バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

再会の夕暮れ

「ふえぇ……いたいよぉ……」
 膝を抱え、滑り台の横でうずくまる幼い男の子。その膝頭には裂傷があり、薄らと血が滲んでいる。
 「だいじょーぶ!わたしにまかせて!」
 少年の傍らに立ち、未だグズるその体に触れながら、元気づけるように声をかける。
 「ひっぐ……みーちゃぁん……」
 見上げる瞳は涙で輝き、不謹慎ながら綺麗だな、と言う感想を抱く。少年に寄り添いながら、安心させるためににこりと微笑み、傷付いた足に手を伸ばす。
 触れる患部は温かく、命の強さをわたしに感じさせる。その熱と同化するようにゆっくりと両手を添える。
 全身が心臓になったような脈動。添えた掌に、熱を伴わない熱が集まる感覚。相も変わらず気持ちの悪い、自分の中に何か別のものが混ざるような感覚。
 「あっ……」
 そっと手を離せば、そこに傷はなく、若さゆえの瑞々しい柔肌がにこやかに佇んでいる。
 「もうだいじょーぶ、これでいたくないよ」
 わたしと自分の膝を交互に見つめながら、いま起きたことを必死で理解しようと、少年は目を瞬かせる。やがて思考が追いついたのか、顔に花を咲かせながらわたしに抱きついてきた。
 「わぁ、すごい! みーちゃんすごいよ!」
 さっき泣いたカラスがなんとやら。既に怪我のことを忘れ無邪気にはしゃぐ。
 「あ、この魔法はみんなにはないしょね。二人だけのひみつ」
 そっと右手の小指を立て、彼の前へ差し出すと、コクコクと頭を縦に振りながら、同じように立てた小指を絡めてくれる。
 何一つ彼に敵わない、劣等感にまみれたわたし。この魔法は、そんなわたしのささやかな優越感。お母さんとの約束よりも、大切な大切な、わたしのちっぽけな自尊心だった。

