第二十二話
無駄な会話をしつつ、楡浬は浴槽に入った。眉間に寄っていたシワがなくなっている。
「あ~、生き返るわね。この言葉は、死にそうだった人間を神が神痛力のお湯で救ったことが始まりなのよ。神に感謝したその人間が広めたということらしいわ。タップン、タップン。」
「そうなのか、そうなのか、そうなのか。」
大悟の耳に、楡浬の薀蓄話は届かない。音という魔物が、湯船に浮かぶ楡浬のふたつのおっぱい漂流中ということを大悟に囁いている。
「こうして、豊かなこれがプカプカ浮かぶことは繁栄を表現しているのよ。」
「そうなのか、そうなのか、僧なのか。」
ますます大悟脳内は新たな情報を受け入れるキャパを失っていた。
「なんだか、話が噛み合わないようだわ。入浴の儀式はまだ続いているのよ。」
「僧なのか、僧なのか、僧になってやる。」
「こんなところで、即身成仏する気なのかしら。ほら、早くこの中に入りなさいよ。」
「ええええええええええええええええええええええええええええええええええええ?」
崖から落ちるという夢を見て目覚めた時のような大悟。
「こっちに入りなさいよ。アタシの方を向きなさい。これから言うことを耳に大タコを作って聞いて、寸分たりとも指示を間違っちゃいけないんだからね。故意でなくても、ミスしたら、このお風呂場に二度とお湯を張ることがなくなるわよ。」
「あ、ああ。オレは、風呂に入らないといい夢が見られない性癖の持ち主だからな。入浴は命の次に大切なんだぞ。」
「馬嫁の命って、空気よりも軽いんじゃないの?生きる上での宝物をまったく持っていないのね。悲し過ぎて涙も出ないわ。」
「ほっといてくれ。清貧というきれいな言い方もあるだろう。」
「もういいわ。儀式を続けるわよ。まず、アイマスクを取って、目を開くのよ。」
「そ、そ、そ、そんなことしたら、この世で最も見てはいけないものが、この澄み切った角膜に投影されてしまうだろう。」
「その濁り切ったひび割れレンズには、崇高なアタシが映ることは永遠にないわ。」
「そんなこと、物理的に不可能だろう。」
「だから、馬嫁って呼ばれるのよ。目を開けたままで、心の視野を閉鎖するのよ。」
「オレはそんなに器用じゃない。オレは熱を使用せずにごはんを炊く技術を持たないぞ。」
「それじゃあ、いちばん簡単な方法を教えてやるわ。目を開けたままで、馬嫁の頭と胴体を切り離してしまえばいいんだけど。」
「それはいやだ。わかった。言う通りに木偶の棒になってやる!」
「ちょっと、待ちなさいよ。その次のプロセスを説明するわ。脳内に映像が浮かばない状態で、湯煙の中に浮かぶアタシの大事な部分に祈りを捧げるのよ。」
「やっぱり見るんじゃないか。それに浮かぶ部分って、もしかしたらオッパ」
『バチン!』楡浬の平手打ちが炸裂した。
「それ以上は言っちゃダメ。とにかく、その部分を祈ることが、神を崇拝する精神を醸成するんだから。」
「なんだか、よくわからないけど、じゃあやるぞ。目、目を開けるぞ。心の目だけで、見るんだな。」
「そ、そ、そうよ。でもいいわね。アタシのか、からだを見たら、ぜったいに殺すからね。」
「わ、わかってる。よし、精神集中だ。オレは今漢文の問題を微分方程式で解いているんだ。」
アイマスクを取った大悟はゆっくり、ゆっくりと瞼の筋肉を弛緩させた。
「きゃあ!ぜったい見ないでよ!」
楡浬は顔を強く顰めて、下を向いた。