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たったひとりの妹



 榊ライトは広い道場の中、目を閉じてたたみの上に正座していた。
 脳内に思い浮かべているのは、ヒーロースーツの自分ともうひとり。
 何度もふたりの得物がぶつかりあう。



 彼が行っているのは、スポーツの世界でも広く行われているイメージトレーニングという練習法だ。
 戦いの場にいる自分を想像し、動きをシミュレーションすることによって集中力や技術力を鍛え上げるというもの。



 どこで間違えたのか。
 あの場面はどう動くのが正解だったのか。
 いくつも場面を想像し、その時々の最適解を導き出そうとする。



 身じろぎもしていないのに、彼の額にはじっとりと汗がにじんでいる。
 それだけではない。
 彼の呼吸はまるで全力疾走しているかのように小刻みになっていた。
 やがて、その目がくわっと開かれる。



「はぁ……はぁ……くそっ……」
 ダンッ!
 ライトは強くたたみに拳を打ちつける。
 それは拳を伝って空間へと広がり、溶けるように消えていく。



 あれから。
 どうやっても勝ちの目は見えず、ライトはなすすべもなく負けてしまった。
 今までに感じたことのない、圧倒的な敗北だった。
 そのため、こうやって勝利の糸口を探そうとしていたのだ。
 だが、いくら脳内で戦ったところで敵に勝てるヴィジョンは浮かばない。



 相手がまだマスカレード・ジョーカーなら納得できていたのだろう。
 実際、ライトの所属している事務所も、最後に花を持たせようとして最強の悪を当てた、はずだった。
 だが、あの相手はなんだ。



 ブラッディ・ビューティ。
 深紅の衣装に身を包んだ妙な女ヴィラン。
 ランキングにも名を連ねていない新人だ。
 いや、新人ですらない。
 事務所によるとつい先ほどヴィラン同盟に登録希望が出されたばかりらしい。
 そんな相手に負けた彼の心は、荒れに荒れていた。



 ──いや、これはチャンスだ。
 そんな彼の耳元で、ナニカがささやいた。
 逆に考えろ。
 あのハプニングに同情したヒーロー協会から、今回の負けは公式戦換算されないとの旨を告げられていた。



 諦めるな、まだやれる。
 きっとそう神様が言っているんだ。
 ライトは自らに言い聞かせながら、大きく息を吸う。
「今の俺は強いんだ。みんながあこがれるヒーローなんだ」
 彼は再び目を閉じて心を落ち着けようとする。
 それは彼の母親が夕食を知らせに来るまで続いた。



 どんなヴィランであれ、ヒーローであれ、寝床というものは存在する。
 最強の悪、マスカレード・ジョーカー……五条イツカでもそれは変わらない。
 近場の店でドーナツを買った彼は、住宅街にある一軒家の前までやってくる。
 『五条』の表札がかけられた二階建ての家は明かりが灯っていなかった。
 首をかしげながら制服の右ポケットから鍵を取り出す。



 トビラを明けると、外から見えたとおり中も真っ暗だった。
 階段の先にある二階も、まっすぐにつながる廊下の奥も、その途中にあるリビングさえ──いや、リビングに続く磨りガラスのトビラ、その向こうから青白い光がぼんやりと届いていた。
「マリナ?」



 玄関先で発した声は返ってこない。
 だが、もぞりと何かがうごめくような気配はあった。
 飛び跳ねるように靴を脱ぎ捨て、中に急ぐ。
 放り出された靴が何もないたたきに、軽い音を立てて落ちる。



 足を踏み入れたリビングも暗闇に染まっていた。
 ダイニングテーブルの上にあるノートパソコンだけが唯一の光源。
「ふぅ……ふぅ……」
 青白い光に照らされながら机に突っ伏すマリナは、暗がりの中でも分かるほどに肩で息をしていた。長い髪が汗で額に張りつき、その顔を覆い隠してしまっている。
「おい、どうした。大丈夫か、マリナ」
 慌てて駆け寄るイツカ。



 マリナは目を見開いた後、力のない笑みを浮かべた。
 美しい顔は当たる光の影響か、暗闇の中で蒼白に染まっていた。
「……お、おかえりなさい、イツカ兄さん。すぐご飯にするわね……それと、資料はパソコンの中だけど……あっ」
 うわごとのようにそう言って、ふらふらとイスから立ち上がる。
 だが、すぐにバランスを崩して倒れこむ。
「おっと」
 華奢な身体はすっぽりと腕の中に収まった。