 「みーちゃん! ケンくんが怪我したの! 治してあげて!」
 かけっこの途中、盛大に転んだ男の子を抱き起こしながら、こーくんは言った。
 「な、治すってどうやって……?」
 わたしを見つめる期待に満ちた二つの目、全幅の信頼。
 わたしを見つめる困惑する八つの瞳、あまたの不信感。
 二人の時とは違う、五人の友達の揃った空間。わたしの胸の中には悲しみが渦を巻く。どうして約束したのに守ってくれないの。
 「ほら! 前にやってくれた魔法! あれで治してあげて!」
 「魔法……だなんて、そんなものあるわけないでしょ」
 えっ、と不意を打たれたこーくんの表情が固まる。
 「なんで……そんなこというの」
 裏切られた。そんな思いを顔に貼り付け、最後の藁にでも縋るかのようにわたしを見つめる眼差し。
 「それは……わたしのセリフ。まんがの読み
 すぎじゃないの?」
 裏切られたのはわたしの方なのに、そんな目で見ないで。そんなわたしの考えが伝わったのか、彼はその瞳を地に伏せる。
 「……き」
 小さな声で、こーくんが何かを言った。よく聞き取れない。
 「ほら、傷口を洗いましょ」
 わたしは、地面に座り込んだままの男の子に手を伸ばす。その腕を、勢いよく叩き落とすこーくんの手。
 「なにする……」
 「うそつき!」
 両端に涙を携え、わたしを睨み付ける目。うそつきはそっちじゃない、約束したのに。二人の秘密だったのに。
 怒りで顔を染め上げながら、こーくんは地面を蹴りつけるように立ち上がり、わたしに背を向ける。
 「もういい、おかーさん呼んでくる」
 吐き捨てるように言葉を投げつけて、駆け出してゆく小さな体。そのまま公園の外へと消えて行った。
 「なによ。ほら、傷口洗いましょ」
 「う、うん……」
 わたしの伸ばした手を掴み、ゆっくりと立ち上がる男の子。擦りむいた足は血が流れ、土と混ざり合っていてとても痛々しい。ごめんね、治してあげられなくて。
 連れ立って歩きだそうとしたその時、公園の外から車の甲高いブレーキ音が聞こえた。その瞬間、とてつもなく嫌な予感が背筋を走る。
 「ごめんみんな! ケンくんをお願い!」
 言うや否や、矢のように走り出す。園内から外へ、そのままこーくんの家の方向へと足を向けた。
 わたしの足が止まったのは、公園からさして距離の離れていない交差点。その空間は時が止まったように静かだった。
 アスファルトに残る黒いブレーキ痕は短く、事が起きる直前までの車の速度が推し量れる。爪痕を地面に残したと思われる車は既に無く、その場にはただ横たわる小さな人影があるのみ。そしてその見慣れた人影は、ピクリとも動かない。
 「こーくん!」
 急ぎ駆け寄り抱き起こす。腕の中のこーくんは、頭から血を流し、息も絶え絶えといった様相だった。
 「今助けるから!」
 体中が血にまみれていくのも構わずに、必死でこーくんの体を抱き締める。わたしの力なら助けられる。この魔法ならきっと救える。それだけを信じてただただ集中する。
 そんなわたしの頭に、小さな衝撃が走る。痛みに呻くわたしの耳に、なにか小さくて硬いものが地に落ちるカラカラという音が聞こえる。
「えっ……」
 見ればそこにはいつも一緒に遊んでいる四人の顔ぶれ。その先頭に居る脚を怪我した男の子は、何かを投げ終えたように、右手を振りぬいた姿勢で此方を見ている。
「ば……化け物、こーくんを離せ!」
 化け物……わたしの事? なんで?
「なんで……なんでそんなこというの!」
 早く治さないとこーくんが死んじゃうのに、なんで分からないの。どうして邪魔するの。
「こーくんの血を吸わないで!」
 なにを馬鹿な事を。魔法で治してるんだ、血なんか吸ったりしない。邪魔をしないで。
「違う! わたしはこーくんを助けたいだけ! このままじゃこーくんが死んじゃうの! 邪魔しないで!」
「うそつき! 悪魔! こーくんを離して! あっちいって! こーくん痛そうにしてるじゃない!」
 言いながら、ポケットに手を入れ何かを取り出す女の子。振りかぶり、わたしに向かって投げつけられるそれは、小さな石だ。先ほどの衝撃もきっとこれだろう。こーくんを抱えた姿勢のわたしは、うまく避ける事ができず、その礫はわたしの肩を強かに打つ。
「いたっ……」
 そんなわたしの悲鳴を無視して、それぞれの手から次々に放られる小石は、わたしの頭を、腕を、脚を、打っては地に落ち転がってゆく。響く音の数だけ、わたしの体には傷が増え、血が滲む。
「やめて! わたし悪い事なんてしてない!」
 痛む体を自ら癒しながら、訴えかけるわたしの声は、しかし彼らには届かない。
「ほら、すぐに傷が治ってる……こわいよ、やっぱり人間じゃないんだよ」
「気持ち悪い、こーくんから離れろ! この化け物!」
 ひときわ勢い良く投げられた石は、わたしの左のこめかみを捉える。その衝撃で視界には星が飛び、抱きかかえた温もりから引き剥がされる体は、地へと崩れ落ちる。
 痛い。痛い。いたい。いたい、いたい、いたいいたいいたいいたいいたいいたい。
 混濁する意識は恐怖と痛みで埋め尽くされ、自分の意思とは無関係に、体が勝手に後ずさる。怖い、ただただ、怖い。
『この力は秘密にしておかないといけないの』
 おかあさんが言ってたのは、この事だったの? わたしは何も悪い事なんてしてないのに、人と違う、ただそれだけの事で、こんな仕打ちを受けなければならないの?
 じりじりと、距離を詰めてくる恐怖の象徴たち。意思とは無関係に震えだす体は、わたしでは無い誰かの命令によって、直ちにその場からの逃走を開始する。
 なんでわたしは逃げているのか。なにからわたしは逃げているのか。ただ、こーくんを助けたかった。それだけなのに、どうしてわたしは助けたかった人から離れて、足を動かしているのだろうか。
 わたしは皆と仲良くする事は許されないの? わたしは世界の異物なの? 人と違うことができるから、仲間はずれなの? いいや、きっとちがう。
 それなら、人と違うことができる事を、知られてしまったから、仲間はずれなの?
 あぁ……あぁ、そうか、わたしが、約束を守らなかったからだ。ほんの小さな、ちっぽけな、優越感のために、おかあさんとの約束を破ったわたしに、神様がおしおきをしたんだ。
 こーくんが死んじゃうのも、仲間はずれにされるのも、全部全部全部全部──
 ──わたしが、約束を守らなかったからなんだ。


 どれだけの時間が経ったのか、それすらも分からない私の視界には、雲の掛かった満月が映り込む。夜の帳は既に下りきっていて、足取り重く歩く道には私以外の誰も居ない。
 体は冷え切り、涙は枯れ果て、目は腫れて、服に付いた赤い液体は黒く乾燥してしまっている。
「愛美!」
 背後から、私を呼ぶ焦りの滲んだ声が聞こえた。その直後、力強く抱きしめられ、足が止まる。
「こんなところに居て! 心配したんだから! 警察の人に呼ばれて行ってみたら、もう病院から居なくなっちゃってるし、本当に、心配したんだから!」
「おかあ……さん……」
 とても強く、痛いほどに抱きしめてくれるその腕からは、言葉以上に私を慮る温もりが伝わってくる。冷え切った体を包み込み、壊れかけた私の心に寄り添うように。
「お母さん……私……」
「今は何も言わなくていいわ。大丈夫、大丈夫だから」
 子供をあやすような手つきで頭を撫でてくれる母。枯れ果てたはずの涙が、どこからかまた溢れて来て、堪えきれない嗚咽が喉を震わせる。
「ここじゃ寒いから、一回お家に帰りましょう」
 そう言って私の肩を抱き、ゆっくりと歩き出す母に、私はただただ壊れた人形のように首を縦に振る事しかできなかった。

