第百三十九話
微睡みの空間。
黒を基調としたマーブル模様の世界。上下感覚もなく、光もなく、闇もない。
ここがどこであるのか、どうして存在しているのか。
それを知る者はいない。
世界とカナタの世界を往来できる魔族でさえ、知る者は少ない。
ここは、そんな空間だ。時の流れさえ欺くその中で、ただ一つ、ガラスの球体だけが浮かんでいる。
その球体の中は激しく燃えていて、外から見ればまるで電球にも見えるかもしれない。
その実、その炎は荒れ狂うもので、力なきものはなす術もなく骨も残らず消される業火でもあった。
「憎い、ニクイ、にくいっ!!」
業火の主は、長い髪を燃やしながら叫ぶ。矮躯とも言える華奢な体つきは幼く、炎さえ宿していなければ誰もが可愛いと誉めそやすだろう美しさを湛えている。
少女は、お世辞にも行儀が良いとは言えない姿勢でベッドに腰かけ、炎の棒を咥えていた。
内側から燃え滾る。それは恨み、憎悪、怨念、復讐。怒りの負の感情の全てだ。
そう。少女は怒っていた。その身を焦がしても尚、収まらぬ怒りだ。
まるで赤ん坊のダダのように炎がまた弾きだされ、周囲を焼き払う。もしこれが魔族の生み出した特殊な家具でなければ、もう消滅していることだろう。
「母上。どうかお気を鎮めていただきますよう」
気温にすることすら馬鹿らしいような温度の中、彼は現れた。
ドグジン。土の魔神である。
土の魔族を束ねる彼は、己に纏う魔力を防御に回して炎に耐えつつ進言した。
「これをどう鎮めるって言うんだい!」
せっかくの諌言は、手ひどい声で追い払われてしまった。
同時に凄まじいばかりの熱がドグジンを襲う。とはいえ、彼を傷付けることは叶わない。ドグジンはそれに憐憫を感じてしまう。力のある頃の少女――母であれば、今ので自分など半死半生にさせられていただろうに。
己の母をここまで弱らせた人間たちを思い出し、ドグジンはジクジクとした黒い感情に支配されそうになった。
「ですが、それではお体に障ります」
「この怒りを抑え込んでおく方が体に障るってもんだね!」
「お言葉ながら、しっかり養生されなければ、治るものも治りません」
毒を吐く母に、ドグジンは辛抱強く進言する。
手足をバタバタさせながら炎を尚も吐き出す母へ向け、ドグジンは跪いて頭を垂れた。
「もう間もなく、精霊どもがやってきます」
すると、母の反応が激変した。あれだけ怒り狂っていた表情が一瞬沈黙し、次には笑顔を浮かべる。それでまた盛大に炎がまき散らされたが、ドグジンの皮膚一片とも焼かないので気にしない。
「――……食事の時間かい!」
「はい。もう間もなくかと」
母は魂を四分割させられて大きく弱体化した上に、その三つを失った。残った一つも今にも消滅しそうなくらい弱っていて、とにかく魔力の補給が重要だった。
そんな魔力の補給に最適なのが、精霊たちである。
純然たる魔力の結晶とも言える彼らは、格好の餌なのだ。
特に生で捕食すると、瑞々しい魔力が漲り、魔族であれば、誰もが至福になれる。
とはいえ、低級や中級がそんな真似をすれば精霊の波動に負けて逆に消滅の憂き目を見るのだが。魔族の頂点たる魔神の母はそんなことはない。そもそも魂の強度が違うのだから。
「届いたようですね」
精霊狩りに派遣していた眷属たちの魔力を感じ取り、ドグジンは言う。
ドグジンは指を鳴らして時空を捻じ曲げ、穴を生み出した。
蠢く闇色から飛び出してきたのは、生娘と言っても差し支えがない、肌の白い精霊たちだ。黄色や青、赤といった、色とりどりの長い髪の毛は絹のように細く美しい。それに負けないほどの美貌と、薄いレースのドレス。
なるほど、コイツらは北雪連邦の秘境に住んでいる連中か。
匂いから判断したドグジンは、唖然としている精霊たちを見下ろす。憐憫の欠片もなく、感情もない。生贄ですらない、食材なのだから。
「ヒヒヒッ。こりゃあ上物が来たじゃないか」
母は嗤いながら腰を上げた。
ひたり、と、はだしで床に触れると、その床が燃え上る。たったそれだけで、精霊たちは全員喉を鳴らし、その表情を真っ青にさせた。あれだけ崩れても尚美貌を保っているのは、精霊だからだろうか。
