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第3話

 
挿絵


––––牛鍋屋『いろは』。
明治政府から官営屠畜場(とちくじょ)の払い下げを受けた京都出身の商人木村荘平(きむらそうへい)が、東京に二十店舗以上展開している一大牛鍋チェーン店である。

折からの洋食ブームにのって、どの店も繁盛していたが、ひときわ賑わいを見せていたのが浅草広小路の「第十支店」であった。

二階建ての店内はいくつもの部屋に分かれ、華族の紳士淑女、文士役者の風流人から、書生学徒のたぐいまで、その身分と懐に合わせ、さまざまな牛鍋を提供していた。
昨晩、夏目金之助(なつめきんのすけ)正岡升(まさおかのぼる)が飲み食いしたのも、まさにこの店であった。

少女は立て看板からまっすぐこの「いろは」へと歩いてきていた。
「……全然、迷ってないじゃん!」
との美妙(びみょう)の言葉に、
「別に迷ってなんか。わたしはただ……立ち合いになったときの場所を探していただけで……」
前半は苦笑とともに口外へ、後半は口中のみにつぶやく。
「え? 何?」
と、聞き返す美妙の横を無言で通り抜け、少女は「いろは」ののれんをくぐる。

「いらぁっしゃぁいまぁせぇ〜!」
元気(ほとばし)る若い女性の声が飛んでくる。
飛びはねるように、店の中から矢がすり二尺袖(にしゃくそで)紺袴(こんばかま)、編み上げブーツに、頭に大きなリボンをつけた女性––––年の頃、十六、七の少女が現れた。

「おふたりさまですね〜」
勢いよく駆け寄ったので、ずり下がってしまったその小さな顔には大きすぎる丸メガネを戻しながら、彼女は風呂敷少女と、しっかりとそのうしろに立っている美妙を見て、
「ようこそ『いろは』へ!」
笑顔で元気よく言った。
「ささささ、いまちょうどふたり部屋あきました」
勢いに圧倒されて固まっている風呂敷少女の手を取り、メガネ少女は店の奥へと引き寄せる。

「かど部屋で、となりは(えん)もたけなわ、ドンチャン騒ぎ真っ最中。ですので、多少のお声も外には漏れませんです、はい。わたしどもも最初にお料理をお持ちしましたら、お邪魔しませんので」
メガネ少女は手のひらをそえて、風呂敷少女の耳もとにささやく。丸いレンズが異様に光っていた。

「……え?」
何を言っているのかわからなかった風呂敷少女は、その意味がわかるやその大きな目を丸くし、顔を赤く染める。
「いや……あの……あの人とは、さっき会ったばかりで、そ、そんな関係では」
あわあわと言葉を(つむ)ぎながら、振り返る。メガネ少女もつられて美妙を見た。
「……ん? イ、イエ〜イ!」
ふたりの少女の視線を受けた美妙は、一度自分の顔を指したあと、両手の親指を立て、白い歯を見せてニカッと笑い返す。

「「……」」
ふたりの少女は、怖気(おぞけ)にゾクリと身を震わせると、くるり同時にふり返る。
「またはやとちりしちゃった。ダメだぞ栄子(えいこ)
げんこつを作り自分の頭をコツンとする。「てへっ」と言いながら舌を出した。
その動作にやや引き気味の風呂敷少女であったが、
「……栄子さん? あなたが岡本栄子さん?」
ハッとして尋ねる。
「あ、はい! わたしが岡本栄子ですけど……」
メガネ少女––––岡本栄子は、ずれた眼鏡を戻しながら、怪訝(けげん)そうに名のる。
(きん)……田澤錦(たざわきん)です! 徳富(とくとみ)先生からお手紙をいただいて、こちらに栄子さん––––岡本栄子さんを訪ねよと」
風呂敷少女––––田澤錦は笑顔をはじけさせる。

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