「すこしは落ち着いた?」
 帰り着いた自宅。リビングで椅子に腰掛ける私に、母は手に持ったマグカップを差し出してくる。受け取ったそれは熱いほどで、悴む私の手に感覚を蘇らせ、立ち上る湯気は透き通る香りと共に、私の意識を覚醒させる。
「私ね、思い出したの、小さい頃の、この町での事」
 ポツリ。独白のように言葉が零れ落ちる。マグカップに満たされる、漆黒の液体を凝視したまま呟く私に、母は何も言わない。
「助けたかったの。でも、助けられなかったの。ううん、私、逃げたの。今日も、あの時も。助けられた筈なのに、怖くて、逃げたの。自分勝手に、ただ、自分を守るために。助けられた筈なのに、助けなかったの。恨まれているんじゃないかって、憎まれているんじゃないかって、そう思ったら、怖くて魔法を使えなかったの……」
 握り締めるカップに、ぽたりと何かが飛び込み、漆黒の液体に波紋を作る。小さな波はやがて淵に当たり跳ね返り、また別の波とぶつかって、ゆっくりと静寂を取り戻す。
「私が、お母さんとの約束さえ破らなければ、こころは死ななくて済んだはずなのに。私のせいで……私のせいで、こころは……」
「それは違うわ、愛美のせいじゃない」
「違わない!!」
 無責任に慰めてくる母の言葉にカッとなり、手の中にあるカップを机に叩きつけながら叫んだ。
「私のせいで! こころは死んだの! もう何もかも、取り返しが付かないの! 死ぬのが私なら良かったのに!」
 口に出してしまってから、ハッとする。顔を上げ、前を見れば、そこにはとても悲しげな顔で微笑む母がいた。
「愛美の気持ち、分かってしまう私は、きっと母親失格なのでしょうね。本当なら、その頬をひっぱたいてでも注意するべきなんでしょうけれど、できそうも無いわ」
 そう言って私の正面のマグカップを掴み上げ、その中身を煽る。あちっ、と小さな声とともに舌を出す母。
「それに、ね。まだ終わってないわ。まだ、助けられる」
 母が何を言っているのか、理解できなかった。助けられる? 誰を? 死人が蘇るとでも言うのか。
「何を言って……」
「本当に、恨まれていた? 憎まれていた? その子に、そう言われた? きっと違うわ、その子は愛美を恨んだりしていないはずよ」
 力強く私を見つめる眼差し。それは、あの夕暮れの公園で、対峙したこころの目に良く似ていた。
『ずっと探してた』
 どうして、私を探していたの?
『もう一度、会いたかった』
 恨み言を言うために、会いたかったのではないの?
『あぶないっ!』
 何で私を助けたの? 憎んでいたんじゃないの?
『ごめんね』
 どうして、貴方が謝るの? 謝らなくてはいけないのは、私のほうなのに。
「でも……もう、私は、貴方に謝れない。もう、会えない……」
 三度歪む視界、頬を伝わる悲しみの欠片。もう一度、会いたい、会って話をしたい。
「こころ……教えてよ……」
 貴方はあの時、何を考えていたの?
「なら、本人に直接、聞いてらっしゃい。今の愛美なら、大丈夫。きっと向き合えるわ」
 耳朶を打つ声は穏やかで、とても慈愛に満ちている。しかし、死人と話すことなどできない。いくら魔法が使えたって、死者を蘇らせるなど不可能だ。無責任な事を、そう抗議しようと母を睨みつけ、私は息を呑む。
「この感じ……」
 私じゃない、私は使っていない。ではなぜ、私の心臓は鼓動を強める? なぜ、私の体は熱を感じない熱さに包まれる? なぜ、魔法を使ったときの感覚が、私に押し寄せる?
「驚くほどの事かしら。私は愛美のお母さんなのよ?」
 そう言って笑みを浮かべる母の顔に、しかし私は戸惑いを隠せない。
「だ、だとしても一体何を治すつもりなの? まさか本当に死んだ人を蘇らせるとでもいうの……?」
「勘違いしているのよ、愛美。私達が使える魔法は、傷を癒すものじゃないの。本質はそこじゃないのよ」
 教えてなかった私がいけないんだけどね、そういってまた舌を出す母。嘯いている間にも、体中に満ちていく感覚は強まり、私を圧迫する。しかし、自分で使うときとは違い、押し寄せるのは何者かに支配される不快感ではなく、強く優しい安心感。
「じゃあこの魔法の本質って、なんなの?」
 ゆっくりと白んでいく視界は、ぼやけながら現と幻をない交ぜにしてゆく。そんな境界の歪んだ世界の中で、微かに聞こえてくる笑い声。
「それは、自分の目で確かめてらっしゃい」
 優しい声に包まれながら、私の意識はゆっくりと温もりに沈んでいった。

しおり