ルルの兄様③
ルルの言葉は続く。
それはルルが知る、ルルの苦しみの過去だった。
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その日も私は兄様の部屋にいた。
兄様の部屋は熱気がこもり、すぐに汗が吹き出してしまうほど、ムシムシとしていた。
「兄……様? ルル、兄様のね……」
兄様はいつも無言だった。声を発することなどなく、ただ静かに生き延びていた。最近は1日中ずっと天井を眺めている。
壊れかけた精神をリアルと繋ぎ止めるのは、この私自身なんだ、と。いつの間にか、そんな変な存在意義を見出していた。でも間違ってはいなかったのだと思う。
私が話しかければ、兄様は必ず相槌を打ってくれた。弱弱しい相槌だったが、それでも私は嬉しかった。
生まれてから一度も外を体験しなかった私には、きっと兄様しか味方がいないと信じていたから、素直に喜べた。
「……」
いつもより少しだけ早い時間に、兄様は私にアイコンタクトを送った。
隠れろという合図だ。すぐ私は定位置に戻り、身を潜めた。汗で服が濡れ、気持ち悪くなるのを我慢して必死にやり過ごそうとした。
少しすると、誰かが入ってきた。慎重に扉を開け、兄様に話しかけているようだ。
「…………ぃ……ね」
「あ……だ……。……つれ…………から」
聞き耳を立てていたが、部屋に入ってきた人は話すことにも慎重で、小さな声で語りかけているようだった。だから全ては聞き取れなかった。
一方的な会話が終われば、その人は出ていったのだろう、扉が閉まる音がした。
恐る恐る隠れていた場所から部屋へと顔を出すと、無表情で涙を流している兄様がいた。
兄様はまた私にアイコンタクトを送っていた。
半刻だけ隠れていろ。そう兄様は伝えていた。すぐに隠れ場所に戻り、再度身を屈める。
隠れたと同時に窓が開く音がした。兄様が換気をしようとしているのか、と勝手に考察していると、次にはバサッという布が靡く音がした。
何をしているのか、何が行われているのか、私には分からない。
もどかしくて、しかし兄様の言いつけを守らなければならないという真逆の気持ちに逡巡し、しばらくした後、意を決して私は身を部屋へと戻した。
そこに兄様の姿は無かった。
一瞬戸惑ったが、私はすぐに理解した。
兄様は出て行かれたのだと。
この極端に狭く、暗い、この惨めな世界から、未知の大きな世界へと旅に出かけたのだと。
自然と私の足は窓へ向かっていた。
気が付けば、私は森の中を歩いていた。道などなく、ずっと茂みに覆われた森。
草木が擦れ痒く感じたり、煩い虫たちの合唱が聞こえたり、それら全ては迷惑なものだが、私は感動していた。
世界は知らないことで溢れかえっていることを、そしてそれら全てが同じものは二つとなく、全てにおいて時間という概念が存在し、それは流れていることを、初めて知った。
食事なんて取らずに、私はひたすらに歩いた。まっすぐ前を見て、ずっと歩き続けた。
いくつかの森と草原を超え、私は倒れた。
場所は、川の潺がよく聞こえる場所で、陽の当たる草原だった。
気づけば、私はふかふかの床にふかふかの布を被せられていた。
起き上がりキョロキョロと辺りを見渡せば、白髪の老婆が近づいてきた。
「やっと起きたねぇ。大丈夫かい?」
半透明の茶色の液体が入ったコップを私に渡して話しかけてきた。一口飲み、涙した。
おいしくて、冷たくて、コップに入っていて、心配されて、全部が新しい感覚で。
初めて人になれた気がした。
それから盛大に泣きじゃくって、出てきた料理は片っ端から平らげて、人の当たり前を習った。
その老婆は私を優しく扱ってくれた。人というものから、世界まで、私が疑問を投げかければ、なんでもすぐに答えてくれた。
「川はなんで流れるの?」
「忙しいからだよ。川の水はみんな大忙しで、いつもずっと走っているのさ。水さんが走れば、川は流れるだろう?」
「なんで水を飲むの?」
「泣くときにいっぱい涙を出せるようにするからさ。いっぱい涙を流したらスッキリするだろう?」
「じゃあ、生きる意味ってなに?」
ほとんどが冗談だって、今だから分かるけど、当時は全てを信じていた。
だけど、今でも信じ続けている答えがある。
「生きる意味なんて誰も分からんよ。人ってのは、生きる意味を探して生きてるのさ。それで意味が見つかったら、他にすることはなくなるだろう? すると忽ち、人は死んでしまう。……生きる意味は分からないけど、生きる意味を遠回りをして探す。それが生きることなんだよ」
私はいま死までの道を遠回りしているんだ。
長生きするためには、もっともっと遠回りをして、もっともっといっぱい経験しなければならないんだ。
私の人格は、この老婆の言葉が作り上げているのかもしれない。
そういえば、老婆だと他人っぽい気がする。この人は私の臨んだ母親に近いし……。
そうだ、伯母様と呼ぼう。
兄様の次に優しい人。
私を喜んでくれる、2人目の人。
兄様を探して、よくわからない生きる意味を探して、私は伯母様と暮らしている。
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ルルの話は途切れ途切れだったが、十分伝わった。
話し終えた頃を見計らって、僕はギュッと抱きしめた。