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忌まわしい黄昏

「化け物」
 違う、わたしはただ助けたかっただけ。
「悪魔」
 違う、わたしは悪いことなんてしてない。
「あっちいって」
 なんで、そんなこと言うの。わたしが助けないと、こーくん死んじゃうかもしれないのに。
「こわいよ」
 お母さんが言ってたのはこの事なの?
「気持ち悪い」
 人と違うと、仲間はずれなの?
 わたしはみんなと仲良くすることは許されないの?
 わたしはこの世界の────

 異物なの?


「へぇ、愛美が噂の転校生ちゃんなんだ」
「ええ、噂と言うのは分からないけれど、今日が初登校の転校生なのは間違いないわ」
 食堂からの帰り道、並んで歩く廊下は未だ喧騒で溢れ、すれ違う生徒は談笑に勤しんでいる。そんな彼、彼女らと、頻繁に視線が交わるのは何故だろうか。
「飛び切りの美人が編入してきたって、僕の教室まで聞こえて来てたよ」
 たかだか数時間なのに、人の噂って凄いよね、と茶化すように小首を傾げて笑うこころ。
「別段自分を美人だと思ったことはないけれど、それに……」
「ん?」
 美人と言うのは貴女のような人のことを言うのよ。そんな言葉は音に変わることなく霧散する。
「いえ、それよりそろそろ休み時間も終わりだけれど、自分の教室に戻らなくていいの?」
 話しながら歩くには距離の足りない廊下だ、食堂から戻るにあたって、さして時間はかからない。『1ーB』そう書かれたプレートが、足を止めた私の頭上に掲げられていた。
「おっとっと、そっか、愛美はB組なんだね」
 振り向くこころは、そっかそっか、としきりに頷きながら、スカートのポケットから可愛らしい猫のストラップが付いたスマホを取り出した。
「ね、ライン教えてよ、もっと愛美と話したいし」
「ごめんなさい、私スマホじゃないからラインってよくわからないの」
「ありゃ、そうなんだ、じゃぁ電話番号教えて?」
「構わないけれど、今手元に携帯がないわ」
「え、持ち歩いてないの?」
「ええ、電源を切ってカバンに入れてあるわ」
「真面目か!?」
 興味から困惑、そして驚愕へ。ころころと変化する表情が、とてもおかしい。
「だってそれが約束じゃない」
 校則にもしっかりと明記されている。校内での携帯電話の使用は禁ずる。電源を切り、鞄等に入れておくこと、と。
「そうだけど……そうじゃないでしょ!」
「言ってる意味がわからないわ」
 そんな掛け合いを見かねたのか、休み時間の終わりを告げる予鈴が鳴った。
「あぁ、もう! 放課後また来るから! 待っててよね!」
 捨て台詞のように吐き捨て、足早に去っていくこころ。なんだか悪役みたいだけれど、美人がやるとそれすらも絵になるのだから羨ましい限りだ。
 あっという間に小さくなるこころ。その姿が見えなくなるまで見送った後、肩を竦めて嘆息しながら教室のドアを開ける。するとそこにはクラスメイト達が壁を作るように待ち構えていた。
 どうかしたの。と問いかけるまもなく、その先頭にいる親切少女の口が動く。
「周防さん! いつの間にこころ先輩と仲良くなったの!?」
「仲良くも何も、今さっきが初対面なのだけど」
 突然何を言い出すのだろう、それに、先輩? こころは上級生だったのか。
「ふぉあっ!? 初対面であのやり取りなの!?」
 表情がどんどん崩壊していく親切少女、女の子なのだし、もう少し注意した方がいいと思う。
「ええ……何か不味かった?」
「学園のアイドルだよ! 高嶺の花だよ! お近づきになりたい人いっぱいいるんだよ!」
「え、ええ……そうなの……」
「そうなの! はぁー、周防さんが羨ましいよぉ」
 鬱屈と恍惚が混ざりあった表情を浮かべ語るその姿に、雲行きの怪しさを感じるが、周りの生徒達は仕切りに頷く者ばかりで、何も感じない自分の方が異常なのだろうか、と思うほどだ。
