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第八十五話

 早朝。
 海のようにも見える湖の先から、太陽が昇ってくる。これは王都の名物で、時期が良いと観光客がやってくると言うが、それだけの価値があると思う。
 空気も新しく新鮮。少し肌に冷たいけれど、それもまた心地よい刺激だ。

 俺はそんな、生まれ変わったかのような世界の中、城壁の上を走っていた。

 俺の前では、ハインリッヒが同じように走っている。
 王都を取り囲む城壁は、高さが十メートル以上ある上に分厚い。有事となればそのまま監視塔にもなるし、攻め込んでくる相手を上から攻撃する足場になるので、しっかりと整備されている。とはいえ、段差が激しいのだが。

「さすがだね、フィルニーアの愛弟子だけある。これについてこれるなんてね」

 いや、割と必死なんですけど。
 爽やかなイケメンスマイルでハインリッヒは振り向いてくる。額に浮かぶ汗も朝日がキラキラと反射していて、イケメン度を急上昇させている。ファンの女子がいたら、その汗を聖水と崇め奉りそうだ。

 一方の俺はと言うと、もう無様極まりない様相のはずだ。

 自分で自分の顔を見られないことが幸運だと思う。全身ぐっしょり汗をかいてるし、さっきから口からの呼吸が忙しなく、表情を作る余裕などどこにもない。

「もう少しペースを上げても大丈夫かな?」

 いや無理に決まってんだろ! 今にも死にそうです、本気で死にそうです! 見て分かるよな! どんだけ鬼畜なんだこの人は!

 俺は怒涛のツッコミを頭に浮かべるが、悲しいかな、その言葉の一つさえ出せない。
 っていうか、平然としてられるハインリッヒがおかしいのである。
 王都の一番外をぐるりと一周するこの城壁ランニングは、すでに一〇周目に入っていた。一〇万都市をぐるりと囲む城壁だ。一周するだけでかなりの距離がある。

 いくら身体能力強化魔法(フィジカリング)で強化しているとはいえ、かなりの過酷さだ。

 無駄だと悟りつつ目線で抗議すると、ハインリッヒは笑顔で頷いた。

「よし、じゃあペース上げるね」

 この鬼畜生め!
 宣言通りペースを上げたハインリッヒに、俺は必死に食らいつく。
 理由は単純だ。自分から鍛えてくれと申し出しておいて、ここでドロップアウトなんてしてられないからだ。
 息を吸うのも忘れそうなぐらいの勢いで、俺はただただハインリッヒの背中を追った。

 俺を鍛えること。これが、アリアスを助ける上での俺が求めた報酬だった。
 正直なところ、俺のステータスは頭打ちに近い。何らかの外的要因か、もしくは限界突破すれば大幅に上昇する可能性はあるけど。レベルがカンストしてるしな。
 けど、だからって強くなることを諦めたワケじゃあない。

 実際、身体を鍛えるとステータス値に影響がある。だから、地味だが上昇する。
 他にも、強者との戦いは絶対的な経験値となる。
 特にこの経験が俺には不足している。強力な魔物との戦闘経験も、格上との戦いも経験してるけど、回数で言えばかなり低い。
 この点だけで言えば、俺たちは学園の特進科の連中と変わりはないのだ。

 そこを克服するために俺はハインリッヒに鍛えてくれと願ったのである。
 願ったのであるが……。あ、ヤバ、死ぬ。

 遠くなった意識につられ、足がもつれる。城壁でも外側を走っていたせいか、壁から落ちてしまう。この独特の落下感覚。何故か俺は他人事のように感じてしまっていて――

「おっと。大丈夫かい?」

 その瞬間、俺はハインリッヒに抱きかかえられていた。
 そして我に返る。あー、ヤベ、俺はなんてことをしてたんだ。いくら意識がヤバかったからって、落ちてんのに何とも思わないとかヤバいだろ。

「ごめんね、ちゃんとついてこれてるから、ついつい」

 ついつい、じゃねぇよ。
 毒づくも俺は声にやっぱり出せない。結局、必死で息を整えるだけである。 
 いやもうホント情けねぇな。

「キツそうだけど、どうする? 今日はここまでにしておく?」

 ハインリッヒからの申し出を、俺は即座に頭を振って否定した。

「……ぜぇ、ぜぇ、『絶対に、へこたれんじゃないよ』……です」

 それは、フィルニーアに師事してもらった人間なら絶対に知っているフレーズだ。
 ゆっくり見上げると、ハインリッヒは目を見開いて驚いていて、やがて懐かしむように、何かを噛みしめるような笑顔になった。
 どうやらちゃんと伝わったらしい。

