3、探る
あの絵の作者『MISAKI』が来るまで、通りの反対側のカフェで見張る。なんと非効率的で気の長い仕事だろう。元より玉城はその人物の顔も知らないし性別さえも分からない。
ネットで検索してみてもそれらしい情報にヒットしない。あるいはMISAKIというのが通称ではないのだろう。
徹底した秘密主義なのか、それともプライベートを知られると困る事情があるのか。
玉城は取っ掛かりとして画廊のオーナーを当たってみることにした。田宮は失敗したが、自分になら何か情報を提供してくれるかもしれない。仕事柄、取材をすることも結構あったし、他人と打ち解けることは得意だった。
画廊は平日の昼間だということもあってか客は一人もいなかった。
玉城は静かすぎるその空間をぎこちなく歩きながらあの作者のイニシャルの入った絵を探してみたが、見当たらない。展示してあったのは小宮が買った、あの一枚だけだったのだろう。
「ミサキ? 彼の事をお調べですか」
画廊『無門館』のひょろりと背の高いオーナーは、四角いメガネをずらしながら、玉城を見た。
「先日も彼の事をかなり詳細に聞きに来られた方がいらっしゃいましたが、実のところ画家との契約で、個人的情報はお教えできないことになってるんです」
「画家ってそんなに慎重なものなんでしょうか。……あ、いや全然こっち方面の事は分からないんですが。でももっと、ほら、個展やったりして積極的に名を打って売り込むもんだと思ってたから」
「ええそりゃあそうです。普通はね。でもあの人はちょっと……その。変わり者なんです。どちらかというと私が彼の絵と才能に惚れて、無理やり描いてもらってるようなもので。昨日売ってしまった絵だって、本当は私が買い取るつもりで置いておいたんです。けれど、熱心な紳士に落とされてしまいました」
たぶんその紳士は田宮が雇った代理人だろう。
「僕もなんです。あの女の子の絵、一目見て惹きつけられて忘れられなくなって」
相手のペースに乗る前に、何とかして取っ掛かりを掴まなければ、と玉城は食い下がった。
「どうしてももう一度近くでちゃんと見たくて、今日来たんです。到底買える値段じゃないとは思ってたけど、やっぱり売れてしまってるのを見たら、なんかガッカリで……。せめて作者の事がわかったらな~なんて思ったんです。すみません。ネットで調べても分からなくて」
本心と、わずかなウソを混ぜ合わせて食い下がる。嘘をつくのは大っ嫌いで、頬の筋肉が少し引きつるが、とにかく早く仕事を終わらせたかった。
「そうでしょうとも。本当に良い絵を描くんです」
思いがけずオーナーは深く頷いて玉城の言葉に答えてくれた。
「あの少女の絵はいいでしょう? 本当に手放したことを後悔しました。最初に欲しいと言って来た老人は、絵の良さをまるで理解していないのに、ただ『譲ってくれ』ってしつこくてね。作者の事をやけに聞きたがるし、私もちょっとへそを曲げてしまって、その方には丁重にお断りしたんですが、結局、別の紳士に買い取られてしまいました」
最終的にはその絵、田宮老人の手に渡ったんだけど……、と玉城は少しばかり気の毒になりながらオーナーに頷いた。
よっぽどオーナーはそのMISAKIの絵に惚れているのだと、しみじみ伝わってくる。これは一筋縄ではいかないかもしれない。
「実際のところ、彼が人物画を描くのも珍しいし、背景がやけに写実的で今までの作風とは違っていたんでね。画風を変えたのかと私も訊いてみたんですが、あの絵に関しては一切、何も答えてくれませんでしたよ」
「長いお付き合いなんですか? MISAKIさんとは」
「やっと最近です。彼をつかまえられたのは。画廊が生き残るには如何に新しい才能を見つけ出し、発掘するかですからね。粘りましたよ」
「人気ある画家さんなんですか?」
「ええ、そりゃあね。寡作だから彼の作品を待っている愛好家は常にしびれを切らしてます」