「落ち着け。無理はするな」
 その優しい声音は、今までじっと一人で堪えていた少女の心の防波堤を決壊させるのにじゅうぶんだった。
 少女は声を震わせる。
「イヤ……見捨てないで……もうあそこに戻るのはイヤ……っ。代わりでもいいの。だから──」
 溢れた想いが口から次々に漏れ出てくる。



 それは彼女の過去の断片。 
 今まで捨ててきた思い出の数々。
「お前がお前である限り、見捨てはしない。ずっとここにいろ」
 そんな少女へ、少年ははっきりと確かめるかのごとく言葉を紡ぐ。
 すすり泣きが暗闇に響く。
 マリナが泣き止むまで、イツカはずっと彼女の細い身体を抱きしめていた。










『──どうしようもない様子ならまた連絡してきて。愛しているよ』
「くたばれエセドクター」
 主治医との電話を切ったイツカはスマホをポケットにしまいこみ、ふぅと息をついて視線を下げる、



 少年の膝を枕にしながら静かな寝息を立てるマリナの姿。
 その穏やかな寝顔は、つい先ほどまで取り乱していた人物とは思えない。
 整ったはかなげな顔立ちにそれを引き立てる細い手足。肌も白く、触れれば傷つけてしまうのではないかと接する者を不安にさせてしまうだろう。



「目を開いていなければ外見は非の打ち所のない美人なんだがな」
 彼女が美少女であることに代わりはない。
 等身大フィギュアでも作って道ばたに展示しようものなら、十人中十人がすれ違いざまに振り返るだろう。
 その後五人ぐらいが死んだ魚のような目に幻滅するまでがワンセットだが。



 つけていたテレビから、無駄にバカっぽい笑い声が流れてくる。
 今日の芸人トーク番組の話題は、ヒーローオタク特集らしい。
 プリズムレッド派とプリズムイエロー派が口論になり、あわや殴り合いにまで発展しようとしていた。
 そこまでやって仲直りに持って行くのがテンプレの芸人なので、周囲は笑い転げているが。
「……こいつの寝顔の方がよっぽど暇つぶしになるな」
 そうつぶやいて、まだ幼さの残る横顔を眺める。



 最近また髪が伸びてきたな、とか。
 こんなところにほくろがあったんだな、とか。
 美人は三日で飽きると言うが、むしろ最近になってさらに彼女の美貌に目を見張っているイツカにとっては縁遠い言葉だった。



 そんなことをしている間にもテレビの中ではコメディが終わり、ニュースが流れ始める。



 今日最初の話題はマスカレード・ジョーカーとプリズムスターズの戦いについて。
 プリズムスターズの意気込みに加えて、スタジオに招かれたヒーロー評論家によるコメントも添えられていた。



『最近のヒーローは何というか……覇気、そう、覇気がない。敵を圧倒し、蹴散らし、粉みじんにするほどの覇気が。対するヴィラン側はマスカレード・ジョーカーや彼に触発された新人がどんどん出てきてる。これを期に是非ともヒーロー側には盛り返してほしいですな』
 太った背広姿の男がさも知った風にそう言うと、女子アナは貼りつけたような笑みでそれに応じる。
『それでは盛岡さんはプリズムスターズが勝利する、と考えておられるということですか?』
『さすがのマスカレード・ジョーカーでもあの五人を一度に相手するのは難しいと思いますね』



『五対一が卑怯だという声も一部では上がっていますが、その点に関してはどう思っておられますか? それを考慮して、今までは行われてこなかったマッチングですが』
『ははは、何をおっしゃる。戦いを申しこんだのは彼自身ですよ。だとしたら、そこから先は彼自身の責任だと私は考えますね。調子に乗って予告状を出したのなら、きっと痛い目にあうでしょうね』