精霊たちは互いに身を寄せ合う。
抵抗は不可能だということを悟りつつも、どうにか生きながらえないかと考えている様子だ。
そんな希望は、ここにはない。
あったとしても、母が全て燃やし尽くしてしまうだろう。
ここは魔族の領域なのだ。
「上物、ジョウモノ、じょうもの。どっちから食べようかな?」
「い、いやっ……」
「何を嫌がるのかね。元々、我らはそういう関係だったはずだよ? 互いに求めあい、互いに殺し合う。そういう原始的な関係だったはずだね」
母が何を言っているのか、精霊たちは理解していない。
当然だ。この精霊たちはどう見ても若い。まだ千年と生きていないだろう。反面、こちらはもう万という年月を生きようとしているのだ。
どれだけの歴史があったのか、精霊たちでさえ忘れている。
何より、今の精霊たちは第三世代だ。
魔族との関係など、知る由もない。
「さぁ、これも復讐の一つだよ」
そう呟いて、母は食事を始めた。
ごりっ。ごきっ。ぼりごりっ。ぐちゅ。
生々しい音。重なる悲鳴。ドグジンはただ無感動にそれを眺めていた。食べるたびに、母は強くなっていく。否、力を取り戻していく。ただそれだけの行為だ。
「ああ、力だ。これが力だ」
母は全身を血塗れにしながら、体内へ流れ込んでいく力に酔いしれる。
同時に、その血の温もりを楽しんでいた。何故なら、これもまた世界への復讐だからだ。
「アタイの子たちを良いように殺しておいて、あんたら精霊が殺されないなんて、有り得ないだろ。うん、有り得ない、アリエナイ、ありえない」
そして再び、怨嗟の炎を生み出す。
ドグジンはすぐに眷属たちへ精霊を集めるよう指示を下した。母は満足しない。否、出来ない。
母の恨みの深さは、ドグジンでさえ計り知れない。
「おや、お楽しみでしたか? 母上」
嘯くような、悪意の声。
どこからともなく響き渡ると同時に、空間が歪み、水が生まれた。現れた気配は、ドグジンにも劣らない重厚な魔力を持っている。
鮮やかに水滴を散らし、姿を現したのは、六枚の天使の翼を携えた美しい戦士だった。ウェーブがかった髪は、髪先へ行くほど薄い水色になっていく。浮かぶその表情は淡く、端正だった。
「あんたかい」
血塗れの母は、上機嫌で彼を迎えた。
水の魔神――ベリアル。水の魔族を束ねる長である。
「まさか姿を見せてくれるとは思わなかったね?」
「母上の危機には馳せ参じることが出来ず、申し訳ない限りだと思っております」
ベリアルは早速跪き、母に頭を垂れる。
「知ってるよ。どうも色々と動いていたようじゃないか」
「はい。母上の負担が強くかかっていたため、少しでも和らげようと粉骨砕身しておりました」
「ふん、悪意のある誠意だねぇ。それで? そんな多忙なヤツがどうしてここに来たんだい」
「はい。実は面白いものを見つけまして」
微笑みの中にドス黒い感情を宿したベリアルは、ぱちんと指を鳴らした。
直後、すぐ目の前に水晶が二つ浮きあがった。
凝視すると、その水晶はある映像を浮かばせていた。
「ほう」
「一つはこちら。王国と比肩する国力を持つ帝国の姫です。つい最近、手籠めに致しまして。その身に我が子を宿させました」
「ほう。面白いことをするね。魔神の子ってヤツかい」
「これから帝国がどうなっていくか、楽しんでいただければと思いまして。そして、もう一つ」
そこに映し出された映像を見て、母は大いに目を光らせた。
「コイツはっ……!」
「面白い見世物になると思いまして。もう間もなく目覚める頃かと思います」
くっく、と笑いながらベリアルは言う。
確かにその通りだろう。ドグジンも理解した。母はもう水晶にしがみつきながら覗き込んでいた。
どくどくと脈打つそれは、明らかに怪物のそれで、湖の中で胎動しているようだった。ヴァータに気付かれないか気になったが、さすがは水の魔神。うまく隠しているようだ。
「うまく行けば、王都が祭りになるねぇ……っ!」
それは、当然ながら母の願いでもある。