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再会12

 そちらに顔を向けると、そこには母さんが居た。
 幽霊でも見たかのように目を見開き、若干顔色も優れないような気もする。
 まぁ、何も告げずに来たからな。いくら自分の家とはいえ、先程まで居なかった者が突然家の中に居たら驚きもするだろう。

「お久しぶりです。母さん」

 とりあえず最初にそう挨拶をすると、未だに驚いた表情のままながらボクの存在を認めたらしく、母さんは視線を上下させて一度こちらを確認してから、ややぎこちないながらも笑みを浮かべた。

「帰ってくるなら事前に連絡してくれればよかったのに。それでも元気そうでよかったわ。今日はどうしたの?」

 早口気味に並べ立てられる母さんの言葉に、何処となく他人行儀な雰囲気を抱きつつも、ボクは今日帰ってきた目的である、情報体に変換する前であった手元の本を目線の高さに持ち上げて、それを母さんに見せる。

「今日は忘れ物を取りに」

 少し恥ずかしげに笑うと、母さんはその本とボクの顔を交互に見て一つ頷いた。

「そう。言ってくれれば、ジーニアス魔法学園の方に送ったのに」

 告げる母さんの言葉に、そういえばその手もあったかと頭の隅でぼんやり思いつつ、視線を自室の方へと向けて、思ったことを口にする。

「そういえば、誰も入っていなかったんですね」

 特に何か思うところがあった訳でもないのだが、ボクのその何気ない一言に、母さんは目線を泳がせ動揺を僅かに表に浮かばせた。

「え、ええ。勝手に入っても悪いと思ってね。それでも、掃除ぐらいはしておいたほうが良かったわね」

 早口に言葉を紡ぎ、冷や汗でも掻いていそうなぎこちない笑みに、どうしてそこまで動揺するのかと首を捻る。やはり家を管理する者として、掃除をしていなかったというのは恥ずかしいのだろうか?

「気にかけるような物も在りませんから、そんなに気を遣わずともいいですのに・・・」

 不思議に思いつつもそう返すと、ふと自分の丁寧な言葉遣いに気づき、話の内容も相まって苦笑を浮かべてしまう。外の世界で人と接する時は大体こんな感じであった為に、どうもこちらの方が馴染んできているようだ。それでも気がついたので少し言葉を崩そうかと思うも、今更なのでこのままでいいかと思い直す。こちらに馴染み過ぎて、逆に崩すと違和感を覚えそうだし。

「そういえば、お客さんでも来ているのですか?」

 玄関での見慣れない靴を思い出し、そう母さんに問い掛ける。流石に母さんが履くには小さかったような気がした。

「ええ。今はジャニュも帰ってきているのよ」
「そ、そうなんですか」

 母さんの言葉に、僅かに言葉を詰まらせてしまう。別に遭う事もないだろうし、出遭ったら即戦闘という訳でもないのだから、心配する必要もないか。

「そういえばオーガスト、学園生活の方はどうかしら?」

 僅かに首を傾げて問い掛ける母さんに、ボクはどう答えようかと考えて、口を開いた。





 昼が過ぎて大分経った頃。ジャニュは妹であるオクトとノヴェルの部屋で、クルを交えた四人で話をしていた。
 前に少し会ったとはいえ、ジャニュはオクトとノヴェルと数年ぶりの再会である為に、一日二日程度では話す事には事欠かない。クルに対しても、同じ最強位という地位を戴く者同士、話すことは山とあった。
 夜に迎えが来る予定でもあった為に、時間も気にせずのんびりと会話を続ける。

「何か飲むものを取ってくるわ」

 そう言うと、ジャニュは長いこと話していた為にすっかり空になった水差しを手に立ち上がった。

「ああ、それでしたら私が!」

 立ち上がったジャニュをノヴェルが慌てて制するも、ジャニュは笑って気にしないでとだけ告げて、水差し片手に部屋を出ていった。
 元々住んでいただけに、ジャニュは慣れた様子でオクトとノヴェルの部屋がある二階から階段を使って下り、目的である台所の在る一階に向かう。