「言いたいだけ言っていればいいさ」
 ヒーロー評論家の言葉を、イツカは鼻で笑う。
 そこに慢心や油断はなく、ただ絶対的な自信だけがあった。
 それからはスポーツやゴシップなどの記事が流れ、新人ヴィランとライジングの戦いについても軽く触れられる。新人ヴィランの華々しいデビューが報じられる──訳ではなく、見るからにヒーロー側贔屓の内容だった。 
 そこまでビューティ自身には尺がとられることなく、すぐ別の話題に切り替わる。
 ──特に情報は得られない、か。



「そういえばノートPCに資料があるんだったか」
 腰を上げた彼に反応するように、眠っていた少女がもぞりと動く。
「…………イツカにい、さん」
 何か夢を見ているのだろうか、薄い唇からぽつりと名前が漏れる。
 すとん、と腰がソファーに着地する。
 その顔にはやれやれと呆れたような、しかし穏やかさを感じさせる笑みが浮かんでいた。










「ん……んぅ……おはよう、イツカ兄さん……」
 ニュースが終盤の天気予報にさしかかった頃、マリナは目をこすりながら身体を起こす。
 テレビの脇に置かれた短針は、ちょうど十にさしかかろうとしていたところだった。
「あぁ、思ったより早い目覚めだったな」




「え…………っっっ!」
「おっと」
 ぼふっと言う音が聞こえてきそうなほど一瞬で顔を真っ赤にし、飛び起きるマリナ。
 額同士がぶつかりそうになるのを落ち着いてよけているあたり、イツカの運動神経のよさが伺える。
「わ、私、いったい何を……」
「何だ、覚えていないのか?」
「え…………あ……」
 再び蒼白になる少女の顔。




 やぶ蛇だったか。
 少年は自分の発言を悔いながらも静かに話しかける。
「何があったのか具体的には聞かん。体調がよければそれでいい」




「………………ありがとう、イツカ兄さん。それとごめんなさい。すぐに料理を──」
 慌てて立ち上がろうとする少女めがけて、イツカの身体から影が伸びた。
 影は手となってその細い身体を支える。
「落ち着け、マリナ。お前らしくない」
「あう」
 そのまま影で頭を小突けば、可愛らしい声。




「落ち着け、ひとりで何でもしようとするな。必要なら兄の手も使え」
「そう、ね。じゃあ、ご飯をよそってもらえるかしら?」
 調子を取り戻したマリナはつつがなく夕食の準備を終わらせていく。




 よほど機嫌が良いらしく、小さく鼻歌まで歌っていたのだが、本人は気づいている様子はなさそうだ。
「「いただきます」」
 準備を生え、お互いの姿が正面になるように座った二人は、仲良く手を合わせる。
 寝る二時間前にご飯を食べると太りやすいという話もあるのだが、そんな学術理論よりも彼らが求めているのは食事というコミュニケーションだ。




 ふっくらと炊かれた白米は宝石のようにつやつやと輝いている。しっとりとみずみずしい米は、箸でつまめば一粒一粒が離れるまいと小さな抵抗を見せてくる。




 とろりとした餡がからまった豚肉はタマネギと濃密に絡み合い、今にも溶け出してしまいそう。その横で皿を盛り上げるのはレタス、ブロッコリー、にんじんなどいった色とりどりの野菜たち。コンソメスープの方にも刻まれた根菜がベーコンと一緒に加えられており、バランスよく、かつおいしく食べてもらおうという作り手の気遣いがそこにあった。




「今日も美味いな」
「兄さんに出す食事だもの、下手なものを作る気は無いわ」
 食卓であっても背筋をぴんと伸ばしたマリナの姿は優雅さを感じさせる。




「ありがとう。いつもこれだけ作ってくれて。手間だろうに」
「……」
 じとー。
「ん? 何か気に障ったか?」
「……倒れて心配させたのは私の責任だけれど、おべっかはいらないわ」
「普段思ってることを口に出しているだけだ」
「からかわないで、兄さん」
 目が濁っているせいでやけに迫力のある視線を受け流し、イツカは何食わぬ顔で食事を進める。




 マリナの眉がさらに寄るが、やがて諦めたように息を吐いた。
「まぁ、あなたの健康管理は私の仕事ですもの。これぐらいなんてことないわ。こんな素晴らしい妹に感謝することね」
 自信たっぷりに胸を張るが、マリナに張るほどの胸はない。
 現実は素晴らしくも非情だった。




