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第10話

「なかなか効くじゃない、これ」
青年医師は手にした注射器を押して、ピュッ、ピュッと薬液を出す。
(のぼる)に気づかれないよう近より、これを素ばやく二の腕に打ちこんだのだった。

「……う、うーん」
「おや、眠り姫がお目覚めかな」
さきほどより、さらに意識が戻りはじめた少女のそばにかがみ込む。患者の不安を取り除く、柔和な表情は医者のそれ、であった。

––––が、白衣の左すそがめくれている。そこから、日本刀の(つか)がとび出ていた。

医師なのに帯刀(たいとう)しているという物騒この上ない人物は、刀以上に凶器な睡眠薬入り注射器を白衣の右ポケットから出したケースに収めて戻すと、反対のポケットから、折りたたんだハンカチを取り出す。

「……ここは?」
少女は意識を取り戻した。
つぶやきつつ、その端正な容貌(かお)にはふさわしくない武骨極まる甲冑をガチャリと鳴らして、上半身を起こす。

「やぁ、夏ちゃん」
「……森先生?」
夏––––樋口(ひぐち)(なつ)はよく知る者の顔を見て安心したのか、その形のよい唇の端に笑みを浮かべた。

青年医師––––森林太郎(もりりんたろう)はニコリと微笑み返す

夏の肩にポンと手を置き、彼女の後ろに回った林太郎は––––手にしたハンカチで素早く夏の口と鼻をふさいだ。

「……ふぐぐぐっ」
安堵から驚愕へと表情を変えた途端、ふたたび夏は気を失い、その場に崩れる。

「こっちも()くね〜」
林太郎はクロロホルムを染みこませたハンカチをポケットに入れて立ち上がり、神経質そうに白衣の襟を整えた。


「おりゃゃゃぁ!」
ふた振りの刀を握りしめたマムシは雄叫(おたけ)び高らかに、闇の中から無限の連なりのように()き起こる小鬼の、殺気と憎悪うずまく大海へと飛び込んだ。

「おらおらおらおらぁぁぁ!」
襲い来る小鬼たちを斬り、突き、()ぎ、叩き、払う。

「ギャギャギャギャギャ!」
小鬼の首が飛び、腕がもげ、足が転がり、腹が裂ける。
 
脳漿(のうしょう)がぶちまかれ、臓物(ぞうもつ)がこぼれ落ち、血煙(けつえん)立ち昇ると、いう酸鼻な地獄絵図が展開––––されなかった。

およそ生物の根幹原理を超越した現象ではあるが、致命傷を負った小鬼たちは断末魔とともにその身を石化させ、すぐに砂化––––そして、大地に(かえ)っていく。

マムシが右に左に白刃を(ひらめ)かすたびに砂の竜巻が生じる。駆け抜き、斬り抜けば、砂の旋風が起こる。

「おいこら! なんで夏をまた寝かせてんだよ!」
両腕で斬り伏せ、つかみかかろとしてくる小鬼を足で蹴り飛ばしつつ、首だけ後ろにねじ曲げて、マムシは林太郎を怒鳴る。

「うら若き乙女にはかわいそうじゃないですか、こんなバケモノだらけの光景を見せるの」
「ばっきゃろう! おれのほうがかわいそうだわ!」
そう返すマムシだが、まったく同情を誘うようなそぶりを見せない。

そのふたつの切先(きっさき)は苛烈さを増し、彼の周囲にはうず高き砂山がいくつも形成されていく。

(あわ)れむべきは、数を頼りにたたみかけるが、かすり傷ひとつマムシに負わすことのできない小鬼たちのほうであった。

「まったくキリがない……林太郎、はやく手伝え!」
「いやぁ〜、僕もほんと、そちらに加勢したいのですがね……」
荒ぶるマムシに対し、(ひょう)とした口調で返す林太郎。

まったくしまりのない表情をしているが、いまや彼はひとならぬ者の殺意に取り囲まれていた。

「グルルルルルッ!」
狼であった––––二本足で立ち、手に手に刀や槍を持った、人狼たち。

鋭くとがった牙列(がれつ)の間から、盛大によだれをたらし、林太郎にいまにも飛びかからんとしていた。

「あぁ、そうか今夜は満月だったっけ」
林太郎はなんの緊迫感も抱いてないかのように、ゆっくり空に浮かぶ蒼月(つき)を見上げ––––そして、腰の刀の鯉口(こいくち)を切った。

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