「ん?」

 一階に到着して廊下に出たところで、ジャニュは誰かが玄関近くに在る部屋へと入っていったのを目撃する。

「確かあの部屋は・・・」

 ジャニュは記憶にあるあの部屋の持ち主の姿を思い浮かべると、今は居ないはずだと首を傾げて、自分の母親かと思いつつ魔力視で確認するも、いまいちよく分からない。
 なので、台所とは反対方向ながらも、息を殺して近づいていくと、部屋の中から微かに男の声が聞こえてきた。それはとても聞き慣れた声であった為に、ジャニュは表情に驚きと喜色を浮かべるが、手元に目を向けて、まずは目的を果たす為に一旦その場を離れていく。
 それから無事に水差しの中に水を汲んだジャニュは、廊下に戻って先程の部屋の前まで戻ろうとして、目的の場所で誰かが会話をしているのに気がつき、どうしたものかと悩むも、とりあえず階段まで移動して水差しを階段脇に置き、そこから廊下の様子を窺う。少し距離がある為に何を言っているのかまでは分からないが、ジャニュに背中を向けている部屋の主の話相手は母親のようで、二人の間には和やかな雰囲気がある。
 ジャニュが暫くその様子を眺めていると、時間が経ったからか、ノヴェルが下りてきてジャニュの背に声を掛ける。

「お姉様? どうかなさいましたか?」

 壁に身体を張り付け、顔を僅かに覗かせて廊下の様子を窺っている様は、どう見ても不審者でしかない。
 それを自覚していたジャニュは苦笑しながら振り返ると、そこにはノヴェルだけではなく、オクトとクルの姿まであった。

「ああ、何でもないのよ」

 軽く手を振り、ジャニュはオクト達三人へと笑みを向ける。しかし、その笑みは若干引き攣っていた。流石に苦しい良い訳だとは、ジャニュ自身理解しているのだからしょうがない。

「しかし・・・」

 ノヴェルは困ったようにそう言うと、先程までジャニュが覗いていた廊下の先へと顔を覗かせようと身体を傾ける。

「ほ、ほら、水を持って部屋に戻りましょう?」

 階段の隅に置いたままであった水差しを指差したジャニュは、精一杯の笑みでそう促すが、それに不審そうな目をノヴェルは向けるだけで、二階へと上がろうとはしない。

「・・・お姉様らしくありませんが、一体何が?」

 疑いの目を向けたまま、ノヴェルは首を捻る。
 ジャニュも別にオーガストが見られても構わないとは思うが、それでも何となく今会わせない方がいいような気がしての行動であった。
 しかし、ノヴェルの疑いの目は晴れる事無く、それどころかオクトとクルも、ノヴェルの後ろで不審な目をジャニュに向けている。
 それを見ながら、それもそうだろうなと内心で苦笑したジャニュが、尚も三人を部屋に戻そうと口を開いた瞬間。

「っ!!」

 不意に周囲の空気が変化したのを感じ、オクトとノヴェル、それにクルは息を呑むように身を固くした。しかし、ジャニュだけはその顔に好意的で好戦的な危険な笑みを浮かべる。

「これは!?」

 混乱して顔を見合わせるオクト達三人と、蕩けるような笑みを浮かべているジャニュの耳に女性の焦るような声が届き、四人は顔を廊下の方へと向ける。

「な、何を言っているの! そんな訳ないじゃない!!」

 少し怒鳴るような声。しかし、そこには明確な動揺が見て取れる。

「お母様?」

 その声の主が誰なのか思い至ったノヴェルは、困惑しつつ廊下の方へと顔を出す。
 廊下には黒髪の少年の後姿と、その先に少しふくよかな女性の姿があった。

「お兄・・・様?」

 静かで圧倒的な雰囲気を纏うその少年の後姿に、ノヴェルは驚くように小さくそう口にした。それにオクトとクルが反応を示すと、そこに少年の静かな声が届く。それは決して大きくはないが、しかし四人の耳にもはっきりと聞こえるほどによく通った声。