「兄さん、どこを見てるのかしら?」
「マリナの綺麗な顔だな」
「今日のおかわりは無しね」
「何故だ」
 そちらのおべっかは許されなかったようだ。
 少女にもちっぽけなプライドというものがあったのだろう。




 遅い食事に舌鼓を打ち終えたあとは、風呂のお湯が溜まるのを待つ間のんびりと過ごす。
 それが五条家の夕食後。
 こういう時の飲み物がだいたいコーヒーなのは、イツカの好みの問題だ。



「はい」
「助かる」
 マグカップの片方を渡したマリナはイツカの隣にちょこんと座り、自分の分に口をつける。
 ブラックが飲めずに、いつもこっそり砂糖を入れているのは彼女だけの秘密である。
当のイツカはとっくにが気づいているのだが、




 夕食後だからといって何か特別なことを話すわけでも、何か奇異なことをするわけでもない。
 普段通りイツカはぱらぱらと本を読み、マリナはかたかたとノートPCをいじる。
「今日は何の本?」
「かの有名な悪役『ダークゲイザー』を演じた俳優のインタビューだな」
「面白い?」
「割と。後で読むか?」
「そうさせてもらおうかしら」
 時折他愛のない会話をしつつ、穏やかな時間が流れていく。
 ヴィランとしての戦いとは切り離された、ただごく普通の家族としての日常がそこにはあった。




 ふぅ、と作業が一段落ついたのだろうマリナが、パソコンから視線を上げる。
 耳にかかった髪をかき分けて、目の前の机に置いてあるカップを口まで持って行く。
 その仕草はどこかの国の姫のように優雅で洗練されていたもの。
 イツカと動きがそこまで変わらないはずなのにそう見えるのは、彼女が受けてきた教育のせいか、はたまた単なる趣味の範疇か。
 ともあれ小休止を終えたマリナは隣に話しかける。




「兄さん、今日は戦わなかったみたいじゃない。よかったの?」
「別に構わないさ。今のライジングでは俺を倒せない。どうせいつも通り魅せの勝負になって終わるだけだ」
「強すぎるのも大変ね……。はい、これ。明日のトレーニングのメニューよ」
 本から顔を上げずに応答するイツカの右腕に、パソコンに貼り付けていたメモ用紙を一枚貼りつけた。
 そこにはジョギングをはじめとした筋トレの数々がびっしりと書かれている。
 こういった筋量のバランスや能力強化の調整をするのも、彼女の仕事のひとつだった。




 ヴィランの一位という地位に居続けるのは楽ではない。
 ヒーローとの戦いもさることながら、下から上がってくる新人も山ほどいる。
 プロの枠は両陣営ともに百人ずつ。
 特に今年のヴィランカーストはかなりアマチュアの成長が著しく、今年に入ってから既に十五人がプロを蹴落としてその座についている。
 ゆえに毎日のトレーニングはほぼ必須と言えた。




「……………………」
 イツカはそのメニューを一度手に取り、何か考えこむような仕草を見せる。
「どうかしたのかしら? ルーティーンから大きな変化を加えたつもりはないのだけれど」
「……いや、何でもない。ありがとう」
「どういたしまして」
 そんな会話をしていると、湯沸かしタイマーのピコンッと軽い音が部屋の一角から聞こえてきた。
 視線が絡み合う。
 無言でお互いが遠慮するという状況ができあがってしまっていた




「先入ってきたら?」
「いいのか?」
「別に今更順番なんて気にしないわ。私たちは兄妹なんだから」
「じゃあ、一番風呂貰ってくる」
「洗濯物はカゴの中にお願いね」
 立ち上がり、リビングを出て行く兄の姿を、マリナは壁の向こうから足音さえ聞こえなくなるまでじっとそのドアを見つめていた。










「ふふ、世話の焼ける人ね。そう思わない?」
 ひとりになったマリナは、親しげに口調でどこかへと話しかけた。
 当然、部屋の中には誰もいない。
 唯一の同居人はたった今、風呂に入るために出ていった。
 ゆえに、応えてくれる者は誰もいない。




