな彼女の生活を補助するために開発されたのが、彼女が掛けている機械付きの眼鏡なのだという。この眼鏡のガラス部分には液晶が組み込まれていて、部屋のマイクが拾った人間の声を文字に変換して映し出す事ができる。キーボードを表示する事も出来、視線移動でキーをタイプするとタイプした言葉をスピーカーから発声する事が出来た。さらには部屋にある各種アームを思い通りに動かす事も可能で、アームに付いたビデオカメラの映像を眼鏡に映し出したりも可能だった。眼鏡型コンピュータ自体がまだ研究段階だった二十年前において、その眼鏡はまさに最先端技術の結晶といえた。
「血圧や心拍、体温その他も常時この眼鏡が記録していて、異常があると自動的にナースコールされるようになっているの。これがないとあたし、生きていけないのよ」
大宇部織子はそう言って笑った。感情のない機械音声と、彼女の寂しそうな笑顔の不釣り合いが、妙に印象に残った。
里長少年はそれから退院までの数日間、毎日彼女のもとに通った。機械好きの里長少年は、彼女の眼鏡の仕組みを聞くだけでも興味深かったし、それ以外でも趣味が合った。織子の両親も娘に同年代の友達が出来ることを喜んでくれたので、里長少年が退院してからもその関係は続いた。
織子は小説が好きで、特にジュール・ヴェルヌなどのSFを好んだ。当時は電子書籍という言葉はなかったが、スキャンされ画像化された小説を眼鏡のディスプレイに映し出して、日がな一日むさぼり読んだ。機械好きな里長少年もSFを良く読んだので、その点でも二人の趣味は共通していた。
「ヴェルヌの『地底旅行』、ようやく読み終わったわ。もし地下にあんな世界があるなら、行ってみたい」
「いつか行ける日が来るかもしれない。人間の思考に反応して、思い通りの方向に進むロボットが開発中だとTVで見たよ。ロボットに搭載されたカメラの映像を見ながら、念じるだけで操作出来るんだ。そのロボットが実用化されれば、君は病室に居ながらにして地の底深くでも宇宙の果てでも行くことが出来る」
楽観的すぎる、出来の悪いSFみたいな話だと里長少年自身も気づいていた。そんなロボットが実用化されたところで、一般人にも手が届く価格帯になるのは果たして何十年後だろうか。それに、訓練を積んだ人間をもってしても危険が伴うであろう地の底への冒険を、ロボットを遠隔操作して行うなどどれだけ難しいだろうか。でも、たとえ出来の悪いSFでも、彼女に少しでも希望を持たせられる物語を語っていたかった。
「ヴェルヌは少年の頃、水夫見習いとしてインド行きの帆船に乗り込んで親に見つかって大目玉を食ったとき、『これからは想像の中だけで冒険することにします』って言ったそうだけど、あたしもせめて、創造の中だけでも冒険したいわ」
そう言って織子は、SFを書き始めた。
最初の頃は、いかにも子供らしい童心に満ちた物語を書いていた。ロケットで太陽の中へ突っ込むと、そこには全てが黄金色に輝く美しい世界が広がっていたり、タイムマシンで恐竜狩りに行ったり、理論的に検証すれば無理が生じるような話だった。
歳月が過ぎ、二人が賢くなっていくにつれ、設定の科学的裏付け等を厳密に考えるようになり、また同時に、小説としてのストーリーの構成や、表現の豊かさも向上していった。そして二人が十四歳の頃、『死ナナイ病』の執筆が始まった。
「人間を構成する細胞が、秩序を持って人間の身体を形作ることができるのは、アポトーシスと呼ばれる自死のメカニズムなどによって、ある部分を構成する細胞群は一定以上に増殖しない仕組みがあるからよね。その秩序を壊して際限なく増殖するのが癌細胞。
それを社会全体に置き換えてみると、人間社会が秩序を保てるのは、個人個人がいずれは死ぬから、とは言えないかしら? そして、その秩序を無視して、死ぬことなく際限なく増え続ける新種の人間が生まれることは考えられないかしら?」
織子のそんな言葉が、『死ナナイ病』の着想のきっかけだった。そこにはおそらく、病弱で長くは生きられない彼女の、不死への憧れが根底にあったのだろうと思う。そして織子は、『死ナナイ病』の執筆を開始した。