「そうですか? 貴方が事故を装って僕を殺そうとしても何ら不思議はないでしょう? 昔はあんなにも僕で憂さを晴らしていたではないですか?」

 そこには嘲笑するような響きが微かにだが含まれているのが窺える。しかし、オクト達四人も少年に対する女性も、それには気がつかない。それよりも、その内容の方が衝撃的だったようで、どう反応していいのか困るように固まっている。

「な、何の事かしら?」
「覚えていないとでも? 貴方達が幾度も幾度も僕の骨という骨を砕いて死の淵に追いやってから、お得意の回復魔法を掛けてそれを無かった事にしてくれたおかげで、僕はそこそこ高度な回復魔法を最初に覚える事が出来たのですから」
「・・・・・・」
「ですからまぁ、そこに関しては感謝していますよ」

 少年が薄く囁くような声音でそう言葉にすると、女性は苦々しそうに口を閉ざす。

「まあもっとも、貴方の夫の方が更に酷かったですが。そして、それを黙認していた貴方もどうかしていたのでしょうね」
「・・・それで、何が言いたいのかしら?」

 それは普段オクトやノヴェルが聞く事の無い冷たい響きの女性の声。

「ここで糾弾でもしたいのかしら? それとも謝罪でもすればいいのかしら?」
「・・・・・・」

 そんな開き直ったような女性の言葉を受けて、少年は僅かな間、その感情のみられない瞳で女性を眺めて。

「くく。はは、ふははは!」

 少年は、顔を伏せて不意に笑った。
 その突然の事態に、その場に居た少年以外の全ての者が時を止める。ただ、クルだけは周囲が何故そんな反応をみせるのかがよく分からず、それぞれの顔に目を向けてはいたが。

「はは。やはり貴方は面白い。僕はね、やっと感情が戻ってきたのですよ。おかげでこうして貴方の滑稽な様子を笑うことが出来る」

 そう言って顔を上げた少年の笑みを見た女性は、小さく悲鳴を漏らす。少年の顔に張り付いていたのは、喜悦とも愉悦ともとれそうながら、とても暗い笑み。
 しかし、それも直ぐに引っ込めた少年は、いつもの無表情で正面の女性を見据える。

「まあ正直、もう貴方達には興味が無いんですがね。当分は先程説明したジュライが表に出てますし、貴方のような取るに足らない相手に興味を抱く理由もないですし」

 もう用は無いからどっか行けとばかりに手をひらひらと振る少年に、女性は不快げな表情を浮かべる。

「おや、気に障りましたか? 先程悲鳴を上げていた者とは思えませんね」

 それをからかうように少年が言葉を返すと、女性は少年を睨み付けた。

「あまり調子に乗るな! 多少雰囲気が不気味だろうと、お前に魔法の才がないのは変わらないのだから!」
「そちらの方が似合ってますよ」

 怒気を露わにする女性に、少年は楽しげに口の端を持ち上げる。

「まあですが、それでしたらせっかくなので、それを貴方への罰としましょう」
「罰?」
「ええ。魔法が使えなくしましょう」
「はっ! 何を言っている? そんなこと、できるものならやってみればいい!」

 鼻で笑う女性へ、少年は微かに笑みを浮かべた。

「では、魔法を使ってみてくださいよ?」
「は? 何を言っている?」

 少年の言葉に、女性は訝しみながら見詰めるも、少年は魔法の使用を促すようにただそれを見詰め返すだけ。
 その反応に不快げに眉を動かした女性は、少年の要望通りに魔法の創造を試みる。

「なっ! どういうことだ!?」

 魔法を創造しようとした女性は、思った場所に何も発現しない事に驚きの声を上げる。
 女性が今発現しようとしていたのは、ただの小さな火であった。少年の挑発に苛立ちはしたものの、それで少年を害そうとする意思はなく、挑発に乗って、ただ魔法を発現させようとしたに過ぎない。しかし、結果は不発という予想外のもので、女性はひどく狼狽しながらも、慌てて他の魔法の発現を試みていく。しかし、その悉くが実を結ばない。

