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7、サヨナラ

「リク……。連れて行かれちゃった」
少女の声は耳ではなく脳に痛いほど響いてくる。玉城は改めて、ひどく荒らされた部屋をぐるりと見渡した。

 心臓が苦しい。目の前にいる、常識では考えられない少女を怖いと思う余裕はなくなっていた。ただあるのは自分へのどうしようもない怒りだ。

 玉城はその家を飛び出した。
 まだ間に合うだろうか。 まだ? ……何に間に合うって?

 走りながら携帯の電源を入れる。思った通り小宮から慌てたように何件もの着信が入っていた。当然だ。玉城は警察というキーワードを出したのだから。あの絵の作者から何か聞いてしまったと思うのが妥当だろう。
 頭の中では回路がフルスピードでパズルを再度組み立て始めていた。少女を殺したのはあの小宮だ。そして小宮はある日、その少女とそっくりな絵を見つける。他人のそら似であるはずがなかった。背景には少女を埋めた場所が克明に描かれていたのだから。
 まさか、見られていたのだろうかと慌てる。描いたのは誰だ? とにかく慌てて絵を買収する。
 自分や近しいものが作者の偵察に回ると足がつく。誰か適当な人間を見繕って探させよう。その絵を描いた人物を。

 頭がズンと重かった。そう言えば、最初あの家に入ったときもそうだったのを玉城は思いだした。自分は“そういうタイプ”の人間だったのだろうか。リクにはそれが分かったのかもしれない。
 彼の「真実」はあまりにも他人に受け入れにくい。これまでどれだけ辻褄の合わない言動で人に眉をひそめられたのだろう。

 次第にいろんな事を嘘で誤魔化すようになったとしても誰が責められるだろう。彼はずっと嘘と真実の狭間を一人で生きてきたのだ。玉城はそんな彼に罵声を浴びせた自分が憎くて堪らなかった。

大通りに出てタクシーをつかまえ、あの街金の事務所へ向かった。
店舗の方は営業時間だというのにしっかりシャッターが閉まっている。リクがそこに居ることを願いつつ玉城は一度通された事のある事務所の裏口に回った。
薄汚れたドアから中に入ると、ごちゃごちゃとダンボールの積まれた通路の向こうの部屋に明かりが見える。

 窓がなく、外からの光は一切入らない。そのため上半分がガラス張りの扉から中の様子がよく見える。
 そっと覗くと、どうやら中に居るのは前に店にいた坊主頭の男だけだった。扉に背を向けて携帯で誰かと話している。

 小宮はいない。リクはここに連れてこられたのではないのだろうか。不安に駆られながら、玉城はその男の会話に耳をすませた。

「……ええ。間違いないですね。俺の顔を見てビックリしてましたから。……だとしたら埋める時しか考えられませんがね。なんであの子の顔を知ってたのかが分からんのですが。……ああ、先に訊いときゃ良かったですか? とにかく車の手配頼みますよ小宮さん。トランクの大きな奴。なるべく急いで」

 坊主頭は時々笑いながら電話の向こうに話している。何が可笑しいのか。笑える材料は何もないはずだ。玉城の胃が吐き気を伴って痛み始めた。最悪の想像を全力でうち消そうとしてみる。けれどさらに動悸は激しくなり手足は冷え、吐き気が増してくる。

 坊主頭は向こうを向いたままだ。玉城はさらに近づいて部屋の中を覗き込んだ。
 ダンボールや緩衝材、カップラーメンのゴミやビールの空き缶などが散乱した汚い部屋だった。

やはり、他に人がいるようすはない。だが坊主頭の口振りでは、彼が誰かを見張ってる風に聞こえた。その人物が見張る必要があるのならまだ救いなのだが……。自分の縁起でもない発想を首を振って吹き飛ばす。
 さらに床の辺りを覗き込んでみた。その瞬間、玉城は背中に電気を流されたように体を震わせた。

 人がいる。事務机の下に横たわっている。
 肩から上しか見えない。しかも向こうむきに俯せになっているので顔はわからない。けれどあの特徴のあるくせっ毛。
 玉城の心臓がドクドクと大きな音を立てはじめた。体中が痺れていく。

 動かない。横たわる体は少しも動かない。体はさらに冷えていくのに嫌な汗がじっとり全身を覆う。
―――助けなければ……。でも、どうやって? そうだ、電話。
 玉城は震える指でここの店舗の番号を押した。

 店の方で電話がコールを始める。かなり音量が大きく設定されているらしくフロア中に響いた。
 坊主頭はそれに気付いて面倒くさそうにいったん部屋を出ると店の方に歩いていった。しばらくして玉城の携帯に坊主頭の声。
「はい、グリーンライフローン」
「あ……玉城です」
「ああ、先程はどうも。社長があなたを探していましたよ?今どこに?」
 少し声が警戒を含んでいる。
「それなんですが、大切なお話があります。今すぐあの画廊の向かいのコーヒーショップまで来て貰えませんか? 5分以内に」
「今から?」
「はい。あなた達にとって大切な話です」
 かなり含みを持たせた言い方をしてみた。坊主頭の息を呑む音。玉城にはうまくいく確信があった。

