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1、出会い

 それはまるで、見つめていると風の音が聞こえてきそうな、神秘的な少女の絵だった。

 信号待ちの間、何気なく視線を移した画廊の中にその絵を見つけ、玉城(たまき)はブレーキの効きにくい自転車を足で止めながら暫し心を奪われた。 

 日だまりのような淡く光るワンピース、空気に溶けてしまいそうな白い肌、黒い瞳、亜麻色の髪。街の喧噪も消えていくような気がした。

 けれど今の彼は悠長に絵を眺めていられるような状況ではない。街金に借りたお金の返済期限は今日まで。50万という金額は、収入が不安定なフリーライターの玉城には、かなりな大金だ。
 もちろん無計画に借りたわけではなかったが、当初の予定だった仕事にキャンセルが入り、まるきり返済計画が狂ってしまったのだ。

 街金と言ってもヤクザではない。頼み込めば何とかなるかもしれないと、祈るような思いで玉城はガタの来た自転車を走らせた。

「はあ? あと2週間待てとおっしゃいましたか?」
 薄暗い店舗内で坊主頭の従業員が玉城を見据え、引きつるように笑った。『グリーンライフローン』。爽やかなのは借す時の接客と、名前ばかりなのか?玉城の笑顔も引きつった。

「すみません、それまでには原稿料が入ってくるはずなんです。半分は返せると思うんです」
 
……思えば、あの詐欺に遭ってなければこんなところで金なんか借りなくて済んだのだ。
 玉城は一ヶ月前に起きた災難を腹立たしげに思い出していた。
 『当たり屋』なんてものが本当に存在するなんて、まして自分が被害に遭うなんて思っても見なかった。

 仕事仲間に車を借りて取材先まで行く途中の路地で、その当たり屋は車の前に飛び出してきたのだ。
 その中年男は、緩いスピードで徐行していた玉城の車の前でひと跳ねした後ごろんと寝転び、役者顔負けの演技で被害者を装った。瞬間、目の前の出来事に玉城はパニックになり、飛び出すや否や、男を抱き起し、ひたすら謝った。

「ああ、何とか大丈夫です、かすり傷ですから。どうでしょうね、示談と言うことにしませんか? 免停にならなくてすむでしょう? おや、あなたの車では無い? それなら尚のこと、面倒は避けた方がいいんじゃないですか?」

 ただ謝るばかりの玉城にその男は優しい笑顔でそう言った。50万という金額を提示して。
 それが詐欺だとわかったのは金を渡した後だった。あんなに簡単に人は騙されてしまうものなのだ。玉城は改めて思い知った。

「半分って言いました? 残った半分にまた利子が付いて膨らみますが、分かって言ってますか?」
 坊主頭は更にグイと玉城に顔を近づけた。かろうじて敬語だが、顔はどう見ても威圧しているとしか思えない。玉城の端正な顔が次第に青ざめていく。
「そこをなんとか……」
「なんともできませんね、お客さん。こっちも信用して貸してんですよ。リスクしょって。そっちも誠意見せてもらわないと。なんなら体で払って貰いましょうか?」
 もう敬語の意味がわからない。そして冗談にしては質が悪すぎる。血の気の引いた頭で玉城は絶望的にうなだれた。八方ふさがりだ。

「ねえ、そこのあなた。もし良ければ、その借金と引き替えに一つバイトを引き受けて貰えないでしょうかね」
 突然しわがれた声が店のパーテーションの後ろから聞こえてきた。

「小宮社長……」
 坊主頭が声の方向を振り返る。パーテーションの後ろから出てきたのは、白髪交じりの頭に白い口ひげの男。社長の小宮だった。
 社長、というより、「小宮老人」と言った方が近い。皺が深いわけではないが、白い髭のせいで老人に見える。
「どうですか? 玉城さん」
 小宮老人は顎髭を触りながら、玉城にニッコリと笑いかけた。

  ***

 薄雲が切れて、少し青空が顔を覗かせた。玉城は来た道をまたボロ自転車に乗って滑走する。
 最悪の事態は免れた。けれどもあの金貸しの老人のバイトとは何なのか不安だった。後日また連絡するからと携帯番号を教えさせられた。断る理由も権利も無いことは分かっていたが、やはり不安がつのる。
 確かに従業員はあの坊主頭と事務員くらいしか見あたらなかったが、なぜ自分に仕事を振るのだろう。 