「そんな! どうして? どうして、何も発現しない!?」

 焦りながら、今にも泣き崩れそうな声音を出した女性に、少年は「理解しましたか?」 と無感情に声を掛ける。
 その声に女性が顔を上げて少年の方へと鋭い目を向けると、そこには先程の無感情な声音とは裏腹に、暗い喜悦に満ちたような薄い笑みを口元に湛える少年の姿があった。
 そんな少年の姿に、得体のしれない何かを感じ取った女性は、怒りや焦りなどを忘れて、ただ恐怖に頬を引き攣らせる。

「どうかなさいましたか?」

 恐怖に頬を引き攣らせた女性へと、少年は白々しいまでに優しげな声音で問い掛ける。しかし、やはりその口の端に浮かぶ愉悦にも似た笑みは薄気味悪く、それでいて事実として魔法が使えなくなっていることに、女性は少年へと向けていた視線を、理解出来ない存在にでも向けるようなモノへと変えていた。

「そう恐怖せずともいいではないですか。それは、かつて僕が見ていた景色なのですから」
「ヒッ!」

 僅かに目元を細めた少年に、女性は腰を抜かしそうになり、思わず一歩下がる。
 そんな女性の姿を、少年はただただ変わらぬ薄い笑みを口元に湛えたまま眺め続けるも、それ以外に特に何かする訳でもない。それでも、女性にはそれが同じ人間にはもはや見えていなかった。

「ば、化け物め!」

 吐き捨てるようなその言葉も、恐怖から出た言葉なのがよく分かる。その様子を、少年はただ静かに眺め続ける。

「理解いただけたようでよかったです。もう貴方には興味は無いのですよ」

 暫くそんな女性の様子を眺めていた少年は、呆れたように肩を竦めて軽く首を振った。それに女性は恐怖と悔しさに唇を噛む。

「・・・・・・」

 離れたところからその様子を見ていたオクト達四人は、重い沈黙に包まれる。その間も少年と女性は何やら言葉を交わすも、それに四人はどう反応すればいいのか分からないとでもいうように顔を見合わせた。

「・・・お母様」

 その初めて見る母親の姿に、オクトは困惑したように声を上げる。

「・・・更に酷かったのね」

 ジャニュは何かを思い出したのか、忌々しそうに女性の方へと目を向けながら、小さく呟いた。
 クルは三人の姿を順に眺めた後、少年の背に淡い期待の籠った目を向ける。
 そんな中、ノヴェルは意を決したように廊下へと出ると、

「お兄様!」

 ノヴェルがその背に声を掛けると、少年はゆっくりと振り返りノヴェルの姿を視界に収める。

「久しぶりだね。ノヴェル」

 平坦ながらもどこか懐かしげな響きが混じるその声に、ノヴェルは小走りに近寄って少年の前まで移動すると、目の前の少年を見上げた。

「ああ、お兄様! お久しぶりで御座います!」

 少年は、眼前の瞳を潤ませて感動したような面持ちで見上げるノヴェルから、視線を奥へと移す。

「オクトも久しぶりだね。姉さんは少し前に会ったばかりですが、それに」

 奥に居たオクトとジャニュへと視線を移動させた後、少年はクルの方へと目を動かした。

「君もまた随分と久しぶりだね」
「っ!!」

 少年の言葉に、クルは驚きに目を見開く。

「クル様と面識が?」

 下からの言葉に、少年は一度そちらに目線を動かした後、クルの方へと視線を戻す。

「もう十年ぐらい前になるか、彼女が魔物に襲われていたところに遭遇した事があったんだよ」
「そうだったのですか!」

 驚くノヴェル以上の驚きを、クルはその顔に浮かべる。
 そんなクルから視線を外した少年は、首を動かし、突然のノヴェルの出現に背後で動揺をみせている女性の方へと顔を向ける。

「どうしました? 僕にとっては今更ですが、その程度の本性では大した事はないでしょう?」

 少年の言葉に一瞬女性はキツイ目を向けるも、直ぐにそれを引っ込めて、固さの残る微笑みを浮かべる。

「ノヴェル。皆と共に部屋に戻っていなさい」

 それは普段の穏やかな声音。しかし、先程までのやり取りを聞いていたからか、それがやけに気持ち悪く耳に響き、ノヴェルは思わずその端正な顔を顰めて軽蔑するような目を女性に向ける。
 その目に女性はたじろぐも、微笑みを崩さず似たような言葉を掛けた。しかし、ノヴェルはそれに従おうとはしない。