 彼女が話しかける先にあるのはひとり……いや、一枚だけ。
 その視線の先には、ソファの前にあるローテーブルの上で、写真がスタンドに飾られていた。




 そこに映るのは幼い二人の少年少女。
 公園を背景に、少年はぶっきらぼうにそっぽを向いているが、少女は無邪気に笑っている。
 どことなく面影が似てる彼らは、見る人が見れば兄妹だと分かるだろう。




「ねぇユウちゃん、今日のことを兄さんに教えたら、どう言うんでしょうね」
 狂気に呑まれた様子はない。
 いたって彼女は正気だった。
 目が腐っていることには変わりないが。




 彼女は今日起こったことをつらつらと写真に聞かせていく。
 友人に語るように、楽しく会話するように。
 九月の夜は静かに更けていった。










 その時間、男は綺麗に片付けられた机に向かっていた。
 胸元にかけられた名札には、『柊トシミツ』という文字が刷られている
 隅々までアイロンをかけていたはずの白衣は、夜となればいくらかシワが寄っていた。
 シワが寄っているのは顔だけではない。
 黒縁眼鏡の向こう側……眉間にも細い節目ができあがっていた。




 医者の仕事というのでまず挙げられるのは患者の診察だろう。
 だが、それ以外にも日中に出てくる数々の書類仕事を片付けなければいけない。
 昼間のカルテに詳細を書きつけ、入院患者に処方する薬品の指示書を作り、
 仕事をやっつけている間にまた仕事が増えるなんてザラで、医者はこのように病気だけではなくそんな数の暴力とも日々戦っている。
 必要な作業だと理解しても、本音のところでは早く終わらせて布団に潜りたいと考えていた。




 ──プルルルルル、プルルルルル。
 そんなところにスマホへかかってくる電話など、確定で仕事が増えると言っているようなものだった。




 恨めしそうに机の端を睨みつけた後、俊充はケータイを手に取る。
「はい、中央病院の柊ですが」
『俺だ』
 とたん、先ほどまで真一文字に結ばれていた唇がにぃっと上がる。
 男はペンを書類の上に転がし、電話を右手に持ち替えた。




「君から電話をかけてくるなんて珍しいね。その事実だけで嬉しくてご飯三杯はいけるよ」
『黙れ闇医者。借金返さんぞ』
 苦虫を十匹ほど一気に噛みつぶした声が聞こえてくる。
 できれば話したくなかった相手とやむをえず話さざるを得なくなったかのようだ。




「それはまた斬新な脅しだね。何なら君の身体を僕が買ってもいいんだよ?」
『手応えのないヒーローの相手をしていた方がよっぽど金になる。というか、そろそろ一気に返させてくれてもいいんじゃないか』
「いいや、ダメだね。ローンを組んだのは君だろう? 契約を変更する気は僕にはないよ」
『ちっ』




 トシミツはイツカが正体不明のヴィラン、マスカレード・ジョーカーであることを知る数少ない人間の一人だ。
 かねてから保護者も同然で彼のことを見てきたトシミツだからこそ、イツカの懐事情もある程度把握している。




 勝利する度にヴィラン同盟から支給される懸賞金と彼の勝率を加味すれば、彼の所有財産は一億はくだらないだろう。
 そこに関連グッズを売り出している企業からの契約金も合わせれば、その数倍は所有しているに違いない。
 借金を返そうとすれば一瞬で返せるはずだ。
 だが、俊充はそれを許していなかった。
 そうしなければいけない理由があったから。




『いや、今はそんなことじゃない。妹が倒れた。今から会えるか?』
「あー、んー」
 ちらりと壁に掛かったカレンダーに目が向けられる。
 赤いインクが、今日という日付をぐりぐり囲んでいた。




「ちょーっと難しいかな。これからお偉いさんと会う予定だから」
『キャンセルしろ』
 話し相手の予定なんて気にすることなく、イツカはにべもなく切り捨てる。
「今回ばかりは五条くんの頼みでも無理。でも、少し時間があるからアドバイスぐらいならできるよ」
 その言葉を受け、帰宅時の状況を説明していく。




 一通りの情報を聞いた医者はふむふむと頷いてこんな答えを出した。
「先日処方した薬はまだ残っているかい?」
『残っていると思うが』
「じゃあそれを飲ませておいたらいいよ。恐らくストレス性の発作だと思う」
『……ストレスか』
「思い当たる節が? もしかして誰かに会ったのかい?」
『いや、逆だ。思い当たる節はない。食材は昨日あらかじめ買い貯めておいたし、通販に関しては専用ポストを作った。。自分から家を出るようなヤツじゃない以上、誰かに会うなんてことはないはずだ』