「声を掛ければいいじゃない」
 確かにこころは美人だが、話した感じ気さくで親しみやすかったと思う。そんなにハードルが高いとは思えない。
「むりむり、私なんかがこころ先輩の隣に立つなんて恐れ多いよ」
 残像が見えそうな速度で腕を振り、卑屈にすぎる発言を朗々と繰り出しながら、深い溜息。少女以外の顔ぶれも、悲痛な表情を強めているせいで、お通夜もかくやといった空気が漂う。
「その点、周防さんならこころ先輩と並んでても絵になるんだもん、羨ましさと眼福でどうにかなりそうだよ!」
 バカを言いなさるな、わけも分からずこの空気に放り込まれた私の方がどうにかなりそうよ。
「おーい、何時まで遊んでんだー、予鈴はとっくに鳴ったぞー」
 唐突に背後から掛けられる声に硬直する。見れば出席簿を肩に当て、眠そうな男性教諭がすぐ近くにいた。
「すいません、すぐに座ります」
 慌てて室内へ向き直ると、人の壁は既になく、皆何事も無かった様に席に座している。慣れを感じるその迅速な行動には、呆れを通り越して敬意すら覚えてしまいそうだった。
「気持ちは分かるがな、時間は守れよ、んじゃ始めんぞ」
「起立、礼」
 納得のいかないモヤモヤを抱えつつも、教材を取り出し、午後の授業へと埋没する事にした。

 パタパタと、廊下から誰かが駆ける音が響いてくる、徐々に大きさを増すそれは、弾けるような摩擦音を最後に消え失せる。同時に教室のドアが勢いよくスライドし、叩きつけられた扉が悲鳴を上げた。
「よかった、まだいた!」
 騒音とともに現れた人物、こころは私を見つけるなりそう叫んだ。
「ちゃんと居るわ、何をそんなに慌てているのよ」
「いやぁ、よく考えたら一方的に言うだけ言って別れたからさ、帰っちゃっても文句言えないなって思って……なんでこんな席にいるの?」
 眉尻を下げながら笑い、未だ席に座る私の元へと近づいてくるこころ。
 そんなこころの登場を、教室内の他の生徒達は、硬直したまま見守っている。
 本日の授業を全て無事に修了し、帰り支度をし始めた矢先の出来事。言われた通り、大人しく待っているつもりだった私にとってはこころの行動は若干心外である。
「約束したわけでは無いかもしれないけど、そんな薄情なこと、しないわ。座席の事には触れないで頂戴……」
 拗ねるような口調になってしまった私を見て、こころは顔の前で手を合わせながら謝罪と感謝を口にする。
「あ、うん、ごめんね? 待っててくれてありがと」
「どういたしまして、それで?」
 どうするの、と言外に伝えつつ、机の中に入れた教材たちを鞄へと移してゆく。今日の授業を振り返ってみても、進度は以前の学校と大差ない。この分なら付いて行くのも問題ないだろう。
「うん、とりあえず帰ろ。道すがら色々教えて欲しいな」
 そう言いながら、いつの間にか手に持っているスマホを揺らす。そこに繋がれた猫も一緒になって揺れていた。遠巻きに私たちのやり取りを見守るクラスメイトたちは、未だ物言わぬ置物だ。
「そうね、行きましょうか」
「うんうん、あ、商店街に美味しいクレープ屋さんがあるんだよ! 一緒に食べよ!」
 顔に華が咲く、というのはこの事だろう、とても嬉しそうに、こころが声を上げる。それを受け止めながら席から立ち上がる。
「それはダメよ、買い食いは校則で禁止されているでしょう」
「だから! 真面目か!」
 咲いた華の隣に猛獣を同居させる、という器用な表情を作り吼えるこころ。そんな事を言われたって、それが約束なら守らなければならない事だとおもう。
「ここでこうしていても仕方がないのだから、早く行きましょう」
 机から鞄を持ち上げ、肩に掛けながら歩き出す。
「もう! 愛美ってばマイペースなんだから!」