「嫌われてしまいましたね」

 少年が微かに弾むような声音でそう語り掛けると、女性は責めるような目を向ける。しかし、少年に全く気にした様子は見られない。
 それに諦めて目線を外すと、女性は頼りなさげに視線を宙に彷徨わせた。
 暫くそうして視線を彷徨わせた後、女性は諦めたように肩を落とすと、僅かに躊躇する仕草をみせつつ少年達の横を通って台所の方へと姿を消した。
 それを見届けた後、ジャニュ達も廊下に出てきて、少年の近くに寄ってくる。

「あ、あの・・・」

 そんな中、最初に少年に声を掛けたのは、意外にもクルであった。緊張した面持ちで、いつもの無表情な時の大人びた感じではなく、どこか儚げな年相応の少女のような雰囲気を纏いながら、少年を見上げる。
 そんなクルを、少年は特に感情の載らない瞳で迎えながら眺め、次の言葉を待つ。

「ほ、本当にあの時・・・助けてくださった?」

 不安に微かに震えるクルの声に、少年は一つ頷き、口を開く。

「あの時相手にした白い魔物のことであれば、そうだね」

 少年の言葉に、クルは一際大きく目を見開くと、感極まったのか一筋涙を流した。

「ああ・・・あの時はしっかりとお礼も出来ずに・・・」
「別に感謝されたくて魔物の相手をした訳ではないから」

 クルの万感の籠った言葉にも、少年は特に感情の籠らない声音で素っ気ない言葉を返す。しかし、それでもクルは嬉しそうに笑みを浮かべる。

「なるほど! もしかして、以前にクル様が仰っていた、魔物から救ってくださった方というのは、お兄様のことだったのですか?」

 前に聞いた話を思い出したノヴェルがそう問うと、クルは小さく頷いた。

「そう。その時に窮地を救ってもらった」
「そうでしたか。それでしたら納得ですね。お兄様より強い方など存在しませんから」

 クルの方を見て無垢な笑みを浮かべるノヴェルの後頭部に目を向けた少年は、一瞬考えるように視線を逸らす。

「それにしても珍しいな。オーガストが表に出てくるなんて。ジュライの話では、忙しいと聞いていたけれど?」

 蕩けるような笑みを目と口の端に残しながら、頬に人差し指を当ててジャニュが問い掛ける。
 それを受けて少年はジャニュの方へと目を動かして、自分の真横の方に顔を向けた。

「まぁ、色々と探究をしていまして」

 その行動に、ジャニュは不思議そうに首を傾げる。少年の真横には何も無い。しかし、少年はそんな疑問の籠った目線には答えずに、顔を正面に戻す。

「それに、直ぐに戻りますよ。まだジュライに表を任せるので」

 少年の言葉に、ジャニュは不満げに顔を歪める。

「それもいいけど、私はジュライよりオーガストに会いたいのだけれど?」
「まぁ、それはいずれそうなるでしょうが、今はジュライに任せますよ」
「・・・まぁ、オーガストが決めた事ならしょうがないけれど」