「……ごめんなさい。絵画については本当に疎くて。ちょっと残念だけど、そういう事ならオーナーから彼の事を訊くのは無理っぽいですね。そういう……なんていうか、人見知りの芸術家って、僕も仕事柄何人か知ってますし」
オーナーはニコリとした。
「彼は一度逃がしたら手に入らない。そっとしとかないと、気を損ねてどこかに飛び去っていく鳥みたいなモンです。私は嫌なんですよ。その鳥を逃がしてしまうのが」
「鳥……ですか」
芸術家と言うものはそんなに気難しいものなんだろうか。ともかく、この調子では住所なんて聞けるはずもない。
玉城はオーナーのしたたかな笑みを見ながらそう思った。
結局、男性であることと、かなりの変わり者でありことしか分からなかった。
足取りも重く画廊を出た玉城は、通りを挟んだ斜め向かいに手ごろなコーヒーショップを見つけ、立ち寄った。テラスもあるし、見張るにはちょうどいい。少し救われた。
ガレージもよく見えるし、車で絵の搬入に来る人物がいればチェックできる。駆け寄って声を掛け、その反応を見極めることくらいは出来そうな気がした。
気の長い話だが、明日からは探偵ごっこ……、いや、バードウオッチングと行くか。
玉城は気乗りのしないまま、ひとつ深呼吸した。
***
ある程度予感はしていたが、やはり次の日も、その次の日も、その画廊に『MISAKI』は来なかった。
さすがに常に張り込むことは不可能だったし、彼が絵を持って訪れるのは営業時間以外の可能性も大いに考えられる。
いやもしかしたら絵の搬入というのはもっと高尚に、専門の配送員が持って来るものなのかもしれない……と、様々な不安が頭をよぎる。
彼のために開けてあるという、ガラス越しのあのスペースには今日も何も飾られていなかったし、見逃してしまった可能性は低いと思われたのだが、この仕事、成功しそうな予感がしない。
今日も日がな一日、向かいのテラスに座って玉城は何倍もコーヒーをお代わりした。そのうち胃炎になるかもしれない。
近いうちに連絡を入れると言ってくれた出版社からの話もさっぱりだった。グルメ月刊誌が廃刊になったのは仕方ないが、それでハイサヨナラとは冷たすぎる。一緒に回ったフォトグラファーはすぐに別の仕事が付いたと知り、それも何だか気を滅入らせる。
―――フォトグラファー……。
そう言えばあの偽フォトグラファーはどうしてるだろう。連絡もない。
手は大丈夫だろうか。ちゃんと仕事に行けてるのだろうか。
そう思った瞬間、ナイフを落とした時の映像が浮かんできた。玉城は咄嗟に立ち上がる。
まだ手の具合が悪くて、うまく仕事ができないなんてことはないだろうか。もしそうだとしても、あの青年は玉城に連絡を寄越したりはきっとしないだろう。
玉城はセルフのトレーをあわてて片づけると、あの家を目指して足早に歩き出した。
風が動き出した。
朝から雲で覆われていた空はゆっくりと青空を覗かせ始め、ケヤキの緑の隙間からは心地よい木漏れ日が揺れる。テラコッタの屋根。白いペンキの剥げかかったあの古い家が見え始めると、何故か心がゆったりと落ち着いて行くのを感じた。
今、変更線を越えたのかもしれない。
辺りは小さな小鳥のさえずり以外は何も聞こえない。多少罪悪感はあったが、玉城は前と同じようにカーテンも何もかかっていないガラス窓から、中をそっと覗き込んだ。
雲の切れ目から差し込む光の筋がくっきりと部屋の中を照らし出し、中にいる人物を浮かび上がらせた。
ざっくりとした大きめの真っ白い半袖Tシャツとジーンズだけの姿で、彼は斜め向こうを向いて立っていた。
左手は下に垂らし、右手をゆるく前方に付き出している。右手首には白いサポーター。けれど、玉城をドキリとさせたのはその先にあるものだった。
リクの手に緩く握られているのは筆。そして、その先にはイーゼルに立てかけられた一枚の絵があった。
アングルこそ違うがそれは彼が交差点で惹きつけられ、小宮老人が不安そうに見せてくれた、あの少女の絵だった。