6話 たすけて 一
気がつけば、私は知らない人に囲まれていた。
不良のような人や、客で見たことのある悪い職業の人のような、人の良さそうな面を被った青年。張り詰めた雰囲気と、見たことのない体育館のような大広間。天井についた電球が点滅する度に心臓を握られるような圧迫感と、得体の知れない焦燥感に襲われた。
隙間なく人が集められたその部屋の真ん中に、物々しく設置された純白のステージ。
その上には何時からいたのかわからないけれど、目鼻立ちの整った白髪の格好良い人が立っていた。
「やあ、悪人の諸君。君たちには状況から説明しよう」
心地よく反響する声に周囲がざわつく。
私は一人、ただ静かにステージに立つ男の人を見続けた。その人だけが、私の知らない表情を浮かべていたから。
「まず、この場所だが所謂、死後の世界だ。君達は死んでいる。思い当たる節があるはずだ」
更にざわついた。けれど戸惑いから出たものというよりは、納得から出ているようで、首を縦に振りながらのざわつきだった。
突然身体が言うことを聞かなくなり、目の前が暗くなっていき、鈍い音がして。それで……そのまま私は死んだ。
そっか、私。死んじゃったんだ。
悔しいとも、悲しいとも思わない。ただ、ただ後悔があるだけ。少し残念な気がするだけ。自嘲するように軽く笑い、ステージの上を見つめなおす。
「ここは死後の世界であり、君達が生前で得たものを調べるためのテスト会場だ。テストすることはただひとつ。本能に逆らうことが出来るかどうか、だ。今この場所にいるのは全員が同類、悪人の評価を下された人間だ。……いや、数名だけ善人が混ざっているか、誰が善人なのかは本人たちがわかるだろう」
私だ。そう思うのは良いことをしてきたからじゃない。悪いことをしてこなかったから、する時間なんてどこにも無かったからだ。
頭に浮かぶ家族の姿。みんな、元気かな。
小さく笑みを浮かべて思い出に浸る。
「君達の他にも善人がこの世界にはいる。だが、彼らは普通の人間ではない。悪人には知識と環境を与え、善人には力と逸脱した容姿を与えている。彼らの話はこれを使って彼ら自身に聞くと良い」
気がつくとみんなの手にはスマホのようなものが握られていた。
操作方法は知っている。
アプリのトークと、通話。この二つの機能だけ。元の世界では連絡にしか使っていなかったから。
「使える機能はチャットと通話のみ、通話は気を許したものでしか行えない。個人チャットはオープンチャットの相手を選択すれば連絡先が貰える。さて、では君達の話をしよう。君達には環境が与えられている。街だ。暮らすにあたって、君達には役割を与える、それに従うかどうかは君達の自由だが、道具と知識は強制的に与えさせてもらう」
ステージの上に立つその人は、さっきまではなかった背中の白い翼を二対広げ、眩い閃光を放った。
瞬間、頭に無機質な声が響く。
『君は農民だ』
言葉に続いて、農民として必要な作物の知識、育てる知識が流れ込んでくる。少し心地いい感覚。そんな気分に浸っていたのに覚めることになったのは、ステージの上の人が原因だった。
「最後にこの世界の死について説明する。この世界の死は大きく解釈すれば、存在しないと言える。死亡した瞬間に君達のいる街で復活するからだ。だが、殺人の場合は変化する」
周囲にいた全ての人間の口角が、少しだけつり上がった気がする。
「人間が化け物を殺せば、化け物は人間になり、人間は化け物になる。これは化け物に人間が殺された時も同様だ。そして、人間が人間を殺した場合は殺された側の知識は全て殺した側に強奪される。知識には、先程与えたものの他に、連絡先も含まれる。以上だ。出来るだけ良い暮らしを出来るように頑張りたまえ」
その言葉を最後に視界が大きく歪む。
『どうしようもなくなったときは、オープンチャットで助けを求めてみるといい。そうすればきっと……』