 不満なのがありありと判る声音でそう言うと、ジャニュは不承不承と頷いた。

「まあそれよりも、僕はそろそろ戻りますよ。ちょっと挨拶しに顔を出しただけなのですから」
「え! そうなのですか? もう少しお話しいたしましょう?」

 ノヴェルの縋るような声に、少年は視線を下げて少し思案する。

「話と言っても・・・特に何かある訳でもないのだが」
「お兄様に無くとも、私には聞いて頂きたい事が色々とあるのです!」

 ジッと見上げてくるノヴェルと数秒見つめ合うと、少年は諦めたように視線を逸らした。

「まぁ、少しぐらいならいいよ。時間はあまりないから、本当に少しの時間ではあるけれど」
「はい!」

 少年の言葉にノヴェルは嬉しそうに頷き満面の笑みを浮かべると、ジャニュ達三人の方へと顔を向け、それでいいかと問い掛ける。

「勿論構わないわよ」

 代表してジャニュがそう返すと、オクトとクルも了承の頷きを返す。それを受けてノヴェルは少年の手を握ると、その手を引いて二階に在る自室へと全員一緒に移動を始めた。





「さて、そろそろ起動できるか?」

 目が痛いほどに白いその部屋には、中央付近に薄っすら赤みを帯びた光を放つ模様が浮かぶのみで、他には特に何も無い。部屋の中には人の姿もないが、その部屋の外からは沢山の人の声が慌ただしく飛び交っているのが聞こえてくる。

「完成するには、もう少し掛かるかと」
「もう少しとはどれぐらいだ?」

 困ったように答えた声に、厳めしい声は、怒鳴りつけるような力の籠った勢いで問い掛ける。

「そう、ですね・・・三ヵ月は必要かと」
「それでは時間が掛かりすぎる。もっと早くに出来ないのか?」
「今のままでは、どんなに急いでもよくて二ヵ月です。しかし、それでは不具合が起きるかもしれません」
「二ヵ月でも遅い。人員と予算は追加するから、一ヵ月で完成させろ!」

 厳めしい声の要求に、困惑した声は考えるような間を置く。

「・・・一ヵ月は不可能です。せめて二ヵ月・・・いえ、一ヵ月半は猶予をください」

 窺うような、苦渋の滲む声でそう答えると、厳めしい声はややあって重々しいため息を吐き出す。

「分かった。では一ヵ月半は待とう。必要な人員や予算はそこに居る奴に伝えろ」

 それだけ言い残して去っていく靴の音が響くが、それは直ぐに止まってしまう。

「約は違えるなよ!」

 脅迫するように念を押してそう付け加えると、靴の音は遠くへと消えていった。

「・・・はぁ。無茶を言う。とはいえ、やらない訳にはいかないか」

 残った声の主は、弱ったようにそう呟くも、直ぐに作業に取り掛かった。





 駐屯地に到着したのは、日が暮れて随分と経ってからのようであった。
 母さんと会って少し言葉を交わしていると、兄さんの要望で意識を交代したので、それからの記憶はない。しかし、その後も長いこと実家に居たようで、駐屯地に到着した頃には空がすっかり藍色に染まり、地上には闇の絨毯が広がっていた。
 ボクは振り返り、離れていく車に目を向ける。遅くまで実家に居たのに割かし早くに帰ってこられたのは、ジャニュ姉さんを迎えに来た車に同乗させてもらえたから・・・らしい。あの車は、駐屯地の別の場所に止めているのだとか。
 とはいえ、今しがた兄さんと交代したばかりのボクでは現状をあまり把握しておらず、隣でこちらに目を向けているジャニュ姉さんに、現在その辺りの説明を受けているところだ。
 ジャニュ姉さんの隣には、オクトとノヴェルに加えて、クル・デーレ・フィーリャ・ドゥーカ・エローエ様もいらっしゃるが、どうやらこの四人と兄さんは軽く雑談を交わしていた、らしい。その内容は気になったが、流石にその辺りの説明はなかった。後で兄さんに訊いてみるとするかな。
 ジャニュ姉さんの話を聞きながら、自分の手元に視線を向ける。そこに今回の目的であった本は無かったが、背中の方が少し重たいので、背嚢に仕舞っているのだろう。
 それにしても、兄さんがこの四人と会話をしていたということは、四人共にボクと兄さんが違うことは知っているということだ。ジャニュ姉さんは既に知っていたが、オクトとノヴェルだけではなく、クル・デーレ・フィーリャ・ドゥーカ・エローエ様まで知った事になるのか。大丈夫だろうか? まぁ、兄さんのことだから何かしら考えがあってのことだろうが。
 そんな事を考えつつ、ジャニュ姉さんの説明を聞き終えると、駐屯地内に入っていく。そこから先は、それぞれの道を進む。
 ジャニュ姉さんはクロック王国の兵達が平原で駐留している場所へと向かい、オクトとノヴェル、クル・デーレ・フィーリャ・ドゥーカ・エローエ様の三人も、このまま一緒に平原まで出るらしいが、そこからは別行動だとか。
 ボクは明日も休日なので、このまま宿舎に戻って休むだけだ。明日は街にでも向かうかな。
 そう頭の中で明日の予定を組み立てながら四人と別れると、自室の在る宿舎目指して移動を始めた。