 不平不満を漏らしつつも横に並んでくるこころと連れ立って教室を後にする。後ろ手に閉めた扉の向こうからは、やっと溶解する事ができたのか、クラスメイトたちの色とりどりな悲鳴が上がり校舎を揺らした。

「うー、この間まであんなに暑かったのに」
 校舎から出るなり、こころは自らの肩を抱きながら独り言つ。確かに、越してきて数日しか経っていないにもかかわらず、初日の暑さは鳴りを潜め、訴え掛けてくる気候は頻りに秋を連想させる。
「そうね、そろそろマフラーくらい用意してもいいかも」
 両手の指を胸の前で絡め、こすり合わせながら、はぁ、と息を吹きかける。まだ悴むという程ではない気温だが、そうする事で幾らかの安心感を得られるのはどうしてだろうか。
「帰りに暖かい飲み物でも買って行こ? その位なら良いでしょ?」
 リズミカルなステップを踏み、私の前に躍り出ながら振り向き、小首を傾げて問いかけてくる。わざわざ許可を求める必要もないと思うのだけど、こころという人物は存外律儀だった。
「私に許可を求める必要はないわよ、他人の事まで口出しするような、野暮なことはしないわ」
 一瞬呆気に取られた表情を見せるこころだが、徐々にその口角を上げ、悪戯を思いついた子供のような顔へと変わる。
「わかってないなぁ愛美は、そういうことじゃないんだよ」
「そうじゃないって、どういうこと?」
 チッチッチ、と口にして指を振りながら詰め寄ってくるこころへと、疑問を口にする。
「こういうのってさ、一緒に居る時間を楽しむもんなんだよ! 何をするか、じゃなくって、誰とするか、が大事なんだよ!」
「……そういうものかしら」
「そういうものなの! ほーらっ、分かったら早速行動行動」
 言いたい事は分かるが、意味はいまいち分からない。そんな状態で眉根を寄せている私の背後へと、こころがするりと滑り込み、急かすようにぐいぐいと前へ押しやる。
「ちょっと、危ないわ、やめてこころ」
 校門は既に通り過ぎた。このまま押されるままに歩みを進めてしまえば、長い下り坂に差し掛かるまでは幾許の猶予もないだろう。まばらとは言え、他の生徒の目もある中だ、もし転倒でもしたら、恥ずかしさで明日からまた転校先を探さなくてはならなくなる。
「途中さ、脇に入ったところに公園があるんだ、そこに自販機もあるから、そこに行こ」
「わかったから、押さないで、転んじゃうわ」
 こころは、言質を取った、とでも言わんばかりに鼻を鳴らし、押す腕を引っ込めて再び私と足並みを揃えて笑った。

 その空間は静寂に包まれていた。中央に屹立するは大きな木、園内を見守るようにそびえ立つ。ブランコに滑り台、申し訳程度の小さな砂場、ちいさなその敷地を囲む鉄柵は無く、代わりに生垣によって守られている。
 太陽は既に西へ傾き、その茜色の光を受け、所々に錆を浮かばせる遊具たちは、もの悲しげな表情を誰に見せるでもなく、じっと佇んでいる。そんな茜色の空間の片隅で、小さなうめき声をあげながら、一台の自動販売機が健気に孤独に耐えていた。
「あ、よかったー、あったかいの入ってる」
 言いながら、自販機の投入口へと小銭を滑らせ、ウィンドウとにらめっこを始めるこころ。細い指を右へ左へとふらふら動かしてから、やっぱりココアかな、とボタンへ押し当てる。その注文を喜ぶように、自販機は硬質な声を上げながら、求められた品をその口から吐き出した。
「はわー、あったかーい」
 出てきたココアを取り出し、顔にあてて暖をとるあどけない仕草。その緩んだ無邪気な笑顔は、見る人を幸せにさせる力があった。
「あ、愛美は? なに飲む?」
 見つめる私の視線に気付いてか、ハッとした様子で問いかけるこころに、自分の分は自分で買うわ、と財布を取り出し自販機の前へと進む。
「誘ったの僕なんだし、奢るよ?」
「大丈夫よ、それにここで奢らせたら、私すごく嫌な奴じゃない」
 奢らせるために寄り道を渋ったわけじゃないのよ、とホットコーヒーを買う私に、そんなの分かってるよ、と拗ねるこころが可愛らしかった。