 それは普通の人から見ればやり過ぎなぐらい手厚い保護。
 しかし、この二人にとってはそれが最適解であることを俊充は理解していた。
 現在の彼らの関係はすこぶる良好だ。
 今の彼らは完璧な円のよう。
 イツカとつきあいの長いトシミツさえ入りこむ隙がない。




「君は相変わらずとてつもない過保護だね」
『何を言ってるんだ。妹の面倒を見るのは兄として当然の努めだろう』
「確かに妹ちゃんの対人恐怖症を考える限り、そうするのが彼女の心の平穏にはつながるんだろうけど……うん、まぁ君たちがいいならそれでいいんだろうね」
『何が言いたい』
「いや、何も。それじゃあ、そろそろお客様が来る頃だから。どうしようもない様子ならまた連絡してきて。愛しているよ」
『くたばれエセドクター』
 ──プツン。




 ガチャリと受話器を戻し、満足げにふぅと息を吐く。
 そして、目の前の書類の山を見てげんなりとした様子で肩を落とした。
「……はぁ、かったるいなぁ」
 うぅんと背筋を伸ばしていると、コンコン、と診察室の軽くドアがノックされる。
「柊医師、いる?」
 壁一枚仕切られた向こうから聞こえてきたのは、鈴を鳴らしたような女性の声。
 慌てたようにトシミツはイスから立ち上がる。
「はい、今すぐ開けます!」




 白いトビラを開けると、絶世の美女がいた。
 女性の理想をかき集めたような容姿は、プロポーションまで完璧だ。
 大人の艶やかさと子どもの無邪気さを兼ね備えた不思議な女性の魅力に、当然のようにトシミツも引きこまれる。




 それは彼女の造形だけが原因ではない。
 着飾る服は見る人が見ればその服は全て高級ブランドのものであると分かるだろう。
 だが、着られているとは誰も思えない。
 それらを完全に従え、自らの引き立て役にまで落としこめる暴力的なまでの美がそこにあった。




「ありがとう。あなたが柊トシミツ医師でいいんだよね?」
 慌ただしく出迎えられた女性は、気にしていないとでも言う体で優雅に微笑みを返す。




 対するトシミツはさっきのだらけた様子はどこへやら。
 少しうわずった声でへーこらと腰を曲げていた。
「わざわざ来てくださらなくても、こちらから伺いましたのに」
「さっき急にアポとったのはこっちなんだから、そうかしこまらなくてもいいって。おじいさまやおばさまじゃないのに」
「いえ、とんでもない。カレン様は東雲グループの才女であらせられます。こちらにも立場というものがありますので」




 東雲グループは医療機器の分野で世界的に躍進している『Shinono’me』を包する一大企業。トシミツにとっては働き先の大手スポンサーとも言える存在だ。
 そしてこの女性──東雲カレンはその中でも能力分野を得意とする家計の長女である。
 今年で齢四十五になるトシミツが下手に出るのも仕方のないことと言えた。
 だが、東雲カレンはそれをよしとしなかったらしい。




「ふぅん……………………つまらないね、きみ」




 ぞわり。
 空気が、震えた。
 目の前の美女は笑顔のまま──しかし。
 ちらりと覗かせた見えない仮面の下にあるのは人を人と思わない怪物の顔。
 いのちを握りつぶしてしまうことのできる気まぐれな裁定者がそこにはいた。




 トシミツは喉を鳴らす。
 それだけだった。
 彼女にかかれば人の死など植物を摘み取るほどに造作もない。
 その手で、その能力で、その権力で。




「まぁ、いいや。今日はそんなことどうでもいいし」
 興味なさげに仮面を被り直す。
 ほっと息をなで下ろそうとして、二人の目が合う。
 その時、トシミツは気づかされた。
 目の前の少女は別の仮面につけ変えただけなのだと。
 怪物から、女帝へと。
 瞳の奥には、どろりとした粘着質の感情がうごめいていた。




「マスカレード・ジョーカーについて知っていること、教えてくれない?」





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