バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

2、依頼

 翌日、グリーンライフローンに顔を出した玉城は、小宮が出してきた油絵を見て驚いた。

「え……、この絵ですか?」

 目の前にあるのは、ちょうど昨日、ここへ来る途中の画廊で見かけた少女の絵だった。
 光に溶けそうな日だまり色のワンピースを着て、何か語りかけたそうな、憂いを帯びた目をして林の中にたたずんでいる。

「この絵昨日見ましたよ。この近くの画廊で」
 興奮気味に言う玉城に、小宮は悲しそうな笑顔を浮かべて頷いた。

「私はこの絵を見た時、震えが来るくらい驚きましたよ。すぐに購入したかったんですが画廊の主人が、これは売る予定じゃないなんて馬鹿げたことを言うもんだから……。
商売柄もめ事は極力起こしたくないし、知人を通して今日やっと手に入れたんです」

「え……っと、で、この絵がどうかしたんですか?」
 玉城の質問に小宮は声のトーンを更に落として続けた。

「この絵に描かれている女の子なんですが、私の古い友人の孫娘にそっくりなんです。その子は一年前に家出したんですが、まだ見つかっていなくて」
「家出ですか?」
「ちょっと親ともめて飛び出して、それっきりだそうなんです。それはもう友人は心配してましてね。事件に巻き込まれたんじゃないかとか、悪い奴に捕まってるんじゃないかとか……。私には孫はいませんが、気持ちは痛いほどわかりますし、何か協力出来ないかと思ってたんです。そこにこの絵でしょう?」
「でも、他人のそら似かも知れませんよ?」
「そうです。その可能性もあるから内密に調べたいんですよ。あなたにはこの絵を描いた人物の居場所を捜してほしい」
「え? 捜す? だって、画廊のオーナーに聞いたらいいじゃないですか」

「それがまるっきり教えてくれないんですよ。画家本人が秘密主義みたいで。あまりしつこく聞き出そうとしたことをオーナーにしゃべられて、その画家に警戒されてもまずいですし。……あ、いえ、その画家が女の子をどうこうしてるとか、そんな風に思ってる訳じゃないんですが、やっぱり話くらい聞きたいじゃないですか。
それでね、近いうちにまたその画家が絵を搬入してきてくれるって事だけは聞きつけたんです。その時がチャンスかと思うんですよ」

 玉城はゴクリと息を呑み、絵を改めてじっと見つめた。絵の右下には小さく簡略化したアルファベットのサインがある。かろうじて《MISAKI》と読みとれた。
「僕はその画廊を見張るわけですか? MISAKIという人物が現れるまで」
「そうなります。住所までは無理でも、どんな人物なのか突き止めて欲しい。……嫌ですか? 借用書の破棄という条件では」
「いえ、やらせていただきます」
「ありがとう。感謝します」
 小宮は人の良さそうな顔でニコリと笑った。

「ああ、それから玉城さん、この問題はデリケートですので絶対他言はしないでください。友人にも白黒つくまで内緒なんです。
そして、画家がどんな人物なのか分かったら写メしてすぐに私に連絡をください。決して探していることなどを悟られないように。あなたに何かあったら大変だから」
「わかりました!」

 小宮の言葉に、身の引き締まる思いがした。これはかなり真っ当なバイトではないか。少しばかり危険な匂いはするが、れっきとした人助けだ。
 玉城はもう一度その少女の絵をじっと見つめ、胸をなで下ろした。

***

 小宮の事務所を出ると、取りあえず玉城はあの画廊の方向へ足を向けた。
 昨日は自転車だったが、歩いてもそんなに時間はかからない。あの画廊を常に見張っておかなければならないとなると、監視ポイントの有無も確認しておきたい。今すぐ貼り付く必要も無さそうだが、他にすることもなかった。

 そう。金は無いが時間はある。金を返せない負い目もある。まったく自分はこの仕事に打ってつけの人材なのだと改めて思った。

 画廊へ向かう歩道を歩いていた玉城はふと足を止めた。リクとぶつかった曲がり角に差し掛かったのだ。
 そういえば、彼はどうしているだろう。サラリーマン風では無かったが、どこかに勤めているはずだ。本当に手首をひどく痛めていたとしたら、仕事に差し支えるのではないだろうか。負い目という点では、リクに関しても同じだ。幸か不幸か、時間はたっぷりあった。
 玉城はくるりと角を曲がって、あの家のあった方角へ歩き出した。

