湧水の道②
日の出前ほんの少し。
まだ水路には行き交う船もなく、静かな朝。
窓を開ければ、涼しい風が顔に吹き付け、気持ちのいい目覚めを促進する。
グッと背伸びをすれば、空は赤く染まり始め、白に近い橙色の綺麗な陽が昇り始めてきた。最高の日の出だ。
宿の用意した寝間着から普段着に着替え、外へと出る。人もおらず、酒屋が開店準備に追われてはいるものの、それ以外は閉まっている。
少し寂しい街並みは少しずつ明るくなり、だんだんと影を短くしていく。
雲は若干あるが晴れた空を鳥は行き交い、せっせと1日を始めだしている。
水路に囲まれた区画は他と比べれば広く、その中は宿と酒屋が2軒、風呂屋が1軒、その他住宅など諸々が詰まっている。ここだけで小さな村のようなものだが、事実レウアはたくさんの村が集まってできた街なのだ。
こういう区画分けからも、歴史が浮かびあがる。
整えられた街並みは、それぞれほとんど同じ見た目だが、ほんの少しだけ違う。それには建物ごとのオリジナリティーが詰められ、周りの建物とセンスの競い合いをしている。
残念な視覚を持つ人には変わらなく退屈に見えるのだろうが、僕はそうは思えない。
散歩していて気づく些細な違いには、ほんの少しの達成感が込められている。それを1つ1つ手づかみで回収していく楽しさは、この街でしか味わえないのだろう。
区画をぐるっと回れば、また宿へとたどり着く。
「おはようっす! お出かけするっすか?」
宿の下にある桟橋を覗けば、すでに舵手がそろっていた。
お互い朝の早い人種なのだと考えながら、船を使うか使わないかを思案する。ここを覗いたのは単純に気分だ。
なんとなく行こうと思ったから、ここに来た。だから明確な行き先どころか、そもそも何をするのかも決めていない。ここは一つ、舵手に任せてみようか。
「おすすめは?」
「風呂に行きましょか? 朝風呂は気持ちいいでっせ!」
「任せる」
「ほいさっ、乗った乗った!」
馬はまだ寝ている。船に乗るのは僕と少しばかりの荷物だけだ。
出会いの時よりも早く進む船は、まだ眠っている街の穏やかな波をかき分けながら、いくつか曲がった先にある温泉を目指している。舵手が波を起こすと、同時にギシギシと船がきしむ音を立てる。
それもまた、眠る街に消え、そしてまた音が立つ。
繰り返していれば、船はゆっくりと接岸した。
桟橋から目的の建物へ階段を登れば、高級感漂うロビーが現れる。土足禁止の絨毯には用意された専用の履物であがる。しかし、履物をしていても、絨毯の感触は伝わってきた。
まるで一本一本、毛が柔らかくしなやかに立っているような、その毛が僕の重力に逆らうように反発して持ち上げているかのような。高級感に似合った落ち着いた空間と優しく包まれる足元。
きっと高いのだろうけれど、足は軽く、スイスイと受付へと進んでしまう。
ふと受付に顔を向ければ、目の合った従業員が軽く頭を下げてきた。
気づけば受付の前にいた僕は支払いをすませ、タオルと櫛を受け取っていた。
案内され着いたのは、男子脱衣所の前。去っていく従業員を死んだ魚のような目で眺めてから、その隣に位置する赤い垂れ幕のかかった入口の方へと入っていった。
脱衣所には誰もおらず、また同じように風呂にもいない。
独り占めだ。
軽く体を清めてから、風呂へと向かう。屋外にあるそれは、湯気をもうもうと立てながら、僕を誘う。
風がふき身に染みる冷たさから逃れるように、僕はさっと風呂に入った。
「ふぅぅぅ……」
これが極楽なのか。
身体にぴったりと張り付いた適切な水温が、じわじわと内側へと攻め入る。そして芯までたどり着けば、すでに僕の身体は温泉の虜にされていた。
染み渡る感覚に身を委ね、しばらくの間、思考が停止する。快楽が刻み込まれて、ぽかぽかになっても、その風呂から出る気にはなれない。
しかし限界というのは誰にでもあるもので、それはいかに気持ちのいいものに包まれていたとしても訪れる。
茹で上がった生の身体を脱衣所でさましながら、鼻から滴る赤い液体を使い捨てのタオルでふさぐ。
思考もまだはっきりとはしていないが、「のぼせた」という事実だけは把握している。
一時の快楽と、それの及ぼす副作用を体験した僕はまた船にゆられ、宿へと戻った。
戻っているうちに湯冷めしてしまい、せっかくの温かさが無になってしまったのが残念だ。