 坊主頭は少し慌てた様子で携帯に連絡を入れるとバタバタと裏口から外に出てガチャリと鍵をかけた。激しいバイクのエンジン音がしばらくして聞こえてきたが、そのあとは嘘のように静まりかえった。
 時間はない。玉城は急いで目の前の部屋に滑り込んだ。
 
 机の下に、彼は横たわっていた。うつぶせ気味の横顔は青白く、唇も、閉じた瞼もピクリともしない。玉城の鼓動は更に激しくなる。

「リク……」
 呼んでも反応がない。恐る恐るその肩に、震える手を伸ばす。

 その肩が冷たかったらどうしよう。最悪な想像ばかりが玉城の頭の中をいっぱいにし、舌が痺れていく。
 まさに玉城の指がその肩に触れそうになった、その瞬間。その体がぐらりと揺れ、玉城の出した手をリクの手が力強く掴んだ。
「ぐっ、あっ!!」
心臓が縮み上がり玉城は思わず声にならない叫び声を出した。その反動で後ろに反り返り、壁にしたたか頭を打ち付ける。
「くっ……ふふ」
 玉城の手を掴んだまま、リクは堪えきれないように体を折り曲げて床の上で笑い出した。
「え……、あ……? えええっ?」
 声にならない玉城。口をぽかんと開けたまま、可笑しそうに笑っているリクを呆然と見つめた。
「ごめんごめんごめん。そんなに驚くとは思わなかった」
 リクはゆっくりと起きあがり、逆に壁に妙な格好で貼り付いている玉城を助け起こす。そして言葉が出てこない玉城に顔を近づけてニコリと笑った。

「来てくれたんだね。ありがとう」
 小さな子供が喧嘩の後、仲直りする時に照れて笑う。そんな笑顔だった。
「……リク」
 涙声の玉城に、またクスクス笑う。
「リク、俺……あの……」
「もういいから。 さあ、行くよ。脱出」
 玉城の言葉を遮り、リクはその腕を掴むと立ち上がった。

「あ……うん」
 いったいどちらが助けに来たのか分からない。
 二人は急いで部屋を抜け出すと、さっき坊主頭が出ていった裏口から難なく外へ飛び出した。
 遠くからバイクの音がする。一瞬二人は体を強ばらせたが別のバイクだった。
「こっち」
 ホッとする暇もなく大通りと反対方向へ二人は路地を抜けて走った。

 レトロで洋風なイメージのある大通りから筋を二つ三つ入ればもう、古びた雑居ビルや飲み屋が並ぶ商店街だ。リクは時折玉城を振り返りながらも、何処までも走り続けた。

いい加減心臓が持たないと思った玉城はリクを呼び止めた。もう、ここからはタクシーで逃げよう、と。リクは息を弾ませながらやっと立ち止まり辺りを見渡している。
 綺麗に整備された並木道。商店街。遠くにはポリボックスも見える。
ああ、本当だね、とリクは笑った。大きく息を吸い込み、そしてゆっくり吐き出す。

「本当に、大丈夫だった? 何かされてない?」
まだ息を弾ませながら玉城が心配そうにリクに聞いた。
「うん、平気。クロロホルムだから」
「え?……クロロホルム?」
「ドラマの見過ぎなんだよ。知ってる? あんなの全然効果ないんだ。実験用のカエルだって眠らせられない。本当に気絶させようと思ったら十分以上はかかるんだよ。実用的じゃないよね」
「え? そうなの?」
「うん。でも気を失ったふりしてたけど」
 リクはほんの少し口角を上げる。
「僕、嘘つくの得意だから」
 玉城の心臓がドクンとはねた。

「リク、ごめん……おれ」
「もういいって言ったろ」また遮る。
「僕、楽しかったよ。玉ちゃんに会えて」
「え?」
「初めてだったよ。もしかしたら通じるかな、って思った人」
「……」
「ありがとう。来てくれて嬉しかった。やっぱり玉ちゃん、いい人だったよ」
 リクはニッコリと笑って続けた。

「でもここでバイバイしよう。元気でね」
「え? ……いや、送るよ」
 突然のその言葉に玉城は慌てた。

「いいよ。もう、あの家には帰らない」
「帰らない?」
「バイバイ、玉ちゃん」
 そう言うとリクはくるりと背を向けて足早に歩き出した。もう振り向きもしない。並木の間をするりと抜けて、もうその影はすぐに見えなくなった。あっけないくらいに。けれど追うことも出来ない。

 きっぱりと差し出されたサヨナラ。玉城は息を思い切り吸い込み、力一杯声を振り絞った。

「リク! あの女の子に遭ったんだ! 君の言ったこと全部本当だった! 全部正しかった。俺は……。俺は全然いい人なんかじゃない!」

 最後は声が詰まって消え入りそうに小さくなってしまった。道行く人が不思議そうに玉城を見て通り過ぎていく。けれどそんな事はどうでもよかった。ただ、リクに届けばいい。そう思った。

『そっとしとかないと、すぐに何処かに飛び去っていく鳥みたいなもんですよ』

 バサバサと羽音が聞こえた気がした。嘘をついて身を守ってきた臆病な鳥。


―――俺は、勝手にテリトリーを犯した。

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