8、超える
警察には匿名で通報した。
散歩の途中偶然に人骨らしいものを発見したと。それだけ言って電話を切った。日本の警察は優秀だった。すぐにそれはニュースになり、あの街金の老人と部下に繋がった。
少女はその遠縁にに当たる子供で、身寄りを亡くしてあのビルに身を寄せていたらしい。どうして殺されたかは取調中だと報じられたが、玉城はそんな事知りたくもなかった。
日本の報道は知らなくていいことまで伝えすぎる。本当に知らなきゃいけないことは置き去りにされる。
玉城はテレビを消して携帯のメールを確認すると、マンションを出た。気持ちのいい快晴だ。
あれから1週間。あの日を境に呪縛が解けたようにポツポツと仕事が舞い込んできている。契約しておいた事務所との相性が良かったのかもしれない。
とは言っても仕事が動き出すのはもう少し先であり、当面は良くも悪くも本当のフリーだった。
ぶらりと路面電車に乗ってみる。ヨーロッパ調にデザインされた賑やかな大通りに差しかかり、あの画廊の横を滑り抜ける。
「……あ!」
思わず声を出して立ち上がり、玉城は降車ブザーを押した。『あの場所』に見覚えのあるタッチの美しい色彩があった。
慌ただしく料金を払い路面電車を降りて、来た方角へ走り出す。
息を切らせてその画廊にたどり着くと、玉城はガラス窓に貼り付いた。そこにはあの独特の光に溶けるような色づかいの美しい絵があった。
翼を今まさに広げて飛び立とうとしている真っ白い水鳥。繊細でガラス細工のようだが凛とした気迫。絵の隅には小さく「MISAKI」と書かれてあった。
リクはまだ居るのかもしれない。あの家で、まだ描いてるのかもしれない。心臓がドクンと大きく疼いた。
息が苦しくなるほど走った。公園を抜け、緩い勾配のあるケヤキの坂をのぼる。
ザワザワと風が抜けて行った。テラコッタの屋根。白い壁。あの古い家が見えてきた。
息を切らせて扉を開けた。窓からそっと覗くこともノックすることもせずに。彼なら怒らずに、少し呆れたように笑って許してくれるに違いない。
けれど、何もなかった。そこはガランとした、ただの古びた部屋だった。
テーブルも椅子も少しばかりの生活用品も、そのままそこに残されていたが、まるで生活感の感じられない空き屋と化していた。胸が苦しくなった。ぐるりと部屋を見渡す。
奥にある小部屋のドアが開かれたままになっている。キャンバスや絵の道具がいくつか残されたままになっていた。
初めて会ったときにここに運んだ荷物。あれはキャンバスだったんだと今更気がつく。込み上げてくるのは何だろう。ぽっかりと穴の開いたような虚脱感。
ふと、パイン材のテーブルの上に何か置いてあるのに気がついた。メモのようだ。ゆっくり近づいて手に取ってみた。
《探さないでください》
玉城は思わずクスッと笑った。
いったい誰に宛てて書いたものなのか。友達だろうか、それとも大家? 子供の落書きのような字だった。
そのメモをじっと見つめて玉城は独り言のようにつぶやいた。
「ちゃんと謝ってないのに、ずるいよ」
そして溜息をつく。
《 ……会いにいく?》
声がした。
「え?」
慌てて周りをぐるりと見渡す。
《彼のところに連れて行こうか?》
あの少女が机の端に座ってこっちを見ている。
「……探さないでって書いてあるよ」
玉城は少しだけ笑って見せた。もうその、実体のない少女への恐怖心などない。自分もとっくに境界線を越えたのだと思った。
《リクはね、嘘つきなのよ。知ってるでしょ?》
少女がニッコリ笑った。
「うん、知ってる」
玉城も笑い返す。
《あなたに書いたのよ。ずっと悩んで、それだけ書いた》
「……」
突然玉城の携帯が鳴った。着信を見たが、知らない番号だ。少し警戒して電話に出てみた。
「……はい」
『あ、玉城さん? 玉城さんね?』
聞き覚えのある、太く力強い女性の声が響いてきた。
「あ……長谷川さん?」
『そう。覚えててくれてありがとう。突然だけど、あなた今、暇?』
「ひまっ……て、何なんですか、いきなり」
『仕事の依頼よ。あなたライターでしょ?』
「はい! 仕事……ですか?」
『あいつの記事を書きたいのよ。今度こそちゃんと。上司がノリノリでね』
「あいつ?」
『リクよ。ミサキ・リク。あなた彼が何処にいるか知ってるんでしょ? 親しそうだったし。彼の作品が今絵画愛好者の間で話題になってるのよ。これを逃す手はないわ。彼には一度了解を得てるんだし、あなただったら断らないと思うのよ。正式に依頼するから。引き受けてくれるわよね』
「……ぼくが追いかけるんですか?」
『嫌なの?』
「いえ……」
玉城は側でじっと小首をかしげてこっちをみている少女をちらりと見た。にっこりと笑う少女。玉城は安心して一つ息を吸い込んだ。
「はい。依頼をお受けします」
電話を切ると玉城はもう一度少女を見た。思わせぶりに少女はフワリとスカートを揺らす。
《そうね、教えてあげてもいいけど、一つお願い聞いてくれる?》
「おねがい?」
《そう。青いリンゴ、ほしいな。ちゃんと綺麗に剥いたのが》
「あ……青いリンゴ?」
《うん、だめ?》
少女は少し心配そうに玉城を見つめる。玉城は思い出した。あの日の、青リンゴ。
「ああ……そうか」
玉城はこらえきれずに笑い出した。そして、どうしようもなくリクに会いたくて仕方なくなった。
「ああ、いいよ。何個でも剥いてあげる。だから教えてくれる? リクの居るところ」
うそつきで、臆病で、へそ曲がりな、やさしい鳥に。
どうしようもなく、会いたくなった。
了