 しかも50万の借金を帳消しにするという好条件で。考えれば考えるほど不安が押し寄せる。
 今は考えないでおこう。もしヤバイバイトだったらその時きっぱり断ればいいんだ。玉城は自分に言い聞かせ、気合いを入れるようにハンドルをギュッと握り直して公園へ続く路地を右折した。その時。

「たっ! あっ―――!」
 いきなり人影が飛び出してきた。
 
 すんでの所でブレーキをかけたが年期の入ったボロ自転車だ。大きな音と共にチェーンが外れ、ブレーキハンドルはいきなり何の抵抗もしなくなる。
 思い切り足で踏ん張り止めようと試みるが、逆にバランスを失った自転車はその人影と鈍い音を立ててぶつかった後、飛び降りた玉城から5メートル先まで走り、街灯に衝突して沈黙した。

 玉城の心臓は破裂するのではないかと思うほど激しく鼓動した。男が倒れている。自分がぶつけてしまった。
玉城はガクガクする足でうつぶせに倒れている男に走り寄った。 

「だ……大丈夫ですか!? あの……あの……」
 すっかり取り乱し、その男の肩を掴みガシガシゆすった。
「いっ……いたい。……イタイ」
 突然スイッチの入ったオモチャのようにその男は右手首を押さえてうめき声をあげた。
「よかった! 生きてる!」
 思わず玉城は安堵の声をあげた。

「良かったって……ひどいな。痛いって言ってるだろ」
 ガバッと上半身を起こし、その男は不機嫌そうにグイと顔を上げると、玉城を睨んだ。

「あっ……ごっ、ごめんなさい! 本当にすいませんでした。僕の不注意で……。怪我しませんでしたか?」
 とにかく青ざめながら玉城は必死で男に謝った。自分が人に怪我をさせてしまうなんて事は、彼の穏やかな人生の中に無かったことなのだ。もちろん、あの当たり屋の事故は論外だ。
 その男は、そんな様子の玉城をしばらくじっと見ていたが、やがて少し笑いながらポツリと言った。
「君さあ、簡単に謝っちゃダメだよ」
「……えっ?」
 玉城は伏せていた顔を上げ、改めてその男を見つめた。

 ブルー系のチェックのシャツにジーンズ。ゆるくウエーブした柔らかそうな栗色の髪。ほっそりとした顔立ちに美しいラインを描く大きな目。あたりの光を映し込んだ色素の薄い琥珀色の瞳は、痛みのためか少し潤んでいる。
 男の自分でもドキリとするほど、その男は中性的で魅力的な容姿をしていた。
 まだどこか幼さが感じられるが、自分と同じ20代半ばくらいだろうかと玉城は思った。

「もし僕がタチの悪い人間だったらお金、巻き上げられてるよ。あのね、すぐに謝っちゃダメ」
 そう言って男はニコッと笑った。
「は……はい」
 その穏やかな笑顔に救われた気持ちになって玉城は思わず微笑み返した。

「でも、どうしようかな。……手首痛めちゃったみたい」
 男の言葉に再び玉城はその笑顔を凍らせた。
「そ、そうなんですか?」
「うん、しばらく仕事できなくなるな」
「えええーっ。仕事、何されてるんですか?」
「しごと? ……ピアニスト」
「ピ……。大変じゃないですかっ! すぐ病院行きましょう!」
「病院ねえ……」
 そう言いかけて男は“ハッ”と自分が来た方向を振り返った。玉城もつられて振り返る。

 その視線の先には小さな公園。綺麗に並んだツツジの木の横をスーツ姿でこちらに走って来る女が見えた。
 美人の類には入るが、その表情はあまり穏やかではない。明らかに怒りに燃えている。
 そして、でかい。
 太っているというよりも筋肉質で、まるで女子バレー選手とレスリングの選手を合わせたような巨体だ。

「ねえ、お願い!」
その男は少し真顔になり、左手で玉城の腕を掴んできた。
「お詫びとか病院とか、もういいからさ、ちょっとお願い聞いてもらえる?」
男は声を潜めて早口にしゃべりかけてくる。
「なんです?」
「僕の恋人のふりをして欲しい」
「……は?」
一瞬意味が分からなかった。

「ね、今だけ」
「僕、男ですよ?」
「見りゃ分かるよ。やるの? やらないの?」
「やっ、……やります!」
 訳の分からないまま勢いに押されてそう言い、玉城は男に促され、立ち上がった。男は玉城よりも少し背が低かった。体つきは玉城よりもスラリとしている。玉城の右側に体を寄せて並び、玉城の腕をぐっと掴んで引き寄せる。