 ―――何故だろう。
 楽しい訪問であるはずはないのに、気持ちが次第にゆったりと落ち着いていく。

 両脇の街路樹が昨日と同じ、玉城を誘うようにサワサワと揺れる。車とも人ともすれ違わない小路。静かな住宅街。木漏れ日を浴びながら進むと、あの古い一軒家がポツリと現れた。
 幻ではなかったんだと、ほっとした自分が妙におかしい。幻であるはずはないのに。

 今気がついたがドアホンがない。ドアの横に木枠の窓があるが、カーテンもブラインドもかかっていなかった。覗いてもいいのだろうか。少し躊躇したが、玉城はそろりと中を覗いてみた。

 彼はいた。
 斜め後方からなので表情は見えなかったがテーブルの前で果物ナイフを握り、ボーッとしている。

 テーブルの上には青いリンゴが1つ。
 しばらく青年はじっとしていたが、何となく渋々と言った感じでリンゴを手に取ると、右手に持っていたナイフでゆっくり皮をむき始める。けれどすぐに彼はそのナイフを足元に落としてしまった。
 あ……。

 居ても立ってもいられなくなり、玉城は素早く玄関に回り、慌ただしくドアをノックした。けれどシンとして何の反応もない。聞こえないはずはないのに。
 再びトトトトトンと慌ただしくノックする。

「こんにちは!新聞屋です!」
 わざとらしく大声で言ってみた。今度はガチャリとドアが開く。
 柱にもたれかかるようにしてリクが顔を覗かせた。人形のように無表情だ。
「間に合ってます」
「サービスしますから」
 そう言うと玉城はリクの横をすり抜けて勝手に中に入り込んだ。土足でいいというこの家の造りが「壁」を感じさせない要因なのかも知れない。
 玉城は自分でも不思議なほど当然と言った感じでテーブルに近づくと、リンゴを手に取り、ナイフで皮をむき始めた。

「手、痛むんでしょ? 俺、連絡先、渡したよね」
「なんともないよ」
「そんなとこで何でウソつくんだよ」
「……」
 リクは少しムッとした表情で玉城を見た。けれど反論はしてこない。

「俺だって医者に連れて行くくらいの金はあるよ。まあ、今のところ仕事、干されてるけど」
 あ、手を洗ってない。そんなことを思いつつ、玉城はガシガシリンゴを剥く作業をつづける。
 押し付けがましい男に抗うのも面倒になったのか、リクはテーブルの横の椅子を引き寄せて大人しく座り、玉城を見上げてきた。

「フリーライターさんだっけ。玉ちゃんは」
「はは……。横文字だと格好いいように聞こえるね」
 玉城は力なく笑った。リクも少しだけ笑い、じっと玉城の手元を見ている。
「ねえ、玉ちゃん」
「ん?」
「ものすごく不器用だよね」
「え?」
 玉城は改めて自分の手の中のリンゴを見た。
 剥かれたというより、削られたと言った方がいいそのリンゴは、何かの彫刻のように凹凸だらけだった。

「いいんだよ。リンゴなんてこんな感じで!」
「そう?」
「細かいなあ、男のくせに」
玉城は少しムッとし、何とか剥き終わったゴツゴツのリンゴをリクに差し出した。
「ほい。むけた」
「……ありがとう。それ、食べていいよ。僕リンゴ好きじゃないんだ」
 当たり前のような顔でリクは言う。
「はあ~? 好きじゃないのに何でリンゴ剥くんだよ」
「剥いたのは玉ちゃんだよ」
「リクが剥こうとしてたから剥いたんだろ!」
「だから、ありがとうって言ったじゃないか」
 何でそんなふうに怒るんだよ、とでも言いたそうにリクはクルリとした目を玉城に向ける。
「ダーーッツ! わっかんねえぇーー!」
 玉城は左手で頭をガシガシ掻きながら、腹立ち紛れにリンゴにかじり付いた。けれど髪に触った手は果汁でベトベトで、またひと声喚いてジーンズで拭う。
 リクはそんな様子を見て可笑しそうにクスクス笑いながらキッチンに入って行き、ハンドタオルを水で濡らすと、まだ手をこすっていた玉城に手渡してくれた。
「……どうも」
 どうしようもなく調子が狂う。どうにも妙な気分になってきて玉城はゆっくりとパイン材の椅子に腰掛けた。