「ふふふ」

 大分前に日の暮れた平原に、少女の押し殺したような小さな笑い声が響く。
 隣を歩く、その少女と同じ容姿の少女が、そんな少女に呆れたような微笑ましいような生暖かい目を向ける。

「ご機嫌ですね」

 淑女然とした声音で声を掛けると、それを受けた少女は、自らの髪に手を触れる。そこには飾り気の無い髪留めがあった。それは少女の月夜の空にも似た明るめの黒髪の中でひっそりと主張するような、艶の抑えられた黒色の髪留めであった。

「ええ。だって、お兄様からの贈り物ですもの!」

 今にも踊り出しそうな弾む声と笑みで応えながら、少女はその声を掛けてきた少女と、もう一人居た薄桃色の髪の少女へと目を向ける。より正確には、二人の少女の髪にも留まっている似たような髪留めへと。違いと言えば、髪色が薄桃色の少女の髪留めだけ、色が髪色と同じ薄桃色をしているぐらいか。

「・・・そうだね」

 その薄桃色の髪の少女も、僅かに口元を綻ばせてその髪留めに手を触れる。
 少女達がしているその髪留めは、とある少年からの贈り物であったが、これでも一応魔法道具であった。しかし、魔法道具といっても、大それた魔法が組み込まれている訳ではなく、そこに組み込まれている魔法は一つのみ。それも、特定の相手と少しだけ会話が出来るという微妙な代物。
 それでも、少女達にとってはそれが珠玉の一品なのだろう。その髪留めに触れる手は大切な宝物でも扱うように丁寧で優しい。

「ふふ。これでいつでもお兄様とお話が出来ますわ」
「色々と制限がありますけれど」

 三人の中で少しだけ温度が違う態度の少女の言葉にも、似た容姿のもう一人の少女は機嫌よく微笑む。

「それでも、今まで何年もお話が出来なかったのです。多少の制限ぐらい問題ではありませんわ」

 無邪気ながらも品のある笑みを浮かべた少女に、口を挿んだ少女は、しょうがないなとでも言いたげな笑みを浮かべる。その笑みは、似た容姿ではあっても少しだけ年上の様に見える、余裕のある笑みであった。





「くふふふ」

 大部分が欠けた月が頼りなさげに地面を照らす平原で、ほとんど赤色の黒髪をした女性が、怪しい笑みを零しながら進んでいた。
 女性の赤のような黒髪には、その髪色に似た髪留めが細やかながらに存在を主張している。
 その髪留めは、細く短い金属を半分に曲げて髪を止めている小さな物で、長さは五六センチメートルだろうか。その短い金属の髪留めには飾りは無く、地味ではあるが、その分老若男女問わず髪に付けることが出来るだろう。髪の長さも然程関係ない。
 そんな、髪留めとしての機能に多少の疑問を抱きたくなる地味な髪留めを付けた女性は、見るからに上機嫌で平原を進む。ただ、そんな奇怪な笑い声を零しながら、好戦的な笑みを浮かべているその姿は、どう好意的に見ても変質者ではあるが。

「ああ! これでオーガストと繋がれると思うと昂りが収まらないわ。また相手してくれないかしら?」

 女性は魔力を漲らせて、ぎらつく目を周囲に向ける。周囲には魔物の姿があるも、そのどれもが生徒や兵士達と交戦中で、女性の相手をしてくれそうな魔物の姿は無い。
 それに残念そうにしながらも、横槍を入れないぐらいには理性が残っている女性は軽く頭を降ると、諦めて目的の地へと歩んでいくのだった。

しおり