“どういうこと? いったい何?”
 男にしっかりと腕を掴まれて寄り添われ呆然としている間に、さっきの大女はすでに息を切らせながら玉城達の前に立ちはだかっていた。

「リク!」

 長い髪を後ろで束ね、きっちりとしたベージュのスーツに身を包んだキャリアウーマン風のその大女は、そう叫ぶとキッと玉城の横のその男を睨みつける。玉城は動くことも出来ず、ただ金縛りに遭ったように立ちつくした。
 玉城には表情は見えなかったが、横で確かに男は軽くフッと笑った。

「ね。言った通りでしょ? この人がそう」
 そう言って男は玉城の腕をさらに引き寄せる。次の瞬間女は鬼のような顔つきで玉城を睨みつけた。背筋に電流を流された様にビクリと震え上がる。
 女はもう一度男に視線を戻すと、手を腰に当てて仁王立ちになりながら「最低だな!」、と鋭く言い放った。男がすぐ横でもう一度ニヤリとしたのが分かった。 

 女はクルリと向きを変えると、もう何も言わず、振り向きもせずにズンズンと来た道を帰って行ってしまった。

「いったい何! どういうこと?」
 女が遙か向こうに行ってしまうと玉城は、横の男の腕を逆に掴みなおしたが、男は迷惑そうにその腕を振り払うと、少し疲れたような笑顔を作った。

「女って怖いよね。もうずっとあんな感じで追いかけられててね。まるでストーカーだもん。あんな形相で追いかけられたら怖いでしょ? 逃げるよね? 男の恋人がいるって言ったら、あきらめるかなって思って」
「え……そうなんですか? なんかキャリアウーマン風で、そんな感じには見えなかったけど」
「信じないならいいよ」
 男は少しすねたような表情をして体のホコリをはらうと、フイと背を向け数十メートル手前に落としてきた荷物を拾いに戻った。

「あ、ごめんなさい。信じてないとかじゃないですから!」
 慌てて取り繕う。どうやら気むずかしい男らしい。
 男は不機嫌そうに公園の土の上に置き去りにされていた四角く厚みのある荷物を、右手で持ち上げようとした。けれど一瞬顔を歪ませ、右の手首を左手で抑えた後、その荷物をまた土の上に落としてしまった。
 ドキリとして慌てて走り寄る。

「大丈夫? もしかして手、痛むんじゃ……」
「痛くなんかないよ」
「いや、絶対痛めたんだ。僕のせいです! と、とりあえず家まで送ります。家どこですか?」
「僕、男に興味ないよ?」
「何の話をしてるんですか! とにかく送ります。送りますって言っても車は無いんですが」
 玉城は遠くで果てている自転車をチラリと見た。男もその視線を追って自転車を確認し、そしてクスリと笑った。

「じゃ、家、すぐそこだから荷物だけ運んでもらおうかな」
 根負けしたようだ。とにかく大事に至らなくて良かった。
 そう安心しながら玉城はその荷物をスクラップ寸前の自分の自転車の荷台に乗せる。

 かなり大きな平べったい箱なのでずり落ちそうになるが、男がそれを左手で押さえてくれたので、玉城はそのまま自転車を押して歩き出した。

 公園を抜けて筋を一歩入ったとたん大通りの喧噪から離れ、緑の木々が綺麗に植えられた閑静な住宅街が広がっていた。小鳥の声さえ聞こえる、不思議で、懐かしい景色だ。

「もし後で体調とか悪くなったら連絡してくださいね。番号教えますから。あ、僕はタマキと言います。丸い玉の玉に、シャトーの城」
「たまき……? じゃあ、玉ちゃんだ」
「いや、そう呼ばれたことないけど。ま、まあ、何でもいいです。ええと、あなたは」
「僕?」
「リク……リクさんでしょ? あ、下の名前か。ごめんなさい」

「うん、リクでいいよ。敬語もいらない。たぶん同じ年くらいだろ?」
「あ……はい、了解」
 気難しいのかと思ったが、話してみるとけっこう人なつっこい。よく分からない男だと玉城は思った。だが不思議と嫌な感じはしない。
 とにかくぶつけた相手が前のような詐欺師でなくて良かったと思った。

 心地よい木漏れ日の中、元々喋るのが好きな玉城は、取りとめもなく自分の仕事の話や世間話をしながら歩いた。リクという青年は軽く相づちを打ち、時々小さな笑い声を立てながら玉城の話を聞いてくれた。

