執事コンテストと亀裂⑭
翌日 沙楽学園
藍梨は一人、廊下を歩いている。 すると――――1組の教室を通り過ぎようとした時、突然誰かに声をかけられた。
「・・・高橋さん」
呼びかけられた方へ視線を移すと、そこには“学年一のマドンナ”と言われている高橋梨咲が立っていた。 女子の藍梨から見ても分かる。
彼女はとても美しく、常に凛とした綺麗な女性だった。 だから“マドンナ”と呼ばれていてもおかしくはない。
「七瀬さん・・・よね?」
藍梨の名を口にし、彼女は静かに笑う。 その笑顔はとても可愛らしく、かつ美しかった。 ずっと見ているには眩しいくらいの笑顔だ。
だがその笑顔を直視するのには耐えられず、思わず彼女から視線をそらしてしまう。
「何の、用ですか・・・」
小さな声でそう尋ねた。 “この時間が早く過ぎてほしい”と、心の底から願いながら。 そして梨咲は、今もなお笑顔のまま言葉を発する。
「結人って、いい人だね」
「・・・え?」
どうして彼女は、そんなにずっと笑っていられるのだろうか。 それに突然、結人の名を口にした。 呼び捨てだったのが気になったが、そこには触れずに返事をしていく。
「・・・何ですか、突然」
すると梨咲は目を瞑って、瞼の奥に結人がいるかのように、少し微笑みながらゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「結人って、凄く優しいよね。 七瀬さんと同じように、私にも優しく笑いかけてくれる」
「・・・」
その言葉を聞き、すぐに梨咲の顔を見た。 彼女は今、とても幸せそうな表情をしている。 この笑顔は、きっと本物なのだろう。
昨日藍梨は、結人と梨咲が二人で話しているところを見ていたのだから。
その二人の表情から見て、とても楽しそうだった。 見るだけでもとても胸が苦しくなる。
彼女が目の前にいて、かつ結人のことを嬉しそうに話し――――藍梨は今にでも泣きそうになるのを、必死に堪えていた。
―――結人は・・・どうして戻ってきてくれないんだろう。
「ねぇ、七瀬さん」
突然、梨咲は真剣な顔をして藍梨のことを見た。 さっきまでのあの美しい笑顔はどこへいったのだろうか。 この時の彼女の表情は、藍梨にとって恐怖でしかなかった。
「・・・何?」
恐る恐る尋ねると、梨咲は静かな口調で物を言い放つ。
「これ以上、結人を困らせてほしくないの」
「・・・え?」
―――困らせてほしくないって・・・何?
意味の分からない発言をされて言いよどんでいると、彼女は続けて口にした。
「別に、別れてほしいだなんて思っていないよ。 ただ、結人は七瀬さんだけのものじゃないの」
―――何を・・・言っているの?
そして力強く、梨咲は言葉を言い放つ。
「だから、ハッキリしてほしい。 今の七瀬さんと、結人の関係を」
「・・・」
藍梨は胸が痛かった。 どうして、彼女にこんなことを言われなくてはならないのだろうか。 確かに結人は、いつもクラスでは人気者だった。
女子や男子からも、たくさん声をかけられていた。 だがその光景を見ていて、嫉妬なんてしていない。
だって、藍梨の目に映る結人は――――とても楽しそうだったから。
でも、どうしてだろうか。 今目の前にいる彼女が結人と一緒に楽しそうにして話をしているのを見ると、胸が苦しくて仕方がなかった。
―――・・・こんな気持ち、今まではなかったのに。
藍梨が一人追い込まれていると、梨咲は更に力強い言葉で追い詰める。
「分かった? これ以上、結人を困らせないで」
涙を堪えよう、堪えようと思い耐えていたが――――藍梨の目からは、既に涙がこぼれていた。 そんな藍梨を見ても、梨咲は何も言おうとしない。
「おい高橋!」
そんな時――――彼女と同じクラスである御子紫が、藍梨の異変に気付き駆け付けてくれた。
「ッ! 高橋、藍梨さんに何を言ったんだ!」
隣まで来て藍梨の様子をきちんと確認した御子紫は、梨咲に向かって怒鳴り声を上げる。
「何も言っていないわよ」
「じゃあ、どうして藍梨さんが泣いているんだよ!」
それからは二人が互いに言い合い――――結局は、梨咲がこの場を離れていってしまった。
「・・・藍梨さん、大丈夫?」
御子紫はそう言いながら、今もなお泣き続けている藍梨の背中をさする。 だけど藍梨は何も答えることができず、ただ泣くことしかできなかった。
それでも彼は藍梨が泣き止んで落ち着くまで、ずっと傍にいてくれた。 それに――――この時の御子紫は、結人にこのことを連絡しようか本当は迷っていたのだろう。
だが藍梨の気持ちを察したのか、そのようなことはしないでくれていた。
放課後
藍梨は落ち着きを取り戻し、これからコンテストの練習のため4組にいる伊達のところへ行こうとした――――その時だった。
「藍梨」
「ッ・・・」
藍梨が今、一番愛おしいと思っているこの声の主――――色折結人に、呼び止められた。
「結人」
嬉しかった。 素直に嬉しかった。 結人に、名を呼んでもらえたことが。 それだけで幸せを感じるなんて、今まではなかったのに。
―――今から結人は、何を言うんだろう。
―――『コンテストには出るな』って・・・言ってくれるのかな。
色々と結人から発せられる次の言葉は何かと考えているが、彼は次の発言をなかなか口に出そうとしない。
結人の表情を窺うと、どこか難しそうな――――そしてどこか悲しそうな、複雑な表情をしている。
そんな彼を見て気まずくなった藍梨は、自分も何か言おうと躊躇っていると――――やっとのことで、結人は言葉を発した。
「その・・・。 伊達とは、上手くやれているか?」
「・・・え」
その一言を聞き、思考が停止する。
―――何、それ・・・?
―――止めてくれるんじゃ、なかったの?
藍梨は何も返すことができなかった。 それに、結人の顔すらも見ることができなかった。 だがそんな藍梨をよそに、更に彼は言葉を紡ぎ出す。
「まぁ、上手くやれてんならいいんだよ。 ・・・藍梨が、それでいいのなら」
そう言って、結人は寂しそうな表情を見せた。 だけど藍梨は俯いたままでいるため、そんな表情をしているなんて知る由もない。
「・・・ごめんね」
藍梨は謝る言葉を言うのと同時に、教室から勢いよく飛び出した。 そして――――結人は一人、教室に取り残される。
―――結人は、何も私のこと・・・分かっていなかったんだ。
―――私の気持ち、何も気付いていなかったんだ。
教室を飛び出して向かった先――――それは、隣のクラスにいる伊達のところだった。 4組の生徒はほんの数人しかいなく、彼の姿はすぐに見つけられる。
伊達のところまで足を運び――――そして、彼の制服の袖を弱々しくも強く握り締めた。
「藍梨?」
友達と話していた伊達だが、すぐ藍梨のことに気付き『どうしたの?』と尋ねる。
藍梨は――――泣いていた。
今日でどれだけ泣いたのだろうか。 こんなにたくさん泣いたのは、とても久しぶりだった。
伊達と一緒に話していた友達の二人は、藍梨に気を遣い伊達と藍梨を二人きりにしてくれる。
そして、藍梨は結局――――伊達には何も話せずにいた。 やはり、泣くことしかできなかった。
そして伊達はそんな藍梨に、何も言わず傍にいてあげることしかできなかった。