「そこのベンチで飲んでこ」
 視線の先、自販機の隣には、ペンキが剥がれて久しいだろう老朽化したベンチがある。
 頷いて同意を示し、二人並んで腰を落ち着けると、ぽつりと零れる言葉が耳に届く。
 「懐かしいな……ここはなーんにも変わらない」
 消え入りそうな声。その声の主は、哀愁が漂う視線を中央の木に向けている。
 「よく来るわけじゃないのね、その割には詳しい様だったけど」
 「そりゃあね、ちっちゃい頃はいつもここで遊んでたし。近所の子供で集まってさ、鬼ごっこや隠れんぼ、缶蹴りもやったなぁ、ほんと懐かしい」
 手で包み込むココアの缶を、そっと口に運び、ほぅと白い息を吐き出す。その横顔はもの悲しげで、何かを訴えているようで、得体の知れない焦燥を私の胸に滲ませる。
『愛美がまだこーんなに小さかったときに少しだけ居た町よ』
 ズキリ、と。左のこめかみに、刺すような小さな痛みが走った。開けてはいけない箱の蓋が小さな隙間を作ってしまったような、踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまったような、そんな感覚。
「愛美は、そういう思い出ってない? 小さいころの懐かしい記憶」
「さあ……どうかしら。あまり覚えて居ないわ。昔から引越しが多かったし」
 不意に此方を振り返り問うこころ。その眼差しに異様な胸騒ぎを覚え、はぐらかすような返事をしてしまう。
「そうなんだ。ね、前はどんなところに居たの?」
「東京に居たわ。二十三区の外れ、町並みはこことあまり変わらないかも。人はもっといっぱい居たけれどね」
 なにか眩しい物でも見るかのように目を細め、その様相を柔らかいものへと変えてゆく。
 そんなこころの視線を意識する度に、ゆっくりと肥大していく胸の内の靄。
「ずっと都内に居た訳じゃないんだよね?」
「そう……ね、小さい頃から色んな町を転々としていたわ。この町に居た事もあったみたい。私は覚えていないのだけれども」
 その言葉を発した瞬間、こころの顔が強張ったのが分かった。同時に、自分の中に感じていた小さな不安が膨れ上がり、側頭部の痛みが増す。
『わぁ、すごい! みーちゃんすごいよ!』
 よぎる不鮮明な誰かの声。束の間の空白。時が止まるような錯覚。凝固する時を動かそうとするかのように、園内に吹き抜ける風が私を煽り、体が小さく震えた。  
 この震えは寒さ故か、それとももっと別の何かだろうか。胸の不安は弾けんばかりに膨れ上がったままだ。
「やっぱり……」
 それは本当に聞こえたのか分からないほどに、微かでか弱い音。視線を外し、ベンチから立ち上がるこころは、私に背を向け前へと歩く。
 一歩、二歩、三歩。ゆっくりと開いていく距離に、一層胸が締め付けられるような苦しみを覚える。
『うそつき!』
 こちらに背を向けたまま足を止めるこころの姿に、小さな女の子の姿が重なり、私を糾弾する叫び声をあげる。その悲痛な表情は拒絶の色に染まり、私という存在そのものを否定せんと襲いくる。
 「ちがっ……!」
 地面を蹴り、ベンチから勢いよく腰をあげる。否定が無意識に放たれるが、自分が何を否定したいのかも分からない。
 よく見れば幻視した少女は失せ、代わりに真剣な眼差しが私を射抜いている。
 「愛美……ううん……」
 全身の毛穴が総毛立つ。この先を聞いてはならないと脳が警鐘を鳴らす。視界は明滅を繰り返し、猛烈な吐き気が押し寄せる。知らない。知っている。知らない。知っている。私はその記憶を知らない。でも私はその記憶を知っている。相反する無意識と意識が矛盾を膨らませ、心が真二つに引き裂かれるように痛い。
 「みーちゃん――」
 ちがう、待って、やめて、なんで、どうして。どうして。どうして!
 「――魔法、使えるよね」
 貴方がそれを知っているの!
