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4、展開

『彼は、そっとしとかないと何処かに飛び去ってしまう、鳥みたいなもんです』

 画廊のオーナーの声が脳裏に浮かんだ。
 このドアを開けたら、あの嘘つき鳥は気を損ねて飛び去ってしまうだろうか。

 玉城は年代を感じさせる真鍮のドアノブに手をかけた。思った通り鍵などかかっていない。ドアはキイと微かな音を立てて開いた。

 ハッとしてリクがこちらを向く。ドアから飛び込んで来た光に眩しそうに目を細めた。

「鍵、かけないと。不用心だよ」

 玉城はさりげなくそう言うと部屋に入って行った。

 こんな偶然があるだろうか。
 そう思う反面、玉城は不思議と全てのピースが収まったようなしっくりした気分だった。


「玉ちゃん以外に、そこから勝手に入ってくる人はいないよ」

 リクは長年の知り合いのように部屋に入ってきた玉城に微笑んだ。怒ってはいないようだ。

 初めて来た時に玉城が気がついたあの特殊な臭いの正体がこれだったのだ。油絵の具のオイルの臭い。

 リクはそれ以上玉城を気にとめるでもなく、ゆっくりと筆を動かした。
 キャンバスの上では深い青を基調とした背景に、あの少女がやはり寂しげな様子でたたずんでいる。

 アングルが前と違うが、背景の雑木林の様子も、見え隠れする遠くの建物までリアルに描き込まれている。
 実際にある場所なのか、想像上の景色なのか、玉城にはもちろん分からない。

「手、まだ痛む?」
 聞きたいことがありすぎて、何から手を付けていいか分からない。
「平気」
 ぽそりとリクが答える。

 取りあえずバードウオッチングの必要が無くなった事と、借金から救われるであろう事の安心感で、玉城は開放感に満たされた。
 それと同時に、目の前の、このつかみ所のない青年への興味が溢れてきた。

「絵描きさんなんじゃない。ピアニストでもフォトグラファーでもなく」
「そんなこと言った?」
「言った」
「絵は……ただの趣味だよ」
「それも嘘だよね。『MISAKI』さん」

 その言葉にリクは一瞬手を止め、色の薄い琥珀の瞳で玉城をじっと見た。
 玉城はその表情が可笑しくて思わず笑ってしまった。

「ああ、そこの画廊でそれと同じ女の子の絵を偶然見かけてね。綺麗な絵だったんで覚えてたんだ。まさかリクの絵だなんて」

「ああ、……そう」
 リクは少し笑ってまた手を動かし始めた。

「その絵の女の子は知り合いなの? 綺麗な子だね」

“この絵の作者を見つけても決して自分から話しかけないでくださいね。”
 田宮の言葉を思い出したが、まるでリクは危険な臭いはしない。

 それどころか、なんとなく彼の側にいると気持ちが落ち着く。
 玉城はわき上がってくる好奇心に任せて聞いてみた。けれどリクはその問いに答えない。

「モデルとかいるの? それとも、ただ、イメージ?」
 しつこくもう一度聞いてみる。

 しばらくリクはじっとキャンバスを見つめていたが、やがてゆっくり首だけ玉城の方に向けて小さく言った。

「信じてくれる?」

「え? なに?」

「玉ちゃんなら、信じてくれるかな」

「だから、なにを?」

 玉城が眉間にしわを寄せリクを見つめると、リクは少し躊躇う様子を見せたが、やがて決心したように口を開いた。

「彼女、とてもしつこいんだ。ほとんど毎日僕の所に来て、描いて欲しいって言う。
……他に行くとこがないんだろうから、しかたないんだけど」

「え? ここに来るの? いつ? 昼間?」
 思わず玉城の声が裏返った。興奮して頭皮がゾワリと粟立つ。

「早朝の時もあれば、深夜の時もある。……夜が多いかな。そんな時、僕は一晩中彼女に相手をさせられるんだ。僕の中に入ってきて、寝させてもらえない」
 玉城はショルダーバッグを落としそうになった。

