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第2話

「……ここは天国?」
––––そうとしか思えない。

咲く時期の違う白百合(ゆり)白木蓮(びゃくれん)が一斉に花開いているのである。
「……まだあなたは生きているわ」
温かく優しさに満ちた女性の声が耳に流れこんでくる。
金之助(きんのすけ)は身を硬くした。彼の背に人のからだが触れる。着物越しにも伝わる、人肌のぬくもり。背中に押しつけられたふくよかな双丘(おか)が、それが女性のものであることを語っていた。

白く細いふたつの腕が、金之助の肩から胸へとまわされる。
「……生きてください。わたしの分まで……」
耳元に(ささや)かれたその声の持ち主を金之助は知っていた。
「……義姉(ねえ)さん!」
首を曲げて、おのれを抱いている者の顔を見る。
そこには(まご)うごうことなき義姉––––三番目の兄和三郎(わさぶろう)の妻登世(とせ)が微笑みを浮かべていた。
義姉と言っても金之助と同い年、二十二歳の若妻––––そして金之助の理想の女性であった。

––––美しい人。

のちに「漱石(そうせき)」となり、その作品において細微(さいび)にわたり緻密(ちみつ)な描写をおこない、的確な言葉がなければ造語することもいとわなかった彼が、登世の姿容を表現するにはそうとしか言えなかった。

––––物静かな女性だった。

陽気な兄の横にいると、まるで空気と同化しているかのように(はかな)い存在。それでいてその微笑みもその声も、心に染み込むほどに慈愛に満ちた、力感を持っていた。
この義姉の前に立つと、金之助の心臓は高鳴り、上気して頭がクラクラする。

(あきら)めなければならない道徳心と、そんなの関係ないとうっちゃりたい背徳心がせめぎあう。
対峙(たいじ)すれば、甘酸っぱいような、苦いような、辛いような、そんな気持ちをつねに抱く。

初恋––––だったのかもしれない。

「……義姉さん! 義姉さんはまだ生きている」
彼女はもう何年も病いに()せっていた。近ごろはさらに病状思わしくなく、最後に会った時は生来(せいらい)肌理(はだ)の白さが消え入るほど()き通っていた。

だが、死んではいない。
––––何より、いま金之助を後ろから抱き寄せているその身体は、血がかよっていることを如実(にょじつ)にあらわしているではないか!
「……いまは、生きています。でも、もう……」
消え入るようなその言葉の語尾が震えていた。
「……あなたに、残りの命をあげます!」
涙声––––しかしそれはとてつもなく力強かった。
「そ、そんなの……いりません!」
登世の腕を払いのけ、金之助は振り返る。
––––死んだ兄たちと違い、確かに登世はそこにいた。が––––

「……!」
金之助は息を呑んだ。一糸まとわぬ、生まれた時の姿で彼女はいた。一瞬で顔を朱に染め抜く。
「……な、な、なんで、裸なんですか⁉」
声をうわずらせなが、視線を外す。
「……生きてください」
涙を流しながら登世は抱きついてきた。
腕を金之助の背にまわす。
「い、言われなくたって、生きます! これから百年生きますよ!」
金之助は登世を力の限り抱きしめ、寄せた。

「……嬉しい」
涙珠(なみだ)が頬を伝わり落ちる。
「……義姉さん」
暫時(ざんじ)見つめ合うふたり。そしてどちらともなく、目を閉じ、顔を寄せる。ふたつの唇がまさに触れあんとした時––––

「んんん〜むむむむ!」
登世のやけに気合いの入った声と、暴牛もかくやの鼻息の荒さに金之助ははっとして目を開いた。

––––そこに登世はいなかった。

「う〜ん、ちゅぱちゅぱ!」
代わって、タコのように唇とがらせた(のぼる)が眼前に迫る。
「……いやァァァァァァァァ!!!」

––––スパパーンッ!​
 
絶叫とともに金之助は渾身の平手打ちを升に加えた。

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