 「ま……ほう……? 何を、言っているのこころ、そんなものあるわけないでしょう。それに、みーちゃんって私のこと?」
 「そうだよ、みーちゃん。覚えてるでしょ、この公園で、皆で遊んだこと」
『もーいーかい』
 聞こえる子供の声。全く聞いたことのない、だけど聞き覚えのある声。向かい合ったこころのさらに後ろ。その大きな木の下に、小さい頃の自分が居る。
 「僕が怪我した時、みーちゃんは魔法を使って治してくれたよね」
 一歩。近まる距離から、逃げる様に同じだけ横にずれる。
 「まってよ、魔法だなんて、本気で言っているの? 御伽噺ではないのよ?」
 また一歩。地平線に消えゆく西陽を浴びて、逆光に晒されるこころの表情は読み取れない。私もまた、距離を開ける。
 ちがう、知らない、思い出せない。では何故、こころは魔法の事を知っている。他でもない、私と母しか知らない魔法の事をなぜ、なぜ、なぜ。
「ずっと探してた」
 聞いてはいけない。
「もう一度、会いたかった」
 思い出してはいけない。
「きっと、誰かと勘違いしているのよ」
 後ずさる脚が、不意に硬い物に当たった。いつの間にこんな所まで来ていたのか、見れば出入り口の黄色い車止めがそこにある。
『うそつき!』
 その向こう側に、幼いこころが立っている。私を睨み付け、目には涙を溜め、怒りを露にして。
「……う」
 脳裏に浮かぶ鮮明な光景。怪我をした男の子。寄り添うこころ。それを見つめる、私。
「……がう」
 思い出してしまう。忘れていた記憶。忘れていたかった記憶。
「ちがう! 私そんなつもりじゃなかったの!」
 邪魔な黄色を乗り越え、目の前にある幻影を蹴り散らして走り出す。脇目も振らず、なりふり構わず、必死に脚を前へ。
「あっ! 待って!」
 後方から聞こえる呼びかけも、きっと幻だ。決して振り向いてはいけない。彼女もまた、私を糾弾する悪い夢だ。
 ただひたすらに、黄昏時の下り坂を転げ落ちんばかりに、走る。今朝までは知らなかった、でも今は思い出してしまった街並み。私を包む空間は、懐かしさではなく、辛く恐ろしい迫害の記憶に満ちている。
 切れる息。圧迫される胸。歪む視界。耳鳴りは止まず、私を責め立てる怨嗟の声も、途切れることをしてくれない。
 どれ程の距離を走ったのか、動かしていたつもりだった足は、いつの間にか速度を落とし、私の気力とともに零へと至る。
「あぶないっ!」
 不意に背中を強く押されバランスを崩す。聞こえた声に連鎖するように響く甲高い摩擦音。地面へ押し倒される私の耳にさらに届く、何かが拉げる鈍い音。
「いたっ……」
 受身も取れず、無様に叩きつけられた体が悲鳴を上げる。痛みを堪え、血の滲む腕を地面に押し付け体を起こした。
 目に飛び込んでくる光景は想像の埒外で、日常的に繰り返される非日常。
 動かぬくすんだ銀色の四輪車。その少し先には、今なお広がり続ける紅い絨毯。その上には――
「ああ……あああ……」
 まだ見慣れない制服に身を包む、今日初めて会ったばかりの幼馴染の姿。
「うそ……よ……ね……?」
 力が入らず震える足を、何とか動かしその人の下へ。踏み込んだ絨毯は、粘つく水音を響かせながら、私を責めるようにまとわり付く。
 力無く横たわる体に、縋り付く様に膝を折る。手を伸ばし、触れる肌はまだ暖かい。しかしその熱は既に失われ始めているのが分かる。
「こころ……こーくん! 返事をして!」
 問いかけてもその体は動かない。閉じたその瞼は開かない。微かに開いた口だけが、不自然で弱弱しい呼吸音を鳴らす。
「…………ね」
 声になるかならないかの小さな音。その言葉は確かに私の耳に届いた。それと同時に、聞こえなくなる呼吸音。私の腕から、零れ落ちてゆく形の無いとても大切なもの。
 ごめんね、と。ただ一言それだけを私に残し、井上こころは静かに息を引き取った。

しおり