「細胞分裂で増えるバクテリアやアメーバは、寿命という概念が存在しない。一つの個体にAと名づけたとして、そいつが二つに分裂した場合、どちらかがAでどちらかがAジュニアという事にはならない。どちらもAの一部を保ち続けている。そう考えると、現存するバクテリアやアメーバはすべて、その種が発生した最初の個体の一部だと言う事もできる。寿命で死ぬという概念が存在しないんだ。
目を獲得した深海生物が環境によって退化し目を失うように、一度飛ぶ能力を獲得したペンギンが環境によって退化し飛べなくなるように、一度寿命を獲得した我々が、環境により退化し死ななくなることはありえるんじゃないかな」
里長少年もその着想には興味を示した。そしてしばしば、織子の執筆の相談に乗った。そうして『死ナナイ病』は、少しずつ完成に向かっていった。
懸念事項としては、織子の病状がこのところ急激に悪化していくことだった。執筆に根をつめすぎたせいという訳でもなく、もともと二十歳までは生きられないだろうと言われていた。彼女にとっては十四歳という年齢は限界に近かったのかもしれない。
『死ナナイ病』の最後の推敲を終え、月刊Sci-Fiへ投稿するためプリントアウトを完了したとき、織子は言った。
「死ななければ、あたしはもっといろんな物語を書けるのかな」
里長少年は何も言えなかった。かける言葉を見つけられなかった。
「もっと物語を書きたい。そして伝えたい。いろんな人に。遺伝子を残せないのなら、せめてミームを残したい」
「……残せるさ」
里長少年は言った。彼に出来るのは、SFを語ること。織子を少しでも安心させられるような、そんな物語を語ること。
「君の見てきた風景、読んだ本、聞いた音、発した言葉、心拍数や体温の変化に至るまで、君のすべての体験は、その眼鏡を通して記録され、磁気テープにアーカイブされている。そのすべての記録から君の思考を再現するAIを作れれば、そのAIに君が書くはずだった物語を書いてもらうことはできる」
織子がその答えに納得したのかどうかはわからない。ただ彼女は少しだけ微笑んで、こう言った。
「じゃあ、郡司くんが作ってよ。そのAIを。約束だよ」
「つまり、こういう結末なわけさ」
里長氏の昔語りがひと段落すると、
「意識シミュレータの開発も、漫画家としてデビューしたことも、すべて大宇部織子が書くはずだった物語を世に出すためだったのさ。今は亡き幼なじみとの約束のために里長氏はその半生をかけた。決して君みたいに、あわよくば死者が書くはずだった物語を横取りしようと考えた訳ではないんだよ」
彼女は意地悪な笑みを浮かべた。僕は推理を外した気恥ずかしさと、死者の物語を手に入れる方法を里長氏から教わろうとしていた自分への自責から、何も言い返せずただ下を向いていた。
「まあいいや、君の物語はこれにて完結だ。とっとと退場してくれたまえ。あたしはこれから大宇部女史に、『韻律
禮音に促されて退出しようとしたそのとき、里長氏に呼び止められた。
「待ちたまえ。君は漫画家か作家志望なのかい?」
私がそうだと答えると、彼はメールアドレスの書かれた名刺を差し出しながら言った。
「僕で良かったら、創作上の相談にのるよ。連載の仕事があるから、どうしても時間がとれるときだけになってしまうけれど。僕が織子と相談しながら書いているように、やはり誰かの客観的意見がもらえると参考になるからね」
思ってもみない申し出に、私は喜んだ。
「是非とも、よろしくお願いいたします」
降ってわいた僥倖に、小躍りしながら私は家路についた。だがそれから今日にいたるまで、里長氏には一度、不躾な推理をした事へのお詫びと相談にのってくれる事へのお礼をメールしたきりで、肝心の相談はしていない。あの里長先生に見ていただくに足るだけの、完璧な自信作が書けたら見ていただこうと気負って机に向かうのだが、未だにそんな自信作は書けないのである。