「な……何の話してんだよ。17、8の女の子だよ? そんなわけないでしょ。ジョーダンはいいから。で、……その子はどこに住んでるの?」
 少しばかり腹を立てながら玉城は先を促した。くだらない冗談はスルーするに限る。

「住んでる所はわからない。体はもう無いから」

「……は?」

「ここに来るのはいつも魂だけだから。その子の」

 リクは玉城の目をじっと見ながら、何気ない会話を交わすような口調でさらりと言う。
 そんな真っ直ぐな目で嘘をつく人間を玉城は知らない。けれど、とうてい信じられるわけもない。いったい、何のつもりなんだろう。更なる苛立ちが蘇ってきた。

「幽霊だってこと?」

「そういう言い方のほうが近いかな」

「近いかな……て、それを信じろっていうの?」

「信じなくてもいいよ、別に」
 リクは急に子供のようにムッとした顔をして、洗筆油に筆をポンと投げ入れた。

「そっちが聞くから答えただけだろ」

「そりゃそうだけど、普通むりでしょ。常識的にさ。笑えないし。俺、その手の話、だめなんだ。悪いけど」

 リクはじっと真っ直ぐキャンバスを見つめたままだったが、やがて少しうつむいて、フッと自嘲気味に笑った。

「普通、とか、常識、とか、その手の話、とか……」
 そして、ゆっくり玉城を見た。

「子供の頃からずっとそんな目で見られてきたからもう慣れてる。いいよ。でも、玉ちゃんにはあの子が見えるかと思ったんだけどな。……何か、僕と同じニオイがしたから」

「同じニオイ? 俺は霊感とかまるで無いよ。変なこと言わないでくれって」

「それは玉ちゃんが気がつかないだけだろ?」

「どうしてそう言えるんだよ」
 あまりしつこく食い下がるので玉城も少しムキになった。

「だって玉ちゃん、見たじゃないか」
「何を!」
「幽霊を」
「何言ってんの。いつだよ」
「僕たちが出会った日だよ」
「は? あの日何を見たって言うんだよ」
「僕を追いかけてきたスーツの女、見たんだろ?」
「スーツの女?そりゃあ見たよ。だけどそれがどうしたんだよ」
 玉城は眉間に皺を寄せてリクを睨んだ。

 しかし、すでに背中がゾクゾクし始めている。とてつもなく嫌な予感。リクはニヤッと笑って玉城をチラリと見た。

「ほらね……玉ちゃんも見えるんじゃないか」
 玉城の全身にぞぞぞっと悪寒が走り抜けていった。

「そ……そんな……あの女が?」
 全身から今度はじわりと嫌な汗が出てきた。けれどリクはもうその話に興味を失ったように前を向き、キャンバスに細い筆を走らせた。

 絵の中の少女の栗色の髪に艶やかな光が宿る。今にも何か語りかけて来そうな少女の唇、頬、瞳……。

「……もう、その子は死んでるってこと?」
 玉城は恐る恐る聞いてみた。

「そうだと思うよ。詳しい事情は何も聞かないから、彼女も何も答えないけど。僕は彼女が見せる映像をただそのまま描いてるだけ」
 リクは抑揚のない声で言う。そんな事ってあるだろうか。玉城は混乱する頭を整理出来ずにいた。

 少女は死んでいる。霊となって現れたところを描かれた。どうやってそんな報告を小宮にすればいいのだろう。いや、報告するべきなのかも疑問だ。知らない方が幸せだということもある。

「玉ちゃん」
 考え込んでいるところを呼ばれ、玉城はビクリと跳ね上がった。

「え?」
「もう少しここに居てくれる?もうすぐ彼女、来ると思うんだ。一人じゃ怖いから、玉ちゃんも居てくれる?」
 リクが真顔で玉城を見て言った。

「…………あっ、……あの、いや、オレちょっとね、まだ仕事の途中なんだ。悪い! ごめんね。また来るから。がんばって!」

 リクに目を合わせたまま玉城はじりじり後ずさる。

 今日は絵の道具やキャンバスが床に無造作に置いてあるのでそれらに何度も躓き、転けそうになりながら玄関ドアまで辿り着くと、玉城は出来るだけ大きな声で「じゃあ!」と叫び、振り向きもせず外に飛び出して行った。

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