「そうか、そうだったね。じゃあ少しだけ休憩してから続きをしよう」
「……うっす」

 俺は辛うじてそう返事をした。

 地獄のようなランニングが終われば、朝ごはんまでひたすらに剣の練習だ。
 俺の剣のスキルレベルは四。これを少しでも上げようと言う魂胆だ。
 俺の開発した《ヴォルフ・ヤクト》は剣のスキルも地味に使う。少しでも上げておけば、それだけ鋭い攻撃に繋がるのだ。
 もっとも、この剣の練習にはもっと狙いがあるが。

 それはハインリッヒとの模擬戦である。

 こうすることで、強者との戦いに必要な嗅覚が身に付く。

 こんな修行を、俺はもう何日もこなしていた。
 ハインリッヒは色々と多忙な身だが、時空間転移魔法が使えるので毎朝戻ってきてくれている。ちなみにメイの作った朝ごはんを優雅に食べて帰る始末だ。

「さて、今日の選択肢はこれだけあるよ」

 ハインリッヒはボイルしたあらびきウィンナーを一口してから、紙を俺に渡してくる。
 丁寧な字で書かれたそれは、中々の量だ。

 これは、アリアスを死なせないための重要な紙だ。

 これから先に起こるであろう物事があって、その時に選んだ結果が書いてある。俺はその選択肢を選ばないように立ち回る。これが今の最善だ。
 もちろんこれが正解とは限らないので、その場で判断を求められることもある。

 中々に神経が尖る作業だが、セリナのフォローもあってなんとかやっていけている。時々、アマンダやエッジにも頼っているし、メイがいる時はメイにも手伝ってもらっている。
 何とかやっていけてるって感じだ。

「分かりました。今日の難関は、コイツですね」

 俺が指さしたのは、渡された紙でも割と最後の方にある部分だ。
 そこだけ、ハインリッヒは太字で書いている。

「うん。ここで君がアリアスと一緒になれないと……アリアスは死ぬ」

 もう何回も聞かされたワードだ。そのたびに俺は気が引き締まる。

「そろそろ時間だ。頼んだよ」
「はい」

 ハインリッヒが行くということは、俺も登校時間だ。
 俺が頷くのを見てから、ハインリッヒは空間に歪を読んで姿を消す。いつかあんな魔法が使えるようになるんだろうかと思ったが、あれは極大魔法だ。逆立ちしても届かない魔法である。

「さて、と……いこうか」
「はい」

 俺は息をいっぱいに吸って、立ち上がった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「よーし、今から授業を開始する。が、その前に、今度行う冒険者実習について説明をしたいと思う」

 午後一番の授業。
 入ってきた担任は、教壇の上でまずそう宣告した。
 同時に、俺は緊張感を走らせた。

 ここが、運命の分水嶺だ。

 ちらりとアリシアへ目線を送ると、アリシアは興味なさそうな表情だ。その向こう側にフィリオがいるが、こちらはもっと興味がなさそうだった。
 あの日以来、二人が接近するところを俺は見たことがない。
 フィリオはあれ以来ますます孤立気味だし、アリアスも絶対に近寄ろうとしない。まぁ自分から決闘挑んで返り討ちにあったんだから当然と言えば当然かもしれないけど。

「今回の実習は、実際に依頼を受けて任務をこなすというものだ。ペアになってそれぞれ任務にあたってもらうからな。組み合わせはこちらで決めておいたが、異議があるものは申し出するように」

 担任はそう前置いてから、次々とペアを発表していく。
 やはり成績が考慮されていて、バランスの良い編成になるよう組まれていた。まぁ、フィリオとペアになったヤツの落胆っぷりは凄まじかったけど。

「そして――、アリアス・グラナダ」

 おっと、来たな。
 その瞬間、アリアスの表情が変わり、いきなり俺を睨んで来た。その目線は明らかに異議を申し立てろと訴えてきていて、中々の威圧があった。

 そんなに俺と組むのが嫌かよ。

 さすがにちょっと思う部分もあるが、それは飲み込んだ。ここで異議を俺が申し立ててはいけない。かといってシカトを決め込めば、確実にアリアスが異議を申し立てるだろう。
 この場合、どっちの選択肢も選ばせてはいけない。
 そこで俺が取ったのは、手紙作戦だった。
 さっとメモを書いて、ちらりとアリアスに見せつける。

 異議をするかどうか、話で決める。と。

 アリアスは最初怪訝な表情を浮かべたが、仕方ないな、という様子で向こうを振り向いた。
 どうやら、成功のようだ。

 だがほっとはしていられない。

「よし、以上だな。それじゃあ授業に入るぞ、みんな良いな?」

 俺は担任の授業を聞きつつ、作戦を考えていた。
 アリアスに異議を申し立てしないようにさせる方法。それは、アリアスが俺を認めるしかないのだ。

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