そんな声が聞こえた。そして、気がつけば私は木造の家が立ち並ぶ、周囲を森林に囲まれた街の中にいた。周りには他の人もいた。昔の世界みたい。
高層ビルも、そこにつけられた広告も、偉そうなおじさんもいなくて、宣伝映像も流れていない。
そんな場所で相談が始まった。
幸い私の家は畑の横という条件で家を探さしていたため、すぐに決めることが出来た。
なんだかんだみんな食料の重要性はわかってるみたい。
私がその家を眺めたあと、みんなに一度頭を下げた。みんなは、含みのある笑みを浮かべて私を見る。
私が背中を向けると全員、どこかの家の取り合いを初めたようだった。そんなにほしい家あるんだ。
似た家ばっかりなのに、変なの。
私はゆっくりと足を進め、家につくなりチャットを見た。オープンチャットを確認しても、名前のあとにつく文字は悪、だけだった。たぶんこれは善人か悪人かを表してる。どうやら善人はまだ誰もいないみたいだ。
…………正直に言うなら、少しだけ不安だった。
悪人が私の回りで暮らすことや、頼れる人がいないこと、そして、全員が良さそうな面を被っているのが、その悪の根深さを見せつけているようで、不安と恐怖を混ぜ合わせたような名前のない感情に、私の感情は染められていた。
農民として必要な道具と替えの服。そして、五日分のカロリーメイトのような携帯食料が家の中に置かれていた。
私は一日分だけすぐに食べて、明日からの仕事に備え、今日は御近所さんへの挨拶だけ行ってフローリングのひんやりとした硬い床の上で、早めに眠りについた。
絶対に入ることのできない深い眠りじゃない、こんな場所でも入れる浅い眠り。そんな眠りが家の扉の開く、甲高い音で終わりを告げた。
怖かった。夢の中では弟たちが笑っていた。あとを頼んでいたおばあちゃんたちに手をひかれ、私から遠ざかる。私は一人その場所から家族を見つめていた。
……そんな優しくも悲しい夢が終わり、醜くて叫ぶことも出来ない現実が始まった。
私は恐怖に目を開けることをせず、きつく目を閉じる。
耳に届く汚ならしい水音も、鼻をつく醜悪な臭いも、下卑た笑いも少しずつ荒くなる吐息も頬につく生暖かい粘性の液体も……私は目を閉じてただその男が立ち去るまで表情も身体も、なにも動かさずに無害に、無心になり続けた。
扉が開き男が立ち去るまで私は石のようになり続け、下卑た笑いが止むと共に私は丸まり、嘔吐と咽び泣くことを繰り返した。
繰り返して、繰り返して繰り返して繰り返して……気が付いたときには日が昇っていた。
服の裾で顔を拭い、道具の横にある泥がついて薄汚れた服に着替えた。その服に着替えると、さっきまで着ていたの服の方が汚く見えた。
床に広げられた色々な汚れををさっきまで着ていた服で拭き取り、摘まむようにそれを持つと、街の外の森の中に埋めた。
疲労感に襲われながら、家の中にある道具を持って畑に向かう。たんなる身体の疲労が癒しのように感じられた。
疲れれば疲れるほど、深い眠りにつける。
その現実が、元の世界にはなかった休息が、今の私には欲しかった。
気が付かないのならその方がいい。
気付かぬうちに終わるのならその方がいい。
そっとしておいてほしい。
怒りと恐怖が手に持つ道具に移り、加減が一切ない暴力を奮いながら畑の上で半日過ごした。
「大丈夫か?」
声をかけてくる人がいた。男の人だった。私は心にもない言葉を返して、逃げるように作業を続けた。
あの人かもしれない。そう思うと、気が気でなかった。
一心不乱に仕事を続ける。家に置かれているあと四日分の食料から、一日分だけ食べる。そして、そのまま眠りについた。
どうか、どうか今日は深く眠れますように……
小さな願い。
そんなものすら叶わなかったらしい。きつく目を閉じて過ごす夜。今日は足音が増えていた。下卑た笑いも二人分に増えて、死体のように私は目を瞑った。早く終わってほしいという願いも、やめてほしいという願いも全部蹴って、ゴミのように捨てられた。
――その日も私は、泣いた。