 空気感が自然で、怪我をさせた相手を送る途中だというのに、まるで長年の友人の家に遊びに行くような錯覚を起こしそうになる。別人のように、先ほどの刺々しさはどこにもない。
 そして青年の家へと向かうその小路も、街路樹の緑が誘うように柔らかく揺れ、不思議なほど心が落ち着くのだった。

 しばらく歩くと角地の狭い公園の横に、今時めずらしい平屋の小さな木造の家が見えてきた。その前でリクは足を止めた。
 洋風な造りではあったが、時代からポツンと置き去りにされたような寂れた家。いかにも手作りという感じで塗られた白いペンキは、所々剥げかかっている。
「……レトロだね」
 玉城は遠慮がちに言った。

「古い家でしょ? 家って言うより小屋って感じだよね。昔は雑貨屋の店舗だったらしいよ。今、大家さんに取りあえず借りてるんだ。どうせちょくちょく引っ越しちゃうから」
 この家は土足でいいからね、と付け足した後、リクは年期の入った真鍮のドアノブをまわして中に入った。

 そうか、ピアノを弾くにはこんな一軒家の方がいいのか。そう思いながら中に入ると、そこはガランとしたフローリングの部屋だった。
 奥にキッチンと、隣の部屋に続くドアが一つ。あとはパイン材のテーブルと椅子と棚以外、本当に何もない。
 けれど何か変わった臭いがする。何か懐かしいような、落ち着くような。だが、ピンと来ない。

「ピアノが置いてあると思ったんだけど、何もないんだね」
 玉城は素直に感想を言った。
「ピアノ? なんでピアノ?」
「え? だってピアニストだって……」
「そう?」
 リクは曖昧に笑った。
「ピアノなんて弾いたこともないよ」
「へ? あれ? 聞き間違いかな?」
「きっとそうだよ」
 可笑しそうに笑うリクに何となく恥ずかしそうに笑い返して、玉城は抱えていた大きな荷物を壁際に置いた。

「じゃあ、何やってる人? 一カ所にいられない仕事?」
 玉城がそう聞いた瞬間。まるで小動物が何か物音に反応して耳をピンと立てる時のように、リクは視線だけ動かして一瞬体を強ばらせた。

「どうかした?」
玉城がそう言うとリクは視線を玉城にもどして何もなかったように表情を柔らかくした。

「いや、……なんでもない。ごめんね、ありがとう。荷物持って貰って助かったよ。何もお礼出来なくて悪いけど」
「あ……いや、とんでもない。こちらこそ」
 急に締めの挨拶をされた気がして、少しばかり玉城は焦る。

「あの、電話番号書いておくから本当、何かあったらそっちに連絡してね。こういう事故は後でどっか痛くなったりするんだから」
 玉城は持っていたレシートの裏に番号を走り書きすると、中央のテーブルの上に置いた。

「いいよ、ここ電話ないし、携帯も持たない主義だから」
「そうなの?」
「うん、どうもありがとう。じゃあ、これで」
 そう言われてしまってはもう帰るしかなかった。これでいいんだろうかと思いつつも玉城は、「お大事に」と、少しばかり間の抜けた言葉を残して、その家を後にした。

 ―――かなり激しくぶつかった。本当に怪我は大丈夫なんだろうか。携帯も電話も持たないで今の時代、仕事ができるんだろうか。いったい何をしてる人なんだろう。

 昔からいろんな物事や人に興味を向けて迷走し追求するくせが玉城にはあった。ついつい、いろいろ詮索してしまう。
 昔付き合っていた女性にも「鬱陶しいからあれこれ詮索しないで」とよく言われた。改めようと思うが、なかなか癖は直らない。

 家の前に止めてあったボロ自転車を押し、トボトボ歩き出す。運良く粗大ゴミ置き場に通りかかり、他の自転車の横にそっと自分のを置いてきた。あのまま押していたら、自宅アパートに帰るまで何時間かかるか分からないところだった。

……何故だろう。あの家を出たあたりから頭が痛い。風邪のひき始めなのだろうか。

そんな事を思っていると携帯のバイブが唸った。出版社からの電話かと思って表示を見たが、違った。がっかりして電話に出る。

「早速ですが、玉城さん。バイトの内容が固まったから明日にでも来てくれませんか?」
 グリーンライフローンの小宮からだった。

 借金の代償のバイトなんて……。まともな仕事の予感が全くしない。自分も自転車同様、廃車寸前だな。

 溜息をつきながら玉城は、携帯に向かって「はい」、と力なく返事をした。

しおり