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第2話

 
挿絵


徳富蘇峰(とくとみそほう)––––日本初の総合雑誌「国民之友(こくみんのとも)」を発行する出版社「民友社(みんゆうしゃ)」の若き主宰(しゅさい)にして、作家を目指す者なら知らぬ者はいない名編集者。

美妙(びみょう)は、この蘇峰に恩がある。今年の一月に発行された「国民之友」に、美妙の小説「胡蝶(こちょう)」が掲載された。
原稿料60円(現在の60万円)という破格の待遇。貧乏学生であった彼は、一気に人並み以上になった。舶来物(はくらいもの)のスーツを着て銀座を闊歩(かっぽ)できるのもこの収入があったからである。

そして何より、滝沢馬琴(たきざわばきん)傾倒(けいとう)し、古典色が強すぎ、繁雑難解で読み手を選ぶ彼の作風文体を一変させた。
歴史に話材を取りつつ、主題を男女の恋愛模様にすえ、さらに若者、特に女性にも理解できるよう簡潔な文章で書くよう導いたのは、蘇峰である。

「胡蝶」掲載号は、2万部増刷するほど好評を(はく)す。
これに自信をつけた美妙は以後、つねに庶民の立場に立ち、より身近な題材を、より読みやすい文章で作品を書き続ける。
そのどれもが好評を得て、二十歳にして人気作家としての地位を不動のものとした。

「あなたが徳富蘇峰……先生」
恩人ではあるが、会うのは初めてである。
「胡蝶」の原稿のやり取りは、蘇峰の指示を受けた「国民之友」の担当編集者とだけであった。
「はじめまして……山田美妙先生」

蘇峰は目を開き、声を発した。
(……ッ!)
美妙の背中に、得体の知れない冷たい何かが走る。
蘇峰の双眸(ひとみ)()んでいた––––いや、澄みすぎて、もはやそこには何も映っていないようであった。
そして、その声には抑揚も無く、何の感情も含まれていない。
その顔、その手は、まるで白磁(はくじ)のように()き通り、生気の一片すら浮かではいなかった。
そこはかとなく、作り物めいた妖しさを漂わす人物。それが徳富蘇峰であった。

近寄りがたい雰囲気ではあったが、ともかく恩人には違いない。
「ご依頼を頂き、ありがとうございます」
美妙は突き出た髪をさげた。
「ようこそ、『こちらの世界へ』」
「……え?」
蘇峰の言った意味がわからず顔をあげると、ずいぶんと間の抜けた声を出す。
(『こちらの世界』って……? 文壇のことか?) 
さ尋ねる前に、蘇峰はその白く透き通った手を動かし、美妙が握っている物を指さす。
「ん? あ、これ……」
手にしていたのは、異国人から渡された燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)
「あぁ、さっきの異人に、持っていろって……」
 美妙が刀を蘇峰に見せようとした。と、

––––キーンッ! キーンッ!

突然、高い金属音が響いた。
「な、な、な、なんだ!」
驚いて、放り投げる美妙。
それを蘇峰は素早く宙でとらえた。
馬車の底板に尻もちをつく美妙。
蘇峰は動く。席から離れ、美妙に覆いかぶさるように近づき、白いスーツの胸に燭台切光忠を押しつけた。
「ぼくは嬉しいよ。君のような才能のある人間に来てもらえて」
蘇峰はほほえむ––––息も触れ合うほどに、その白面を近づけて。
着物に炊き込まれた、(かぐわ)しい(こう)の匂いが美妙の鼻腔(はな)をくすぐる。

「……うっ!」
美妙はぞくりとして、身を硬くした。
「ようこそ、『こちらの世界へ』」
蘇峰は耳もとでささやき、ゆっくりと身を起こして席に戻る。
狩衣の男も、
「ようこそ、『こちらの世界へ』」
少女ふたりも、
「「ようこそ、『こちらの世界へ』」」
車内にいる者たちは笑みを浮かべ、そう美妙に言った。

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