「俺はここで何してんだろうな」
 散らばったリンゴの皮の残骸を片づけながら、呆れたようにリクが答える。
「それは僕が聞きたいよ」
「……そりゃそうだ」
 自分の言ったことが可笑しくて玉城は笑った。何だかどっと疲れた気がする。
 この青年の波長は、どうも自分の波長を狂わせる。

 椅子に座ったまま、何となく部屋を見渡してみた。昨日来たときの臭いはもうしない。
 必要最低限の生活用品しかないリビングダイニング。生活感のない部屋。生活感のない住人……。

「リクは何の仕事をしてるんだっけ?」
 玉城が不意に訊くと、キッチンに引っ込んでたリクが顔を出した。
「ぼく?」
「うん。こんな昼間に家にいるからサラリーマンじゃないんだろ?」
 リクは愛嬌のある目をくるりと動かし、一瞬何かを考えるような仕草をしたあと、玉城を見て答えた。
「フォトグラファー」
「え? そうなの? それじゃあ形態が俺と似てるよね。やっぱりフリーで何処かの広告代理店と契約したりしてるんでしょ? 雑誌社かな? それとも事務所に登録とか? どっちにしても厳しいよねえ。俺なんか月刊誌の連載もの担当してたのにその雑誌ごと廃刊になっちゃって。あれはないよね。予定してたスケジュールがズッポシ空いちゃって……」
 ガンガン喋りながら目をやると、リクは窓の外をボーッと見ている。人の話など、まるで聞いていない。

「……ねえ」
 玉城が小さく言うと、青年はゆっくり振り向く。
「え? 何?」 
「いや、何って事はないんだけど……」

 どうも、すべてがしっくり来ない。話をしていても噛み合わない。本気なのかジョーダンなのか、まるで分からない。
 もし仕事でこんな男の取材を任されたらお手上げかもしれない。そう思った。

「急にお邪魔して悪かった。どっか具合悪いとこ出てきたら、俺ちゃんと治療費出すから連絡してね」
 少し事務的に言うと玉城は椅子から立ち上がり、玄関ドアまで歩いた。

「帰るの?」
 後ろから声がした。玉城は咄嗟に振り返って青年の顔をじっと見た。気のせいか、何かに酷く怯えているように聞こえたのだ。
「……なんでもない。心配してくれてありがとう」
気のせいだったのだろう。リクは普通にニコッと笑った。そして、「玉ちゃん、いい人だね」と、付け加えた。
 玉城は思わず笑い出した。男に言われてもちっとも嬉しくない。逆にゾワゾワして居心地悪い。
「俺の不注意だからね、当然の対応でしょ。打ち所が悪かったらこんなことじゃすまなかったし。あ、俺しばらくはこの近くでずっと仕事してるから、また顔出すよ」
 玉城はそれだけ言うと、その家を後にした。

 仕事……か。まあ、仕事には違いない、と自嘲気味に笑った。まあ自分の仕事も説明しがたいものがあるが、けれど、リク。あいつの仕事はたぶんフォトグラファーなんかじゃないな。玉城はそう思った。

 仕事柄、フォトグラファーの知り合いは何人かいたが、電話も携帯も何のネットワークも持たずに、食っていけるだけの仕事をこなせる奴などいない。
 それに見た所、あの部屋にはそれを匂わせるものは何一つなかった。

 何のためのウソなのか分からなかった。仕事を教えたくないのならそう言えばいい。単に口からでまかせを言ってしまう癖なのだろうか。嫌な感じは全くしないが、やっぱりどうにもよく分からない男だ。


 やわらかい木漏れ日の中を、そんな取り留めもないことを考えながら玉城は来た道を歩いた。体にまとわりついていた、どこか異次元のような奇妙な空気感が、歩くごとに剥がれ落ちていく。
 大通りに出るともうそこは一瞬にして喧噪にまみれた慌ただしい日常の世界だった。世知辛く、厳しく、よそよそしいの現実の世界。

 さっきまで居た場所はなんだったんだろう。あの家へ行く途中のどこかに日付変更線ならぬ、次元変更線でもあるのかもしれない。

 そんな馬鹿馬鹿しい事を思う自分に呆れながら、ようやく玉城は、田宮に依頼された「人探し」に取りかかることにした。

しおり